堀愼吉資料室 |
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甲州の野辺にて「作物のぬくもり」 私は日光東照宮が嫌いだった。 いまでも嫌いだ。 たとえそれが、どれほどの文化遺産であっても、権力や金の力にあかせて人の上にそびえ立つようなものは、好きになれない。 日光東照宮の過剰なまでの装飾彫刻に埋め尽くされた建築を見ると、人間の中にある始末に負えない欲望の正体を突きつけられるようで、辟易してしまう。 それにくらべて、貧しくつつましい暮らしのなかで、人々が長い時間をかけて受け継ぎ、守り慈しんできたものは、たとえ崩れかけた土壁でも、いとしく美しいと思う。 そうした美しいものたちに出逢いたくて、富士川ぞいの集落を訪ねた時のことであった。ふと立ち寄った大聖寺で、本堂の格天井に彫られた一間一花の天井花に目がとまった。 寺院などの天井や軒などを、こうした彫刻で飾るのは近世の建築様式の大きな特徴の一つで、この傾向を集大成したのが、日光東照宮である。しかし、同じ近世の様式を継承した大聖寺の装飾彫刻には、日光東照宮に抱きつづけてきた印象とは違う、なにかしら私たち自身の体温に通じるものが感じられた。私は、その時はじめて、近世堂宇建築への関心を抱いたのだった。 以来、たびたびそこを訪れるうちに、関東一円に名を馳せた近世宮大工集団が、身延町下山にあったことを知った。その後、近世の堂宇建築の出自と消長の足跡をこの目で確かめてみたくなり、その様式の発生と推進に大きな役割をはたした紀州根来(ねごろ)大工の古里、紀の川流域に足を延ばすことになった。 富士川ぞいの集落のたたずまいと、紀の川ぞいのそれとは、東と西の距離を超えて、驚くほど似かよっていた。川べりのわずかな平地に軒を並べる家々。人間の暮らしにのしかかるような背後の山々。濃密な緑におおわれた曲がりくねった道を登ってたどり着く山深い集落のたたずまい。山中深くに壮大な伽藍を並べる久遠寺と高野山。富士川と紀の川は、まるで一筋の川のように私のなかで重なるのであった。 中世まで、寺社などの堂宇建築にたずさわる番匠は、貴族社会の大建築を担った法隆寺大工(奈良)や天王寺大工(大阪)などの限られた大工集団で占められていた。こうした伝統に変化が現れるのは、15世紀中頃からのことで、紀州や播磨など畿内周縁地域に新しい地方(じかた)の宮大工集団が登場する。彼らは、自分たちの氏神の社(やしろ)を、尊い聖獣や聖鳥、中国の聖人賢者、あるいは身近な草花などの彫刻で飾る、新しい意匠を創案した。八百万(やおよろず)の神々の霊力を迎え、宿すにふさわしい意匠をほどこそうとしたのである。 こうした意匠は、やがて下剋上の時代をのぼりつめた秀吉の目にとまり、豊国廟や聚楽第という秀吉の権威を飾る建築へと剽窃され、日光東照宮へと集約されたのであった。 富士川ぞいの大聖寺や慈観寺を飾る彫刻は、こうした流れの先にある。幕府などの大スポンサーからの発注が時代とともに減少し、関東一円に名を馳せた下山大工集団も、彼らの在所へと帰っていったのであった。 耕す田畑にもこと欠く、貧しい川辺の古里で、再び土の香りをとりもどした彼らは、権力者のためにではなく、自らの暮らしと魂の救済をこめて、彼らの創造のすべてを神仏に捧げたのである。 堀 愼吉 初出:NUH(早野グループマガジン1995年7月1日発行) |