堀愼吉資料室

吉田喜彦の作物--時間と空間が結晶化した世界--

*一枚の作品写真から
 ある時何気なく目にしたものが、時間が経つにしたがって次第に意識の底にはっきりした位置を占めていくことがある。時によって、それはある風景や情景であったり、何とはない事物であったり、まれに作品や一つの言葉などのこともある。
 人間が生きているうちに目にする風景や事物は、それこそ無数にあるわけだけれど、そのほとんどはその人間とかかわることもないまま、ただ傍らを通り過ぎていく。それとは逆に、いつまでも意識の底に居座っているものには何か深い理由(わけ)があるにちがいないのだけれど、その理由を無理に意識化しようとしても、結局は意識の網目からスルリと抜け出してしまう。
 私の意識の底にも、そんなものがいくつかある。それは、海の中を一直線に延びた線路を走る汽車に乗ったことがあるという、あり得ない事実への強固な記憶であったり、アジール期の彩色小石であったり、エスキモーの仮面であったり、四国の岬の小さな畑の隅で風にゆれていた黒い鳥のような得体のしれないものであったり、あるいはアーシル・ゴーキーのオートマチックな暗号のような形であったりする。
 こうしたものと自分が最初に出会った時のことはもう曖昧模糊としているのに、その事物の輪郭だけは、時間に反比例するようにますます意識の底へくっきりとした形を横たえていく。こちらの精神と、見えない時間の涯で交差しているような、そうした事物とのかかわりは、ひょっとしてアリスの鏡のように、それぞれの人が持つ不可視な領域への扉のようなものなのかもしれない。
 太古の人々が超越的なものへの畏怖をこめてつくりだしたものや自然の中には、人の意識を超える場所にあり続けるものがある。しかし、文明が進み、人間があらゆる事物を意識の枠組の中に囲いこもうとすればするだけ、事物にはらまれた深源な本質は人の手からもれてしまい、芸術と呼ばれる世界からさえ、不思議なミステリアスな力は失せてしまうばかりだ。
 吉田喜彦さんの作品を最初にみた時(といっても、それは一枚の写真にすぎなかったのだが)、この作家は意識や言葉の枠組に囲いこむことのできぬ世界へ、自分の感受性の触手をひろげている人ではないかと感じた。こうした態度そのものが、ものづくりをする人達の間でさえ希有のことになっている現代では、その一枚の作品写真は私に強烈なインパクトを与えた。
 それは、いまから五年程前のことであった。わが国の陶芸作家として評価の定まっている二五〇人ほどの人達の仕事を紹介した年鑑(『陶芸年鑑'85』マリア書房刊)を眺めていた時、その中にただ一点、いつまでも消えない強い印象をもたらした作品があった。作品の下には、それをつくった人の簡単な紹介がそえられ、長年、荒川豊蔵氏の弟子として修業を積んだ吉田喜彦という人の仕事であることを知った。
 他の多くの人々の仕事は、私の目には一様に同じ方向の原理に支配されているように思え、ことさらに関心をそそるものはなかった。一言でいえば、そのほとんどが人間わざを競ったものにしかみえなかったのである。「上手い」とか「綺麗」とか、なるほどこれが現代の青磁か、染付けか、志野か、備前か、前衛的な表現かと納得するにしても、そうであればあるだけ、現代の競争原理や市場価値などという、陶芸の世界をとりまく状況や時代のフィジカルで空疎な背景が透かしみえるばかりだった。人の目や賞賛の言葉に囲まれることを最初から期待し、伝統工芸展などで競い合い、人より抜きんでた技術の完成度と会場効果にしのぎをけずってきたような仕事に、いったい何ほどの価値が宿るというのだろう。
 吉田さんの作品は一目みただけで、そうした競争原理に支配された場所とはまったく無縁に、長い時間をかけて自己の深い場所からくみあげられ、生成されたものであることを感じさせた。その写真の作品は偏平な先細りの器で、全体に白化粧がほどこされ、口辺から底部にかけて胴の中心に無造作に指描きがされていた。キャプションには『指描文扁壷』とあった。意匠や技巧やフォルムの奇をてらったものや、声高な自己主張や、伝統の再現を金科玉条のように売りものにしたようなものが多い中にあって、それは何のてらいもなく、ほとんど自然体で、不思議な静けさと生動感をたたえて立っていた。その一見無造作にみえる作振りは、素人でもつくれそうな錯覚を起こさせるが、柔らかで、のびのある確かな骨格が、かくし味のように形の中で息をしていて、一種独特の気品を漂わせていた。
 それは、私が密かに思い描いていた、焼きものの最も美しい理想の特質を備えたものにみえた。山道を歩いていて、下草の中から顔をのぞかせている名も知らぬ美しい花を、思いがけず見つけた時のような嬉しさを、その時、私は抱いたのである。
 以来、吉田さんのさりげなく美しい器が、私の意識の底にはっきりとした位置を占め、折にふれ、ふっと理由もなく鮮烈さを増しながら浮かんでくるようになった。吉田喜彦という人に一度会ってみたい、作品を直にみてみたいという思いも強くなったが、のこのこと訪ねていくこともはばかられて、その機会はなかなか訪れなかった。
 昨年、郡上八幡でユニークな紙の創作をしている水野政雄氏を訪ねた折に、水野氏が所持している吉田さんの粉引壷を偶然目にする機会にめぐまれた。それは多分、吉田さんの仕事の中で特別にすぐれたものというより、仕事の流れの中から自然に生まれたものではないかと思わせるものであった。しかし、土や釉薬やロクロや窯がそれぞれに持っている世界の広がりを充分に身体化したうえで、ものが生成される流れだけを取り出そうとしたような、自然な仕事だった。
 それから間もなく、秋も深まった美濃大萱に、本誌編集長の藤井さんとともに、吉田さんの仕事場を初めて訪ねることになった。初対面の吉田さんは温かく澄んだ目の持ち主であった。土岐の駅まで出迎えてくれた吉田さんの車は、桃山時代の数々の名品を生み出した大萱の雑木の丘陵の間をぬって走った。途中、近くに次々と造成されるゴルフ場に話がおよび、吉田さんが苦々しく語られるのを聞いた。狭い国土の野山を際限なく食い荒らしながらゴルフ場が造られていく現実には、わが国の大衆社会の最も悪しき側面が、さまざまな形で露呈していると常々思っていた私も、その怒りの所在にすぐに共感してしまった。
 古い民家を移築したという吉田さんの住まいは、大萱の雑木林の奥に隠れるようにあった。招じ入れられた広い板間には、黒ずんだ天井の梁と同化するかのように、アフリカの仮面、アジアの祭具や織物、インディオの織物、縄文土器など、世界のプリミチーフアートの見事な作物が〈静かな雑然〉とでもいう姿で置かれていた。私は、「ああ、やっぱり訪ねてきてよかった」と思うと同時に、吉田さんの仕事に自分がひきつけられた理由の少しが解けたような気がした。そして、現代の日本の陶芸世界の中にあって、一人屹立して動じない深い確信の源泉に思い至ったのであった。
 吉田さんは、それらのものを前に「私の仕事など、こうしたものには到底およびません。この中にある神髄を少しでもくみとれたらと思って……」と言った。
 古いものを集めたり、骨董を趣味にしている人達の中には、自分の目の高さや美意識を売りものにして高慢な人や、極端なフェティシズムに辟易させられる人もいる。しかし、吉田さんのプリミチーフアートへのかかわり方は、かつてイサム・ノグチが友人のアーシル・ゴーキーについて語ったことに重なるように思われた。

古い芸術遺産には
生きているものと死んでいるものがある
ゴーキーは誰よりも
その生きているものを見ぬく天才であった
それは彼が
ほんものの美術を真剣に探究していたからである
--カーレン・ムラディアン著『アーシル・ゴーキー』( PARCO 出版) より--

 人間は急速に人間社会のファクターを肥大化させ、意識化され人間化された事物や観念を通してしかものの姿をとらえることができなくなり、生物としてのごく自然な感受性さえ失おうとしている。吉田さんは既成の美意識によりかかることなく、自己の感受性の示す方向に向かって、ゆっくりと着実に歩こうとしているようであった。

*不思議な美しさ
 吉田さんの住まいには、日常使っている器を除けば、自身の作品は一点として置かれていなかった。「自分がつくったものを置いて眺めても、後ろ向きになるぐらいのことですから」と言い切るほど、それは見事に徹底していた。作品ができたらすぐに、吉田さんの仕事を長年手がけている俵有作さんのギャラリー華にすっかりあずけてしまうということであった。吉田さんの実作を拝見するかわりに、一九八一年からギャラリー華で行われた五回の個展の、それぞれの分厚い作品集をいただき、俵さんを訪ねて作品を拝見したのち、改めてもう一度お邪魔したいとお願いして辞した。
 帰京してすぐに私達はギャラリー華に俵さんを訪ねた。そこには、吉田さんの作品とともに、所狭しと中国や東南アジアやアフリカなど、さまざまな国の美術品があふれていた。古今東西のすぐれた美術品を集める力を持った俵さんと渡り合いながら、これら何千年かの人類の歴史遺産の中に、自分の仕事を投げ出せる吉田さんのただ者でない一面をあらためて見る思いであった。
 吉田さんの器や、近作の鉱物の結晶体を思わす多面体のオブジェなどを手にとって眺めた。粉引や土灰釉や志野釉や鉄黒や黒陶など、どれ一つとして特殊な素材が駆使されているわけではなかった。しかし、どの作品も、たっぷりと豊かで、柔らかな優しさと深い透明感を持っていた。
 黒茶碗の一つを手に持ってみると、まるで手の一部のように形がそってきて、中を覗くと大きな世界がみえてくるようだった。「吉田さんはロクロをひく時、器の中だけを見てひく。中ができれば、外の形は自然に成ると言っている」と俵さんが教えてくれた。確かにそれは、充実した形の真理を言いあてている。
 俵さんに吉田さんとのかかわりを伺っているうちに、俵さんが単に画商とかパトロンというような存在ではなく、パートナーなのだということが理解されてきた。本来、人間はすばらしい、不思議な美しさを秘めたものを生む能力を持っているのだという確信にささえられて、二人が手をたずさえて切磋琢磨してきたことが、話の端々に伺えた。
 俵さんによれば、吉田さんは大変なエリートコースに乗っていた人で、一般社会でいえば東大から大蔵官僚、末は大臣という道が約束されていたような人だという。確かに、その出発点から浜田庄司や芹沢銈介の知遇を得、荒川豊蔵が直接の師であったという経緯からみれば当然のことだ。また、その後、師荒川豊蔵の延長線上の仕事を錦の御旗にして陶芸界へ乗り出していけば、その世界で早くから充分に名を成すことになっただろう。「吉田さんは、師のもとから離れると同時に、そのエリートコースからあっさりと身を退いて、村役場に勤めたようなものだ」というのが俵さんの表現である。この言葉の中には、多分に韜晦した吉田さんへの気持ちがうかがえた。俵さんにしてみれば、吉田さんはもっと広い世間で充分に活躍できた人であったにもかかわらず、自分と出会ったことから、狭き門に吉田さんを押し込めてしまったのではないか、芸術三昧の二人三脚を強要してしまうような結果になったのではないかという、多少の思いがあるのだろう。
 しかし、吉田さんも俵さんも、陶芸界とか日本画壇とか洋画壇とか現代美術の世界とかという、狭いという以上に偏狭な世界には、ほとんど目をくれる必要を最初から感じていなかった人達である。二人のイメージを支配していたのは、俵さんの口から時々語られる〈不思議な美しさ〉を持ったものたちのことで、そうした〈不思議な美しさ〉を持ったものたちを生み出すために、それぞれの役割を分かちあいながら、お互いに生活と人生を賭けてきたのだといえる。
 作り手というのは、たとえどんなに才能に恵まれていても、自分の仕事には常に不安を抱いている。才能があるからこそ不安も大きいといってもいいかもしれない。自分の仕事に自足して得々としている連中の仕事などに、ろくなものがあったためしはない。だから、作り手にとって強力な信頼できる理解者が一人でもいるということは、どんなに勇気づけられ励みになることかわからない。ギュスタブ・モローとルオーのような幸せな関係というのは、めったに存在しないにしても、お互いの芸術観への強い信頼感で結ばれている俵さんと吉田さんの関係をみていると、そうした関係に近いものを感じた。
 俵さんは、世界中の〈不思議な美しさ〉を宿した作物を探してきては、エサを運ぶ親鳥のように、せっせと吉田さんの所に持ち込む。さながら人類史博物館の一室に迷い込んだような吉田さんの家の民族芸術の中にも、俵さんから借用しているものがたくさんあるということであった。吉田さんは、それらを前に目や頭を洗い流したあとで、その美しさがゆっくりと自分の魂にとけていくのを待つ。間違っても、プリミチーフな作物の表面的な意匠を借りて、手っ取り早く自分のスタイルをつくろうなどとはしない。そうしたものを生み出した人間(類)の長い時間が、自分の時間に同化するまで微に入り細にうがちながら、そのものの美しさの本質を感受することに全力を傾ける。そして、吉田さんの中でエーテル化されたものたちは、作品の中に見えない粒子となって忍び込んでいく。
 俵さんの所で〈足頭期〉についての示唆に富む話を伺った。
 人は誰でも、幼児期の成長段階に人間の絵を描くと、頭から直接手足が出ているように描く時期があるという。その頃のことを〈足頭期〉というのだが、事物に対する好奇心が最も強く現れるのもその頃だという。その時期には、まだ一般的な知能は未発達だけれども、そのかわり五感を超えた七感、八感という感受能力がそなわっていて、事物の本質を直截に受けとめ吸収していくのだという。確かに、その時期の子供の絵は、驚くべき自在さと美しさを持って生動している。
 また、一個の人間の中にある〈足頭期〉にあたる時期が、人類や民族の歴史の中にもあって、すぐれたプリミチーフアートを生み出したのが、そうした時期にあたるのだという。最近、宗教人類学者の中沢新一は〈新石器人の知性〉あるいは〈野性の知性〉の復権について発言している。〈足頭期〉の感受能力は、頭脳の発達による認識的知性や五感を超えた〈新石器人の知性〉と同質のものかもしれない。人間をとりまく世界や、あらゆる自然界の事物は、現代の人間の認識的理解では遠くおよばぬほど深く豊かなのだ。
 事物を人間社会に適合させ利用するために進めてきた普遍的理解や約束事を白紙にして、事物と裸で渡りあい、感受する力を取り戻すことが、人類にとっていまほど緊急必至の課題になった時代はない。
 ピカソやミロ、クレーやカンディンスキーなどによって先導されることになった二十世紀の視覚芸術は、美術史的文脈の延長線上で必然的にもたらされた視覚表現上の革新という側面と同じ比重で、ヨーロッパ文化や文明への危機感や不信感を下地に生み出されている。ピカソがアフリカの黒人芸術に触発されて、『アビニヨンの娘達』というピカソ芸術の記念碑的作品をものにしたことはよく知られているが、一九八八年にニューヨーク近代美術館で開かれた 『"PRIMITIVISM" IN 20TH CENTURY ART 』(二十世紀美術の中のプリミティヴィズム)と銘打たれた展覧会の膨大なカタログからも、いかに二十世紀の美術にとってプリミチーフアートが創造のエモーションの鍵を握っていたかが見てとれる。日本の美術家達がヨーロッパやアメリカの芸術的成果に憧れて、追随することに躍起になっていた最中に、彼ら自身は文化的衰退と面と向き合ってあがいていたのだ。彼らのあがきからもたらされた表面上の成果を金科玉条のように受け入れて、いくらなぞっても、現代美術の世界に本当のインパクトを持ちうるような新しい芸術的成果が、わが国に生まれるわけもなかった。
 近年わが国でも、舞踏や演劇や音楽などの分野で国際的に注目され、また影響を与えている芸術家達が生まれている。彼らに共通しているのは、アジアの野性の空間、非文明的な力を意識しながら、従来のヨーロッパ文化の文脈とは異質のワールド・アートとしての原初的エモーションを踏まえて出発していることだ。
 わが国に残る神体石や岩倉、あるいは中世の庭などの石の形や、世界各地の石造遺産から造形精神を学びとって、自らの彫刻に反映していったイサム・ノグチの仕事。あるいは、止むなく故郷を追われてアメリカに渡ったアーシル・ゴーキーの、故郷の風土や民族芸術への悲痛なまでの精神的帰依から生み出された芸術。こうした芸術が獲得した独自性は、文明社会に押し流され、忘れ去られた人間の貴重な精神活動のあかしを取り戻そうとする営為の中から生まれたものだ。文明社会の中で、人間が人間を対象化するだけでは、宇宙や自然の実存の深さは決して見ることも感じることもできない。〈野性の知性〉を取り戻す営為が、少なくとも芸術の世界でいまほど重要な意味を持ちはじめた時代はないのかもしれない。

*営為をとりこんだ〈かたち〉
吉田さんの仕事は、縄文土器が器であって器でない世界をはらんでいると同じように、すでに茶碗であって茶碗でない世界を獲得しているように思う。
 手にとると、生成された一個のものとして見事に柔らかい緊張感をみせて、静かに手のうちにおさまる。瀬戸黒茶碗や鉄刷毛目茶碗の中には、自然界の種々相をみているような、いくら見ていても見あきることのない豊かな世界、不思議な美しさがしみ出してくるものがある。
 吉田さんの仕事は、このところ急速な展開をみせながら、これまで蓄積してきたものを新しい〈かたち〉に凝縮しはじめている。大胆なしのぎのひだを持つ粉引の器と平行して、多面体の〈かたち〉が追求され、使われることを前提とした器から、ある種の鉱物の結晶を思わす造形に制作の重心が移っている。
 多面体といえば硬質なイメージを抱くが、不思議なことに、吉田さんの多面体には、生動感のあるしのぎの面取りがなされた器と同じような、オーガニックな息づかいがある。吉田さんは、長い習熟によってみがきあげてきた〈かたち〉に対する感覚を、多面体の〈かたち〉に実体化しようとしているようだ。
 金属や木をロクロや旋盤で削り出すのと違い、土という柔らかく自在な素材をロクロという無機的な円運動によって成形していくということの中には、常に無機的な運動の中から生きている形を取り出すという習熟が要求される。しかし、陶芸作家の中でも、そのことに気付き、真剣に取り組んでいるとみえる人は以外に少ない。寸分違わない形を数びきできることがロクロのプロだと思っている人や、無機的に完成された形ができる技術をロクロの身上だと考えている人達が多い。ロクロを、単にこうした技術だと捉えるなら、単純な訓練の繰り返しで、ほとんどの人が一年もあれば身につけることができる。しかし、ロクロで生きた形をひきだすためには、単なる訓練ではない深い習熟が要求され、同時に〈かたち〉に対する鋭い感受性がなければならない。一歩間違うと、作為にみちた下卑た形になるし、また骨のない脆弱な死んだ形になってしまう。ロクロによる生動感のある形づくりに最初に取り組んだのが、わが国の桃山時代の陶工達であったが、自在に形が成る土という素材は、それだけに、手を通して作り手の生理や美意識を直截に反映してしまう恐ろしさがある。吉田さんは、ロクロ成形の習熟で得た〈生命あるかたち〉の生成の秘密を、本来無機的で硬質な形である多面体の中で試みようとしている。
 吉田さんが最初に焼きものに興味を抱いたのは、戦時中、まだ小学生の頃のことだという。鹿沼に住んでいたおじいさんの所を訪ねた時、ザラザラした変な茶碗があって、「じいちゃん、これは何だ」と聞くと、「それは昔なら売れない。いまはこんなものしか売らないで……」と答えたそうだが、戦時中は生焼けのような茶碗でも売れたので、そういう品物が出回っていたらしい。ところが、その茶碗が一、二年もすると、擦れてしまってツルッとしてきて「へえ、焼きものって、こんなに変わるもんかと思った」という。吉田さんは、焼きものとの最初の出会いから、事物を通過する時間に興味を示していたのである。
 プリミチーフアートへの関心を抱くようになった動機を、吉田さんは「こうしたものは、初めからこんなふうに出来上がっているわけではなくて、使っているうちに磨滅していって、それにまた人が手を加えたり、いろんな偶然も入ったりして、どんどん変わっていって、まったく違うようなものになって、よくなったりする」と語った。事物に付加される事柄や通過していく時間(多重層化されたもの)に、強い関心を抱き続けてきたわけだ。また〈かたち〉について、「鉱石の結晶体などを見ていると、とてもかなわないような不思議な美しい形がある。しかし、同じような形であっても、自然がつくり出した、そうした形というのとはまた違った、人間しかつくれない〈かたち〉というのがあるのではないか」ともいう。近作の黒陶の多面体には、その二つのものが一つの〈かたち〉の中に見事に結晶されていた。成形時に面を磨きあげながら、多面体の稜線をせめあげていく、という黒陶制作の技法が、それぞれの面と稜線に、使いこまれた木や鉄器が持つような不思議な息づかいを与えている。その息づかいは、さながら、吉田さん自身が通ってきた時間ばかりでなく、彼を通過したさまざまな背後の時間まで写しだしているようにみえた。吉田さんは、〈生きたかたち〉は単に空間造形的な形にとどまらず、それ自体時間を呼吸するものでなければならないと思い続けてきたようだ。
 多面体や直方体など、抽象的な〈かたち〉の造形ということでいえば、これまでにもいろいろな試みがある。しかし、いずれも空間造形としてのフォルムの追求という点で共通している。特に、一九六〇年代末から七〇年代にかけて、現代美術の流れの中から生まれた、フィリップ・キングなどのプライマリー・ストラクチャーでは、直方体などの単純な抽象形態をベースにしたさまざまな試みがあった。そこでは、空間造形のぎりぎりのミニマムな〈かたち〉が追求された。それは、人間の意識の中にある〈かたち〉に付加されたあらゆる意味をはぎとったクールで空虚な〈かたち〉、ミニマムな空間を提起するものであった。イブ・クラインが「ぼくと一緒にからっぽの中へいこうよ」とうたった、そのような〈かたち〉だったのである。
 吉田さんは事物に向かう時、「これもダメ、あれもダメと削りとっていくのではなく、どんなものでも何かいいところがあれば、何でも滋養にしたい」という。事物がはらむ豊かさをすべてとりこむ方向で、自己を形成してきた人なのである。だから、吉田さんの多面体は、プライマリー・ストラクチャーの造形思考とは対極になる場所から出発している。
 吉田さんが求めるのは、事物に付加したあらゆる濃密なものを削りとって、あくまでクールで明解な〈かたち〉に還元しようとする思考の産物ではなく、自然が生成したような原初的な〈かたち〉に、濃密な人間の時間と空間が付加された、オーガニックな多面体なのだ。それは、思考からではなく、触覚をアンテナにあらゆる感覚を動員して、意識を超えた領域まで味方にしながら生み出される。
 吉田さんの仕事は、空間と時間を一つの〈かたち〉に凝縮するという、かつて誰もなし得なかったものに結晶しつつある。そして、ヨーロッパの芸術が到達することのなかった新しい充実をはらみながら、私達の前に投げ出されようとしている。
 その作物は、自然や人間世界の森羅万象のエーテルを秘めて、現代人の精神と照応する。確かにそれは、人間がつくった〈かたち〉を超えて、人間の手によってしかつくり得ない〈生きたかたち〉となって不思議な美しさを呼吸していた。

堀 愼吉 初出:Art'90夏号(マリア書房1990年7月17日発行)/再録:吉田喜彦作品集Ⅵ(ギャラリー華1991年4月17日発行)

 
吉田喜彦作 白化粧茶盌 径13.4cm×高10.6cm 

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