堀愼吉資料室 |
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野の華-- 近世下山大工の彫刻-- 「丸石神」を訪ねて、富士川ぞいの集落を歩いていた時のことである。寺院の天井や軒や欄間を飾る彩色彫刻に、ふと心をひかれた。こうした彫刻は、日光東照宮に代表される近世建築様式の大きな特色となっているもので、格別に目新しいというものではないが、富士川ぞいのそれは、秀吉の霊廟=豊国廟や、家康を祀る日光東照宮の彩色彫刻の押しつけがましい過剰さとは違い、どこか長閑で、野太い貌(かお)をもっていた。 そして私は、かつて身延町下山に下山大工集団という関東一円に名を馳せた集団があったことを知った。この集団の下地はおそらく、京都の文化を積極的に移入し、城下町を形成したという穴山梅雪(十六世紀後半)によってもたらされたのだろうが、下山大工の手になる寺院建築で現存しているもののほとんどは、十八世紀以後のものである。近世建築の大きな流れの中でみれば、十八世紀初頭、八代将軍吉宗によって、幕府の霊廟建築の新造が禁止された以後にあたる。その頃を境に、幕府の宗教政策の重心も、神道から仏教へと移り、それまで霊廟建築などに動員されてきた各地の大工集団が、地元の寺院建築に腕を振るうようになったと推察される。 神社や寺院、あるいは霊廟などの堂宇を彫刻で飾るという近世的傾向が顕著になってくるのは、十五世紀後半頃からのことである。その頃になると、天王寺大工や奈良の法隆寺大工などのように古い歴史をもつ宮大工の集団ではない、新しい工匠集団が、紀州や播磨や近江など、畿内周縁地域に台頭してくるようになる。 紀州天野郷にある丹生都比売(にぶつひめ)神社(一四六九年、室町時代)は、絢爛たる彩色彫刻で飾られる、近世的特色をもった遺構のもっとも早い例であるが、この建築にたずさわったのは、紀州に新しく生まれた地方(ぢかた)大工たちであった。彼らが、なぜ、どのような経緯で、自分たちの身近な神の家を彩色彫刻で飾るようになったのかは、まだ謎に包まれたままである。 これらの彩色彫刻の主題は、ほとんど道教の故事来歴にもとずいた、さまざまな賢者や聖獣などである。「天皇神話の下敷きに道教が強く反映している」という、福永光司氏の説や、彼ら技術集団の信仰の中心が聖徳太子であったことなどを考えあわせれば、中世末の混沌のなかから、地下(ぢげ)の人々の新しい象徴として、道教の図像があらためて浮上してきたとしても不思議ではない。しかし、こうした地下の人々の自発的な創造力によってかちとられたものは、もともと太子信仰に深いつながりのある一向宗への激烈な弾圧をくりひろげた信長や秀吉の手によって、思いがけない方向へねじまげられていく。 中世末の紀州大工たちは、神の家を自分たちの手で新しい装いに飾りたてながら、根来寺や粉河寺などを本拠とする雑賀衆、根来衆の一員として、一向宗徒の王国を紀州に築いていた。しかし、一五八五年、秀吉は、この紀州一向宗徒の殲滅のため、十万といわれる兵力で紀州を攻め、一向宗徒たちの王国は崩れ去った。 中世以来、非農業民や在地民衆のよりどころとなってきたものを叩きつぶすことによって、秀吉は彼らの上に君臨する超越者となろうとした。太子信仰をよりどころに生まれた近世の装飾建築は、秀吉を神格化する豊国廟へと結集され、それはまた家康にも受け継がれて、日光東照宮という人神=家康を祀る霊廟へと完結されていくのである。 甲州下山大工もまた、太子講で統括された技術集団であった。強固な絆で結ばれていたこの集団は、やがて共同体に孕まれた宿命のように、朱印状などをめぐって二つに分裂し、陰湿な勢力争いをくりひろげるようになる。その頃から、下山大工の創造的エネルギーも次第に退潮していったようだ。 身延町下山にのこる大聖寺の天井を飾る一間一花の彩色彫刻や、近在の村々の寺院の軒や欄間を飾る彫刻は、こうした激しい歴史の跡をうかがわすこともなく、長閑で野太い。 地下の人々の間から立ちあがった近世の装飾空間は、権力に剽窃され、その役割を終えた後、ひっそりと村々の暮らしの中に還ったのである。 堀 愼吉 初出:山梨日日新聞(1992年12月20日) |