堀愼吉資料室 |
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縄文・再生の器 -- 石と土をめぐって -- われわれの祖先が通過した〈縄文〉という途方もなく長い時間のことが、視野のなかに入ってきはじめたのと、私が焼きものの世界に足を踏み入れたのは、ほとんど同じ時期であった。しかしその時、私のなかで縄文と焼きものの世界が一対のものとして関連していたわけではなかった。焼きものは、自己再生の手立てとして自発的に選んだ対象であったが、縄文は、たまたま他動的ないきがかりのなかで、私を再生そのもののドラマへと導いてくれることになったのである。 いまになって思うことだが、もしそのころ、弥生的な世界の延長線上に自分の重心を置いていたら、ことさらに焼きものの土の世界に興味を持つことはなかったろう。弥生時代は日本人の文明的思考の出発点となった時代だ。その弥生的延長線上を、目にもとまらぬ勢いで走る現代日本のありように絶望的な疑いを抱いていなければ、私は相変わらず〈進歩〉の神話のなかに文化の栄光をみながら、コンピューター・グラフィックやファイン・セラミックのようなものに、世界の新しい普遍性を見出そうとやっきになっていたかもしれない。 いまの日本で、文明の恩恵にたっぷりとつかりながら、そんなことを言ってみてもいかほどの意味があるわけではないが、文明という問題を超えて、人間の生物的存在そのものが問われるような事態を迎えてみれば、当時、私を襲っていた絶望的な疑いも、本能が発した問いにほかならなかったのだろう。 *石子順造と丸石神 縄文時代から伝わる不思議な神石〈丸石神〉と私との出会いは、いまは亡き石子順造を通してだった。当時、石子順造は、六〇年代にかかわっていた美術批評の世界から離脱して、マンガやキッチュを対象にしながら独自な大衆文化論を展開していた。 そのころ、パッとしない小出版社の編集長の椅子にいた私は、営業から持ち上がってきた企画に手をやいていた。巷では『およげ! たいやきくん』の歌が爆発的な流行をみせていて、営業からその流行の尻馬に乗った企画をまとめるよう求められていた。ジャーナリズムの軽薄で無責任な二番煎じや流行の後追いの発想の典型的なスタイルで、いかにも営業の人間が考えそうなことであった。別に驚きもしなかったが、そうかといって、気のすすむ話でもなかった。しかし結局、その企画をのまざるを得なくなった私は「そのテーマで本づくりをするが、執筆者や内容には口を出させない」という約束を社長から取りつけて、編者に石子順造を選んだ。流行や二番煎じで当てる才覚のない編集者としては、それが精一杯の抵抗であった。 閉塞したまま能天気な時代状況に、いらだちを抱いていた石子順造が、そうした時代の鏡として〈たいやき現象〉に関心を持ち、企画を引き受けてくれたことが、石子順造の思想に私を近づけるきっかけとなった。 マンガ家の永島慎二とフリージャーナリストの室謙二と石子順造の三人が出席した、その本のための座談会が終わったあとで、私宅に寄った石子順造が「結局、大衆なんか馬鹿なんだから、アジればいいんだ」と投げやりで不用意な発言をした。台所仕事をしながら、それを聞きとがめた私の連れ合いが「六〇年代に懲りないで、まだそんなことを言っている。だから知識人は嫌いだ。無責任だ」と、顔を赤らめて激しく反発した。自分たちは安全地帯にぬくぬくと居座りながら、自立していない若い精神に向かってアジった当時の知識人たちの罪悪を、無残な六〇年代の青春の苦い思いと重ねて、私たちは憎んでいた。やるせないイラダチのために、どんなに暗澹とした気分に支配されようとも、大衆文化論を足場にした人間から、私たちはそんな言葉を聞きたくなかった。 そのことがあってから、石子順造は、編集者と著者という垣根を超えて私と付き合ってくれるようになった。たまたま彼の仕事場と私の家が近かったこともあって、なぜか原稿の締切りが近づくと、三日にあげず夜中の二時、三時に電話をかけてきて、新宿十二社の彼の仕事場近くで、石子順造の機関銃のような話を明け方まで聞くことになった。 そんななかで、石子順造の口から、山梨の道祖神に祀られている丸石への強い関心が語られたのであった。 石子順造の丸石への関心に火を付けたのは、彫刻家の小島福次が神田の古本屋で見つけてきた、中沢厚著『山梨県の道祖神』という一冊の本であった。日本のモダニズムの帰結に、根本的な疑義を抱いていた彼らは、モダニズムの洗礼を受け付けないで、かたくなに日本人のなかで身体化しているものを探していた。わが国の近代化がもたらしたさまざまな欺瞞をはぎとった時、庶民のなかの生きた美意識の正体が見えてくるかもしれない。その地盤にたったうえでしか、近代に呪縛された私たちの頭脳の回路を変革する道筋はつかめないのではないか。石子順造は、大衆文化論を通して、近代のもたらしたさまざまな意識の向こう側に透かし見える、したたかで、かたくなな庶民の美意識と生活感情に突きあたっていた。水石や盆石、奇石など、さまざまな石のかたちを手がかりに、そうしたテーマに踏み込もうとしていた矢先に、山梨の丸石神に出会ったのだった。 彼らは、山梨の丸石神の調査を開始した。『山梨県の道祖神』の著者・中沢厚に会い、丸石を祀る道祖神場めぐりをして、たくさんの写真を撮っていた。そうした写真を前に、石子順造は、丸石神のありようを熱っぽく語りながら、その調査と本づくりへの参加を熱心にすすめてくれた。丸石神の調査と本づくりに参加した当時の仲間のほとんどは、私も含め、六〇年代の現代美術の活動からドロップアウトした者たちであった。民俗学や考古学のアカデミックな学者たちからは、一顧もされていなかった丸石神が、どれだけの示唆を与えてくれるか、皆目見当もつかないまま、私はお仕着せの編集業務では得られない変化が、自分の裡に起こりそうな予感から、その本づくりに参加することになった。 彼らの調査に最初に同行した時、丸石神は私にとって取りつく島がないほど何気なく、街路や集落の辻に祀られていた。神様らしい威厳をみせる様子などどこにもなく、車の行き交う道路の片隅の石組の基壇の上に、ゴロンと丸い自然石が乗っかっているだけである。私を驚かせたのは、むしろ、そうした丸石が町や集落のいたるところにゴロゴロと祀られているという事実だった。基壇の上に一個の丸石を祀ったもの、何個かの丸石を置いたもの、地面の上にそのまま積み上げられた丸石、石棒や陽石や石皿などと一緒に祀られたもの、あるいは祠の中に祀られたものなど、おびただしい丸石が一つとして同じたたずまいを見せるわけではなく、さまざまに勝手気ままに祀られているありさまを見ながら、私の頭の中は深い混乱に陥っていくのだった。 しかし、たとえどんなにたくさんの丸石がゴロゴロ祀られていようとも、もし、わざわざ丸石神の調査という目的で来ていなかったら、私は何の疑いも抱かず彼らを見過ごしてしまっただろう。野辺に並ぶ野仏なら、まだ一つ一つの彫刻の造作や、それが馬頭観音なのか青面金剛なのかという区別もあり、苔生していれば、それなりに郷愁と親しみに誘われて思わずたたずんで手を合わせることもあるだろう。しかし、どこかから拾ってきたような丸石を無造作に祀った山梨の道祖神場を初めて見た人は、私と同じように、そこになにかの意味を見出そうとすればするだけ、手がかりのない苛立ちを覚えるだろう。 *中沢厚の仕事 柳田國男の『石神問答』は、柳田民俗学の出発点となった記念碑的なものである。各地に残る石神の民俗をめぐって、山梨の山中笑や遠野の佐々木繁、あるいは喜田貞吉や白鳥庫吉などの学者との間に交わされた往復書簡がまとめられている。道祖神、岐神(ふなどのかみ)、佐久神(さくのかみ)、塞神(さえのかみ)、十三塚などの石神信仰の由来を訪ねながら、それらの相互の関連や民俗的背景などを考察した内容で、そのなかに、山中笑から報告された山梨や長野の道祖神場に祀られた丸石や石棒が登場する。にもかかわらず、柳田國男は、丸石を道祖神などの石神の一形態としてとらえる以上に踏み込むことはしなかった。この『石神問答』が出版された二十二年後の昭和七年、柳田の業績をたたえ『石神問答』を記念するために、季刊民俗雑誌『郷土』が「石」特輯号を発行した。その雑誌には、多くの筆者にまじって、折口信夫が「石に出入りするもの」という深い洞察と直感にささえられた文章を寄せている。石の依代や神体石、玉石など、石の習俗にまつわる心意がみごとな文章で解かれているが、そのなかに、丸石神はついに登場することがない。民俗学の二人の巨匠の目にとまっていたはずの丸石はそのまま見過ごされ、それ以来、この習俗にかくされた根強い心意伝承をたどろうとする人物は久しく現れなかった。 アーネスト・サトウの子息で〈日本山岳会〉を創設し、『日本の高山植物』という名著をのこした武田久吉博士は、民俗学発祥の地・イギリスで学んだ民俗学的手法にもとづいて、山歩きの途次に立ち寄る山梨や長野の山村で独自な日本の民俗調査を行っていた。青年時代、尾瀬沼でこの武田久吉と出会い、その調査に同行するようになった中沢厚が、四〇年の歳月をかけてコツコツと歩きためた民俗調査の成果を世に問うたのが、前述の『山梨県の道祖神』である。この本には、自分の目で確かめて積み上げたものにしか見えない、石の民俗をめぐる多くの発見と示唆がちりばめられている。しかしそれは、一般の野仏愛好家の目にとまることはあっても、机上の文献資料と外国からの情報に重きをなしてきたわが国の学問の世界からは、ほとんど黙殺されたまま、地方の野仏をめぐる趣味的な著作ぐらいにしか受けとめられていなかった。また、「丸石神が縄文時代から受け継がれた信仰的遺物であり、日本人の信仰感情の根になるものだ」という著者の意見に対しても、当時の民俗学や考古学の世界はほとんど無視し、学問を知らない者の戯言として冷笑の対象になるぐらいが落ちであった。 庶民の生活と意識の背後に根強く居座っている、美意識や身体感覚に視線を向けていた石子順造と、『山梨県の道祖神』の著者・中沢厚との出会いは、決して偶然ではない糸で結ばれていたように思う。石子順造の近代を問うまなざしは、中沢厚との出会いを通して、一気に縄文時代の信仰遺物へと導かれたのであった。 *縄文の記憶に導かれるように 弥生時代以後の混血と進化によって、現代日本人の人骨の形質と形状には、ほとんど縄文的な形質は残っていないということである。しかし、それにもかかわらず、縄文人の信仰遺物が、道祖神という外来の信仰対象に付会しながら、庶民のなかに生き残っている。ある人の調査によれば、縄文土器と弥生土器のどちらが好きかという問いに、半分以上の人が縄文が好きだと答えたという。何百年という弥生時代と、一万年といわれる縄文時代の時間の厚みの違いが、人々の記憶の奥深くたたみこまれているのであろうか。 人間のなかには、恐ろしいほどに変わるものと、恐ろしいほどに変わらないものが同居している。恐ろしいほどに物事が変わる時代に、私たちは、この変わらないものの始末をどうつけたらよいのだろうか。 石子順造と丸石神を通して、私ははからずも縄文という長い時代の記憶へといざなわれることになった。しかし、私を縄文へいざなった石子順造は、丸石神をめぐる日本人の美意識について本格的な論考を残すいとまもなくガンに冒され、丸石神の調査の途次に帰らぬ人となってしまった。 石子順造が亡くなって一年ほど経ってから、私たちは気を取り直し、中沢厚を中心に丸石神の調査を再開した。死を前にした石子順造の無念さを目の当たりにしながら、どうすることもできなかった私たちは『丸石神』の出版にそれぞれの思いをかけていた。 私は会社を辞めて山梨に移住し、『丸石神』の本づくりと焼きものの研究という新しい生活に踏み出した。焼きものの研究などといえば聞こえはいいが、実際は土と遊びたかっただけのことであった。 土はただ土であるだけで、それを焼けば生涯遊び甲斐のある性質を持っていることを、私は昔の貧しい経験から気付いていた。焼きものといっても、陶芸にも造形的表現にも、私はほとんど関心を持っていなかった。興味があったのは、焼いた土の強い触覚感と、土の中に含まれたさまざまな鉱物とその含有率の違いがみせる、どんな絵具でも出すことのできない千変万化の自然な発色と表情であった。もし、造形的な関心が残っていたら、なにも土である必要はない。紙でも金属でも木でもプラスチックでもよかった。陶芸に関心があれば、とりあえず既成の粘土と釉薬があって、ロクロの腕前でもみがけばよかった。しかし、そうした自己を主体においた〈もの〉とのかかわり方では、すぐに退屈してしまうことはわかっていた。自分ではなく、相手のなかに孕まれた多様性に身をゆだねたかったのである。そのためには、相手が何百年、何千年かかっても尽きない多様性を孕んでいなければならない。そうしたものとして、一メートル離れるだけで微妙に性質が違うという土は恰好の相手だった。要するに、私の土遊びはテストピースを焼いていればすむことだったのである。 それは、合目的に純化された人工の材料や作為的な目的を持った営みからは、決して得られないものである。私のなかにあったのは、生きているという実感を自然の厚みとでもいうものから感得する喜びで充たしたい、という欲求だったのかもしれない。いずれそれが、なにかの表現に結びついたとしても、それはあくまで二次的なことにすぎなかった。とにかく、コンクリートと文明社会に疲れ果てていたのだ。アナーキーといえば、これほどアナーキーな動機もないのだが、そうした生活に踏み出しながら、丸石神と土がいつか自分を救ってくれるかもしれないという、かすかなのぞみを抱いていた。 *再生の器 山梨に移住した私は、ほとんど毎日のように五〇㏄のバイクに乗って山梨の山村をめぐった。行く先々に山があり、緑があり、草があり、土があり、水が流れていた。そして、どの集落にも丸石が祀られていた。仲間が来れば、車で駆けめぐり、写真を撮り、興奮し、丸石神の不思議を語り合った。 中沢厚は、所属していた〈石仏協会〉の雑誌に、次々と丸石をめぐる新しい収穫と所感を発表した。そして、その反響が全国の会員たちから寄せられ、全国各地での新しい丸石祭祀の報告が相次いだ。丸石は、当初私たちが考えていたより、はるかな広がりをみせていた。それも場所によって、神社の神体石になっていたり、あまり由来のはっきりしない民間信仰の神石だったりと、そのありようはさまざまであった。そのことが却って、神道や仏教や道教などとは本来関係なく、いつか遠い昔から、わが国の人々のなかで祀られてきたものであることを裏づけているようだった。丸石祭祀の習俗が縄文時代にさかのぼるという中沢厚の推論の正しさを、私たちはしだいに確信するようになった。 丸石道祖神の晴れ舞台は、一月十四日の道祖神祭りだ。祭りは道祖神場の飾り付けから始まる。これは本来、子供組の仕事だったが、最近では大人たちが手伝う。祭りの二~三日前になると、この飾り付けの勧進のために「道祖神」と大書きしたボンボリを先頭に、子供たちの集団が、日暮れとともに「キーカンジ、キッカンジ、オイワイモーセ(木勧進、木勧進、お祝い申せ)」と口々に叫びながら、家々をめぐる。冬の夜の透明な空気をぬって、遠くから近くから、子供たちの声が響きこだましてくると、私たちもいそいそと勧進のためのお金(昔はドンド焼きで燃す木であった)を紙に包んで門口に立つ。家の前に来た子供たちにそれを渡すと、ひときわ威勢のいい声を張り上げて、「ショウバイハンジョウ、オオアタリ!」と合唱して、道祖神のお札をくれる。これが道祖神祭りのプロローグだ。 道祖神場は、杉や桧の枝、藁などで小屋掛けされる。なかには巨大な男根を突き出した造作もある。そばには、天を突く神迎えの標識--色とりどりの切り紙で飾られた〈ヤナギ〉が立てられる。 祭りの当日には、この道祖神場の前に新婚のカップルがお参りしたり、獅子舞が奉じられたりする。そして夕闇がせまるころ、道祖神場につくられた小屋ははずされ、正月の飾りなどと一緒に火がつけられる。〈ドンド焼き〉の始まりである。 甲府盆地の周りの丘陵に登れば、夕闇のせまる山裾のあちこちから、ドンド焼きの煙が幾筋も立ち昇っているのが見える。ドンド焼きの火を中にして、歌舞伎や掛け合い狂言が演じられる集落もある。なかには、道祖神の丸石をドンド焼きの火で焼いて、再び道祖神場に祀り直す集落もある。祭りは、近世から古代、あるいは、もっと古い時代からのさまざまな習俗や心意伝承を孕みながら、火の色とともに闇に溶けていく。新しい年の生命を再生するための石と火の祭りが、山梨の道祖神祭りである。 この日、一年の間に降り積もった人々のさまざまな不幸や災いや生命の垢を吸い込んだ丸石は、火に焼かれ、新しい生命を孕んで再生する。丸石は、ありとあらゆる生命の再生の容器なのである。 中央高速道路の建設の時に、山梨県下では、路線予定地のいたる所から縄文時代の遺跡が発掘された。なかでも釈迦堂遺跡は、縄文中期を中心とする巨大遺跡で、一遺跡から発掘された土器の出土品の数でも群を抜いていた。そして、発掘された土偶の数は一千体を超えた。全国の土偶発掘数の十分の一に当たる土偶が、この遺跡から一挙に発掘されたのである。これらの土偶は、頭や手足をバラバラに壊されて、土の上にまかれていたという。縄文人は、土をこねて土偶をつくり、焼いてから、わざわざ壊して土の上にまいたという。土のなかにある生命を形にして取り出し、火に焼いて、もう一度種をまくように土に帰したのだ。土があらゆる生命の器であり源であることを、自分たちが生きるためにかけがえのないものであることを、彼らは知り抜いていた。 八ヶ岳山麓の高根町では、圃場整備の途次に、縄文後期の祭祀跡とみられる巨大な金生遺跡が発掘された。その遺跡からは、見事な丸石と石棒がいくつか出土した。中沢厚の推論が正しかったことが実証されたのであった。その後の考古学会の報告では、丸石は縄文中期勝坂式以後にみられる出土物だということになっている。縄文中期の中心地として栄えた中部日本(とくに山梨・長野)では、後期に入るにしたがって平均気温が下がりはじめ、それによって縄文人たちの活動がしだいに衰退していったと考えられている。金生遺跡に立った時、累々と広がる石組の遺構の下から、縄文人の悲痛な叫びと祈りが聞こえるようであった。 丸石神を通して見た縄文時代は、大地をめぐる死と再生のはてしない循環の時代だった。彼らの技術の主なものは、木と土と石と縄(布)の加工というわずかなものであったが、その技術は、あらゆる生命に宿る神と語り交わすための言葉でもあった。 いま技術は、歯止めを失った人間の欲望に奉仕する。自然や弱者の生命を収奪し、循環を断つ方向に働く。丸石が火の中に投じられるように、地球という丸石が人間の付けた業火に包まれても、焼きつくされる人間を救う神は、もうどこにもいない。 『丸石神』は、石子順造たちが調査を始めてから、七年の歳月を経て一冊の記録として出版された(一九八〇年、木耳社刊)。そして仲間たちは、それぞれに丸石神の尊さを胸にきざみ、自分の場所へ帰っていった。 *器の言葉 今年に入って、私ははからずも縄文土器そのものと向き合うことになった。 いま、世界で最も優れたパーカッショニストの一人と目されている土取利行から、縄文有孔鍔付土器を再現し、太鼓として演奏する計画に協力を求められたからだ。 土取利行は、デレク・ベイリーやミルフォード・グレイヴスなどと共演したり、ピーター・ブルック劇団の音楽監督として『マハーバーラタ』などの音楽を担当している。彼は、ほとんど音の求道者といってもいい。これまで、アフリカやインドなど世界各地に、それぞれの民族や部族に伝わる打楽器演奏術などを学び、世界の音を求めて歩いてきた。こうした経験を通して、彼は、このところ一貫して〈日本の初源の音〉の再現をめざすようになった。石器時代のサヌカイト、弥生時代の復元銅鐸などのすばらしい演奏は、人々を驚嘆させた。〈日本の初源の音〉三部作の最後に、縄文有孔鍔付土器の演奏に挑戦するという。 縄文中期の中部・関東地方の遺跡から発掘される有孔鍔付土器は、その形態をめぐって、いろいろな推論がされている。なかでも有力視されているものに、酒造器説と太鼓説がある。酒造器説をとる学者たちは、土器の一つからブドウの種が検出されたことなどをもとに、孔はガス抜きの穴であると考えるのが自然だといっている。しかし、世界各地の民族打楽器の演奏と研究をしてきた土取利行は、有孔鍔付土器を一瞥した瞬間に太鼓であると直感したようだ。土取は、種は神の来訪を告げるものとして、世界の民族楽器に入れられている事例を指摘し、器に入れる〈もの〉が神の言葉(音)であっても、なんの不思議もないという。入神の技術を身につけた芸術家の直感がいわしめる言葉だ。 縄文土器復元の試みに関しては、加曽利考古博物館で新井氏による最初の実験考古学の成果がある。ほかにも、馬高式火焔土器の再現に半生をつぎこんだ秩父の山口氏のような人や東京の塩野氏のような人々がいる。最近では、尖石、井戸尻、釈迦堂などの考古博物館でも、考古学的な立場から盛んに土器復元が行われている。しかし、一見外見的な復元に成功しているように見えても、どこか納得のいかないところが残るものが多い。土の質、焼き方、成形方法のいずれにしても、そう感じることがある。 無論、縄文時代と全く同じ土を探すことは無理にしても、再現というからには、基本的な性質の共通性が認められるものでなければ意味がないだろう。縄文時代の土器づくりの技術は、われわれが考える以上に、成形にかぎらず土にしろ焼き方にしろ、極限に近い高みに達していたはずだ。 〈もの焼き〉の思想家・芳村俊一は、窯業空白地帯の縄文土器陶片の再焼テストを行っている。その結果、海成粘土しか手に入らない平塚などの数例を除いて、現代でも陶土として立派に使える優れた性質を持った土がほとんどであったと言っている。そして、おそらく彼らが住居を定める時、土器づくりに適した土のある場所を選んだのではないかと推論している。 有孔鍔付土器は、土器のいくつかを表面観察しただけでも、他の土器以上に良質の土と細心の技術が駆使されているように見える。土器内面は充分に磨かれ、その上から黒や丹の漆塗りを施したものが多い。音の反響や、祭祀にかかわる器としての機能は充分にそなわっている。 代表的な有孔鍔付土器を数体復元することは、考える以上に困難な作業に違いない。とくに、本格的なものづくりから遠ざかり、テストピースから神の言葉が聞こえてこないかなどと、虫の良いことを考えてきた人間にはなおさらである。柔軟でパワーのある人物の手を借りる必要を感じて、鯉江良二に声をかけたら、二つ返事で協力すると言ってくれた。これから、また新しい発見の旅が始まる。 「石ではありますが、祖先とは話をしました。スペイン人や司祭がやってきてからは、そのうちのあるものはもう、返事をしなくなりました。いくつかは(まだ)返事をしてくれますが」(スペイン人に征服された一七世紀ペルーのインディオの言葉)=網野徹哉著・『異文化の結合と統合』より。 私は、母なる土から生まれた〈有孔鍔付土器〉から響きわたる、祖先の言葉を聞いてみたい。 堀 愼吉 初出:Art'89冬号(マリア書房1989年12月26日発行) |