堀愼吉資料室

 土佐の野仏

 高知市の東はずれに、おだやかに盛り上がった小高い山がある。この山の頂き近くにある竹林寺は、土佐の名寺の一つであり、四国遍路三十一番札所としても親しまれている。僧空海がこの地を訪れたとき、この山容に中国の五台山の面影をしのび、竹林寺を建立し、その山を五台山と名付けたと伝えられている。
 竹林寺は、徳川時代土佐二十四万石、山内家の菩提寺としても栄えたが、この竹林寺に対抗した土地の豪族長曽我部の神官は囚われの身となり、すさまじい拷問の末獄舎で竹林寺の僧を呪いながら果てたと言う。この竹林寺文殊堂の前庭に、木陰に守られるように、ひっそりと積み上げられている地蔵達がある。
 街並みや道路の様子が変わるにつれて、遍路道や寺々の庭から、散らばりうち捨てられてゆく地蔵達をあわれに思い、少しずつ拾い集めてきて供養している内に、新しい地蔵をそこに祀る人達も出てくるようになり、いつの間にか、何十という数になったのだと、文殊堂を守る尼僧が語ってくれた。
 そのなかに、もう随分前に刻まれたと思われる素朴な地蔵が幾体かある。十年程前土佐の風土に埋もれている無名の造形を紹介する、という地方新聞の企画をたずさえて、前衛的な美術家を自称する幾人かと探したときにこの地蔵達にもめぐり逢った。極端に単純化された薄い浮彫りの像は、職人の手になったのではないことが一見出来る。つたないのみあとをとどめているだけなのだが、そこには、地中海のキクュラデス諸島でみつけられた彫刻像や埴輪の持つ純化された人間の原質が脈搏っているように想えた。まるい顔のなかに置かれたなにげない鼻や、彫りこまれた目や口のあどけなさにひかれて、その石の身体にこびりついた前だれを取ったとき、目の前にあばら骨だけを残した胸の形と、骨のように細く組まれた腕を見出した驚きを忘れることが出来ない。恐らく病魔にわが子をうばわれた父か母かが、みずからのみをふるったのではあるまいか。
 その対比は、わが子を幼ないまま喪ったものの感情を見事に伝えていた。それは、酷薄な事実を前にして、断ちがたい愛着の想いが、その現実に附着した様々な要素を幾度も幾度も濾過して、求めついた像だったのだろう。技巧や意識を超えて、ただそこにあった事実と感情とだけに還元されてしまったような、この鮮やかな像は、単に人間の肉体をなぞらえたものでなく、たしかに無名のにんげんそのもののように美しかった。
 地蔵仏は、子供の霊を祀るために造られるようになったと言われているが、幼な子供を喪った肉親が、野の花の咲く、あるいは冬枯の道を鎮魂の想いを抱きつつめぐってゆくうちに、その道すじにころがる一つの石に、わが子の魂をみたのが始まりであろうか。
 遍路道として親しまれてきた土佐路の自然はめぐまれて変化が多い。苛酷な人生の旅の苦痛に疲れた人々にとってそれが誰にも終りのない道であったとしても、それは又、ひとと自然の交感のわずかな、かけがえのない一刻なのだという慰めを与えて、現実へ静かに還ってゆく気持を人の胸にそそいだのかもしれない。これらの石彫のおもてに浮び出された像は、現実への絶望を通りこした者だけが持つ、透徹した存在への愛着に、目を見開らかす力があった。

                                 堀 愼吉
                初出:『帖面42』(帖面舎1970年10月発行)

 掲載誌 表紙/麻生三郎

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