堀愼吉資料室

 芳村俊一の世界が触発するもの 

【土のメッセージと個我のメッセージと】
 昨秋、東京で開かれた芳村俊一の作陶展には、不思議な魅力に富んだ焼きものが並んでいた。ここに並べられた焼きものは、これまでほとんど焼きものの素地土としてかえりみられることのなかった、全国各地の、どこにでもあるような土でできていた。
 一般に、一二五〇度以上で焼き締まる土が陶器に適した良土だという通念とは関係なく、芳村さんの焼きものたちは一〇〇〇度そこそこの温度で焼かれたものも多く、しかもそれらは見事に焼き締まり、独特の美しい土の色と質感をみせていた。

 私は特別多く陶器の個展などをのぞく方ではないが、それでもみるたびに、なにか失望することの方が多い。
 これらの個展の多くは、見事に技巧的なものや、一見して古陶の写しとしか思えないものや、瀬戸や常滑に住んでいるわけでもない作家が、あらかじめこれらの産地で選良された土を使って、没個性的な焼きものをつくり、ただ手仕事だということだけを売りものにしたような仕事などである。
 そうかと思えば、画廊の床を焼土のかたまりで埋め、土のグラデーションをみせた仕事、あるいは、わざわざ巨大な登り窯をついて、一〇メートルもあるテストピースのような巨大な直方体を焼いた仕事など、一見現代美術の「モノ派」のような実験的な仕事をみせられると、これほどまで物量の力を借りて個我の観念を拡張してみせなければならないかと、虚しさを感じてしまう。
 いま、焼きものの仕事をやっていることに、なんの疑いも持っていないような仕事をみるのも虚しいが、そうかといって、現代の都市空間をかけ抜けて投げ捨てられていく言葉や意味の数々のように、声高なメッセージや個我の主張ばかりが目立つものは、もっと退屈だ。
 そうした仕事に触れるたびに、私のなかに釈然としないものが残っていく。
 温かい土味に、深い混沌と野性を秘めたもっと何気なく、深く個性的な焼きものの仕事が、なぜもっとないのだろう。
 社会が管理され、画一化され、専門分化すればするだけ、人々の心の傾斜は、そうしたものを求めているはずだと思う。

【焼きものの本質と土へのこだわり】
 芳村さんは、野にあって、長年にわたり全国の土や石などを焼き、その焼きもの的性質について研究されてきた。
 その成果は、伊豆吉奈に『芳村やきもの資料館』として展示公開され、数冊の著書にもあらわされている。
 ひとくちに「全国の土や石を焼いて、その焼きもの的性質を調べる」といっても、それはほとんど気の遠くなるような作業である。しかも、それらの土や石を座して集めたわけではない。一つ一つ現場を訪ね、その風土的・地質的特質を自分の目で確かめたうえで採集してくるのである。
 そして、持ち帰った土や石を叩いたり揉んだり、テストピースにしたり、ロクロにかけたりして焼いてみる。それも、土や石の焼きもの的特性がみえるまで、いろいろな焼成温度で何回となく焼く。
 土や石たちは、それぞれがくぐり抜けてきた何千、何万、何億年という時間と環境を示しながら、さまざまに変化して、日本列島生成のドラマを語りはじめる。
 芳村さんは、大学の研究室や専門の機関に属することもなく、こうした仕事を一人でコツコツと積み重ねてきた。
 その仕事は、焼きものについてばかりでなく、日本人のなかにある身体感覚や自然観、美意識の本質について多くの手がかりを与えてくれる。
 私たちが、この風土のなかで、文明という私たち自身の欲望が形づくったものと共に、どう生きればよいかとゆき暮れたときにも、貴重な示唆を投げ返してくれるような気がする。
 そしてなにより、日本の陶磁の世界が見失ってきた根本的な問題に触れているのではないかと思う。
 芳村さんの仕事は、日本ではよく「焼きものの土味」ということがいわれてきたわりには、それを正面からとりあげ検証する仕事がほとんど見当たらなかった事実にあらためて気付かせてくれる。
 実際、芳村さんが語るように「現在の陶芸の世界では、形や色への関心や研究が優先して、焼きものの本質をささえている土や石の研究がないがしろにされ、既成のものに寄りかかりすぎてきた」感がある。
 形や色のための土としてではなく、土や石そのものの焼きもの的価値を、現代の陶芸の世界はもっと考えてみる必要があるのではないか。
 日本の焼きものの風土と、長い歴史をふりかえったとき、それは一層重要な問題として浮かびあがってくる。
 芳村さんは、そのことを身をもって示そうとしている。
 日本の焼きものの世界のもっともベーシックな土や石と人間のかかわりについて、芳村さんの仕事から触発される問題をたどってみたいと思う。

【肉体の消失】
 私が芳村さんの仕事に最初にふれたのはいまから十年程前のことであった。
 そのころ私は十年近く過ごした東京での暮らしに見切りをつけて、山梨に移り住んだばかりだった。
 山梨に移り住んだ私は、すぐ小さな灯油窯を買い求めて、なにをつくるというあてもないまま、近くの河原から拾ってきた小石や、林道工事で露呈した崖土を取ってきて焼いたりしていた。
 私はそうしたとりとめのない行為を通して、自分のなかに、生きることの触覚感をなんとかとりもどそうとしていた。
 そんなときに、偶然のように目にしたのが、中野サンプラザで開かれていた『芳村俊一・やきもの「土と石」研究展』であった。
 この研究展の仕事は、なにか途轍もなく貴重な仕事のように思えたが、まだ、その深い意味に気付くほど、私は焼きものの世界にのめりこんでいたわけではなかった。
 私はそのころ、二度目の大きな曲がり角に立っていた。
 一度目の曲がり角は、それより十年前、当時の尖鋭的な美術活動から脱落して、故郷から東京へ出たときだった。
 文明の進化と歩みを共にしてきた純粋美術(なんというぴったりした呼び名だろう)の近代的観念の文脈が、そのころちょうど最後の切り札を開いていた。
 「造形芸術は観念そのものによっても自律する」すでに一九五〇年代に、イブ・クラインによって予言され、たぶんマルセル・デュシャンによって実行に移されていたラジカルな造形芸術思想が、遅ればせながら私たちの前にぶらさがっていた。
 情報が情報によって自律するように、造形芸術がその観念のみによって自律したら、造形芸術に肉体はいらなくなる。表現する物質、表現する肉体を失ってしまったら、造形芸術は消えてしまう。
 それから先は、ほとんど霊界の交信の世界だ。
 自分がかかわってきた純粋美術の落とし穴に気付いたとき、私には、もうなにかが手遅れになってしまっていた。
 まるで、ファインセラミックのように、近代的観念を純粋抽出して普遍化するという目的に向かって一途に進化してきた近代芸術の終焉に、私なりに立ち会う羽目になっていた。
 私の六〇年代は、風船のように肥大した観念と共に、自己解体して幕を閉じてしまったのである。
 私は一六ミリの映写機をセットして、希硫酸の入ったガラスの水槽に、以前展覧会でもらった副賞のロダンの『考える人』のレプリカを沈めた。
 それは、激しく泡立ちながら、まるで生きているかのようにゴトゴトとのたうちまわり、長い時間をかけて、首や足や胴体をバラバラに解体していった。
 そして、最後まで残った小さな銅片が一筋の泡を立ちのぼらせて消えてしまったとき、水槽のなかには、みごとに虚しい硫酸銅の青い液が残っていた。
 それは、借りものの近代思想をなぞってきた私の、たった一人の、モダニズム終焉の儀式だった。
 ニューヨーク近代美術館の、グッゲンハイム美術館の壁に、自分の作品を飾ることを夢みて、夢中で過ごしてきた青春の日々が、青い硫酸銅の液のなかに溶解してしまったのだった。
 それから間もなく、東京へ出た私は、東京の混沌のなかにまぎれこもうと、あがく日々を送ることになった。しかし、自己の主体性を手放した人間が、いくら高度経済成長のなかとはいえ、競争社会の雑踏をくぐって生き抜けるわけもなかった。
 十年足らずの東京での暮らしに疲れ切った私は、土や草や木や水が身近に感じられる場所で、なんとかもう一度自分を再生したい、と思うようになっていた。
 今度は、なにか確かな手ざわりのあるものに、自分をたくしてみたかった。
 そして、二度目の大きな曲がり角に立つために私が選んだのが、土俗のにおいをまだ色濃く残す山梨の地と、焼きものの世界だった。

【野の魅力】
 日本の焼きものには、不思議な魅力がある。それは、名も知れぬ野草や、ありふれた野山の持つ一種名状しがたい野の魅力とでもいうようなものだ。
 触覚感の強い土味が、その魅力を一層きわだたせる。
 これは、なにも私だけが感じるというのではなさそうだ。
 私は以前、『李朝陶磁全集』の監修者として来日していた韓国の李朝陶磁研究者にお目にかかる機会があった。
 そのとき彼は「日本でいままでもてはやされてきた李朝陶磁は、李朝陶磁の本来的な姿ではない。完成された気品をそなえたものが李朝本来のものであるのに、日本人が愛でているのは、すべて李朝のなかでも不完全なものばかりだ。李朝陶磁を本当に理解してもらうためには、日本好みの李朝ではなく、もっと正統な系譜の李朝について認識してもらう必要がある」と力説されていた。
 これに対して、戦後すぐに発行された『陶滋味』という雑誌の創刊号(昭和二十二年)に、「高麗焼と白土」という山田萬吉郎氏の論文があり、日本の側の視点として興味深い。
 山田氏は、戦時中朝鮮にあって、朝鮮の陶磁について研究した人だが、朝鮮各地の陶土を追跡した結果、その論文の最後を、「徒らに赤土のみにて白土尠きが爲めに南朝鮮に於て種々の面白き燒物が生れしに想いを致す時、資源に惠まれざる現代日本の美術工藝が如何に進む可きかを暗示されているやうに感じるのである」としめくくっている。
 韓国の研究者が李朝の本来的姿と考えているものと、山田氏が面白き焼物と見た物の間に横たわる誤解に私は関心をひかれる。
 高麗茶碗が唐物茶碗の地位をうばって、利休の時代の茶会に数多く登場するようになったとき、これを取りあげた桃山の数奇者たちも、器体の土味の色を反映した深い釉調から、しだいに高台まわりの土味やかいらぎの変化と質に目をとめていくようになる。
 先日、国際的な活躍をしている、エキゾチックな美貌の日本人ピアニストが「私のひとつ」というテレビ番組に出演していた。このピアニストが選んだ「私のひとつ」は古代ローマの水道管の残欠で、その手ざわりと土色への親しみを語っていた。
 その異国の古代の水道管は、ほとんどわが国の須恵器の残欠ではないかと錯覚するようなものだった。
 このピアニストが、それを手でもてあそびながら、その触覚を確かめるように語る手つきを見て、私はあらためて、日本人の陶器に対する感覚的かかわりと、日本の陶器の持つ温かい野性の味について考えさせられたのである。
 たぶん、この魅力を最大限に引きだし、意識化してみせたのが、桃山の数奇者たちであったのだろう。
 しかし、どうも彼らが登場する以前から、それは私たち民族のなかに連綿と受け継がれ、身体化してきた感覚ではないかと思われるふしがある。
 この野の魅力を、そのままにとどめず、名所旧蹟の観光地にしてしまったのが、むしろ桃山の数奇者たちといってもいいのではないだろうか。

【片手落ちの視点】
 これまで日本の焼きものの世界でいいならわされてきたことには、いろいろな疑問がわいてくる。
 たとえば、一九八五年に東京国立博物館で開かれた『日本の陶磁展』のカタログ解説などを読んでいても、合点のいかぬことが多い。
 この解説にもとずけば、漢民族やセム系種族のように、土器づくりにおいて、高温焼成やロクロ成形、施釉技術などの文明的技術を独自に開発することのなかったわが国は、創造性に欠けた民族であるらしい。
そこのところを、カタログの中から少し引用させていただく。
 「……単なる土器から釉をかける施釉陶をやく重要な契機をつくるこれらのモメントを自ら創案することができなかったことは、弥生時代の人々の知的水準が、残念ながら中国民族とは比較すべくもなく低かったことを示唆している。爾来、日本民族が無から有を生じさせる真の創造力に乏しい性格を保ちつづけることとなり、その基調 
が今日まで及んでいるといってよかろう……」と述べている。
 文明史的視点に立てば、こうした考え方はしごく当然のことで、異論をさしはさむほどのことではない。
 しかし、こうした視点で、一つの民族の文化の本当の底流というものがみえるものなのだろうか。
 また、インドのように無釉の低温陶しか焼かなかった地域の文化の独自性というものが理解できるものなのだろうか。
 昨年夏、埼玉県立美術館で開かれた『インド部族芸術展-生きている土の鼓動』に並んだ、生気にみちた、自由で思いがけない創意と個性にあふれた、土の創造物たちのことを、どう考えればよいのだろう。
 技術史的発展をとげる民族には、たぶんその民族が持っている、それなりの独自性があってのことに違いないし、そうでないインドやわが国のような民族には、また別の独自性があるのではないか。この独自性が本来「文化」という言葉であらわされてきたものではないのだろうか。
 民族の文化というものを、文明的視点でとらえていくと、どうも片手落ちになってしまう。
 とくに、明治の文明開化以来、わが国では、文化の面でもこうした視点が強調されすぎてきたきらいが強く、私たちは、この片手落ちの視点にならされてきている。
 文化というものは、文明的な創造性という側面だけでなく、その民族に深く身体化された記憶=私たちの肉体を形づくっている細胞の遺伝子に組みこまれてきたものにも思いをこらしてみなければなるまい。
 文化の普遍性というものは、文明の普遍性とは別の性質を持っている。それは、その民族が持っている身体的な共通感覚を通して表れてくる。
 文明的普遍性が、つねに新しく獲得されるべきものだとすれば、文化の普遍性は、底流としてその民族のなかに生きているものだ。
 文化の創造性とか、民族の文化的独自性を、先進国とか後進国とかいう視点で眺めてみても、しょせん意味のないことだ。
 「西欧の文化が、つねに新しい普遍性を求めて、進化してきたようにみえる反面、わが国の文化は、歴史的にはいつも元のモクアミをくり返すばかりで、そこに歴史的一貫性がみられない。外来の刺激を受けるたびに、それなりの活況を呈し変容をとげものの、またぞろ白紙にもどってしまう」
 これは、日本の文化の根なし草的状況に対して、よくいわれる言葉だ。
 しかし、この元のモクアミにもどるについては、なにか頑強な理由があるはずだ。むしろ、それが事実なら、そこのところに目を据えた方が、わが国の文化の独自性がはっきりしてくるのではないか。
 先述の『日本の陶磁展』の解説をテキストとして、このあたりの問題をもう少し考えてみよう。
 少し長くなるが、縄文から弥生への展開について、この解説では「……縄文土器の神秘的な意匠から解きはなされた弥生式土器は、いかにも颯爽として明晰無垢な美しい印象を二十世紀の我々に植えつける。(縄文の)〈無窮の美〉から(弥生の)〈多様の統一美〉へと進化することによって弥生式土器は一期を画したと捉えたいのである。この統一美を獲得した段階にたっした時点をもって精神史的には二十世紀に生きる我々と対話することのできる共通精神の基盤を得たと判断したい。詳述する余裕はないが、部分と全体とが諧調する多様の統一美の原理の醸成は、弥生時代のより高度に組織化されたヒエラルキーを形成しつつある政治社会の成立に歩調をあわせていたと考えられる。……」=傍線( )内は筆者注=と述べている。
 これを読んでもわかるように、この解説の筆者がとっている立場は、明らかに文化進化論である。
 そして、ここでいみじくも、弥生時代のより高度に組織化されたヒエラルキーのもとで、この弥生の様式が確立していったと論じている。こうした論旨にそって、一つの文化の展開と変容をみていくと、進化とは関係のない文化的要素の価値、いいかえれば固有の文化的価値が切り捨てられ、曲解されてしまう恐れがある。
 たとえば、国家文明的な文脈で形成されていったものを「伝統」と呼ぶか、民族の身体感覚や風土のなかから自然発生的に生まれてくる固有の文化性を「伝統」と呼ぶのかという混乱が生じる。
 やっかいなことには、この固有の文化性(民族の独自性)というものが、しばしば新しい文明や他の文化、あるいは権力の力と接触したときに、拡大され、新しい生命力をもって表層にあらわれてくることである。
 しかし、むりやり進化論的な歴史観のなかで文化をみていくというやり方だけで、文化の本質がとらえられるわけでもないだろう。それでは文化というものが、文明や国家の側に従属してきた面だけで強調されることになる。
 その結果「伝統」というものを本来の姿ではなく、国家や権力によって形成された文化ととり違えてしまうということになる。国家や強大な組織には、つねに文明的な力学が必要不可欠のものだ。そして、この文明的なもののおこぼれを、ありがたく享受してきたのが私たち庶民の正直な姿だ。
 しかし、文明的なものを享受するだけで、それ以上のものはなにも生まず、なにも持っていないのかといえば、そうではあるまい。非国家的な場所に底流している独自性はきっとあるはずだ。
 私たちは、限られた一部の貴族階級や国家組織のつくりあげてきたものでない、もっと広く底流としてあった文化の本質について、真剣に考えてみてもよい時期にきているのではないだろうか。
 それでは、この非国家的な文化の営為というものを『日本の陶磁展』の裏側から追跡してみることができるだろうか。
 『日本の陶磁展』がおのずから事実として語っていると思われる、いくつかの疑問を提出してみることにする。
 たとえば『日本の陶磁展』の解説の筆者は、縄文の装飾その他に触れて、縄文土器のような原始美術がはらんでいる意匠は、二十世紀に生きる我々の美意識とはまったく違った神秘的次元に位置していて、我々の理解や感性のおよばぬものと規定している。
 はたして、そういってしまってよいものだろうか。
 たまたま、今年の共通一次テストの国語の出題のなかに、柳宗玄の『装飾ではない装飾について』という文章がとりあげられていて、この問題とかかわっている記述があるので、少し長くなるが、もう一つのテキストとして引用してみたい。
 「……近代社会では、装飾は、色や形、リズムや調和、装飾すべき本体との視覚的関係などが意識され問題となる。非近代的社会では、感覚的問題、われわれのいう美の問題は、意識の下層に沈潜し、色彩や形のもつ(宗教的)意味内容が意識の表層を占める。美は意識せずして成るのである。さらに、それらの装飾文様は、決して恣意的に構想され発案されるのではない。決まりがあり約束があるのである。もちろん時代的にそれらはすこしずつ変化しずれを生じるが、個々人が好むままに変わることはない。いわばそれは、時代あるいは地域または部族の共通言語なのである」=( )内は筆者注=
 ここでは、非近代的装飾性と近代的装飾構造の違いが述べられている。
 しかし、近代的に意識された美の観念の意味と、非近代の装飾の主体となった宗教的意味とは、意味そのものは変わっていても、意味論的な本質としては同じものではないか。
 近代においては、非近代の宗教的意味にとって替わるものとして、美の観念という新しい主体的意味が登場した。
 早い話が、近・現代美術は、色や形・空間・素材の持つ具体性のなかに、美の観念の普遍的意味を拡大投影し、アッサンブラージュしながら自己増殖を重ねてきた。それによって、純粋美術という専門集団の共通言語として抽象的造形言語をつくりだしてきた。当然、この場合の意味内容の文脈は、西欧的概念にもとずいて組み上げられてきたものだ。
 だから、意味を先行さす装飾的造形的構造というものは、柳宗玄のいうように、かならずしも非近代社会のものだけとはいえない。
 むしろ問題は、こうした視覚造形に付加されていく意味と、その変化を「文化の主体」と考えるか、そう考えないかで、文化のとらえ方は一八〇度違ったものになるということだ。
 ここから、我々現代人が縄文を了解不能なものと考えるか、感応可能なものであると考えるかの違いが生まれる。

【非国家的なものの消息】
 次に、装飾あるいは造形的構造の問題から離れて、もう少し別の面から、日本の陶磁史の重要なポイントを考えてみよう。
 五世紀ごろ、日本に高温焼成の技術が半島から招来され、須恵器がつくられるようになったといわれている。その後七~八世紀には、大陸から緑釉陶や唐三彩などの施釉陶が伝えられ、九世紀に入ると、愛知県猿投で灰釉陶がつくられるようになったようだ。
 この時期の陶器の需要者たちは、ほとんど律令国家を形成する勢力の側で、陶器のデザインや技術などほとんど外来の文化の影響下にあったとされている。
 しかし、十一世紀末ごろになると、この猿投を中心にして、奇妙な技術的退行がみとめられるようになる。せっかくの施釉陶があまりかえりみられなくなり、再び元の無釉の須恵器へと傾斜していくのだ。
 そのあたりのことを、もう一度『日本の陶磁展』のカタログから引用してみる。
 「この時期(十一世紀)に、日本は厳しい輸入制限を敷いていたと推測され、あるいは十世紀の鎖国策が効力を持っていたのであろうか。輸入される高級陶磁の激減が、旧来の日本の主導的陶窯の創作力を枯渇させたと解釈して、緑釉陶や灰釉陶の衰退は一応説明できるが、それ以上に、高級施釉器皿よりも安価な無釉陶を求める人々が抬頭して来たことが、より重要な要因となっていると最近考えている。
 この人々こそ九・十世紀に高級器皿の需要者となっていた律令国家の貴族や官僚たちでなく、時代の表面に新たに登場した地下の人々ではなかったかと考えている……」と述べている。
 この論旨にも不思議な矛盾がある。
 たしかに、需要が拡大することによって、効率的な生産が求められれば、焼成技術的にも効率の悪い施釉陶が駆逐されるという意見も一応はうなずける。しかし、もし新しく台頭してきた地下の人々が、貴族たちの施釉高級器皿に本当の価値を置いていたら、むしろ施釉陶が爆発的に開花するという可能性もあったわけで、むしろ、そうなるのが人間の欲望としては自然ななりゆきのような気がする。しかし、事実はどうもそうはならなかったようだ。その辺の事情がもっと検証されないかぎり、この意見は、にわかには信じがたい。
 また、模倣する対象を失ったから創作力が枯渇したというのも不自然な話だ。すでにこれ以前に輸入されて、規範となっていた越州窯などの施釉陶器があり、灰釉陶の技術も導入されていたのだから、注文主にそれを良しとする意志があれば、簡単にその技術が退行して創作力が枯渇するとは考えにくい。
 なんらかの別の必然が働かないかぎり、そんなことがあり得るのだろうか。
 もしかりに、既成の権力の力が働いて施釉陶の製作が禁じられたとしたら、退行はあり得ることだ。
 そうでないとすれば、新しく台頭した地下の需要者たちには、単に安価だからという理由以上に、もともと施釉陶などありがたがらない、限られた貴族たちの世界とは別の価値観が働いていたと考えることもできる。
 また同じ時期に、大量につくられた山茶碗をのぞく大物器物がロクロ成形ではなく、手びねりの紐づくり成形という原始成形法に逆もどりしていることも不思議だ。
 これは、先の灰釉陶の衰退が量産による効率化のしからしむるところだという意見に、大きく矛盾する。成形の効率という点からみれば、ロクロ成形は手びねりの紐づくりの比ではない。
 この時期の大物成形が原始成形法へと回帰した理由は何であろうか。
 そして、この猿投の陶業が平安末期から新しく台頭してきた常滑、渥美に生産の主流をゆずってしまうのはなぜか。
 これには、当時の海路流通の地理的優位性などが大いに働いているかもしれない。しかし、ここで注目したいのは、猿投と常滑・渥美の土味の違いについてである。
 常滑・渥美の土は、猿投の白色度の高い土にくらべて鉄分が多く、それだけ土色の焼成色が強く出る。しかも常滑の土は、渥美の土以上に、その傾向が強い。
 その後、装飾的要素が常滑より多く、しかも器体そのものに軽快なデザイン指向がみられる渥美が衰退し、どちらかといえば野太く、野性味の強い常滑が圧倒的な勢力を持つようになり、常滑の影響力が全国に波及していく事実はなにを示しているのだろうか。
 常滑の土味と野性味の強い器体が急速に波及し、その影響のもとに全国に新しい窯場がつくられ、新たな須恵器の窯も登場するにいたるという消息は、常滑の陶器に、地下人のなかに眠っていたなにかを呼びさます力が秘められていたことを物語っているのではないだろうか。
 需要が一部の貴族階級やそれに属する知識階級に集中していた十一世紀あたりまでの、外来の影響が強かった時期は別にして、日本の焼きものの幅広い底流をなす部分には、考えさせられることが多い。
 これは、一部の貴族階級の嗜好と、幅広い民衆の嗜好には大きなへだたりがあったのではないかという事実を示しているかのようにみえる。
 特権階級が他文明を受け入れ模倣することに力をそそいだのにくらべて、地下の者たちは、それとは無関係に、身近にある土を利用しながら野性的な陶器にひたすら傾斜していったのではなかったか。
 はじめに、桃山の数奇者たちが野の魅力を名所旧蹟の観光地のようなものにしてしまったという思い切った言い方をした。
 利休の茶の精神をよりどころにしている人たちからみれば「なにを寝惚けたことを」と一喝されることだろう。そこで、もう少し厳密な言い方をすれば、利休以後、古田織部からの数奇者たちによって、ととりあえずいっておこう。
 利休自身は「路地の樹天然の趣其心を得ざる輩は是より速かに歸去れ」(露地清規)といったように、そこらあたりのありふれた自然に接して、なおかつそこに天然の趣、人為のおよばぬものを感得する力に価値を置こうとしていた。むしろ、この利休は、日本民族の底流にあったこの野の美意識を透視して、生活の正面に据えようとした人物だった、と考えてもいい。
 利休の茶の湯が、実生活に対する態度として意識されていたことは、利休の筆になると伝えられる一枚起請文の「もろもろの智者達の申さるる観念の茶の湯にはあらず」という言葉からもうかがえる。こうした利休の表明には、もちろん既成の貴族階級やそれにつらなる高僧たちの知識階級の形式化された喫茶道と一線をかくそうとする意識が下敷きになっている。
 それは、さらに「数奇者はりかうになく、ぬるくなく、ただとりまわしのきれいなる様にたしなむ事肝要なり」と、もう一歩踏み込んだ具体性をともなった言葉にもなる。
 ここでいう「ぬるくなく」という言葉の意味するものは複雑で、いろいろな受け取り方がある。一般的には「既成の概念に、ただ漠然と則って数奇者として無自覚な状態をいましめる言葉」と解釈されているようだ。しかし、利休の茶の湯が、新しい市民階級の新しい生活の態度として求道されるかぎりにおいて、これはただちに既成の価値観に対する反文化的立場となるわけではない。
 むしろ利休という一個人の、身の廻りの事柄や自然の事物に対峙するときの内省的問題になる。「野にある者は、はっきりと野にあることを自覚せよ」というのが「りかうになく、ぬるくなく」といった利休の本意ではなかったろうか。
 この利休の思想は、新しく台頭してきた権力構造や力とは本来無縁なもので、まして、王権の側にある貴族たちの伝統とも無縁な、野性の空間を意識した思想だったようにみえる。
 この時代、既成の価値観への反文化として徹底した前衛を具現化しようとしたのは、むしろ秀吉のような人物であり、茶の湯の世界でいえば、利休以後の古田織部のような茶人たちではなかったろうか。
 野が野であるままでは満足できない気運のなかで、利休は秀吉のような前衛(反文化)の旗頭と交叉し、反文化としての新しい権力に思想的背景をもたらしながら、最後には切り捨てられることになっていく。
 しかし、ここで見落としてならないのは、むしろ利休や織部などの意識の問題ではなく、この時代を生きた無数の無名の陶工たちのことだ。
 たしかに、これらの陶工の仕事には、桃山の数奇者たちによって火をつけられた面が強かったかもしれない。しかし、この時代の陶工たちのなかに、もし、土の持つ力強い質感や、のびのびと野太く自由な表現力を感得する力がなかったら、また、瀬戸の白土をもっと荒ぶれた力強いものに変えたいという感覚的身体的必然がなかったら、誰が火を付けても、黄瀬戸も志野も、織部さえも生まれることはなかっただろう。
 世界に類例のない独自な陶器の世界をつくりだしたのは、陶工たちの身体のなかを流れていた、土の霊力を引き出す力だった。
 このことを考えずに、すべての成果を桃山の数奇者たちに帰する視点で、あまりにも伝統が語られすぎてきたのではないだろうか。

【土や石の霊力に導かれて】
 芳村さんは、焼きものを日本列島という視野のなかで、縄文以来の長い時間に重ねてみせるという、実証的な仕事を続けてきた。しかし、芳村さんにとっては、そのことが目的だったわけではない。
 現在の一五〇万人といわれる陶芸人口のすべての人々が、自分の足元にある土や石で、陶胎をつくり、釉薬をつくり、多様で個性あふれる焼きものの世界が現出することを夢みているのだ。
 これは、自然をむりやり人間の欲望へと引きよせ、その目的に必要なものだけを純粋抽出するという生き方ではない、別の生き方を示唆している。
 人の前にある自然と、人間の希求が対等に渡り合い、交歓していく、物質との幸福な出会いの世界への夢なのだ。
 こうした土とのかかわりは、たぶん明日の思想の芽となって、日本の焼きものの世界を再び世界に類のない豊かなものにしてくれるだろう。
 東北日本を中心に、全国に分布した豊かな縄文土器の世界、日本列島のすみずみへと波及した常滑の不思議な野性の力が、再び私たちのなかでよみがえるだろう。
 芳村さんが語るように、土の質は、触覚的に全身の身体感覚につながっている。造形的作物のフォルムや色彩などの視覚的記号は、人間の観念に働きかけ、時代の意味をつくりだし、変わっていく。
 しかし、そのものの持つ質は、肉体として造形の生命を宿し、人々の身体感覚へと通じていく。
 「精密な分析より、不純な全一が好きだ」と語る芳村さんは、いまの時代を生きる私たちの不幸について、土を手にして思索してきた人だ。
 その言葉からは、この宇宙と人間にはらまれた混沌の、なに一つも切り捨てまいとする、強い決意が伝わってくる。
 そして、太古から人間がそうしてきたように、土や石の霊力をなかだちにして、宇宙の混沌と語り合った言葉が、土という無限の粒子のなかに結晶しながら輝きわたる世界がみえてくる。
 宇宙から生まれた物質と、人間の精神が交歓する愛の体位は無限にあるのだ。焼きものは、その希望を抱かせてくれる仕事でもあるはずだ。
 あるがままに美しいものを、プリミチーフに生かすことのできる仕事など、現代では、そうざらにあるものではない。
 これからの時代は、いままで見捨てられてきたどこにでもある、何気なく美しい野草のような存在に、人々の心は慰められ、傾いていくだろう。都市はもう文化を生みだす力を喪ってしまったから。

   堀 愼吉 初出:Art'89春号(マリア書房1989年3月26日発行)

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