堀愼吉資料室

 ヴァカンスへの遠い道   (下)

僕等は腕を組んで歩く
ヴァカンスへの遠い道を

僕等は世界の果てにいる
どう………………帰ろうか?

ぼくと一緒にからっぽのなかへゆこうよ。
   ○
イブ・クラインは、女拓をこころみながら、その光景をミュージカル調シャンソンにして歌う。
このシャンソンをくちずさみながら、僕は長く病床に囚われていた幼児にさまよった童話の一節を想いだす。
その童話は、ギリシャ神話のゴルゴーンの首を連想さすのだが、魔女の手に触れられたものが、ことごとく石になってしまう話だった。
魔女のために一瞬にして石にさせられた王女を救うために種々な魔物におびやかされながら、王女の石を閉じ込めた岩山にたどりつき、愛の涙で王女を元の姿によみがえらすのだが、ちょうど、イブ・クラインのからっぽの肉体を裏返したようなこの物語は、僕等の肉体や物質への執着に対する逆説を通して、幼い僕の内に識らず識らず「愛の栄光」とでもいうものを吹き込んでいたように想う。
    ○
ぼくと一緒にからっぽの内へゆこうよ。
いつか君にもよみがえるだろう。
 君が、
このすばらしいからっぽの夢が、
このかけがえのない愛の夢が、
ぼくたちは身を投げ入れる、
このからっぽの世界へ。
  (みずえ66 1月号中原祐介訳)
   ○
ヴァンスの礼拝堂の白いタイルの壁体に黒く強い線で描き出された、祈り、ひざまずく人々の群像。
胸を刺しつらぬかれ、息絶えながら子供を抱きしめた、シオの虐殺のための女のデッサン、あるいは、どん欲で生々しく生活の内に立ち働いている農夫達のデッサン。
マチスやドラクロワやブリューゲルによって描き出された種々な人間の形は、そこにある人間の悲劇や絶望、歓喜や祈り以上に、人間そのもののどうしようもない姿を、あるがままにつきつけてくるようにみえる。
しかし、このようにありのままに投げ出されている人間をみるとき、僕のなかに否応のない一つの体温と生の根強さ、本能の高価さとでもいえるものへのなぐさめがよみがえってくる。
僕等はいま、僕等自らの肉体が描き出す種々な行為や、観念の生み出す概念との様々なイメージや物に囲まれて、生きていることすら確かめようもない、楽々とした虚無の宇宙へと旅立ってしまっているのかもしれない。
自らが、造り出し、変革した自然の構造体のなかで、自然そのもののエネルギーやムーヴマンに見放され、本能ははばたかず、息絶えてゆくのをただ待っているのかもしれない。
人間は、自らの楽土を、造られたもの、造ることにおいて賭けてきた。
しかし、造る(「造る」に傍点あり)という人間の内的自然の行為も含めて、人間を支配する本能の働きまでも造り変えることはできないのではあるまいか。
そのため、僕等はいつでも自然の痛烈な反抗にみまわれ、その予感に恐怖しながら生きている。
僕等が造り描き出した楽土には、いつも裏腹に焦土と地獄のイメージが虚無のさけ目を広げている。
しかも、そのイメージは、いつも「現実(現実に傍点あり)」という解答によって僕等の前に存在しつづけてきたのではないか。
そこに、人間が自らの手で造り出した空間と、僕等の本能との間で今ここに人間存在そのものが如何にあるかという、絶えざる課題の検討が存在する。
この課題の前で芸術は、我々の内部自然に対して絶えず前衛であろうとする。
僕等は、ついに存在せぬ楽土を夢見ながら、「ヴァカンスへの遠い道」をたどる生きものなのかもしれない。
しかし、それ故にこそ、芸術は、その遠い道のりの内で、僕等自身の作為と自然の魔的な働きによって、石になったものを、絶えずよみがえらすためにあるのかもしれない。
だから僕等は、種々な人間的要素がもたらす幾多のイメージと物件の洪水に犯されながら、目の前の現実、僕等のこの位置から自分の本能へと還る道を見出してゆく以外にない。
人間という、あるいは自分という自然の無数の要素を瞬時にして超えて、直感的に人間存在のムーヴマンを把握できる人間がいたとしたら、それは確かに神か悪魔の意志を持った生きものだ。
すべてのもの(「もの」に傍点あり)や瞬間が、「愛」の有機性に化身して人間に働きかけるということは一体どんなことなのだろうか。
「方舟」あるいは「星達の旅」とういう僕が目の前にした自然と時とで合成された物語を僕のさらされた絶望と、逃げもかくれもしない人間存在への感情との間をゆききしながら構築しようとした僕には、これから自分のヴァカンスへの遠い道のりを測り難く想ったのだった。


堀 愼吉 初出:不明(1966年10月28日)
切り抜きの片面に、土佐文雄、紫藤貞美各氏の著述あり。

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