堀愼吉資料室 |
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甲州の野辺にて 「満面の輝き」 明治以後のわが国の美術の世界は、ヨーロッパの近代美術を移植することから始まった。30代にさしかかる頃だったろうか、「私の考えること」「私の感じること」「私の自意識」--それまで「私自身に属するもの」として疑わなかったすべてのことが、ほんとうの自分とは違う世界の上に構築されたものではないか、という疑いに襲われるようになった。それはあたかも、コンクリートの上に種を播いているような感覚に似ていた。 はたして、わが国には、ヨーロッパからの移植によってもたらされた近代ではない、自前の近代精神の萌芽はなかったのだろうか。もしあったとすれば、それはどのような姿で立ち現れようとしていたのだろう。 山梨で暮らすようになって、私は初めて、その命題に一つの示唆を与えてくれるものに出逢った。 享保 3(1718)年、現在の下部町丸畑に生まれた木喰行道(明満)は、木食行者として95才で入寂するまで、千体造仏を発願し、日本各地におびただしい数の彫刻を遺していった。それらの多くは、地蔵菩薩像などの仏像であるが、なかには満面に笑みをたたえた木喰行道自身を彫った自刻像が幾体かある。 わが国の自画像や自刻像の多くは、ヨーロッパ近代精神が移植された明治近代以後に登場することとなる。自画像や自刻像を制作するには、近代的精神の特質ともいうべき自意識の発現が欠かせないからである。だとすれば、木喰行道の自刻像は、わが国が自前で生んだ唯一無二の近代彫刻といってもさしつかえないだろう。 だが、彼の自刻像は、多くの自画像を遺してヨーロッパ近代美術のさきがけとなった17世紀オランダの画家レンブラントや、デカルトの「我思う故に我あり」という、主体としての自意識とは異質である。木喰行道の彫刻では、仏も人も木喰自身と一体に同化している。けっして、木喰行道自身にその主体が置かれているわけではない。十六羅漢の円満の相は、そこらあたりの好々爺の貌(かお)であり、山の神や葬頭河婆(そうずかばばあ)は、どこかの村の強欲婆さんのようで、子安観音は畦道で子供をあやす母親そのものである。「仏は我が生命のなかにある」といわんばかりの自刻像においてすら同様である。 わが身を捨てて、衆生救済の行脚に生涯を閉じた木喰であったが、その道はそのまま、彼自身の魂を救済する道でもあったのだろう。村々を巡り歩き、仏を彫りながら、我執のくびきを、広大無辺の三千世界にある衆生の輪廻のなかに溶かしこんでいく。 私には、彼の遺した彫刻のすべてが、自刻像に到達するプロセスのように思える。それによって彼は、宗教彫刻としての自刻像という、他に類をみない世界を生み出した。彼の自刻像は、彼が捨てた己の見事な転生なのである。 そこに浮かぶ満面の輝きは、近代をも超えて、はるかな未来へと放射されているようだ。 堀 愼吉 初出:NUH(早野グループマガジン1995年10月1日発行) |