堀愼吉資料室

西の文化に磨かれた感性

 守田蔵さんは、奈良と京都の県境にある浄瑠璃寺の門前に工房を持って、信楽と独自の低温焼き締め陶に情熱を燃やしている気鋭の作家である。陶芸家というには、あまりにとぎすまされた緊張感をただよわす痩躯から、自分の抱く志への気迫が伝わってくる。
 守田さんは、日本の伝統文化の中心地で、遺された古い名物道具などに、小さいころから心奪われ、関西でも名だたる目利きの薫陶を受けて、陶芸の道に足を踏み込むという恵まれた経歴を持つ。しかし、その経歴は、単純に恵まれたとはいえない不幸と裏腹になって、作家の美意識を既存の伝統形式へ縛りつける危険をもはらむことになる。
 その上で、守田さんは、弥生と信楽の親近性を実感的な手がかりとしながら、未踏の境地を切り開こうとしている。それは、長い間日本の中心文化を形成してきたものの本源的な再生を願う試みへと通じているのかもしれない。
 弥生が西の文化の骨格になったとすれば、縄文は東の文化の底流として、時代の暗部から、時としてマグマのように中心文化の殻をゆるがす。
 私は、この連載の当初から、日本の焼きものの生成にかかわっている、縄文と弥生という互いに異質で、それぞれに根源的なものの相関性を視野の片隅に置いてきた。そのどちらが良いとかいうことではなく、いずれもが私たちの精神生活や感受性に深く宿命的にかかわっていると感じるからにほかならない。
 この二つは、われわれの自然観を核として相関している。縄文と弥生では、自然に対する感受の仕方、受け入れ方が本質的に違っている。縄文は、野性そのものの生命体と常に対峙しながら、生命そのものの直接的な衝動をバネにして、自然が内包する不可視な力を宇宙的な幻想へとまるごと解放する。農耕を始めた弥生では、自然は対象化され、自然の細部や表面への観察を通して、自然と事物生成のメカニズムの認識化へと踏みだすことになっていく。わが国における科学的な認識と論理の出発点としての弥生時代は、まだ、しかし、いまでいう科学を認識や論理としてではなく、等身大の触覚値として実感的にとらえていた時代だった。
 守田さんは、焼きものというテクネを、まさにこの等身大の触覚値の地点でとらえ直そうとしているのかもしれない。そして、守田さんの仕事は、当然のように日本の無釉陶器をどのように意識化するかという課題に深くかかわっていくことになる。
 視覚芸術におけるデッサンやフォルムは認識や論理の領域に属し、色彩や質は人間感情であるという、マチスの言葉を借りれば、日本の中心文化を深く身体化してきた守田さんが、土の質を手がかりに、今日的な認識の地点をどのように切りひらいていくか注目されるところである。

堀 愼吉 初出:Art'89秋号(マリア書房1989年10月17日発行)
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■資料室より補足
同じ号に「守田蔵=土に還る道筋」対談●守田蔵+堀愼吉 
収録。この文章はそのあとに続いています。

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