堀愼吉資料室

 モナドの詩(うた)=浅川洋子

 浅川洋子さんは、銅版画というどちらかといえば求心的なミクロコスモスの世界から出発した。そこで、美しいイメージの結晶体--透明な化石のような数々のすぐれた作品を生みだしたが、その後、ドローイングやミックスドメディアやインスタレーションなど、さまざまなテクスチュアや試みのなかに表現の可能性を解き放っていった。
 版画の世界に自足し、その枠組みにとらわれることをいさぎよしとしなかったように、浅川さんの仕事はいずれの場合にも、まず自分が手にした表現素材の解体作業からはじめられる。銅版の四角いフレームは解体され、紙はちぎられ、あるいはドロドロの流動状態に戻され、板は小さな木片に分解され、ドローイングは対象をなぞるためではなく、オートマチックなバイブレーションとなる。
 素材のもつあらかじめ用意された予定調和的なフレームを解体することによって、自らの意識のフレームを解体し、意識の流動状態をつくりだそうとしているようだ。たぶん、そのことは浅川さんにとって、素材そのものの物質的重力にとらわれ封じ込められないための儀式なのだろう。
 一九八六年に制作されたエッチングシリーズ〈水の悪癖〉について、浅川さんは
「形態を保持するよりも重さに従うもの。自分の重さに従うためにあらゆる形態を拒絶するもの。水は私から逃げていく。けれども痕跡が残る」というフランシス・ポンジュの『水について』の論考の象徴的なフレーズを引用する。
 水という、それ自体形をつくらない流動する物質が走り去った後に残る痕跡。浅川さんはそこに、銅版と腐食液の本質的な作用をみとめる。彼女にとって、その痕跡は物質の向こう側に隠されている世界からの通信になる。銅版の四角いフレームはバラバラに解体され、液体がいたずらな影をいくつもの層に残していけるように、もう一度組み立てなおし重ね合わされる。その上に、彼女の意識のなかを流れる記憶のかすかな痕跡が記され、腐食液の痕跡が重なる。流動するものがとらえられ、化石化して、透明で硬質なイメージの宇宙が浮かびあがる。
 事物との出会いによって物質と精神にひきおこされるさまざまな作用をとおして、物質や意識のなかに閉じ込められていた非物質的な世界のメタファーが立ちあがってくる。あるいは、流動し震えるオートマチックな線や色の間から結晶化してくるイマージュ。
 浅川洋子さんは、そのように事物が交叉した痕跡をとおして近づいてくる非物質的世界のシーニュを注意深く掬(すく)いとっていく。
   *        *
 〈古い宇宙のモナド〉
 〈MONADO・ゼロの構造体〉
 〈MONADO・鉱質の時〉
 〈MONADO・WIND〉
 〈MONADO・星気体〉
 〈MONADO・樹木の話〉
 〈MONADO・発熱する湖〉
 宮沢賢治の詩的世界を思わすような浅川洋子さんの作品のタイトルの多くには、 MONADO=モナドという言葉がかぶせられている。辞書には「ライプニッツ哲学の用語で、実在の窮極の単位を示す」とあった。
 浅川さんの解釈にそっていえば、モナドはすべての自然物のもとになっている目に見えない粒子である。しかし、それは物質の極小の単位である分子や原子のようなものではない。むしろ、そうした物質を生みだすもとが、モナドなのである。モナドは、いうなれば自然や宇宙の未分化の遍在に形を与える宇宙的創造(表現)の作用をもつ高次元の粒子なのだ。
 浅川さんにとって表現とは、意識や思考でとらえるものではなく、精神と物質とのさまざまな次元のダイレクトな交叉--バイブレーションエナジーをとおして発現するモナドだと考えてきたようだ。
 浅川洋子さんの、この自然や宇宙の魂の、目にみえぬはたらきに感応する詩的感情と感受性は、幼い頃から植物学者の父と行を共にした、山々や森の霊気によって養われたのかもしれない。そういえば、彼女のフィギュールをとおして、植物たちがさまざまな貌(かお)をのぞかせる。
 植物たちは、考えてみれば羨ましい実存だ。彼らは、他の生きものたちのように、無闇に他の生命を食べなくても生きていける。光と水のもたらしてくれる作用に身をゆだね、自分が根を張った場所にとどまって生長する。自分のテリトリーを強奪する闘争とも無縁に、風や水の流れや鳥や獣たちが運んでくれた場所に根をおろす。そして彼らの森は、たくさんの生命を育み創造する。
 浅川さんはおそらく、樹木やさまざまな植物のなかに、いのちの表象のもっとも美しい結晶を認めているのだろう。そして、森や叢(くさむら)や樹々の実存の輝きの間に垣間見える変幻自在な遍在を追い続ける。
   *        *
 コンセプトや方法論が先行した表現は、時代の均質な相貌を浮かびあがらせることはあっても、私たちの実存の震えには達しない。しかし、作家の感受性が表現感情に深く根をおろしている仕事にはモナドが宿る。
 浅川さんは、展覧会のために訪れたドイツで、ベルリンの壁の崩壊という歴史的現場に遭遇する。そして、拾いあげた壁の断片に刻みこまれた人々の感情の痕跡に、白熱したモナドをみとめる。
 また、即物的に還元された絵具の色が、オートマチックなドリッピングで非物質的な空間の実在と輝きに化したようなジャクソン・ポロックのタブローが、彼女のモナドへの思いと重なる。
 宮沢賢治の生地を訪れた時に手に入れた、百万年前に地上に落ちたクルミの種のいのちの形が、彼女のなかのモナドを甦らせる。
 浅川さんの表現感情は一貫して、人間や自然や宇宙の魂の目にみえぬはたらきに向けられてきた。消滅と再生を繰り返す事物の記憶をたぐりよせながら、彼女は自らの精神と肉体のオートマチックなバイブレーション作用をとおしてモナドを結集し、自らを遍在の通路に化身させたいとねがっているようだ。

       堀 愼吉 初出:Art'91夏号(マリア書房1991年7月26日発行)

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