堀愼吉資料室

神韻縹渺に至る

 折にふれて俵さんから送られてくる書簡や葉書には、美しい色彩の抽象的な絵がかならず描かれている。ある時は、凧絵やこけしや大津絵や日本の祭りなどのハレの色を連想さすものであったり、ある時は、ド・スタールやポリアコフなど、現代の抽象芸術家の作品世界を彷彿とさせるようなものであったりする。最近では、美しい色彩にかわって、墨の濃淡だけで描かれた梵字のような、南宋画のような、東洋的色彩の強い絵が多くなった。俵さんから書簡や葉書をいただくたびに、私はまず、文面よりもその絵に見とれてしまうのが常であった。
 俵さんと私が知り合ったのは、ある美術雑誌で吉田喜彦さんを取材したのがきっかけであった。吉田さんの作品を観させていただくために、彼の仕事を一手に扱っている俵さんの画廊を訪れたのが最初だった。それまで私は、吉田さんの作品をまとめて拝見したことは一度もなかった。ある陶芸の年鑑を眺めていて、そこに掲載された二百人ほどの作家の仕事のなかに、唯一私の心をとらえてきた不思議な美しさを持った作品があった。それが吉田さんの仕事だった。それからしばらくして、その美術雑誌から、日本の焼きものの世界について連載を依頼された。吉田さんの取材もその連載の中に加えてもらえるならという条件で、私はその連載を引き受けた。
 俵さんの画廊でたくさんの作品を観させていただいた時、彼の作品に宿る深い美しさに、私はあらためて息をのんだ。一般にいわれている陶芸の世界を、それははるかに超えていた。奥高麗や長次郎や光悦茶碗のなかに一度は結晶したことのある世界が、もっとさりげなく、深く宿っていた。といっても、現代茶陶の嫌らしく手垢にまみれた美意識とはどこまでも無縁に、何事かを静かに問いかけてくるような大きな世界が孕まれていた。現代のように、芸術の世界ですら、表面的な新しさを追った、鬼面人を驚かすような仰々しいものや、痩せ細った自我を押しつけてくるものや、古陶の再現ができたと得意になっているものや、声高な拡張主義的な仕事などが氾濫している時代に、静かに、しかもきっぱりと、こうした動向を拒絶した仕事が生き残っていたことに、私は感動した。よほどの知性と忍耐と絶えざる思索がなければ、吉田さんのような仕事が、現代に生き残れるはずがなかった。
 同時に、そういう作家を見いだして、他のものには目もくれず一途に、吉田さんの成長と歩みを共にしてきた俵有作という人物にも、私は強い好奇心を抱かされた。まだ若かった無名の作家に、自分の芸術的信念を賭けることのできる画商など、それまで私は会ったこともなかったからである。
 それにしても、俵さんの画廊も不思議な画廊だった。よく街でみかける画廊や骨董屋のように、金持ち以外には用がないといわんばかりに美術品を仰々しく飾りたててはいなかった。しかも、どこの博物館や美術館に行っても、ざらにはお目にかかれないような古今東西の見事な美術品が店いっぱいに雑然と置かれていた。中国や朝鮮や中近東などの美術品に混じって、吉田さんの作品もあった。ルオーやマチスやタピエスなどの、もはや手に入れがたい版画集などもあった。そんななかで特に私の目をひいたのは、普通、画廊などであまり目にすることのない、アフリカやアジアのプリミティブな美術品がたくさん置かれていたことであった。雑然と置かれた、こうした美術品のすべてに、ある種の高い美意識が貫かれていた。その美意識は、日本の骨董などの世界でいう、いわゆる「目利き」というのとは違っていて、創造する者の生き生きとした美へのまなざしを感じさせるものであった。
 昔はともかく、いまの骨董の世界の目利きというのは、商品としての市場価値と、すでに価値基準が定められた美術品の真贋や、その来歴が確定できる眼のことをいい、実際はそれすらも怪しいという場合のほうが多い。本当の目利きなどという人物など、めったにいるものではない。世間で通っている多くの目利きの場合でも、美術品に対する知識を詰め込み、ただ闇雲に美術品を見てきただけの者が大方である。彼らは、既成の美的規範に則して美の価値を計るのであって、決して自ら美の価値を発見するわけではない。俵さんは、無論、秀れた目利きの面も持っているが、それだけではない、美の価値を自ら発見することのできる眼も併せ持っているように思えた。
 俵さんは、私などの想像もおよばぬほど、古今東西の秀れた美術品に出逢っている。無論、美術商という表向きの仕事柄、それらのものは、俵さんのもとを通り過ぎて人手に渡ったり、公的な博物館や美術館に納められたものも多い。しかし、俵さんが秘かに自分のために手元に置き続けてきたものもある。それらの多くは、アジア、アフリカ、あるいは中南米などのいわゆるプリミティブアートといわれているものである。こうしたものには、現在一般にそれほどの市場価値があるわけではない。金銀財宝で飾られていたり、王権を飾るために技巧をこらした精緻な完成度を示したものでもない。一見すれば、単純な形の彫刻であったり、素っ気ないような造りの箱であったり、布であったりする。それだけに、第一級のプリミティブアートの真価は、創造の本質が理解されていない眼にはとらえがたい。美術品を単なる株券や経済的資産としてしか考えない者からみれば、何の価値にも値しないと思うようなこうしたものの中にこそ、美の原点ともいえる不思議な美しさが宿されている。人類の歴史が新しくなればなるほど失われていった貴重な美の種子、美の原基が生きているのである。
 「人類が遺してきた美の遺産のなかには、想像を絶する世界を孕んだ不思議な美しさを宿したものが際限もなくある」というのが、長年、美の遺産と接してきた俵さんのいつわらざる実感のようである。もうこれ以上深くて美しいものには出逢えないだろうと思っていても、また次には想像を超えるようなものに出逢って、美的価値観を塗り直されるという経験の連続だったという。だからといって、誰もがそのように美の世界をたぐりよせることができるわけではない。美の本質をみとどける力を持ち、芸術的創造物への深い敬意がない人のところには、決してそうしたモノも寄りついたりはしない。俵さんを知るにつけ、美術商という貌(かお)の裏からのぞく創造者の魂を私は感じるようになっていった。
 俵さんは、若い頃、画家を志した時期があったという。当時、血気盛んな志しに燃えていた俵さんは、本来創造行為とは関係ない情実や、複雑な人間関係に支配された画壇のあり方に疑問を抱くようになり、そういう狭い枠の中では、かえって自分の美的信念をねじ曲げられてしまうと考えたのだろう。抱いた志しをより生かすために自ら絵筆を折ってしまった。
 創造の現場にいると、ついつい近・現代の創作活動に意識が集中しがちになる。特に近代以後、美術の世界が進歩主義的な美術史観に支配されていたからなおさらである。表現というものは、同時代の思想や美意識とは切っても切れないものだから、美の価値をはかる時、いきおい近視眼的に偏ってしまう。しかし、美的本質からすれば、それはいかにも狭いものである。既成の価値基準でははかることのできないところに創造の本質があるとするなら、すべてに疑いを持ち、すべてに白紙で向き合って美の本質を問い続ける、こだわりのない確かな眼と自前の美意識が必要となる。時代が大きく変わりつつある時には、そのことは一層重要である。
 また、視ることが、造ること以上に、創造につながっていることを自覚していない作家があまりにも多い。彼らは、何かを作ってさえいれば、何かを創造しているつもりになって、自己満足に陥ってしまう。作っていることが、かえって創造の本質を見えなくしてしまうのだ。
 確かに、一つの象(かたち)として生みだされる美的創造物には、手を通して思索し続けなければ獲得できない世界もある。しかし、同時に、ものを視とどける力がなくては、新しい創造的世界を獲得することはできない。絵を描くことは誰にでもできるが、美の本質を視とどける眼を持つことは、誰にでもできることではない。美の創造とは、本来そうした眼を持った人間から生みだされるのではないだろうか。
 俵さんは、画壇という世間から離脱し、出家することで、狭い美術界の視野から一挙に解放された。そして、既成の価値観から離れ、己を虚しくして美の本質をみとどける白紙の眼を獲得する道を選んだ。その時から、彼の前に、人類の遺した広大な美の世界が開け、俵さんの美への遍歴が始まったのである。
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 絵筆を折って三十余年、人類の美の遺産と吉田喜彦という作家を通して、美への遍歴を続けてきた俵さんは、七~八年前から再び少しずつ絵を描きはじめる。油絵具やリキテックスでカンバスに本格的に向き合った作品もまれにはあるが、広告や印刷物の裏や余白に描かれた、小さなエスキースがほとんどである。
 カンバスに描かれた比較的大きな作品は、一枚のタブローとして自律さそうとする意識が強く働きすぎるためか、あるいは油絵というメチエに思念が追いついていかないのか、絵を超えて、俵さんの視た独自の世界が十全に表現されているようには見えない。それにくらべて、手すさびのように、そのあたりにある紙切れに描いた小さなエスキースには、俵さんの視た美しい夢の断片がさまざまにちりばめられていて、観る者の心に香り高い風を吹き込んでくる。
 送られてくる手紙に貼られたものや、菓子箱などに無造作に詰め込まれた数知れない彼のそうした作品を眺めながら、私はまるで色で描かれた短詩のようだと思った。一行の短詩のなかには、秀れた長編小説もとてもかなわない深い真実がこめられているものもある。俵さんの色彩の詩には、その時々の想いや息づかいが見事な色彩のバルールとともに、のびのびと自在に定着していた。画廊の片隅の小さな机の上で、子供の使い古しの水彩絵具を使って、日記でも書きとめるように描き続けてきたものからは、俵さんが視続けてきた美しいものたちのさまざまな言葉が聞こえてくるようだった。たかだか五センチ平方にもみたない小さな作品たちから、深い透明な音色がこだましてくるのだった。
 俵さんの魂をよぎっていったものを、色彩という光に換えて描きとめる作業が五~六年続いた後で、この一~二年、彼は全精力を傾けて、強い緊迫感を伴った仕事に集中しはじめている。
 最初は墨の飛沫から始まった。
 墨を含んだ筆が空間をきって振り下ろされ、濃淡の墨色の飛沫が生命のほとばしりのように画面に走り、飛沫は気韻そのものとなって生命の穂先となる。気そのものを写し取るというきわめて東洋的な世界に、一気に足を踏みこんだのである。何百枚というはてしない試みが続き、白い紙の上に飛沫にたくして思念と気とを思いのままに描きだせるようになったころ、俵さんの腕は動かなくなった。何者かが休息を命じたのである。あとには、縦横に走る飛沫の、みずみずしい生命の踊る世界がのこされた。
 作品集『茫茫』におさめられた作品群は、休息の後あらためて始められた仕事である。ここには、気韻に充ちた書とも南宋画ともつかぬ新しい墨象の世界が展開されている。
 中国、漢の時代に萌芽がみられる山水図は、後漢の時代に紙が発明され(和帝の元興一年=西暦一〇五年)、その後、魏・晋時代に、秀れた書家や文人画家や思想家が輩出して、東洋独自の自然観と宇宙観を反映しながら、水墨画の世界のなかで花開いていくことになる。この水墨画の誕生には、筆による書の発生が分かちがたく結びついているようだ。筆による線を主体にした書は、さまざまな動線のもつ表現力の可能性が知性や精神と結びついて、中国美術の大きな特色の一つとなっていく線描を発展させ、筆による白描から水墨画の表現への道筋が創造されるに至ったと考えられている。
 水墨画は、専門の職業画家ではない人々によって創造された。彼らは「士大夫」と呼ばれる高い知性をそなえた有識者や文人・宗教家などで、気動する内なる精神を写しだす手法として水墨画の世界を創造していったのである。中国の絵画は、彼らの手によって初めて高い精神性を獲得し、詩や書に与えられていたと同じ芸術的尊敬を受けることになった。
 初期の水墨画では、描く者の自然観や精神のありようのままに、それぞれ個性的な描法が自在に試みられ、さまざまな水墨画独自の技法が生みだされていく。墨のにじみや広がり、濃淡や明暗、さまざまな墨線や点、これら水墨画を特色づける表現方法は、唐代に入って中唐の王墨をもって始まるといわれている。そして、江南の地に、新しい水墨画風が確立されていくのである。
 水墨画を創始したと考えられている王墨や、その志しを継いだ江南の水墨画家たちには、さまざまな放縦酔狂な伝説が語り伝えられている。酒に酔い、頭髪に墨をつけて描いたり、墨を撥ねとばしたり、手で塗りたくったり、掃き散らしたり、落花狼藉の限りとみえるような放逸な作画態度で見事な水墨画の世界を現出してみせたとか、墨汁を絹の上にこぼし、その上に絵具や水をまき散らし、大きな筆を縦横無尽に走らせて、重畳たる山岳の世界を描出したとか、枚挙にいとまがない。それはあたかも、当時の職業画家たちが細心の技巧をこらして、宮廷の求める画題の描写に汲々としているのを、哄笑するかのような態度だった。彼らは表現の巧拙よりも、彼ら自身の内奥の表現衝動になによりも忠実であろうとした。
 こうした逸話をみると、第二次大戦後の現代美術が、それまでの絵画技法の規範をかなぐり捨てて、オートマチズムやドリッピングや偶然性などを大胆に手法化して、絵画的常識を打ち破る新しい世界を創出していったのと変わらない。その試みのすべては、すでに水墨画の草創期に行われていたのである。ヨーロッパの絵画的伝統が二千年の歳月を経てたどりついた世界に、東洋では千年以上も前に目覚めていたのである。
 南宋の時代になると、馬遠・夏珪・牧谿・玉澗などの禅僧画人が登場し、水墨画の頂点がきわめられる。彼らの作画は、禅の思索と一体のものであった。気宇壮大な宇宙的自然がみせる気韻生動と、人間の生命活動の根源を流れる気韻生動との宇宙的合一をはかろうとするものであった。宇宙的自然と照応する精神活動として人間の生命がとらえられた時、最も東洋的特色をもった絵画的世界が創出され、完成されていったのである。
 平安から鎌倉時代にかけて、中国に渡った僧や、中国から渡来した僧たちによって、水墨画はわが国にももたらされ、以来、雪舟や大雅、新しくは鉄斎や浦上玉堂へと受け継がれた。しかし、わが国にもたらされた時には、草創期の水墨画にあった始原のエネルギーは、自然の生気を写しだす絵画様式へと安定していたのである。
 草創期の水墨画は、いま誰も観ることができない。遺された一枚の実物も無く、ただ詩人や後世の人々によって語り継がれているだけである。
 俵有作さんが、なぜ突然、墨象の世界へ飛翔したのか、私にはわからない。しかし、彼が水墨画の草創期に試みられたさまざまな表現の原像を引き寄せるかのように、もはや色とも光ともつかぬ広大無辺の茫漠たる世界へと足を踏み込もうとしているのは確かだ。人類のさまざまな美の世界を逍遙したあげくに、もう誰もが見ることのできなくなった世界にせまっていく。いま俵さんによって、東洋が生んだ独自な墨象の世界の原像が明らかにされようとしている。彼は、水墨画の定型化された表現などは無視して、草創期の水墨画の精神に里帰りするかのように内奥に沸き上がる衝動を自在に墨色にたくしていく。澄みわたる美しい世界を見とどけるために、自我への執着をかなぐり捨て、純粋な生命活動そのものの速度でおびただしい墨象を描き捨てていく。俵さんは、自己を放下し続けながら、神韻縹渺に至る道に歩み入ろうとしているのである。
 水墨画が興った中国江南の地は、日本人のルーツの地の一つと推定されている。俵さんの細胞の中にも、江南の人々の細胞と同じ生命の象(かたち)がひそんでいるのかもしれない。私たちが忘れ去って久しい精神の営みが、俵さんの手によって新しい相貌に生まれかわり、甦ろうとしている。そこには、現代世界がいま一度立ち止まって想いをこらしてみなければならない、重大な契機が孕まれているはずである。
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 俵有作さんと親交の厚かった芹沢銈介氏や猪熊弦一郎氏がご存命ならば、現在の俵さんの創作について、もっと深く端的に語られたはずである。私などには、とうていその代役がつとまるとは思えないが、俵有作さんの目指そうとしている世界への共感と尊敬のみを道しるべに、何とか俵さんの歩んで来られた道をたどろうと試みた。『茫茫』におさめられた作品にこめられた俵さんの精神に少しでも触れ得ていれば望外の幸である。
                 一九九四年二月一六日   堀 愼吉

      初出:俵有作作品集『茫茫』(用美社1995年4月15日発行) 

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