堀愼吉資料室

 末法に開花した地下(ぢげ)

 他の民族にみられないような、日本人の焼きものに対する特別な思い入れは、どこからきているのだろう。桃山の茶人たちを生んだ美意識の種はいつ蒔かれたのだろう。その疑問が、私を自然に中世の焼きものの世界に導いていく。
 平安末期から鎌倉時代にかけて、須恵器にかわって登場してきた、常滑や渥美や備前や越前や珠洲などの中世の焼きものは、須恵器から技術や用途の多くが引き継がれているにもかかわらず、弥生から土師、須恵へと受け継がれてきた美意識とは別の方向に動き出している。
 縄文から弥生への文化変容は、外部勢力の征服によってもたらされたもので、その不連続性は外的要因にあった。しかし、須恵器から中世陶への変容には、内発的要因が大きく作用しているようだ。この時代に新たに登場する器形にも、中国などの陶磁器から引き移されたものもあり、外的影響が少なくなかったことも確かだ。しかし、中世の焼きものを鳥瞰したとき、前代の須恵器とは根本的な美意識の変容が認められる。そして、中国や朝鮮など、他の地域にはみられない独特の風貌を持った焼きものがつくられるようになった。
 弥生から須恵器まで、半島からの直接的な影響のもとにつくられた古代の焼きものには、いずれもどこか儀式的で公的な性格がつきまとっているように感じられる。均整のとれた形、殷・周時代の青銅器を思わすような祭祀器としての格式をきわだたせた意匠、手の切れそうな薄づくりの精巧で完成度の高い工芸的仕上げ。これらは、葬祭の儀式に使われたという儀礼的色彩の強い器物ばかりでなく、日常に使用されたという器にもいえることで、人工的完成度と視覚的な美観が強く意識されている。それに反して、中世の焼きものは、総じて質朴で、むしろ私的な野放図ささえ感じさせる。
 両者の間には、発注者そのものの層が変わったか、発注者自身のなかに根本的な変化が起こらなければ、考え難いような美意識の断絶がある。中世陶のこの変化のなかには、日本人の感受性について考えるたくさんの鍵がかくされているのではないだろうか。
 真夏の太陽が照りつけるなか、カメラマンの藤井さんの車に同乗して、私たちは渥美古窯のふるさと、田原町へ向かった。渥美半島は、あざやかな土の朱色が濃緑に映えて美しかった。表土の色から、能登や沖縄を旅した時のイメージがよみがえった。
 現地で長年、渥美古窯の発掘調査と研究に取り組んでこられた小野田勝一先生と、田原町教育委員会に収蔵されている発掘資料を訪ねるのが旅の目的であった。田原町の教育委員会の考古資料館は、田原城址の一隅にあって、それは同時に小野田先生の研究室でもあった。渥美の大甕や壷、おびただしい陶片や輪花の山茶碗、まだ整理の終わっていないものなどが、所狭しと置かれていた。どの器も、野放図にみえる大胆なつくりのなかに、掴みどころのない根深さがひそんでいるように見えた。
 大形の甕や壷などから受ける野放図で大胆な印象は、器体のつくり方からきているようだった。須恵器の多くは、回転板の上で基本的な形を粘土紐で輪積みし、叩き板によって叩き締めて成形した後、内面や外面をヘラなどで削りながら次第に均整のとれた形に仕上げている。しかし、中世陶の多くは、この最後の段階が省略され、口縁などを除く器体本体は、叩き締めによって形づくられている。そのため、叩き締めるときの強弱や厚みのムラなどで、ひずんだり、ゆがんだりした自然なりの形がそのまま生かされることになる。回転板を利用して、シンメトリーで整った形に近づけるということには、あまり注意がはらわれていないのである。須恵器の工人のような技術がなかったからというのではなく、明らかに、中世の陶工や発注者にそれで良しとする美意識上の下地があったのだろう。
 渥美古窯は、これまでの資料から、藤原文化と伊勢神宮を背景に成立したといわれている。田原町の資料館のなかに、十二世紀後半のものという、男女の性交にまつわる赤裸々な「ざれ歌」と夜這草が刻まれた有名な小碗があった。
 同じ時代に、当時の最高権力者だった後白河法皇は、クグツ女の助けを借りて、当時庶民の間に流布していた歌謡を集めて『梁塵秘抄』を編纂している。一貴族ではなく、法皇という位にあるものが、下層の民の流行歌集を編纂するという、清少納言などが生きていた一時代前には考えられないような事態が起きていた。また、末法をむかえていた仏教の世界は、法然によって浄土宗がとなえられるなど、民衆の魂を救済する宗教へと傾斜を強めていた。格式を重んじる世界から次第に建前の効力が失われ、本音の世界が急速に台頭し、貴族たちの間でも今様がもてはやされた。いわば漢字的世界にひらがな的世界が浸透していったのである。そして、北嶺仏教や山岳信仰など、現世利益と結びついた信仰の強まるなかで、納経がきそって行われ、それを納める壷などの需要に応えるものとして、中世の焼きものは立ちあがってくる。
 中世の焼きものが魅力的なのは、たぶん我々自身が抱えもった野性的な本性に、正直に応えるものだったからだろう。人間や自然の柔らかく掴みどころのない根の深い世界を包摂した実存に、初めて形を与えたのが、中世の焼きものだったといえるのかもしれない。

       堀 愼吉 初出:Art'90秋号(マリア書房1990年10月17日発行)
------------------------------------------------------------
■資料室より補足
特集「渥美古陶」……竹内順一「<周辺窯>としての渥美焼」、小野田勝一「渥美の焼きものと宗教」のあとに掲載。

TOP  著述一覧