堀愼吉資料室

もうひとつの近世--はらまれた混沌とあらわれた混沌と--

甲州から南紀へ--祭祀習俗の展開をたどる
 いまから七、八年前のことである。甲州や紀州などに集中的に残存する丸石(*1)祭祀の習俗を友人たちとたずね歩いたことがあった。それがきっかけとなって、私のなかにしだいに近世寺社建築の装飾彫刻への関心が芽生えた。
 当時私たちが丸石神と名付けてたずね歩いていた丸石祭祀の習俗は、縄文時代までさかのぼることができる、きわめて原初的な根を持つものであった。
 この謎の多い祈りの対象物を追っていくなかで、私は山村の人々の生活に直接触れるという得難い経験にめぐまれることになった。
 たずね歩いた山深い村では、目の前の村人の貌に、何千年という時が凝縮されているような錯覚に襲われて、思わず土着の重たさにたじろいだこともあった。都会生活では、もう決して実感することができない歴史の厚みが村人の貌や仕草となって突きつけられてきた。辺境の村には、きまってとり残された老人たちが、肩を寄せるように暮らしていた。圧縮されたまま凝固したような時間のなかで、南朝の貴種や甲斐源氏が、身近な血縁者として、今日村を訪れた人たちより生き生きと、村人の幻のなかには居座っていた。
 また、小正月などの村々の祝祭には、春駒や女装した少年たちの舞うささら(傍点)獅子や、漫才のたぐいなどが残っていた。観光化して、ようやく生きのびているこれらの民俗芸能は、賤民として永い間差別され続けてきた者の苦しい息づかいから生まれたものであった。
 甲州の丸石神の多くは、道祖神や屋敷神として祀られている。それ以外には、たいしたいわれも付いていないただの丸石に、人びとのどんな想いや祈りが投げこまれていったのだろうと、丸石神を眺めながら、ふと思うことがあった。
 甲府盆地を囲む山々の水を集めた笛吹川と釜無川は、盆地の南端で合流し、富士川となって駿河湾へと流れ下っていく。
 この富士川ぞいの集落をバイクを駆って丸石神をたずね歩いたときのことである。ある集落で何気なく立ち寄った寺院の天井や軒にたくさんの彫刻がほどこされているのを見た。
 そのような彫刻は、私が生まれた土佐の神社でもたくさん見ていたし、別に目新しかったわけではない。しかし、そのとき、寺院の格天井に彫られた一間一花の天井花に、いかにも人間臭い親しみを感じたのは、そこに彫られたモチーフのせいだったのだろうか。
 寺院の本堂の天井は、一尺四方ほどの格子に組まれ、その格子の一つ一つのなかには、彩色された草花や野菜や鳥やけものたちの彫刻がはめ込まれていた。その彫刻たちは、何故か、小正月の祭りのとき、道祖神のお仮屋の前にそなえられる果物や野菜と私のなかで重なった。そして私は、近世寺社建築の装飾空間について、とりたてて考えたことのなかった自分にあらためて気付いた。それは多分日光東照宮のせいであった。
 日光東照宮はいうまでもなく、徳川家康を人神(ひとがみ)として祀った霊廟建築で、徳川幕府の支配権力を象徴する建物の一つである。それと同時に、わが国の近世建築の装飾空間を代表する建物でもある。権力の自己増殖のあからさまな見本のように、日光東照宮は有難味のありそうな、もっともらしい故事来歴に彩られた、無数の図像で飾り立てられ埋めつくされている。このような、あらゆる事物に対する支配の構図の前で、私は目をふさいだわけだ。しかし、こうした支配の構図は、別に秀吉や家康の霊廟建築の専売特許というわけではない。現在遺されて文化財の多くは、大なり小なり、そのような性格のものだし、秀れた日本の伝統的建造物というとき、きまって引き合いに出される法隆寺や、二十年ごとに造替され遷宮が実施される伊勢神宮にしても、過去の権力支配の象徴的存在としての側面から見れば、同じ次元にある。
 しかも、法隆寺や伊勢神宮は、明治以来の日本人の精神生活におよぼした影響力からみれば、東照宮などの比ではない。
 それは、明治以後に書かれた日本の建築に関する主な論文の項目のなかで、一(いち)法隆寺の関係論文が、近世全体の建築論文の数倍にのぼることをみても明らかである。その圧倒的な論文の数は、近代以来日本の文化観を形成してきた知識勢力の視点を物語っている。法隆寺が、現存する世界最古の木造建築の遺構であることや、金堂焼失にまつわる論文の数を差し引いても、その視点の傾向は気になるところである。
 大和朝廷の成立を日本の歴史の始まりと規定する歴史観にもとづいて、日本の近代化が進められ、国家権権力の中央集権制度の構造化がはかられた。
 このとき、法隆寺は、中央集権思考の知識人たちの手で、「大和は国のまほろば」などという言説と一体化された。そして、一握りの貴種の過去の幻想でしかなかったものを、民族の伝統という幻想に仕立てて、民衆の前にまき散らしたのではなかったか。戦後四十年たった現在でも、象徴としての天皇制がはたしてきた役割を考えれば、国家主義者たちの支配構造に何の基本的変化もなかったことを思い知らされるのである。
 過去の支配権力の遺構となってしまった東照宮と違い、法隆寺や伊勢神宮は、いまなお、民族の伝統などという純粋概念を再生産していく装置として、国民に対して観念的幻想を放射し続けるかもしれない。明治近代は、東照宮のかわりに、靖国神社を位置づけて、国家生産のために、国民の生命を消費し続けたのではなかったろうか。
 ともあれ、伝統とは、既成の権威の網をくぐりぬけて獲得されていった、自由な人間精神への敬称であればいい。どこにも制度化された伝統などは存在しないことを肝に銘じていればいいのだ。
 このような目で、近世寺社建築の装飾空間を眺め直そうとしたとき、また別の生命が見えてくるのではないかと考えるようになった。

 甲州一円の丸石祭祀の取材を進めていた私たちは、あるとき、ふと手にした雑誌の論文(*2)で、紀州枯木灘の周辺で丸石が祀られている事実を知った。
 この論文は、後に丸石神を一冊の本にまとめたとき、この調査の中心となった著者の一人中沢厚氏(*3)の言葉を借りれば「熊野三社に代表された熊野地方の底のほうに横たわる、熊野以前の南紀を凝視し追求しようとしたもの」であった。論文のタイトルは「忘れられた熊野--熊野大辺地筋に残る矢倉の群落」というもので、地元の古社調査を永年にわたって続けられた宮本誼一氏の記録であった。
 この論文によって、枯木灘の周辺に点在する矢倉神社の系列に丸石祭祀の跡があることを識った私たちは、早速夏の休みを利用して南紀の丸石調査に出かけたのだった。
 私たちは、この旅で、点在する矢倉神社と枯木灘周辺にある村社をめぐりながら、杜(もり)のなかに、ただ丸石の磐座(いわくら)を鎮めただけのプリミチーフな祭祀のあり方から、しだいに神社としての祭祀空間が整えられていく過程を、じかに目にするという思いがけない体験にもめぐまれることになった。また、その発展段階にそって、丸石神のあつかわれ方が変わっていくのを見て、それが人びとの神観念の変化を暗示しているように思えた。
 このときの、丸石神を中心とした調査記録は『丸石神』の本のなかで中沢厚氏が報告している。その内容と多少重なるが、矢倉神社とその周辺に点在していた神社から受けた、私の印象を、近世の寺社建築の装飾彫刻とは直接的な関係はないが、簡単に紹介してみたい。
 私たちが枯木灘で最初にたずねあてた矢倉神社は、背後に山を背負った、こんもりとした杜にあった。杜の奥にさほど広くもない神域が開かれていて、山を背に一個の丸い神体石が座っていた。それが矢倉神社だった。
 それは、中沢氏が指摘したように磐座(いわくら)=矢倉そのものの姿で、神社といえば神殿や拝殿あるいは鳥居などの建造物が整っているのを見なれている目には、かえって背後の山や杜にこもる神の霊気が伝わり降りてくるのが感じられた。丸い神体石の背には一本の破魔矢が突き立てられていて、それだけが人間の姿をとどめていた。
 古座川筋をさかのぼった所にあった宝山明神は、集落の裏山にあり、鳥居をくぐり参道の石段を登りつめると十畳程の平坦な拝所があった。その正面は垂直に切り立った岩盤で、その岩盤を背に、平たい小さな石の台座の上に見事に丸い神体石が祀られていた。丸石も背後の岩も、拝所の土も一面の苔に包まれていて、不思議な緑色に彩られた美しい神所だった。
 また、別の矢倉神社は、石積みで一段高くされた磐境がつくられていた。十間ほどの間口と二間ほどの奥行きのあるその磐境には玉砂利が敷きつめられていたが、その磐境の正面に神体石は無かった。磐境の背後に広がる巨木の社が深い陰をみせているだけだった。神体石の無いのを不思議に思ってさがしてみると、拝所の隅の木の根元に、神体石とみられる丸い石が転がっていた。
 拝所や本殿、楼門、鳥居などが整備されて、一応神社らしい形を整えていた串本の徳大明神には、神殿の横の一隅に小さな境石に囲まれて土のなかから丸い神体石が顔をのぞかせていた。その徳大明神には、やはり拝殿脇の巨木の根元に直径三十センチほどの神体石と思われる丸い石が二個据えられていた。この他の幾つかの神社でも、やはり神域の脇に二、三個の丸い石が転がされているのを見付けた。これらの神体石は、南方熊楠を激怒させて廃止運動にかりたてた神社合祀令によってつぶされた他の神社から運ばれたものではないかと思われる。
 この神社合祀令は明治三十九年に発令されたが、南方熊楠の執拗な反対運動もあって十年ほどで廃止された。しかし、ときすでに遅く、多くの神社が失われてしまっていた。
 南方熊楠がこのとき廃止を求めるために各地に送った書簡によれば、三重県や和歌山県に合祀のためにつぶされた神社が特に多く、三重県では五千五百四十七あった神社がこの精霊によって九百十二に減らされ、約七分の一になり、また和歌山では、二千九百二十三あった神社が七百九十社になったとある。また、南紀の日置川筋は最もひどく、三、四十社を一社にまとめてしまったと記している。
 この書簡(*4)には、合祀令による矢倉神社の消息なども述べられているので、その部分を少し引用してみる。

 「矢倉神社(*5)、八咫鳥神社のごとき由緒ふるく来歴深く、民衆の崇仰特に厚かりし向きをも、一列一併に速玉神社境内大琴平社と飛鳥社とに合祀しおわれるのみならず、当時矢倉町なる矢倉神社(祭神熊野開祖高倉下命の御子天村雲命)のごときは即に公売に付しおわり、石段は取り崩され、樹木は伐採移植され、神聖なる祠宇は群児悪戯の場となり、荒涼の状真に神を痛ましむるものこれあり候」

 ここにあるように、矢倉神社の群落の多くも合祀の憂目にあったようだ。私たちがめぐった神社はこのときの合祀をまぬがれたものと思われるが、それぞれの集落の氏神が合祀実行されたときの村人たちの悲嘆の様子からしても、この法令が廃止された後に再興された矢倉神社がなかったとは断言できない。
 私たちの南紀の旅の最後は、熊野本宮だったが、本宮の豪壮な社殿脇の一隅にも、ひっそりと境石に囲まれて丸い神石が顔をのぞかせていた。本宮の社務所でその神石のことをたずねると、「あれは、やおよろずの神です」という答えが返ってきた。神とはもともと名づけようもないもので、やおよろずの神とはよくいったものだが、豪壮な本殿にいわくあり気なご神体をどこからか勧請して、もっともらしい神の名を列ねた本宮の神殿のほうがよほどいかがわしい、と私たちは笑い合った。
 南方熊楠によれば、実際この通りで、「本宮ごときは元禄ごろすでに何の伝なく、天野信景ごとき全く他州の人にその伝記を作りもらいに行きし由『塩尻』に見えたり」ということらしい。また同じ文中には「それよりは人の名は知れずとも(また上古のことは帝家の日記たる記紀のほかにその書物なければ、分かるはずなし。)但し八百万神(やおよろずのかみ)内にはわれわれ下民土人の祖神も無論あり」とあって、民衆にとっての神が位置づけられていた。
 私たちがたずねた南紀枯木灘周辺の神社は、このように、いたって原始的な素朴な形から、熊野本宮のような中央の勢力に組み込まれた壮大なものに至るまで、各段階をみせて点在していた。不思議なことは神社の形が整備されるのにともなって、神体であったはずの丸石が脇のほうへ追いやられていることだった。原始的な信仰のなかで祀られはじめ、太古からの呼吸を続けてきた丸い神体石は、人間が投げかけるさまざまな想念や観念などを、そのときどきに呑みこみながら、何事もなかったかのように、再び黙りこんでしまう。神社が人間化し、神が人格化していく過程で、人間の側から観念的な修飾をほどこしていくには、丸石の神はあまりに素っ気なく、始末が悪かったのかもしれない。丸石神と祭祀空間の発展とは、不思議な符号を見せながら離反していくように見えた。
 南方熊楠が、熊野にある神々について語ったように、丸石神もまた八百万の神々を丸々包みこんでいる。そこには、神や人間の何の階級もなく、しかもすべてがある。
 宇宙の闇を一つ一つ意識化して、人間へと付会していく闇の分化作業を通じて、人間の文化が生成されていったわけだが、この分化作業から取り残されたものは、闇のなかに押しこめられ、神もまた、明るい所に出てきた神だけが神の名に値するようになる。人間にとって、目の前の闇が平等でなくなったとき、神も階級化されていった。
 既成の文化や支配秩序からはみ出したものは、闇のほうへ押しやられ、しばりつけられることになる。別の出口から、その闇を突き破ろうとする者もあらわれてくる。闇のなかにこもる力を掴みだし、既成の秩序につきつけ、装いも新たに新しい神を出現させる。階級や文化の混血がわが国ではじめて広い層にわたって行われた中世末期も、神を手がかりにたどれば、このような構図になるのだろうか。
 それにしても、枯木灘でみた無名の小社の息を呑む美しさは何だったのだろう。神域に人の掌ほどの玉石を無数に敷きつめたそのたたずまいは、官省の大社が束になってもかなわない、神と人との合作であった。
 それは、中上健次氏の描き出す、どろどろと濃い血のにおいのする枯木灘の路地や人の内部とはかけ離れた、あまりに静謐な美しさであった。しかし、中上健次氏の紀州の物語のなかにも、闇のなかに押しこめられ、やり場のないエネルギーをもてあまして自爆していく生命を再生する「オリュウノオバ(*6)という人物が創造されている。彼女は、生きとし生けるものを救済する底深い力をたたえている。あの枯木灘の無名の小社の美しさは、多分、この「オリュウノオバ」にも通じているのだろう。

 そして、この枯木灘の道は、根来(ねごろ)大工たちの古里へと通じている。彼らによって、中世末から、近世寺社建築の装飾空間という新しい紙の装いが推し進められていったのだった。
 室町末期から安土・桃山時代は、下克上の時代と呼ばれているように、わが国で初めて基層の民を中心とした文化的創造が実った時代であった。
 このときの文化的創造を先導していったのは、ほとんどが、山水河原者や聖など賤視され差別を受けて来た非定住の人びとであった。
 彼らには、既成の階級から失われていた幾つかの創造のばね(傍点)があった。持たざるもののしたたかさ、持たざるものの自由、抑圧のなかでたくわえられた土俗のエネルギー。生きのびるための、あらゆる方法の獲得と技能の修得に対するどん欲さ。差別を受け、排除され、孤立しながら尖鋭化する思想、非定住の民として流浪漂白しながら蓄積されていく情報、これらが一体となった現実への鋭い触覚感が彼らに新しい視野を開かせたのではないか。現実を異化し、再生産する方法を、彼らは、既成の秩序が排除し、禁忌した、不浄なるもの、不純なるもの、俗なるもののなかにはらまれた混沌のなかから汲み出してきたのではないか。
 能・狂言の世阿弥、作庭の善阿弥、工芸の本阿弥光悦、そして、中世末から新しく台頭してきた建築工匠たちの多くも、山水河原者、散所者と呼ばれた被差別者の出自を持つ。
 彼らは、社会から放下されて存る者の混沌を文化的混血のなかに溶かしこみながら、新しい文化を生み落としていったにちがいない。

開き直った【俗性】--装飾的氾濫の背後
 近世の建築装飾について関心を抱きはじめてから、私の興味は、しだいにもうひとつの近世文化=近世建築のなかにある装飾的氾濫を通して見えてくるかもしれない、近世文化のもうひとつの構造へと傾いていった。それは、簡単にいえば、豊国廟や東照宮を埋める、あの装飾の氾濫は一体何なのか、それを秀吉や家康の側からではなく、その建築にたずさわった大工工匠の側から眺めることができないだろうかということであった。
 狩野派の障壁画や、片身替りの能衣装には抽象化された装飾性、逆にいえば絢爛豪華さが抽象化されて存る。茶の湯のわび・さびの美意識のなかには、茶室の構造や、その土荒壁のあつかい方、あるいは土ものの陶器などを通して、質(マチエール)の強い表現力を前面に押し出して、地下(ぢけ)に根をもつ質を逆転させようとする明確な意識がある。この二つを桃山時代に代表される近世文化の対照的なあらわれ方とみれば、この二つに共通するものは、地下(ぢげ)(俗性)を聖性に異化しようとする働きであり、異化によって抽象化された同一根の両極ということができるかもしれない。私は、ひょっとすると、その二つの間に、俗性そのものに開き直った直接的な表現世界があり、それが近世の社寺建築の装飾空間に象徴されているのではないかと思うようになった。具体性を通してしかあらわし得ない混沌というものがあれば、それが地下(ぢげ)そのものの目がとらえた混沌であり、人間という自然、人間という宇宙に内包された業のような混沌ではないか。それが、社会から放下されたものの視線でしかとらえることのできなかった、近世という、時代の現実であり、生活ではなかったろうか。
 近世寺社建築の装飾空間に目をこらして見なければ、近世文化の本当の姿も、全体像も見えてこないのではないかと思ったのである。そのように考えてみると、近世寺社建築の装飾空間は、混沌とした宇宙そのものを体現した世界として、また民衆の現実が最も直接的に現れた世界に見えてくるのである。それは、とりも直さず、現代の日本、現代の東京へと重なり、私たちと最も深くかかわっている文化の根ではないかと感じられるのである。
 近世寺社建築の装飾空間や彫刻についての史的展開と、その具体的変遷については、私の役割ではないので、それについては、専門とする筆者におまかせすることにして、ここまでは、近世寺社建築の装飾世界について、自分の手がかりになった周辺の事柄をたどってみた。
 最後に、紀州天野郷にある丹生都比売神社を見たときの強い印象について触れておきたい。
 近世寺社建築の装飾空間、なかでもその最も大きな特色といえる彫刻(彩色彫刻)は、決して、近世的特色とばかりいい切れるものではなく、一二七三年(鎌倉時代)に造営された泉穴師神社摂社住吉神社本殿(泉大津市豊中)などにも早い例が認められ、それ以後中世末期頃まで、主に畿内各地の神社建築に広がっている。しかし、この時期のものは、まだ装飾彫刻が建築全体の主体的な性格となっているとはいえない。一三六三年(室町時代)に造営された錦織神社(大阪府富田林市)になると、彫刻にも彩色にもしだいに近世的な華やかさが認められるようになってくるが、頭貫木鼻の龍や彩色から受ける印象は、どちらかといえば、ストレートに朝鮮や中国の文化のイメージにつながっている。
 そうした印象に独自性が加わってくるのは一四六七年の応仁の乱の前後あたりからではないかと思われる。
 近世寺社建築の装飾化を最も強く推進した紀州でも、その頃までの工事はわが国で最も古い歴史を持つ天王寺大工(*7)や奈良の大工によって行われていたようだ。
 また、畿内以外の各地に、地方(じかた)大工の力のある集団が形成されてくるのも、応仁の乱前後からのことのようで、応仁の乱では、畿内の多くの大工たちが、現在の山口県や山梨県方面へも流れて行ったと伝えられている。
 紀州天野郷にある丹生都比売神社(一四六九年 室町時代)は、紀州に現存する近世的遺構の最も早い例のひとつであるが、現存する建築は、この天野郷の地方(じかた)大工の手になっている。
 この神社の本殿は春日造で四殿並列になっているが、華麗な彩色と彫刻が鮮やかな、近世的特色をたたえた建築である。
 この神社を初めて見たとき、私は枯木灘をめぐっているとき、たまたま出逢った周参見の祭を思い出した。この祭の神人となった若い男たちは、未開の地の原住民たちに見られるような、手や青や墨などの彩色を顔や身体に泥絵具で一面にほどこしていた。私はこのときのことを連想しながら、咄嗟に「神社にほどこされた刺青だ」と突拍子もない感想を抱いた。この感想は、後から考えるとむしろ逆で、刺青の伝統的パターンである龍や唐獅子牡丹などは、中国や朝鮮からの図像というより、直接的には、わが国の神社の装飾からヒントを得たのだろう。特に、紀州の十三神社本殿(一五六一年 室町時代)などの見事にキッチュな唐獅子牡丹の彩画などを見るとその感が深い。
 刺青は、体制外、社会外の存在であることを、ことさらに区別するための象徴とみなされているが、神の御座をこうした華麗な装飾で埋めつくすという欲望も、やはり、新しい神の存在を誇示し、古い神とは別の所属意識をあらわしたものではないかと思えるのである。単に唐獅子牡丹が目出度いから、龍やさまざまな瑞鳥や草花に附着した意味がとりたてて重要だったから、とかいう単純なことだけではなさそうな気がするのである。
 近世建築を推進した棟梁には、紀州大工の系譜の他に、甲良大工の甲良宗広、法隆寺大工の中井大和守正清、あるいは、江戸の鈴木や木原家などの幕府大棟梁があるが、なかでも徳川幕府の初期に大きな位置を占めていた中井家や甲良家は、幕府の大工事に際して名実ともに建築プロデューサーとしての采配をふるった。彼らは、単なる大工工匠というより、ちょうど、秀吉の次第に寺社奉行をつとめ、機内周辺のほとんどの重要な桃山建築の造営に関与していた、茶人でもある片桐旦元のような役割を担っていたのではないかと考えられる。それに対して、紀州系大工の鶴・平内家は、傑出した大工彫刻の技倆を買われて、秀吉や徳川幕府に重用されたものと考えられる。そうした店からみれば、近世の建築意匠の創造に実質的な役割をはたしたのが紀州大工だったともいえる。
 紀州大工の装飾彫刻は、前代から継承されてきた様々な図像(主として植物が主体になったものと、龍や獅子、鳳凰などの聖獣や瑞鳥などが主題となったものとがある)を混在させながら展開していく。こうした混在化が近世的装飾空間の特質の一つで、例えば、前出の十三神社の側面には、唐獅子に牡丹、松、老梅、岩に秋草、雲形などが一面に描かれている。しかも、奇妙なリアルさで描かれた実在の植物と、意匠化された想像上の聖獣の描写がないまぜられて、夢と現実がもつれ合ったような一種独特の世界が現出している。

 道家の祖・荘周の「胡蝶の夢」というのが『荘子』斉物論の最後にあり、その内容について、貝塚茂樹氏が次のような解説(*8)をしている。
 「荘子の天に照らすという境地は実はこの荘周が夢に胡蝶となったという、夢と現実とが混同した異常心理の立場において実現する。福永光司君はこれを混沌化と命名されている。存在の根源にかえることは結局において実存の立場にたつということに他ならないであろう」
 また、『老子』の道の中心概念の基盤となっている無(傍点)と有(傍点)と玄(傍点)について、次のように解説している。

 「無の立場は、この宇宙の何とも形容できない混沌さそのものを全体的に表徴しようとするものであるのにたいして、有とは混沌さが整理され、差別された辺(かたはし)、つまりその差別の面を表現しようとするものである。(中略)この有と無をその根源にかえせば玄に他ならないだろう。玄の意義は黒であり、暗黒を意味する。玄のなかのもっとも暗黒なもの、それがあらゆる理論の出て来る出発点である」

 近世大工彫刻の新しい図像としてあらわれてくるものに、古代中国の二大思想、儒教と道教のなかに登場する故事来歴の図像がある。儒教の聖賢君子や二十四孝の故事を引いて、我田引水をくわだてた秀吉や家康の意図とは別に、神仙思想や竹林の七賢のなかに大工工匠自らが直感したものは何だったのだろうか。明との交易によって堺へと入ってきた中国の思想知識は、もはや一部の高級僧侶の独占物ではなかった。中国の庶民生活に深く根づいていた道教が、当時の日本の民衆の魂をどのようにゆすぶったのか、それは近世の大工彫刻の展開を考える上でも大きな示唆をはらんでいる。
 道家、道教の祖・老荘の思想哲学を透視し、その根幹に照応する直感が、彼らのなかで働いていたとすれば、この時代の文化の混血のエネルギーは、やはりただものではない。混沌と差別の間を自在に往き来しながら、彼らの魂を救済する世界を夢見ること、それが彼らにとっての装飾の氾濫ではなかったのだろうか。
 中世末の紀州大工たちは、神の家を自分たちの所属する宇宙のメッセージに塗り固めながら、根来寺、粉河寺などを本拠地とする雑賀衆、根来衆の一員として一行宗徒の王国を紀州にきずいていた。しかし、一五八五年、秀吉はこの紀州一向宗徒の殲滅のために十万といわれる兵力で紀州攻撃を行った。一向宗徒たちの最後の王国だった紀州は、これで崩壊し、地下(ぢげ)から登りつめた近世の新しい支配者が誕生した。
 そして、聚楽第建築に根来大工が起用され、豊国廟、日光東照宮という霊廟建築に腕をふるい、桃山建築の大工事のなかで彼らの宇宙を不動のものとして確立した。しかし、考えてみれば、秀吉や家康の霊廟が彼らの手になったということは、相当にしたたかな冗談だといえなくもない。彼らの生そのものが、それを支配するものの死を飾ったのだから。彼らは河原乞食のように、見事に支配者の死を始末した。差別そのものを、霊廟建築で差し違えたということか。
 既成の図像的手垢のついていない神社建築から始まった、近世的な装飾空間は、霊廟建築で一つの完成に達し、幕府の宗教政策が仏教を主体にされるようになると、寺院建築へも取り入れられるようになり、各地の地方(じかた)大工の手で技術的な完成がめざされた。しかし、それはあくまでも大工という専門集団内部の競合であり、それ以上のパワーをはらむものではなかった。
 近世初頭に生まれた地方大工が、まだ遊行者の貌を色濃く残していたのにくらべれば、近世後期の地方大工は、定住の共同体としての性格を強めていたように見える。
 中上健次の『紀州』の終章<闇の国家>に、「自然は人を拝跪させる。自然、ここでは、差別、被差別というものだと短絡させてよい。自然的自然とは変な言葉だが、事物の氾濫である自然が視る者を解体させ、視る者が統括する作用として差別という心的機構を持ってしまい、人の諸関係の産物として社会や、国家、法律、いや倫理、道徳を自然というなら、これも差別という機構を持つ」
 という文章があった。わたしには、この言葉の内容が、ちょうど、丸石神と、近世大工たちの装飾空間の裏と表になった関係を語っているように思えた。丸石神が差別を生まない神であるのは、自然が自然を統括した形だから、視るものはそれ以上統括できないのだと。
 それにくらべて、近世寺社建築の装飾空間は、事物の氾濫そのものを表出することによって、それを統括せずにはおかない、新しい支配者を生み、次なる徹底的な階級差別社会を現出させた。それは、歴史の皮肉ではなく、人間の悲劇、人間の暗黒に根ざしている。

*1--『丸石神-庶民のなかに生きる神のかたち』丸石神調査グループ編 木耳社、一九八〇
*2--『古美術』第四十二号特集「南紀の風土と文化」三彩新社
*3--民俗学者(一九一四~一九八二)、山梨県に在住。著書に『山梨県の道祖神』『つぶて』『山中共古-甲斐の落葉解題』、『丸石神』(共著)
*4--南方熊楠の神社合祀問題関係書簡(『南方熊楠随筆集』筑摩叢書 筑摩書房、ほか)
*5--前掲書簡で、松村任三宛明治四十四年八月二十九日記のうち小野吉彦から南方への来状書簡引用部分)
*6--中上健次『千年の愉楽』河出書房新社、一九八二
*7--鳴海祥博「社寺建築の中世から近世への転換」『普請研究』第七号 普請帳研究会、一九八四
*8--『諸子百家』岩波新書 貝塚茂樹著
[前掲以外の参考文献]
『神社辞典』白井永二・土岐昌訓編、東京堂出版
『日本民俗辞典』大塚民俗学会編、弘文堂
石田一良『日本文化史概論』吉川弘文館
藤本久志『日本の歴史』15、小学館
『重要文化財』13 文化庁監修、毎日新聞社
横井清『下克上の文化』東京大学出版会
沖浦和光『日本民衆の原郷』解放出版
今泉淑夫『安土桃山文化』教育者
中上健次『木の国・根の国物語』朝日新聞社
富士正晴『中国の随筆』岩波新書
福永光司『荘子』岩波新書
    堀 愼吉 初出:大工彫刻(INAXブックレット1986年9月3日発行)

 掲載誌 INAXブックレットVol.6 No.3 表紙

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