堀愼吉資料室

 編集後記

 短歌の世界にはまったくの門外漢である私が、保坂耕人氏の短歌に強く惹かれるようになったのは、氏の第三歌集『風炎』の装丁を手がけさせていただいた時からである。原稿に目を通していくうち、私はしだいに自分の精神が緊張していくのを覚えた。しかし、緊張のあまり、かえってその装丁は氏の歌から受けた印象を生かせぬまま、ただ生硬で重たいだけのものになってしまった。
 それまでは、人並みに西行や良寛の和歌、あるいは芭蕉の俳句などにふれて、その世界の深さに心うたれるということはあったが、わが国の短詩の世界が、それ以上私自身に身近になることはなかった。また、かずかずの歌集の装丁を手がける途次に、心にふれる歌や好きな歌との出会いがまったくなかったわけではない。しかし、もともと「言葉」の世界にコンプレックスを抱いている私には、現代短歌の言葉のレトリックに気圧され、素直に歌の内容が入ってこないことのほうが多かった。現代短歌として意味を持っていることと、歌の専門家でない私の心に素直に落ちてくる歌との間には、何か微妙な差異が横たわっているようにも思えた。たぶん私には、歌が生まれるということは理解できても、歌を造るということがわからないからなのだろう。
 なぜ、保坂耕人氏の短歌に、私が特別強く惹きつけられることになったか。保坂氏と同じ山梨に私が暮らしているということが、氏の歌のリアリティを身近に感じられる大きな要素になっていることも確かだ。しかし、それだけではない。保坂氏の歌では、遍在する融通無碍な外界の事象が、目に見えるものも、見えぬものも、確固たる森羅万象の営みとして意識されてある。そこに歌人の生の営みが重ね合わされていく時、歌は自我を突き抜けて、事物の輪廻の奥深くまでとどき、自我の彼方に広がる人間普遍の風景を明らかにしていく。森羅万象と共に歩く歌人の眼の断念は深く、自在なのである。
 『風炎』の装丁を手がけることになる五年ほど前、私は東京から山梨に移り住んだ。道祖神や屋敷神に祀られた「丸石神」という山梨に特有の石神の取材調査が、移住のきっかけになった。「丸石神」は縄文時代から伝えられている不思議な石神で、われわれのなかを流れる心性の核ともいえるものを宿している神の象(かたち)である。日本全土に、その存在の痕跡が認められるが、いまでは長い時間のなかで他の神々に取って代わられ、山梨と和歌山、九州の一部などに集中的残存が明らかなほかは、人知れず野山や土に埋もれている。
 この土地で暮らしはじめてから、ここは、縄文と中世と現代とが指呼の間に一直線に連なっているような風土だと強く感じるようになった。天領であったため、近世大名文化が深く浸透していないという理由もあるのだろうが、この土地の山村を訪ね歩いていると、それだけではない、奇妙な時間感覚に囚われることがしばしばであった。六千年、一万年という時間が、手を伸ばせばすぐそこに、昨日のことのように、人々の暮らしや心のなかを流れているように思えたのである。それは単に、未だに「丸石神」を祀る習俗が遺っているからというのではない。むしろこの「丸石神」を未だに祀りつづけるという、人々の得体の知れない根強さの中にこそあるように思えた。
 こうした根強い心性と、現代生活の間に横たわる、気の遠くなるような乖離と矛盾。それは、血縁や地縁、あるいは、「講」などという、小社会の保身の軛(くびき)の中に人々を閉じ込めることにつながってもいく。しかし、それだからこそ、お仕着せの文化を拒絶し、解体し、まったく新しい世界観と理念を生み出す可能性をはらむことにもなる。
 この土地にかかわることで、私が直接知る機会を得た秀れた人々--民俗学者中沢厚、宗教学者中沢新一、中世史家網野善彦、歌人保坂耕人、彼らは不変のものと、時の流れとに交互に横面を張られながら、頑強に事物の本質の再生に向かう。彼らは、矛盾に圧殺されそうな、この愛憎に充ちた根強い風土を、わが内に抱え持ったまま、その矛盾を遠くさしつらぬく眼差しを獲得した、たぐい稀な人々に私には思える。深沢七郎も、山崎方代も、山本周五郎も、そのような人ではなかったか。
 ここには、西の貴族たちのうらぶれた誇りではなく、寒野に生きた者たちから吹き上がってくる、したたかな実存の誇りが息づいている。
 「丸石神」の不思議と、甲州で出逢った秀れた人々の魂が、しだいに私のなかで重なり、いつの日か、保坂耕人氏の甲州の絶唱を美しい本にしてみたくなっていた。

 俵有作氏とは、いまから五年ほど前、ある美術雑誌の取材で訪れた陶芸家吉田喜彦の紹介で出逢うことになった。俵氏のもとにある吉田喜彦の作品を訪ねていった時、その作品に宿る深い美しさにひきこまれながら、虚しく過ごしてきた自分を振り返っていた。俵氏に聞かれるともなく、現代美術の制作に挫折し、以来ものが造れなくなってしまった自分のことなどを話していた。そんな話の後で、俵氏は私の前に勁い蘇芳(すおう)色をした一枚の大きな布を広げてみせた。それを見た瞬間、私の中を得体のしれぬ戦慄が走った。それまで眠っていたものが激しく揺り動かされるような衝撃であった。
 私は識らなかったが、それは西アフリカのクバ族が祭礼の時に身にまとった布(ラフィア)であった。布には不思議な紋様が縫い込まれていて、それはポール・クレーの作品のなかにある抽象的な形象に酷似していた。クバ族のラフィアは、まさしくクレー芸術の本歌の一つになったものだったのである。若い頃クレーは、醜悪な人間のカリカチュアを、いかにもドイツ的な執拗さで描いていた。その彼が、こうしたものに出会って、突然別の時空へと飛翔していった気持ちが痛いほどわかった。
 それにしても、この布にはクレーをもってしても及ばない不思議な美しさが宿っていた。その美しさは、紋様や色彩が相互にかもしだす思いがけないような造形的効果だけから生み出されているものではなかった。人の手のおよばぬ超越的なものへの祈りからもたらされているものにほかならなかった。
 茫然としている私に、俵氏は「一般にプリミチブアートと言われているものの中にも、いろいろな段階のものがあるが、ものを創ろうとする人間にとっては、その中の第一級資料しか効き目がない」と言い、さらに「二〇世紀のヨーロッパの芸術家たちが、抽象造形の具体的ヒントをアフリカのプリミチブアートから得たが、こうしたものから学ぶのは、本当はそんなことではない」と言った。その時、俵氏が私に言いたかったのは、芸術の植民地主義に陥りかねないような視線ではなく、もっと頭を低くして、こうしたものに宿る創造の本質に教えを乞え、ということだったろう。
 現代芸術のどんな試みにも心はためかなくなり、自分が何かを創ろうとしても、まるで砂を積むように虚しくなり、にもかかわらず、ますます心のなかで芸術への憧れだけが強くなる私の苦悩に、クバ族のラフィアと俵氏の言葉は、まっすぐにしみとおってきた。
 それ以来、訪れるたびに、俵氏は不思議な美しさを宿したものを、私のために用意して待ち受けてくれていた。それは前漢の魚であったり、西アフリカトポケ族の祭祀用盾であったり、ミンダナオ高地民族の黒いシャーマンボックスであったり、ある時は、ルーマニアの農民が麦を脱穀するための馬橇であったりした。それらのものは、いままで私が見てきたプリミチブアートとはどこか違っていて、造形的な思いがけなさというのではない、どこまでも静かな勁さと豊かさをたたえたものであった。
 俵氏は、その時々、まるで名医のくれる処方箋のように、的確に私の救済力になるものを用意しているのだった。ものが視えれば視えるだけ遠ざかり、為すすべもない想いだけが深まるという病が、俵氏には手にとるようにわかっているようだった。これほどの名医と妙薬に出逢えることがあるなどと、私は想像したことがなかった。有り難かった。
 後になって、俵氏が私よりももっと深い病に冒された人であったことを知った。しかし最近になって、視るべきものを視てしまったのか、俵氏は猛然と絵を描きはじめた。以前から氏は、折にふれ、美しい色彩のエスキースを日記のように描いてきた。まるで色で描く短詩のようなものであった。そこには、美しいものを知り尽くした人のみが獲得できる自在さが、さりげなく歌われていた。
 このところ、俵氏の絵は、美しい色彩の世界から、しだいに東洋的な無彩色の世界に移行している。生命の飛沫そのもののような墨象、南宋画とも書ともつかぬ、流動し、震え、波立つような墨象がつぎつぎと生み出されている。
 「本当に美しいものには、必ず風が入っている」というのは、俵氏の口癖である。
 「ものに宿る美とは何か」「美が生まれるとは何か」という、創造するものにとっての永遠の命題を、美の原基、本歌となるものをとおして、己の人生に重ねてきた俵氏のなかに、いま風が巻き上がっている。
 風は、視つくした後になお残る人間の業から吹き上がってくる。森羅万象から贈られてくる言葉となって。
 保坂氏の短歌と俵氏の墨象が響き合うのを、私ははっきりと聴いていた。

 保坂耕人氏は、佐佐木信綱の興した結社誌『心の花』の旧くからの同人で、長くその編集委員を務められた重鎮である。すでに、歌集『一隅』『岫(くき)』『風炎』『風塵抄』の四冊が上梓されている。
 俵有作氏は、一九九四年春、画集『茫茫』を出版される。
 保坂氏にも俵氏にも、この詩画集『風』に掲載されたもの以外に、秀歌、秀作がたくさんあることはいうまでもない。むしろ、私の好みのために、お二人の世界を矮小化してしまったのではないかと恐れている。
 この詩画集では、保坂氏の歌は成立年代に関係なく過去の歌集のなかから、俵氏の絵との共鳴を念頭において展開させていただいた。膨大な保坂氏の歌作と、千枚近い俵氏の絵のなかから、八十首、四十枚に限定した詩画集を構成することは、私の手にあまるものであったが、お二人の世界観への尊敬と共感をたよりに編んでみた。一応の構成を終えた段階で、『心の花』の編集同人で、私と保坂氏との出逢いをつくってくれた晋樹隆彦氏に目を通していただき、貴重なご指摘をいただいた。また、晋樹氏の経営する出版社「ながらみ書房」に、この詩画集の発売元になっていただいた。長きにわたる友情に心から感謝するしだいである。
 序文は、『心の花』の発行人であられる佐佐木由幾氏にお願いした。由幾氏は、御夫君治綱氏亡き後、ご子息の幸綱氏とともに『心の花』を今日の隆盛に導いた方である。保坂氏は、治綱、由幾両氏に師事されて、歌の道に入られたと伺っている。保坂氏の第四歌集『風塵抄』の出版記念会の折、この古き歌友に贈られた深い愛のこもった由幾氏のメッセージを、いまも私は忘れられないでいる。
 願わくば、この詩画集が心ある人々の胸にとどき、新しき生命の雫とならんことを。

    一九九四年一月吉日
    『楢山節考』の原郷、境川村黒坂の寓居で記す。
                         堀 愼吉
       初出:詩画集『風』(ながらみ書房1994年6月20日発行)

 詩画集『風』 墨象/俵有作 短歌/保坂耕人

TOP  著述一覧