堀愼吉資料室 |
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装飾雑記-- 神・人・装飾 -- *蓮弁の瓦 過日、陶芸家の辻清明さんの工房を訪ねたときのことである。外国の日本美術研究者とたまたま同席する機会があった。彼の日本文化に対する造詣の深さが並みのものではないことは言葉の端々にうかがえたし、秀れた美的感受性の持ち主のようでもあった。特に飛鳥白鳳の美術に心酔していて、その時代の遺物の収集にも熱心な様子だった。 その時も、彼の鞄のなかから、新しく収集したという飛鳥・奈良時代の陶片が、私たちの前に次々と開陳された。桐箱や透明のプラスチック容器から、奈良緑釉皿の深いグリーングレーの陶片や飛鳥の古寺跡から出土したという瓦片を、宝物のように取り出す手つきが微笑ましかった。飛鳥古寺の瓦片は、たかだか一〇センチ角のものだったが、瓦の表にくっきりと蓮弁の線刻がほどこされていた。 仏教がわが国に伝来したのは六世紀の初め頃とされているが、伝来とともに寺院建築も移入され、百済の建築様式にのっとった寺院が飛鳥につぎつぎに造られたという。わが国の建築に瓦が登場するのも、この時代の寺院建築からで、寺院建築はまさに、新しい時代を告げる新しい意匠をもって登場したのである。 瓦の表(上)面にほどこされた線刻画は、大阪・四天王寺講堂跡(飛鳥時代)から出土した牡瓦の残欠の上面に刻まれた仏画や、牝瓦の裏面に刻まれた巴文などにもみられる。しかし、これらの線刻画は、瓦屋根の前面を飾る鬼瓦・鐙瓦・宇瓦(のきがわら)にほどこされた蓮華文や唐草文などと違い、人の目のとどかない場所にひっそりと刻まれているのである。 蓮弁の線刻をほどこした飛鳥の瓦片を前に、彼が興奮して語るまでもなく、それは気高い優美さで、同席した人々を感嘆さすに足るものであった。私も思わず、蓮弁の模様をほどこした瓦を敷きつめた当時の寺院の屋根を想像した。人の目ではなく、天の目に向かって、一枚一枚の瓦に蓮弁の模様を刻んでいる工人たちの姿を想像した。そこには、装飾というものに対する、人間の内にある本源的な発露があると思った。 「造形的表象は、あるものを崇拝する人間が、強力な、しかし手に触れることのできない自然の力との接触をはかるために必要とした崇拝対象から発している」(ロジャー・ヒンクス『古代芸術のコスモロジー』平凡社刊)という言葉を借りるまでもなく、わが国においても、この飛鳥の瓦片のように、古代の人々は、装飾を神との通路にほどこしたのである。この時代、仏教はまだ充分に新鮮で神聖で、人々の神話的想像力をかきたてる力を持っていたのだろう。 このような寺院の装飾のモチーフは、外来のものがほとんどで、いうまでもなく仏教と分かちがたく結びついていた。しかし、仏教が独占している図像ばかりともいえない。例えば、当時、世界的な流行をみせたというパルメット文様(忍冬唐草文)の出自はエジプトに求められ、それがギリシャ・ローマ・西域を経て中国・朝鮮にもたらされ、ついにはわが国に渡来するという経路をたどっている。最近流行のシルクロード物語の文様編といえるものの一つである。忍冬(すいかずら)は冬でも緑の葉をつけた植物で、常葉信仰の対象植物として、生命力や不老不死を象徴する瑞草とされている。この文様の世界的な伝播は、生命力や不老不死を願う人間普遍の心意が背景になっていたに違いない。 *図像学と美術史 日本の焼きものに関心を持っている私は、旅行に出ると地元の美術館や資料館を訪ねて、縄文から中世あたりまでの焼きものの展示物を眺めるのを楽しみにしている。会津若松を訪ねた機会に、東北地方で縄文と弥生がぶつかる様子をこの目で確かめたいと考え、早速、歴史資料館に足を運んだ。 期待にたがわず、展示された縄文式土器や弥生式土器には、私の想像力をかきたててくれるものがたくさんあった。特に、畿内や九州など西日本で出土する弥生式土器と著しく印象の異なる弥生式土器の名品がたくさん並んでいるのに感激した。そのなかに、どう見ても、直弧文としか考えようのない文様がほどこされた弥生式土器があった。私には、直弧文は古墳時代のものという思い込みがあったので、虚をつかれたが、銅鏡のなかには直弧文のほどこされたものがあり、わが国に金属器が伝来したのが弥生中期頃というのであれば、弥生式土器に直弧文がほどこされていても驚くにあたいしないのかもしれない。しかし、美術史や考古学の本を見ると、銅鏡も埴輪も装飾古墳や石棺も、直弧文のほどこされたものはすべて古墳時代というキャプションがついている。弥生や古墳時代のことは、学問的に解明されつつあるといっても、まだ、ほとんどフィクションの域を出ていないことの方が多いのだろう。 白昼堂々と、東北地方で発掘された直弧文をほどこした弥生式土器が展示されているのに、『東北・弥生中期の土器の直弧文と、九州・装飾古墳石棺の直弧文についての考察』などという興味あるテーマの論文の存在を寡聞にしてまだ目にしたことがない。パルメット文様についてみても、それが日本に伝わってきてどのような変化をとげたか、また世界各地ではどのような地域的特色を持つようになったか、その理由はどこにあるかなどという分析や比較検討も充分ではないようだ。日本の文様デザインについて何か語ろうとすると、まだほとんど体系的知識を得ていないことに突きあたってしまうのである。 もう十数年も前のことになるが、私がある航空会社のPR誌の編集をしていた時、当時、東京国立博物館の考古室長をされていた杉山二郎先生に、『世界の飛天の系譜について』の連載をお願いしたことがあった。博学で鳴らす杉山先生は、すぐにその話に乗ってくれて、身辺の資料を渉猟して連載を始めてくれた。しかし不幸にして、そのPR誌は当の航空会社が関与した大きな社会的事件をきっかけに廃刊となり、連載も一回だけで後は日の目をみることがなかった。 最近になって、さかんに図像学ということがいわれるようになった。日本の美術史やデザイン史を考える時にも、造形的意匠の変遷や重要文化財などの意匠をたどるだけでは見えてこない基本的で重要なテーマが、さまざまな図像のなかにかくされているのではないだろうか。人類学・考古学・民族学・歴史学など学際的な研究成果にもとずく、本物のわが国の美術史の体系をもてるようになるには、まだ当分時間がかかるように思う。現在までのところ、わが国の美術史は、貴族社会や徳川幕府のような権力機構のなかで生みだされたものを主体に、ほとんどの文脈が形成されている。 例えば「日本の」といっても、それは本来、普遍性を欠いている。普通の人々のなかで、造形的表象がどういうかたちで受け止められていたかということが、ほとんど問題にされていないからである。銅鏡について、美術史家の多くは「平安時代に外来の意匠から離れて次第に和様化されていった」と解説する。平安時代に入ると、貴族たちの身辺の経箱や手箱などに、彼等の趣味を反映した華麗な装飾がほどこされるようになった。その文様も神仏の世界をつかさどる想像上の瑞鳥・瑞花・聖獣などではなく、次第に現実の草花や鶴や雀など、目に見える世界のものになってくる。こうした動向に対して、和様化という言葉があてられているようだ。しかし、単に当時の一部支配階級の趣味を反映し始めたものを、本当の意味での和様といっていいかどうかは疑わしい。普通の人々の美意識が、美術史に取り上げられるようになるのは、ほとんど近世になってからである。歴史学の分野では、昭和四十年代頃から、ようやく中世の民衆世界にも光りがあてられるようになってきたが、造形的表象について考える場合にも、もっとそうした視点を持つことで、日本の美術史を書きかえていく必要があるのではないかと私などは考える。 *神の手から人の手へ わが国の金工の歴史をみた時、金属器が伝来してきた当初のわずかの時期をのぞいて、金工の造形物が本当に人々に共有できるものになるまでに二千年以上の時を経なければならなかったようにみえる。金属という素材が、いたって文明的な性格を持っていたことにも起因しているが、金工は支配階級にかたよった位置を占める傾向にあったようだ。 弥生時代に渡来した頃は、それを手にした部族の集団がまだ小さかったこともあり、部族内の共有の物神、神の依代としての役割を充分にはたしていたものと考えられる。しかし、部族間の戦いにおいて、征服者が被征服者から略奪し集めたといわれる銅鐸(部族のシンボル)がそうであるように、神の表象、神の依代であったものも、やがて征服者たちの表象になっていく。銅鏡は、天照大神の地上の表象として大和朝廷の表象に祀りあげられ、仏教仏具、太刀や武具も、神仏と外来文明の虎の威を借りようとする支配階級の物神としての役割をかためていくことになった。 以前、このINAXのブックレットで『大工彫刻』を取り上げた時、そのなかで私は和歌山の丹生都比売神社の装飾彫刻に言及したことがある。 丹生都比売神社は、その名が示すようにおそらく金属神を祀ったものであろう。〔丹〕は鉄の酸化物(辰砂)のことで、水銀として金属の精練や合金に利用された。また、縄文から古墳時代にかけては、〔丹〕は神威を示す呪術的色彩として、壷や石棺を赤く彩った。血の色をした赤土から金属が生まれることを知った人々は、その〔丹〕を神として祀り、そこから生まれた金属を物神とし、神の依代として銅鏡などを祀るようになった。人間を超えた不可視なものへの畏怖に替わって、文明そのものが人間にとっての神となったのは、その時からだといえるのではないだろうか。 この丹生都比売神社の神宝のなかに、平安末期から鎌倉中期頃までに作られた五振りの太刀がある。これらの太刀は、この時代の金工装飾の粋を集めた、金工史上の逸品で、当時、台頭してきた武士たちが、平安貴族たちの儀仗をまねて吉時に兵仗として腰にさげた刀である。その拵えは豪華なもので、獅子や牡丹、浜松に鶴亀を配した蓬莱文、唐草透し彫りなど、近世大工彫刻の装飾文様にさきがける金工装飾でおおわれている。 同じ鎌倉時代のものといわれている奈良・春日大社の神宝の武具は、兜・籠手・胸板などを胡蝶や菊花などの飾り金具でびっしりと埋めつくした豪華なものである。そこには、神の威力を借り、神仏の加護を願う鎌倉武士たちの神人合一への気持ちが表れている。 室町時代に入って、紀州や播磨の地方(ぢかた)大工たちの手で、装飾彫刻をほどこした神社建築が造られるようになって、装飾はようやく一般民衆にも身近なものになってくる。しかし、そうだからといって、ただちに装飾が民衆の日常や生活意識と一体化したわけではない。それは、あくまでもハレのものであり、神にせよ仏にせよ、あるいは支配階級へのあこがれにせよ、日常から離れたハレの権威のシンボルとして機能していた。 こうした機能を、秀吉や家康という新しい支配者たちは徹底的に活用する。巨大な権力と財力を駆使して、装飾によって彼等の体制を修辞する。その修辞の極みの表象として、聚楽第や日光東照宮が人々の上に立ちあがるのである。天皇神話の源流となった道教の図像を剽窃しながら、家康もまた、人神(ひとがみ)の神話を形成すべく装飾で埋めつくされた霊廟に身を横たえるのである。 *空虚な欲望のレトリック 装飾や装飾文様から、そこに付随した寓意や意味の効力がうすれ、単なる視覚的文様と化した時、やっと文様にも自由が訪れる。しかし、その自由も、天のまなざしへの畏怖から解放された空虚な欲望のレトリックにすぎないのかもしれない。それが、神を失った私たちの宿命だとすれば、私たちは空虚なレトリックのなかに充足を求めるしかないのであろうか。 いま、建築空間の装飾的要素が意識されているという。また企業は、コーポレート・アイデンティティのイメージ形成をはかり、差別化に力を入れようと躍起になっいる。シンボルマークやロゴマークを新しくする傾向にあるのも、その現れといえよう。こうした動きが、例えば新興宗教の人の目をあざむく社殿のように、日本の金権企業国家の神話形成へと流れていかねばいいのだが……と思いながら、装飾の裏側にほのみえる人間世界への恐れに、私は脅えるのである。 堀 愼吉 初出:錺師の技(INAXブックレット1989年11月6日) 掲載誌 INAX BOOKLET Vol.9 No.2 表紙 |