堀愼吉資料室

 生きものの光--連載を終えて--

 二年間、八回にわたったこの連載も、今回で終わらせていただくことになった。
 専門と呼べるほどの、どんなジャンルも持たず、文章を生業としているわけでもなく、さりとて生活者というには、いかにも根の無い宙ぶらりんな状態で、長い間時代の闇の中を浮遊してきたような者にとっては、この連載は荷が勝ちすぎていた。
 編集の藤井さんから「日本の焼きものの世界を一緒に歩きながら勉強しないか」と誘われて、つい乗ってしまったのは、焼きものというわが国に深く根を張ってきたジャンルをとおして、いま〈ものをつくる〉〈表現する〉ことの光を自分なりに探してみたかったからだ。
 それにしても、この連載をとおして、幾多の貴重な出逢いにめぐまれ、その一端にすぎないとはいえ、焼きものの世界の現在(いま)を垣間見ることができたのは大きな収穫であった。
 この連載を締めくくるにあたって、今回は、そのパワフルな活動に常々敬服の念を抱いてきた二人の表現者に登場していただいた。
 いうまでもなく、鯉江良二は現代陶芸の世界で最も注目を集めている一人である。田島征三は、画家として、また国際的に知られた絵本作家として、特異な活動を続けている作家である。
 この二人に共通している自在さと野性的な力の源泉について、私には深い関心があった。
 この対談の直接の契機は、二人が信楽青年寮という智恵遅れの人たちの授産施設で出逢い、彼らの内部からあふれてくる創造の不思議な水を酌み交わしたことを知ったことにある。
 不自由に汚れてしまった頭を持っていない青年寮の人たちの、生きものとしての精気と、ものをピュアに掴みとる研ぎ澄まされた触覚から生みだされたものに、この二人の表現者が、表現者の現在(いま)につながる光を認めたことに私も共感する。
 それは、我々がソフィストケイトされていく過程で失ってきたものであり、その結果多くのものづくりたちが、とどのつまり、頭や手に金縛りにあって、表現の根源的な力から見放されたことにもつながっていることなのだ。
 才能ある作家たちの多くは、大なり小なり自分のなかにある何らかの劣等感の葛藤から、ものづくりの世界に足を踏み入れている。しかし、その劣等感に押しひしがれたり、自己の表現を権威へとすり替えてしまう者も多い。正面から、その劣等感と渡り合い、そのいわれをバネにして自分の世界を確立するのは、強い精神力と、よほどの自己への執念深い愛が必要だ。
 親方からしごかれながら、毎日トンいくらというようなレンガ職人から出発したことを、焼きものづくりの原点に据えて、日本の表現世界をがんじがらめにしている 〈お城制度〉への挑戦の手をゆるめない鯉江良二の情熱と営為は、一個の生きものとしての自分への執念深い愛着にささえられている。
  今年の夏、舞踏家の田中泯が主宰する 『白州・夏フェスティバル』という催しがあった。この催しは、東京の美術プロジューサーが企画して、甲斐駒ヶ岳山麓の町、白州にある田中泯の自然農場を舞台にして昨年から開かれている。
 舞踏や各種のパーフォーマンスとシンポジウムに加えて、現代美術の錚々たるメンバーが多数参加して、インスタレーションや作品づくりを行っている。
 私は、そのシンポジウムにパネラーとして招かれたN氏に同道した。記憶は定かではないが、景観と環境とアートをテーマとした内容ではなかったかと思う。この時、そこに参加していたパネラーの作家が「現代美術について話し合っていると、だんだん暗くなってしまう」と発言した。それに対して、宗教人類学者として表現の問題にも深くコミットしてきたN氏が、すかさず
「頭が暗いんではないの」と挑発した。しかし、並いる作家たちからは、誰ひとり切り返す言葉がない。私は誰かに「じゃ、頭が明るいNさんの暗いものって何だ。オレたちは頭が暗いからものをつくっているんだ」というような一言をいって欲しかった。
 そのシンポジウムの帰り道、N氏が私に洩らした「彼ら本当に頭が暗いのかもしれない」という一言は、いまも私の胸に突きささっている。
 表現あるいは現代美術という枠組みに囚われ、出口を見失う愚をいつまで繰り返しても仕方のないことだ。
 それにくらべて、信楽青年寮の人たちの頭は、なんとくったくなく晴れやかなことか。存在そのものの明るさに充ちて、華やいでいるようにさえ見える。
 わが国における尖鋭的な意識の活動が長続きしないなかにあって、鯉江良二と田島征三のものづくりのキャリアは、一貫して、我々をがんじがらめにしようとする力と、日本の表現世界の虚ろなヒエラルキーに対して、自在であろうとする闘いの軌跡だったといえるだろう。
 近年、国内だけでなくスペインや韓国にも活動の場を広げている鯉江良二は、この対談の時点でも、全国九ヶ所で個展が開かれているという猛烈さで、一方の田島征三も常に四、五ヶ所の個展が同時進行している。彼らは、ほとんど一個の渡り者になって、津々浦々に自己のメッセージを突きつけ続けている。
 対談を終えた夜、カメラマンの藤井さんの案内で、私と編集の藤井さんは、常滑の吉川正道・千香子夫妻の仕事場を訪ねて泊めていただくことになった。
 吉川さんの所は、以前、渥美の取材の折に訪ねて、千香子さんの奇妙な生きものたちの連作が頭にこびりついていた。お二人は、それぞれ個展を間近に控えて寸刻を惜しむ状態だったが、朝方までつい話がはずんでしまった。
 軽やかでシンプルな白磁の表面を持つ正道さんのオブジェや器は、持ってみると異様に重く、その重量感から、正道さんの見てきた現在(いま)が抱え持つアンビバレンツが伝わってくるようであった。
 千香子さんの生きものたちのユーモラスな顔の多くは、私には夢を喰うバクのように見えた。近作の大きな狛犬の連作も、バクのような貌(かお)をしていた。私は、その狛犬を自分の新しい工房の玄関に置いてみたくなった。その生きものたちは「人間のろくでもない夢なんか、みんな喰ってしまおう」と言っているように見えたからである。
 吉川さんの家の食器棚の中に、たいへん魅力的な緑釉の茶碗があった。その作者は八十すぎの柴田とみ江さんという地元のおばあさんで、息子たちを一人前の陶芸家にした後、余生を写経と茶碗づくりで楽しんでいる人だということだった。そのおばあさんに逢ってみたくなった。
 次の朝、カメラマンの藤井さん(常滑出身)に、親しい作家たちの仕事場を案内してもらうことになった。
 土管や甕が山積みされた工場の横に、井形伸之さん夫妻の仕事場があった。狭い工房の中は、ほとんど足の踏み場もなく、制作中の仕事で占められていた。その現場からは、自分のなかで淀んでいるものの確たる出口を求めて苦闘している様子が窺えた。私宅に伺って、鯉江良二の茶碗や、田島征三と二人展を開いたこともあるタイの版画家ワッサン氏の土着の挑発力を秘めた作品などを眺めながら、常滑で自由に土が採れなくなった話などを聞いた。
 以前、渥美の取材の帰りに、常滑の陶磁資料館に寄って、学芸員の小野さんから、現在発掘調査中の中世常滑の窯跡の資料を見せてもらったことがある。その窯跡からは、五十数基の穴窯が一度に発見され、一大窯業団地の観を呈し、中世常滑の生産規模にいまさらながら驚嘆したことであった。
 窯業の伝統の薄い地域から訪ねてきた人間の目から見れば、一人や二人の作家が仕事をするために必要な土など、少し足で稼げば、いくらでも手に入りそうな気がする。
 いや、土など、地球上のどこにでもあるのだ。土に抱く幻想など振り捨てて、田島征三のいうように、自分のなかにあったコンセプトなんか吹き飛んでしまうような事物との出逢いに活路を見出せば、思いがけないイメージが蘇生してくることもあるだろう。
 午後、鯉江良二の居候だったという小野哲平夫妻の仕事場を訪ねた。十畳ぐらいの座敷には、奥さんの早川ゆみさんの布の仕事が広げられていた。廊下や壁には二人の作品が所狭しと立てかけてあった。
 早川ゆみさんの、鮮やかな布や草や貝を紡いだ作品は、プリミチブな力を発散させていた。ところどころに顔をのぞかせている生きものたちの形と、赤い光を放つ豊かな色彩を眺めながら、生きものたちの最後の祝祭を記録しているような明るさだと思った。
 小野哲平さんの、タイで制作したという眼鏡象や魚のように見える陶体オブジェは、ツギハギの白い枠の中から突き出していた。ユーモラスな形のなかに何者かへの憤りを凝固させたような強い存在感で、私の目を射ってきた。「熱帯の沼の底で怒りのために化石化してしまった魚」というタイトルを自分勝手につけて、その鮮烈なイメージの背後にあるものを思った。
 原初的なイメージの力を秘めた、この二人の作品は、一つの時代が確実に動き始めていることを物語っていた。
 鯉江良二も田島征三も、時代の現象的な流れに呑み込まれることなく、表現の枠組みと現実の枠組みを同時に突き破りながら疾走してきた。彼らは、わが国で、近代精神が立ち腐れていくなかにあって、個の自由や尊厳というすぐれた近代の成果を体現化した、まれな表現者だ。
 しかし、彼らの次の世代には、突き破る固い壁のかわりに、もっと始末の悪い飽食の自由がヘドロの厚い層のように降り積もっている。その中で視界を閉ざされながら脱出するには、生きものとしての記憶へとさかのぼるほかはないのかもしれない。
 鯉江良二のように「オレは人間が好きだから、人間が面白いから」と言える若者たちが、現在(いま)幾人いるのだろう。
 人間の栄光が吹き飛んでしまった時代に生きる世代が、人間廃業すれすれのところで探しあてた〈生きものの光〉が、彼らを本当に新しい場所に連れ出してくれるのを祈らずにはいられない。

堀 愼吉 初出:Art'91冬号(マリア書房1991年1月26日発行)

 堀宅の玄関に鎮座する吉川千香子作狛犬
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■資料室より
この原稿は
土と石の宇宙●焼きもの再考⑧(最終回)
土と火の讃歌--自在に生きる  対談:鯉江良二+田島征三 司会/堀 愼吉
のあとに続いて掲載。


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