堀愼吉資料室

 珠洲古陶--たまごもる黒い器を訪ねて--

 中野錬次郎先生、お元気ですか。
 奥能登への珠洲古陶探訪の折には、たいへんお世話になりました。
 珠洲古窯跡の発見者であり、中世珠洲焼きが世にでるきっかけをつくられた先生直々に、古窯跡をご案内いただき、身にあまる光栄でした。
 ありがとうございました。
 能登への旅以来一ケ月、私の珠洲古陶めぐりは、何かに導かれているかのように、いまだに続いています。
 珠洲焼きの現代作家、小野寺玄氏。
 国際的な活躍をされている日本の代表的陶芸家、辻清明・協夫妻。
 中世陶と珠洲古陶の権威、国立歴史民俗博物館の吉岡康暢教授。
 『平安地下陶器』という著作をものにされている小野忠弘画伯とご子息の収集品など……。
 それぞれに珠洲古陶とかかわりを持ってこられた方々を通して、その奥深い不思議な魅力へといざなわれた毎日でした。
 あまりにたくさんのものを一度に見過ぎたためでしょうか、まだ、目にした珠洲古陶の数々が頭のなかで渦巻くばかりで、いささか消化不良をきたしております。
 そんなわけで、先生へのお礼を申し上げるのも、すっかり遅くなってしまいました。ご無礼をおゆるしください。
 凝灰岩の崖をくり抜いてつくられた巨大な西方寺窯跡。窯跡の周辺に無数に散らばった陶片。窯場のあった集落の美しく静かなたたずまい。
 そんなことを思い返しながら、この筆をとっていますと、いまでも中世の陶工たちが、新緑に包まれた能登の自然のなかで、大甕の紐づくりや叩き締めに無心に取り組んでいるような錯覚にとらわれます。
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 私は、中世珠洲窯の作物を最初目にしたときの衝撃をいまだに忘れることができません。わが国を代表する焼きものの数々が展示されているなかで、珠洲古陶は、六古窯の名品などと肩を並べてひときわ異彩を放ち、光悦茶盌の鋭い緊張感にもたじろぐことなく、堂々と立っていました。私は、この不思議な黒い焼きものの前に釘づけになったまま、しばらく動くことができませんでした。
 十二世紀の三樹文壷だったでしょうか。器体いっぱいに稚拙な樹木が大胆に線刻されていました。その隣には、口元に櫛がきの波状文をほどこした大壷が、器体を叩き締めたままの条線痕をきわだたせて並んでいました。
 彼らは、還元焼成でいぶしだきにされて黒々と焼き締まった土の肌に、日本の焼きものがたどってきた縄文以来の長い時間を凝縮し、豊かに染みこませているようでした。そして、なんの技巧的ごまかしも、てらいもない、この壷たちは、私にさまざまな問いかけを静かに投げかけてきたのでした。
 そのとき以来、私の脳裏には珠洲古陶が焼きつき、私の想念の庭に黒い陰影をみせて住みついてしまいました。
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 中野先生、それにしても珠洲古陶は見れば見るほど、ほんとうに不思議な焼きものですね。
 縄文も弥生や須恵も土師も、あるいは能登半島に流れ着いた大陸や半島のものも、そして常滑や渥美までも、その条線のひだのなかに吸いこんで、何ごともなかったかのように、みごとに珠洲という焼きものになりきっている。
 唐突な感想になりますが、縄文土器の作者たちが女性だったという説にならえば、珠洲古陶は男性的作物としての特徴をそなえているようにうかがえます。縄文土器を男がつくれば、珠洲のようなものになってしまうのではないかという空想にさそわれます。
 縄文の作者たちが呪文を口ずさみ歌いながら、リズミカルに器体に文様をほどこしていったという説があることを、千個以上もの縄文の壷の復元にたずさわった釈迦堂遺跡博物館(山梨)の小野学芸員に伺ったことがあります。そういわれてみると、縄文の呪文文様は、それぞれ反復するリズムにのっとって形成されたような運動形態が認められます。
 こぎん刺しや、いろいろな編みもの・織りものに、黙々と集中する女性の姿を思い浮かべたとき、彼女たちの血のなかには、この遠い記憶がこだましているのではないかという気さえしてきます。
 珠洲古陶のことに話をもどすと、器体にみられるリズミカルな条線痕は、須恵器の技法の流れをくむものといわれています。しかし、器体を叩き締めながら成形するという、同質の方法がとられてきた須恵器や弥生土器とは、ずいぶん印象が異なっています。須恵や弥生は、もっと形がシンメトリーに整えられて、静的なイメージを持っています。
 珠洲の器体に一面にめぐらされた叩き板の条線痕は、無骨でダイナミックな力動感にあふれています。それは、野山や海を獲物を求めてかけめぐる民のイメージにつながります。
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 最近の研究によれば、珠洲の作者たちは、荘園に所属する百姓で、主に農閑期の副業としてこれらの焼きものがつくられた、と考えられているようです。
 珠洲古陶にみられる不思議な技術的停滞性(これは珠洲に限ったことではなく、日本の焼きものに共通してみられる性格でもある)や、その作行きの一見いかにも野放図にみえるところからも推論されたことではないかと思います。
 しかし、彼らが実際に農業をしていたかどうかは別にして、これらの仕事は百姓仕事の片手間のものとは思えません。ものづくりに、ほんとうの心得がある工人や芸術家なら、珠洲の焼きものばかりでなく中世の日本の焼きものが、ただ片手間の副業で成り立つような生やさしい仕事でないことは、容易に想像できるでしょう。
 農閑期といえば、冬。現代のように暖房設備があるわけでもない中世に、土も凍る能登の厳しい季節を中心に、焼きものづくりが行われていたとは考えにくいのです。耕地が少なく、兼業が可能だったとしても、主体はあくまで焼きものづくりという工人の存在が中心になっていたのではないでしょうか。
 中国や現代の製品を見慣れた目からすれば、珠洲の甕や壷は一見、稚拙な印象を与えます。しかし、こうしたプリミチーフな力動感、ふっ切れたように堂々として豊かな形態感、リズミカルに躍動する叩き締めの条線痕、そして、細部にわたるまで何の技巧的ごまかしもほどこさずつくり放つ自信に満ちた仕事、これらは、力量のない人間の手ではとうていかなわぬものです。しかも、そのうえで作り手のなかに、自分がつくろうとしているものに対する独自な精神世界と明確な価値観の下敷きがなければ不可能です。
 ものづくりというものは、無心を離れて人の目を意識したとたんから、人間世界の限界に封じこめられて、やせ細ってしまうという宿命を持っています。おそらく、現代の数ある陶工のなかでも、これほど堂々として、自由で、豊かな造形ができる作家は、ほとんどいないというのが実情ではないでしょうか。
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 それにしても、この黒い焼きものが、十二世紀から十五世紀にかけて約四百年あまりの間、能登半島の先端で焼かれ続け、太平洋岸で同じ時期に勢力を持った常滑の流通圏をカバーするかたちで、北陸から東北・北海道にわたる日本海側に広く流布していたことには驚かされます。
 また、これらの地方で見つかった珠洲古陶の多くが、真言や天台の寺領から骨壷や埋葬甕として出土したというのも示唆に富んでいます。
 彼らの流通圏を眺めていると、縄文土器のたどった経路と、どこか重なってみえ、見えない縁(えにし)でつながっているような気さえします。
 縄文時代、土は、生命を育み再生するものであり、生きとし生けるものの胎内であり、生命の器であったのでしょう。そして、あのおびただしい土器たちは、この願いを形にしながら、死者たちやさまざまな種子の霊魂を再生するためにつくられたに違いありません。
 人間を超えた、見えない力への畏怖の祈りをこめて、彼岸とこの世と、自然と人間との境界に置く、たまごもる器を一万二千年もの間つくり続けたのでしょう。
 山岳信仰などの始源的な信仰感情を習合しながら日本化していった真言密教にも、こうした心意は色濃く受け継がれていたはずです。そういえば、中野先生に無理なお願いをして連れていっていただいた金蔵寺にも、役の行者やカラス天狗像など、山岳信仰の遺物が本堂の暗がりに置かれていましたね。
 自然がはらむ闇の意志そのものへと変成したような、珠洲の黒い器もまた、人間の傲慢の手のとどかない、すべての始まりである混沌の地中深く、死者たちを連れもどすためにあったのでしょう。
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 私は、日本の焼きもののなかを流れている独特なありようは、土に対するかかわりのあり方に根ざしていると考えています。
 いうまでもなく、日本の焼きものは、たとえば、玉(ひすい)を再現しようとしたといわれる中国の青磁や、白磁や、染付けなどの、いかにも人工的な完成をめざしたものとは、本質的に違うものを持っています。中国のそれらが、人間の視覚的な快感や造形的快感へと集約されていくのに対し、常滑、信楽、備前、珠洲などの、土の肌をそのまま生かした日本の焼きものは、土そのものを自律させようとする強い志向性を持って、あくまでも、人工に傾斜していくのを拒んでいるかのようにみえます。土は器をつくるための単なる材料(中国や中近東の焼きもののように)ではなく、それ自体が自律した生命体であったわけです。
 日本の焼きものの世界の底流にある、この無釉陶の流れは、単純に彼らの技術的創造的停滞性として片づけられる問題ではありません。むしろ、これからの文化や人間のことを考えるうえで、貴重な示唆をはらんでいるのではないでしょうか。
 珠洲古陶を見ても、四百年の間、ほとんど技巧的競合性がみられず、技術的展開もとりたててありません。これは、いまの時代の人間からすれば、とても信じ難いことです。四百年の間、誰ひとり、器の形や機能に新しい展開を試みる者がなかったというのは、いったい何を意味しているのでしょう。
 むろん、吉岡教授の『珠洲年代編年』を見れば、形態的変遷があったことが認められます。しかし、これらは、創造的な自発的展開と呼べるほどのものではありません。また、技術的にも、条線彫刻をほどこした板で器体を叩き締めるという成形技法は、須恵器のそれから受け継がれたままです。
 こうした技術的停滞性や非競合性は、わが国でも近世以後はあまり考えられないものです。
 私は以前、近世の寺社建築の装飾彫刻について、少し調べたことがあります。その折、造形や技法の自己増殖性の強さと、各地の地方大工間の技術的競合性の激しさに驚いたものでした。それによって、時代とともに技巧的洗練の度が加わり、技術的な完成度が高くなり、最終的には、登り龍も竹林の賢者も唐獅子牡丹も、まるで同じ作者のものと見まがうほどに画一化していくのです。
 しかし、珠洲古陶は、甕・壷・擂鉢の基本三種を連綿とつくり続けていたにもかかわらず、驚くべきことに、その作物の一点一点は、表面的な技巧の完成など意に介さず、実に多様で、それぞれが深い個性を宿しています。珠洲古陶は、初めから人の目を意識した技巧的洗練とは無縁のところに立脚し、現実世界と彼岸とを共に視野のなかにおさめながら、微動だにしない勁さを持続しているのです。
 近世までの日本の焼きものの流れをとらえて、作り手の知的レベルの低さや文明的未分化、創造性の欠如としてとらえる見方もあるようですが、それをいうなら、現代人の精神的レベルの貧弱さも考慮に入れなければ不公平というものでしょう。
 ヨーロッパ・ルネッサンスの万能の天才と呼ばれた、レオナルド・ダ・ヴィンチでさえ、晩年に「自然の精妙さには、とうていおよぶことができない」と嘆息をもらしています。その境地を最初から持って、忠実に実行し続けたもの、そこに日本の文化のほんとうの深さがある、といえば、いい過ぎになるでしょうか。
 珠洲古陶が消えていった時代は、すべてのものが人間の主体にむかって、人間が人間を支配する力へと傾斜していったのかもしれません。
 いつの間にか、珠洲古陶を追う旅は、行方不知になった自分を探す旅に似てくるようです。
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 あくまでも、のんびりと能登路を走る急行列車。日なが一日、網のうえに泳いでくるボラを待つ、ボラ待ち漁。能登路は、たっぷりと豊かなまま時間が過ぎてゆくところのようです。
 山の分校で、授業を放りだして下の谷へ毎日のように子供たちと魚採りにでかけたという、野遊びの好きな中野先生。
 地学が専門だとおっしゃった中野先生のなかにもきっと、縄文の、狩猟民の血も流れているのでしょう。
 先生のお宅を辞する前に、ふと手にとって見せていただいた、先生が能登半島の先端で最初に発見され、先生のお名前が冠せられているという岩石の磨かれた貌(かお)。どんな人工の表面もおよばないその多彩な光輝を、たまごもる黒い器とともに、私は忘れないでしょう。

 先生、どうかお元気でお過ごしください。
                  一九八九年五月七日  堀 拝

  堀 愼吉 初出:Art'89夏号(マリア書房1989年6月26日発行)

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