堀愼吉資料室

実存の根源性に向かって 

長岡 國人様

 十二月に東京で発表される予定の新しい長岡さんの作品の写真、拝見しました。
 日本での制作拠点を但馬に据えられてから、いよいよ本格的に始動されたようすで、長岡さんのこれからのご活躍に期待がふくらみます。
 長岡さんの作家活動は長いことヨーロッパ、それも東ヨーロッパを中心に営まれてきたということもあって、日本の他の作家たちとは「物質」に対するかかわりのあり方が決定的に違うという印象を受けます。
 実存の基盤が、まず物質的な強度から立ち上がってくるという、唯物論的な立場において、長岡さんの仕事は常に確信的です。
 わが国では「自然」というものをとらえるときにおいても、観念的な、あるいは心情的な心象として、ただ受容する傾向が強く、どちらかといえば唯心的です。そのため、自然や物質に対する唯物的、科学的アプローチへの欲求は希薄です。しかも、観念や意識あるいは精神という唯心的分野に属する事象への探究という点でも、ヨーロッパのほうが徹底しているのは不思議なことです。しかし、そうした人間の科学が、もはやそれだけでは有効性を持たなくなったところに、現代の不幸と人間の悲劇があります。
 だからといって、科学そのものに罪があるわけではなく、科学もまた、常に過渡的なものであるにすぎません。また、科学は人間に奉仕するために生まれ発展してきました。しかも、どちらかといえば、強大な国家や権力に科学的成果を行使する優先権が常に与えられてきたため、人類は科学に内包される矛盾に苦しむ結果になってしまいました。
 「人間のため」という目的性を、ありとあらゆる宇宙的実存そのものの位置づけへと、少しずらすだけで、科学にも新しい視野が開ける可能性は、まだいくらでもあるでしょう。
 芸術もまた、一種の精神の科学、魂の科学に他なりません。しかし、自然科学と芸術が決定的にちがう点は、過渡的なものとしてどうかではなく、芸術は、常に根源的かどうかという点でしか意味をもたないことです。現代の美術は、あまりに科学的進化に気をとられすぎて、芸術における根源性への視座が欠けてきたようにみえます。
 長岡さんや私が、最近、アフリカトポケ族の楯やニューギニア高地民族のシャーマン・ボックスを見て、強い衝撃を受けて、私たちがこれからめざすべき世界へのエモーションを受け取ったのは、この根源性への命題が、そこに深く宿っていたからではないかと思います。そして、長岡さんの表現活動が、その出発の時点から、ずっと「大地」という根源性へと向けられてきたことは、いまのような時代になってくると、それがいかに先験的であったかということがわかります。
 今度の作品では、脱皮した大地が、強靱な表皮となって人工的なフォルムを覆い、立ち上がっています。そこには、自然と人間的なものの強烈な衝突、抜き差しならぬ、はてしない関係が提示されているようにみえます。それは、自然や物質の世界への畏敬と愛を失
わず、いかにして根源的な高次元の世界をめざしていけばいいのか、という問いとなって、私たちに投げ返されているようでもあります。
 長岡さんの仕事が、人間の意識や行為を超えて、宇宙的実存という高次元の世界と一体化していくことを祈っています。

                 一九九五年十月  堀 愼吉

初出:長岡國人展「大地の脱皮」パンフレット(ギャラリー日鉱1995年11月発行)
再録:KUNITO NAGAOKA WORKS 1969-2010「軌跡」図録(あさご芸術の森美術館2011年3月13日発行)


TOP  著述一覧