堀愼吉資料室 | ||
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村びとからの贈り物 甲府盆地を見下ろす山麓の集落に住み着いて、もう十年近くなる。 ここは、深沢七郎の『楢山節考』のモデルとなった集落だ。彼の自伝的作品『人間滅亡の唄』は、「人間は誰でも屁と同じように生まれたのだと思う」という章で始まっている。もともと、人間も、虫やケモノや草木と同じように、この世に生を享けた生きものの一つにすぎない。しかし、人間が何か特別の生きものであるかのような錯覚を、近代的価値観は拡張しつづけてきたようだ。人間の虚飾の面(つら)を剥いで、裸形の生へといざなう深沢七郎は、自然の摂理に孕まれたレアリテに通暁したアナーキストだと思う。 私は『楢山節考』に登場するおりん婆さんや辰平のような、心優しく透き通った魂の持主が、まだこの土地には生き残っているかもしれない……という、夢のような期待を心の片隅に抱いて、ここに住みはじめた。 そして、すぐに、私の夢のような期待は、あながち幻想ではなかったと思うようになった。 私に終の住処の土地を提供してくれた端(ただし)さんは、経済原理が最優先の世の中にあって、近年はめっきり収益のあがらなくなった養蚕に取り組みつづけていた。「養蚕はもうダメだ。やめようよ」という呼びかけに、「そうはいかないさ。お蚕(かいこ)はお友だちだからね」と、少年のように澄んだ目で笑っていた。端さんの言葉は、人生の積み重ねの奥深いところから、彼独特のユーモアとともに発せられるようだった。なかでも、私の心を強く捉えたのは、「人はたいていに生きて、たいていに死ねれば充分さよね、堀さん」と、かる~く言ってのけたこと。 残念なことに、端さんは先年、六十余年の生涯を閉じられたが、『楢山節考』の主人公たちと重なりながら、いまも彼は私のなかで生きつづけている。 その端さんの奥さんの壮子(たけこ)さんは、冬になると、ホウキグサの箒を届けてくれる。 手前未使用、向こう使用中 ホウキグサの箒は、養蚕が盛んだった頃、主に蚕糞(こくそ)を掃くのに欠かせない道具だったようだ。わが家では、それを庭箒として使っている。軽くて扱いやすく、小石まじりの庭などを掃くとき、まことに都合がよい。小石や土を運ばず、ゴミや落ち葉だけをかき出してくれるのである。使い込んですり減ったものは、穂先に撓(しな)いがない分、芝草の間のゴミをかき出したり、狭い所を掃くのに重宝する。持ち手のあたりまですり減って、ほとんど棒を束ねたような姿になっても捨てがたく、笊(ざる)籠(かご)の類を洗ったりする時にタワシがわりに使ったりもする。 使い込んだ箒 私の家の裏山は日当たりのよい雑木の疎林で、ホウキグサが良く育つ。養蚕をしなくなったいまでも、冬枯れの季節になると、壮子さんは裏山に登り、背負いきれないほどのホウキグサを担いで降りてくる。親類などに箒を作って届けるのだという。壮子さんの箒は大もてのようだ。 かつて、耕地の少ない山村の暮しは、よほどの山持ちでもない限り、常に自然の摂理の厳しさと直面した、貧しくつつましいものであった。身近な一木一草までが、神からの贈り物として人々の営みをささえていた。そんな暮しのなかでしか感受できない恩寵が、人々の魂を磨き、生きる英知を育んできたのだ。おそらく、端さんや壮子さんは、そうした美しい暮しを体得している最後の世代なのだろう。 壮子さんの箒を手にするたび、近代的傲慢に魂までも汚染され、行き暮れている現代生活の哀しさを思うのである。 1998年12月24日 堀 愼吉 初出:道具の心理学(INAXブックレット1999年3月15日発行) 掲載誌 INAXブックレット 表紙 |
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この地方ではホウキグサと呼ばれるが、一般にはコウヤボウキという。左は春の花、中は秋の花、右は冬枯れの姿(新芽が姿をみせている)。 |