堀愼吉資料室

 物語を秘めた彫刻

 すいぶん前のことだが、人間であることの哀しみに胸をしめつけられるような『ピノキオ』の映画をテレビで観たことがある。それは確か、チェコでつくられた映画であった。
 松田一戯さんのつぎはぎのある驢馬(ロバ)や、洪水をひとり漕ぎ渡るためのくり舟のような彫刻をみた時、なぜか私は、その映画を思い出した。松田さんの彫刻には、旧約聖書やプリミティブな神話のなかにあるような、人間の原初的な物語性が秘められていて、哀しく美しい。
 私が最初にみた仕事は、掌に乗りそうな動物や雛人形などの小さな木彫で、わが国の民話的世界に通じるものであった。
 これらの小さな作品たちは、民芸運動以後、各地で量産されてきたような民芸品にはみられないオリジナリティを秘めて、懐かしい魅力をたたえていた。そして、東北地方で昔つくられていた、トーテミズムをはらんだ〈お鷹ポッポ〉の木彫や張子の人形などが持っている、野性の温かさをよみがえらせていた。
 わが国の知識人の間では、庶民の生活の中から生み出されたものを一段低く見る傾向がいまもって根強い。それは、当の知識人たちに本当のオリジナリティが欠如しているからにほかならない。こうした知識人たちに先導されて、闇雲にヨーロッパ近代が移入された結果、わが国の文化は根をなくしたまま、宙に浮いてよじれ続けてきたようなところがある。根のないところに、本当のオリジナリティや国際性が育つわけもない。
 播磨や丹波・但馬地方は、近世の大工彫刻がたいへん栄えたところである。柏原中井家(兵庫県柏原町)などの工匠集団を輩出し、近世の建築彫刻に特にすぐれた技倆を発揮した。松田さんの木彫の仕事がこうした土地から生まれたことは、何か偶然だけとはいえないものを感じる。
 いま、アジアやアフリカや中南米などの野性的な民族芸術やプリミティブアートが注目されているのは、文明的な世界観のなかで、私達が見失ってきたものがあまりにも大きいことに気付きはじめたからだ。
 松田さんが但馬に腰を据えて、人間や自己の風土の原風景の中に〈魂の再生〉を見ようとしている姿勢に、私は強い共感を抱いている。
 私達は、そうした営為のなかから、はじめて新しいワールド・アートを確立することができるだろう。
 松田さんによって生命を吹き込まれた現代の木偶(デク)、日本のピノキオたちは、私達現代人が見失ってきた尊いものを、きっと探し出してきてくれるに違いない。

堀 愼吉 初出:松田一戯展案内状(ルネッサンススクエア1990年6月30日~7月15日)
再録:「木槌の音色と木っ端の詩」展図録(あさご芸術の森美術館2008年7月1日発行)

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