堀愼吉資料室 |
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桃山の独自性 〈つくられたもの〉と〈つくられなかったもの〉のバランス *メジャーの文化的習性 わが国では、それぞれの時代に、社会の上部構造でもてはやされたメジャーな文化がある。しかし、これらメジャーな文化は、大陸や半島、あるいは近・現代ではヨーロッパやアメリカなど、外にその文化のモデルがあり、そのモデルにのっとってなぞられたものがほとんどである。いいかえれば、他の先進地の文化を借りてきて、それをモデルにしかるべき価値基準をつくりだし、その価値にのっとったものを権威として位置づけてきたのである。新しい価値を自分たちで生み出し、つくりあげていくのは、どうも苦手な民族であるようだ。価値を生まないだけならまだしも、オリジナリティというものに、日本人ほど冷淡で、重きを置かない人種もめずらしい。裏を返せば、〈模倣〉と〈学ぶ〉ことに長じた国民性ということになろう。 模倣なくして創造などあり得ないのだから、模倣すること自体はどんな民族でも行っている。しかし、わが国では、模倣を出発点にして新しい価値を生み出すことより、借りてきた価値観から生み出されたものを手軽に借用することに、情熱をかたむけてきた。そして、それにプラグマチックな利用価値がなくなったとみると、さっさと別のものに乗り換えて使い捨てていくきらいがある。 自分たちで生みの苦しみを経験してつくりだした価値なら、またそれを踏み台にして、新しい価値観をつくりだそうとするのだろうが、借りてきたものには未練はないのである。 われわれのこうした性癖というのは、一つには、この島国を支配するようになった勢力が、金属器などの進んだ文明的技術や武器などをたずさえて、半島から渡って来たことに由来しているのかもしれない。彼らにとって、半島や大陸の進んだ技術や文化は、いつもアカデミックな指標であり、権威であり続けた。常に先進の文明にモデルを求めるという、わが国の上部構造をささえてきた文化的習性は、案外、大和朝廷という国家体制の出自に端を発しているといえなくもない。 *よみがえる多元的世界 こうしたわが国の文化的基調のなかで、唯一、異質な様相を呈したのが、安土・桃山と呼ばれる時代であった。 この時、中世という時代を通して徐々に用意されてきた、社会の上部構造と下部構造の流動化と混沌化が一気に表面化した。律令国家として一元化をめざしてきた大和朝廷以来の社会体制が崩れ去って、人々は自らの内に抱えもった多元的世界と否応なく向き合うほかなくなった。明治維新や戦後日本の変革のように、外圧が直接的な引き金でなかっただけに、変革は内的なボルテージの高まりから自然発生的に引きおこされることになったのである。そのため、安土・桃山時代に、まるでアダバナのように花開いた文化は、外国の模倣を超えた世界に例のないオリジナルな相貌をそなえるものになった。 室町末期から安土・桃山時代を通して、当時の茶人たちを中心にしだいに意識化されていった世界、茶陶に結晶した世界をみていると、ある程度文明化が進んだ国ではみられない、不思議な性格を宿しているように思われる。 ヨーロッパでは、その出発点ともいえるギリシャ時代において、すでに人間を主体とした文化観が形成され、それ以後も一貫して、その方向は変わることがなかった。文化とか文明の創造的原理は、あくまで人間の可能性を拡大し、人間的世界を確立し普遍化する方向で進んでいく。事物や自然を人間化していくことに、創造的エネルギーがつぎこまれたのである。創造は、人間の智恵や精神や技術の勝利を明らかにするゆえに価値を持った。 人間のはてしない欲望の原理、アダムとイブの食べた禁断の木の実そのもののような、人間の業ともいえる本能に、早くから向き合ってきたヨーロッパの人々は、この欲望に対置させて、キリスト教という絶対的な神の世界を構築した。こうした世界観から眺めると、わが国の文化のありようは、基本的には理解できないかもしれない。 桃山の茶陶にみられる独自性は、人間を主体にして、人間化に向かって造られたものではなく、自然性を基盤にした、自然化の方向に価値を屹立させようとしたところにある。自然や宇宙をいかにまるごと一碗に抱え込んで、自然以上の自然状態をみせているかということに価値が置かれているのである。桃山の茶会を賑わした名物茶碗の数々をみていると、それらがいかに〈つくられたもの〉と〈つくられなかったもの〉との対等で微妙なバランスの上になり立っているかということを痛感させられる。 それゆえに、桃山の茶陶は、人間と自然の間を自在に往き来するための通路となり、自分たち人間を生み出した未分化の森羅万象と精神的交信をはたす道具となった。自然や人間のなかにはらまれた多元的世界が、一碗のなかによみがえるのである。 ヨーロッパのような二元論的世界観によって、自己矛盾を解消する方途をもたなかったわが国で、人々が一元的欲望世界と多元的精神世界のきわどいバランスの上に立ったまま存在していることを、最初に明らかにしたのが桃山時代だったのかもしれない。われわれのなかには常に、ファシズムと自然とが無意識に同居しているのだ。 桃山時代以後も、文明的なものとは相反する心的情況を抱えて生きてきたわれわれは、文明的なものを生み出した価値観や思想などの精神的背景とは断絶したまま、文明のプラグマチックな側面を拡大していく。そして、近・現代になってますます、われわれの内部で人間的欲望と精神生活の乖離は、手のほどこしようもなく進行していった。 *文明的後進性によって生まれた独自性 わが国に、高温焼成による灰釉施釉陶の技術が伝来したのは、八世紀後半ごろだったといわれている。猿投地方で初めてつくられるようになった灰釉陶は、当時、わが国の貴族社会に輸入されていた大陸からの白磁や青磁の形を模したものが多く、輸入品の代用として流通していた。中国においては、この技術は殷代(BC一八〇〇~一一〇〇)に開発されて、著しい発展をとげていた。灰釉陶が日本に伝来した八世紀には、大陸では、陶磁器の完成形態ともいうべき白磁や青磁の磁器生産がすでに行われていた。また朝鮮半島においても、十二世紀には、技術的完成度の極限を示す〈翡色青磁〉と呼ばれた高麗青磁がつくられていた。 大陸や半島で、完全無欠な碧玉の器〈青磁〉や、純粋無垢で高雅な白色器〈白磁〉の生産が盛んだった時代にいたっても、わが国はまだ、灰釉陶の技術的試行錯誤の時期にあった。猿投地方から瀬戸地方へと生産地を広げていった灰釉陶は、無釉の山茶碗などと一緒に焼かれ、しだいに、生産効率の悪い還元焼成法から酸化焼成法へと移行していた。そのため、還元焼成によって淡緑色に発色する素地と釉中の微量の鉄分が、酸化焼成によって淡黄色を呈するようになった。器肌にかけられた灰釉も、溶けて流れるままの自然状態をみせて、まだ不安定かつ不完全でムラのあるものが多かった。 十五世紀ごろになると、灰釉のムラや流れをおさえ、器肌への釉の定着を良くするために、灰のなかに長珪石を混入する改良が行われ、ようやく灰釉陶の技術的完成期を迎えていた。しかし、そのころには大陸からの磁器の輸入に押され、また灰釉陶の需要層であった上流階級の衰退などもあって、瀬戸地方の灰釉陶生産は急速に退潮していった。 一方、十五世紀から十六世紀にかけて、新しく台頭してきた町衆や武士の間で、茶の湯がしだいに盛んになり、高麗茶碗が愛用されるようになる。彼らは、それまでの高級施釉陶の需要層とは異なる趣味と美意識を持っていた。この新しい階層に迎え入れられた焼きものは、半島や大陸の高度に完成された磁器ではなく、鉄分の多い胎土に長石質の釉をかけた陶器や、素地に白化粧をほどこして釉がけした粉引茶碗など、陶器質のものであった。茶人たちに好まれた高麗茶碗も、素地の色と釉薬が反応して、器肌に微妙な色と質の変化やムラのあるものであった。 わが国で、灰釉陶の技術がまったく新しい姿に生まれ変わるのは、十六世紀になって美濃大窯に灰釉陶の技術が導入され、茶陶という新しい需要と結びついた時代からである。ほとんど長石単味の釉がほどこされた白色陶器〈志野〉が生まれ、長石と黄土と木灰との混合による本格的な〈黄瀬戸〉が生まれ、鉄釉による引き出し黒の〈瀬戸黒〉が生まれる。これらは、素地土や釉や焼成の作用が一体となって、いずれもコゲやチヂレや火色や土色などが渾然一体となった自然の変化をみせるもので、青磁や白磁などの透明でシミ一つない完全無欠な人工的極致をみせる器肌とは、正反対の性格を持ったものであった。 桃山時代のこれらの茶陶は、社会構造の流動化と、文明(技術)的後進性がスパークして生まれたものであった。桃山の〈志野〉や〈黄瀬戸〉は、さまざまな意味で、文明的後進性によってこそ生み出された独自性だといっても過言ではない。 *桃山黄瀬戸を凌駕する 桃山讃歌を終生うたいあげた加藤唐九郎は、こうした桃山文化の本質に、桃山以来初めて意識的に取り組んだ作り手の一人ではなかったろうか。 現代の日本で、桃山の茶陶の本質を射程に置くことは、他のどんなものから出発するより、確かな意味のあることにちがいない。作陶を続けるなかで、あるいは中国やヨーロッパをめぐりながら、それぞれの国の陶磁の世界に触れるなかで、唐九郎は桃山の独自性をますます確信したのではあるまいか。 昭和七年、加藤唐九郎は、私費を投じて美濃久々利の窯下窯の発掘調査を行った。この窯は、桃山黄瀬戸の最も秀れた作品が生み出された窯で、翌年、彼はこの調査にもとづいた著作『黄瀬戸』を出版し、桃山黄瀬戸の全容をほぼ明らかにした。ところが、この本のなかで加藤藤四郎伝説に異をとなえたことで、彼は陶祖藤四郎をおとしめるものとして、産地の人々の無理解な誹謗の集中砲火を浴び、焚書事件にまで発展した。 しかし、戦後、瀬戸や美濃の古窯跡の系統的な発掘調査が進められるようになって、唐九郎の著作『黄瀬戸』が、いかに桃山黄瀬戸の本質にせまったものであったかが証明された。 唐九郎は、窯下窯の発掘調査から二十年を経た昭和二十年代の後半になって、ようやく桃山黄瀬戸への本格的な挑戦を始めた。透明な艶と貫入をもった黄瀬戸火入れ、あるいは、淡い黄色のしっとりとした釉肌にタンパンと鉄コゲの点景が打たれた茶碗『銘蓬野』、菖蒲手(油揚手)の輪花鉢、最晩年の油揚手茶碗のさきがけを思わす、渋紙手茶碗とも呼ばれているサビた強い質をもった茶碗『銘枯野』など、桃山の陶工たちに思いをはせながら、桃山黄瀬戸のさまざまな質に多角的なアプローチを展開していった。桃山で消えた本格的な黄瀬戸が、この時、唐九郎によって初めてよみがえったのであった。 昭和五十九年に開かれた『志野・黄瀬戸・織部--桃山と唐九郎』展には、桃山黄瀬戸を完全に凌駕した〈唐九郎黄瀬戸〉としか呼びようのない茶碗が並べられていた。茶碗に打たれたタンパンは、タンパンというよりむしろ鉄のコゲを思わし、黒々とした景色となって焼き付き、胎土と一体化した釉の粒子の一粒一粒は、いぶされたような黄金色にあわだち、輝いて見えた。 唐九郎は、なによりも黄瀬戸の人であった。同時に、わが国の特異な精神的風土をはっきりと自覚して、多様な自然の発露に自己をスパークさせ続けた人だったと思う。 堀 愼吉 初出:Art'90春号(マリア書房1990年2月4日発行) |