堀愼吉資料室

 生命の深い輝き

 田島征三の手になる土佐の観光ポスターを見たのは、もう三十年近く前のことである。それは、鰹の一本釣りを描いた骨太いイラストで、ほとばしるような生命力を横溢させていた。当時、まだ若かったこの作者が、すでに絵画表現のもつ根源的な力をしっかりと掴みとっていることに目をみはったものである。
 その後、田島征三は『ふるやのもり』『ちからたろう』『しばてん』などの絵本を通して、絵本作家として地歩を固めていったが、それらの作品は、見るたびに私の驚きを深めていくものになっていった。
 田島征三は、地球という広場に生きる名もない弱者たちの柔らかい魂に、力強い生命の輝きを与えることに成功した、わが国ではまれな真正の芸術家だと思う。
 昨年、新潟市立美術館で開かれた《田島征彦・田島征三展》のカタログに、田島征三が高校生のころ、ピカソのデッサン集を宝物のように大事にしていたという記述があった。こうした記述に出会う前から、私は密かに、ピカソと通い合う芸術的資質を田島征三に感じていた。
 周知のように、ピカソは表現手法上の果敢な冒険をくりひろげながら、二十世紀の視覚芸術の新しい道を拓き、先導した。そして、想像力によって導かれた自在な造形性をもつ黒人芸術のプリミチビズムに触発されたという『アビニヨンの娘』や、無垢な人々を扼殺する人間的暴力への激しい憤りから生み出された『ゲルニカ』などが、キュービズムや抽象表現主義という新しい表現手法をもたらすことになった。しかし、ピカソがもたらしたこの表現手法上のイズムは、ピカソの芸術にあやかろうとする凡百のピカソ=イストやピカソロジストなどのエピゴーネンたちを生むことにもなった。彼らは、そのイズムをなぞり、その延長線上でピカソを超えることに血眼になったが、それはピカソの画業の本質を風化させたものにしかならなかった。
 田島征三は、そうしたエピゴーネンの道を選ばず、人間のさまざまな暴虐があらわになった時代に、生命の輝きを対峙させることを、神に託された芸術家の役割として選びとった。それによって、芸術家としての魂と大地とを、ピカソと共有する画家に成長していったのである。

 ヨーロッパから油絵の技法を移入することによって出発した日本の近代絵画は、日本人の体質に馴染みきることのできない油絵具という表現素材と格闘することで、芸術的エモーションの大半を費やしてしまう結果を繰り返し、ヨーロッパ近代美術が獲得した精神世界の形骸をいたずらになぞるという結果しかもたらさなかった。表現素材が作家の体質と深いところで結びつかないかぎり、表現は自立したレアリテを獲得することはできない。田島征三は、身近にあった泥絵具という表現素材を選ぶことによって、芸術的エモーションの核心に一気にせまることのできる自前の表現方法を獲得したのである。泥絵具と自己の体質を共振させながら、色彩に固有の肉体を与えることに成功した田島征三は、芸術上の表現意識や手法に縛られることなく、ピカソと同じように、描くという限りない自発性の方へ自己の芸術を開放していった。
 近年、田島征三の仕事は、陶板など表現素材の幅を広げながら、ますます自在になり、しだいに深い抽象性を獲得してきた。田島征三の絵のなかで、ヒトもバッタも大根も雑草も、生命あるすべてのものが肉の哀しみと喜びを共有しながら、存在の深部で通じ合う。彼らの実在に限りなく同化した画家のまなざしを通して、画面はいつしか、生命というたおやかな抽象そのものへと転化されていく。
 田島征三の目に映るのは、茶色のバッタや紫色のつる草などと、十把ひとからげに呼ばれるようなものでなく、それぞれの生命の内部から発光する深く充実した色彩と、それを包むプリミチーフで勁い生命のかたちそのものなのだろう。
 ヨーロッパの人間主義を母体にしたピカソの芸術では、あくまで人間がモチーフの主体になっていた。しかし、ピカソと田島征三の間にある時代の変遷を物語るように、田島征三のモチーフは、生命あるすべてのものにおよんでいる。
 田島征三の芸術は、ゴルフ場の緑を自然と思い、熱帯雨林を根こそぎ絶やし、自分たちの抱くイズムへの幻想を絶対化するために、人々を虐殺して恥じない人間の棲むこの地上にも、彼らとは別種の栄光がまだ生きていることを信じさせてくれる。そこには、弱きものたちの生命の核心で燃える優しい輝きがある。
                一九八九年八月一日 堀 愼吉
      初出:田島征三'80~展図録(中村正義の美術館1989年10月発行) 

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