堀愼吉資料室

恩寵の宿る器--新作にふれて--

 今回の吉田さんの個展のために用意された作品群の全貌に接した時、私はこれまで経験したことのない種類の感動をおぼえた。
 自然から受ける感動とも違い、芸術から受けた感動とも違う。その両方がないまぜられたようなものを目にした時の感動、とでもいうほかないようなものであった。
 マサッチオのフレスコ画、セザンヌの水彩、ルオーの油絵やリトグラフ、マチスのデッサンなど、優れたヨーロッパ芸術には、昇華された人間精神が珠玉のように実っている。人間精神を視覚化し造形化しようとするあくなき試みが、ヨーロッパ芸術の大きな流れとなってきた。私は、そうした造形芸術へのあこがれに突き動かされてきた時を経て、次第に、自分を生んだ風土がはらむ多神論的な世界に深い関心を抱くようになっていた。
 そうした時に吉田さんの仕事に初めて出逢ったのだった。そして、彼が、目にみえぬ混沌のなかから自分の感受性を波立たせるものを、一個の媒介者になりきって取り出すことのできる稀な芸術家であることに気付かされた。
 吉田さんの作物たちは、マサッチオやルオーの作品のように人間的な精神世界を直接的にアピールしてくる性質のものではない。人間はむしろ作物の奥深く身を潜めて、ただ器であるだけだ。しかし、まぎれもなく吉田さんその人の魂と手を通過して生まれた作物たちは、あらゆるものに宿る神のめぐみをいただいて、捉えどころのない深さで、私たちが忘れてしまった恩寵について語りかけてくる。
 中世以来、わが国の焼きものの世界の重心は、人間的な主題を造形することにではなく、自然の持つ生成の働きに対して置かれてきたようにみえる。この生成への重心は、わが風土にはらまれた多神論的世界観やアジア的な宇宙観に分かちがたく結びついている。また、焼きもののテクネには、生成につながる必然がもともとはらまれている。しかし、利休によって、そのことが意識化されて以来、この生成への重心は却って生成をたくらもうとする試みへと傾斜していったようだ。たくらまれた生成は神をあざむくに似て、もはや本来の生成とは無縁のものである。備前の無闇やたらな火だすきのいやらしさ、信楽や伊賀のことさらに流されたビードロ、こうした作品や、作者たちの「土や火の力を借りて、自然の味わいや深さを追っているのだ」という決まり文句には、自然によりかかった嘘らしい厚化粧ばかりが見えすいて、すぐにお里が知れてしまう。
 吉田さんの仕事は、多くの陶芸家が陥っている自然振りや技巧や自己主張とは違う世界に立脚している。自然を含めた外界と、自己と、焼きもののテクネの、どれにもよりかかることなく、それぞれを等価なものとして厳密な距離を置きながら、これらの関係を見事に調和させている。それゆえに、彼の作物は、私たちの意識の外に広がる混沌に新しい光りを投げかけてくる。
 俵さんに伺ったところによれば、吉田さんは若い頃、周囲の陶芸家や焼きものの愛好家たちに馬鹿にされながら、味も素気もないような高台ばかりを頑強に削りだしていた時期があったという。自分の仕事が、日本の焼きものの世界で手垢にまみれてきた〈味〉に流されることへの拒絶を通して、彼はものの本質と必然に迫ろうとしていたのだろう。
 また、荒川豊蔵に師事しながら、長いこと志野を手がけることをせず、「十数年も荒川豊蔵のもとに居て、志野のつくり方さえおぼえなかった」と周囲から冷笑された時期もあったそうだ。右から左へと人真似をして、それが出来たといって一人前の顔をするような連中とは違い、自己への矜持とともに、もっと深い尊敬を師に抱いていた吉田喜彦という人のあり方がそこには見える。以前、「加藤唐九郎の仕事は、日本の陶器の世界の本質に目を向けたもので、なかでもその黄瀬戸はすばらしいと思うが、唐九郎の仕事をどう考えるか」と吉田さんに訊ねたことがあった。彼は「親友の小山冨士夫を裏切って恥じない人間の仕事に自分は価値を認めない」と言い切った。人間や芸術に対して、彼がどのように向き合い、自分の仕事をどのように成就させたいと願ってきたかを知らされる思いであった。
 吉田さんの作物はどれをみても、柔らかくのびやかで、内部から充実した生命が張りつめ、健やかである。彼が自然の生成から受け取ったものが何であったかを語りかけてくる。生成されたものは〈かたち〉の内部に生命を充たしている。力を〈かたち〉の外部にことさらに表したりはしない。自然のことわりにそって〈かたち〉が生まれていくからである。吉田さんの茶碗は、内部から鼓動している。手に持つと、果実を掌にした時のような柔らかな充実感がある。それは、一気につくられたものの持つ力動感や力の充実とは違う。花芽をつけ、花を開き、やがて小さな実になり、次第に充実しながら生命の張りをみせて果実が実るように、ゆっくりと時間をかけて生成された豊かさである。
 白化粧大皿を観てみるがいい。どこにも〈かたち〉を意識的につくろうとしたような突出した力点は置かれていない。中心から外縁にむかって、まるで椿やゴムの葉のように厚みのある柔らかなカーブが、なだらかに外部の空間へとつながっている。従来のおおかたの器皿の形が持っているような、外縁を内側に立ちあげ締めることによって、空間と形の間に截然とした力の磁場をつくろうとはしない。造形を意識した力の磁場を見慣れていると、この始まりも終わりもないような自然な〈かたち〉のなりゆきに、視線のカタルシスを期待する目は見事にはぐらかされてしまう。しかし、じっと眺めていると、その作物から立ちのぼる静かな気高さと、器肌の何気なく重なりあわされた色合いからにじみでる香気が、まわりの空気と融合しながら、ひそやかに呼吸しているのに気付く。それは、事物のなかに眠る恩寵について語りかけながら、〈生成された芸術〉という新しく深い思想を宿して私たちの前にたたずんでいる。
 何気ない河原の転石が美しいように、一枚の木の葉が美しいように、吉田さんの作物は、人間の手を経た美しい生成の秩序である。空間につくられた異物として、ことさらにその存在を際立たせようなどとはせず、目にみえぬ空間と目にみえる世界との間で深い光彩を放つ。そして彼の作物は、自然が生み出したものと同じように、私たちの背後に広がる大きな世界へと隔てなくつながっていく。

                 一九九一年二月二十六日 堀愼吉
        初出:吉田喜彦作品集Ⅵ(ギャラリー華1991年4月17日発行)

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