Sound Horizon

100419

【考察】『Chronicle 2nd』についてのあれこれ

今日、自転車乗ってたら思いついたのでメモしとく。
読む人をあまり想定しないで書くので、読みたい人だけどぞ!

・やっぱサンホラの作品群はクロセカが分水嶺だってこと。
・クロセカ以前は、構造的に物語が物語の中で閉じてしまうような話。
・ちなみに私はそういう話も嫌いじゃないです。
・構造的に閉じているので、そこでの主張も必然的に閉じたものになる。「タナトスは誰も逃がさない」とか、「ねえ君生きてるのって楽しいかい?」とか。こういう「そんなこと言われたって、生きている限りどうしようもなくね?」という問題はどうやったってそれ以上発展しないのだ。
・ちなみにロストの「流れていきなさい」は、その“閉じた主張”に対する“カウンター”である。これが有るか無いかがタナトスとロストの違いであり、ロストがタナトスより前進した点でもある。

・そしてついにクロセカでは、物語の構造的にも脱出口を開くことができた!
・最後のモノローグ、「空白の十秒。君の世界へと続くクロニクル」がその脱出口。
・なお、その前曲ハジクロでは、“閉じた主張”に対する“カウンター”もここで出てくる。「生き延びるんだ。どんなことがあっても生き延びてゆくんだ。」がそれにあたる。
・じまんぐ氏の「クロセカ聞いてマジビックリした!」ってコメントをどっかで聞いたことあるけど、それは閉じた物語構造への脱出口と、閉じた主張へのカウンター、両方を兼ね備えることができた作品だったからなんじゃないか?
・まあつまり「物語」が「現実」へ接続されることで、自閉する物語から構造的にも脱却できたんじゃないかっつー仮説。そのおかげで、一層広く重層的な世界観を扱えるようになった。
・エリ組は先祖がえり。ありゃ脱出口がほとんどない話。とはいえクロセカ以前の作品に比べると圧倒的に複雑で、閉じた系の作品としては至高の存在。しかしなんでまた先祖がえりしたのか、その頃のRevoさんの心境は興味深いけど、まあそれはそれとしてArkはいい曲だよね!
・続くロマン、イベリア、ミラは全て現実への接続点のある作品となった。

・とはいえ、現実へ接続したからといって、さらにその上のレイヤーもあるんだよね、って主張はクロセカから一貫していること。
・それはタナトスやロストで扱ってきた主張よりも、より大きく深いものである。なぜならそれは私たち自身の存在そのものへの疑問にも直結しているから。
・そういったある種、哲学的な問題に対しては、単なる“カウンター”として「こんな風な心持でいけばいいんじゃね?」と答えるだけではなにか物足りない。 だってこれって今を生きる私たちにも関係のある話なんだもの。もっとシリアスで切実なお話なんですよ!
・そういう意味では、ミラコンでエレフがMoiraに「能動的に」戦いを挑みにいったのは、画期的だった。
・だってクロセカでクロニカさんに戦いを挑みに行ったやつはいないし、イベリアで悪魔夫妻が今もずーっと戦い続けてるという直接的な描写は無いでしょ? いやきっとそうなんだろうなーとは想像できるけども。
・それが、ミラコンでエレフはMoiraに戦いを挑んだとはっきりと描かれている。つまり“カウンター”を宣言するだけじゃなく、実際に能動的な行動が伴ってきたと言える。

・というわけで、私が次回作以降に期待したいのは、世界をまるっと覆うめっちゃ大きなものに対して、ちっちゃい個人はどうやって戦ったらいいのか、っていうことへのアンサーだな。
・つまり、大きな歴史の流れとか、生きていくことそのものについてとか、あらゆる正義のぶつかりあいとか、運命そのものとか、そういう大きなものに個人はどうやって対峙すればいいのか、戦わないで仲良くなるって方法もあるけど、そうだとしたらどうやったら仲良くなれるのか、それが知りたい。
・地平線の先にはさらに地平線があって、私はさらにその先が見たいのだ。
・つまりRevoさんがんばれ。超がんばれ。

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「エリ組は、どう解釈しても破綻するというその綻び自体が突破口として用意されてる気がするが、 実際はそこまで考えて作ってないんじゃないか?」という意見に対して。

たしかにエリ組を「ひとつづきの物語」として「解釈」しようとすると、破綻する。

その破綻こそが突破口なんだ、っていう考えもナルホドーと思ったんだけど、それはちょっとあまりにも主体性が無くないか? って思っちゃうんだよなあ。だってクロセカであれほど力強く「断言」できたのに、エリ組ではやんわりくるんじゃった、っていうか……。

「生き延びるんだ。どんなことがあっても生き延びてゆくんだ。」ってすごく強い断言だと思うんだよ。なぜって、これは裏を返せば、どんな残酷な運命が待っていたとしても生き延びろ、ってことじゃん?
あまりにも辛いことがあったら、生きてないほうが楽だってことはいくらでもあるはずなんだよ。。。

それでも断言しちゃう、と。私はこういう断言を「強い肯定」と呼んでいるのだけど、こういう信念? ってか強い思い込みがないと、世界全体を覆う残酷な真実とか、見もフタも無い現実ってのは突破できないと思ってるのね。

実はこういう強い肯定は、『Roman』以降使われなっていくんだけど(『Roman』では「しあわせにおなりなさい」がそれにあたるかな)、その理由は二つ考えられる。

ひとつ、レボさんが年とって「強い肯定」だけで突破できるほど世界は単純じゃねーよと考えるようになった。
ふたつ、「強い肯定」はもうやった。次は宣言するだけじゃなく、それをどのように行うか、を表現すべき。

というわけで、私は「どのように行うか」の部分に注目してる、ってわけです。

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それと追加で思いついたんだが、もし「突破口」があったとしても、それがプラス方面の突破口じゃないって場合もあるよね。私はプラス方向しか見てなかったけども。
「クロセカ」がワームホール的突破口なら、「エリ組」はブラックホールと言えるのかもしれない。

そう、だからひょっとすると「エリ組」は先祖がえりではないのかも? ベクトルが違うだけなんだ。ううむ。

とすると、「エリ組」に「閉じた主張に対するカウンター/アンサー」が無いのも納得がいく。 マイナス方向に無限大! してる話に「カウンター/アンサー」なんて必要無いですし……そりゃそうだよね。

でも、それじゃあんまり話が広がらんね、ってことで、続く『Roman』『イベリア』『Moira』はプラス方向への話になってるってことなのかもしれないな。

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「最終的にルキア(達?)は黒の予言書に勝利したんだと思ってます。」という意見に対して。

『ハジクロ』は黒の預言書への勝利の歌だってのは、確かにそう。それは間違いなくそうで、だから私がいっとう好きな曲なんだ……けれども、ルキアたちが本当に勝利できているかというと、ちょっと疑問。(というか、ルキアたちがどうなったのかは私たちにはわからない、というのが正解というか……これは後で説明します)

それにしてもだよ。この「勝利」って結局何なのか? =閉じられた世界から抜け出すこと? うむ、その通り。
でも、ルキアたちのいる世界って、その構造上ループから逃れられないわけっすよ。これはもう物理法則みたいなもので(まぁノアが元凶なんだけど)これはぜったい超えられない壁なわけだ。
実際に『キミが生まれてくる世界』で、「結局彼女は運命の手から逃がれられませんでした」って言われちゃってるしね。。。

いやいや、実は超えられるんですよー! (ノアをアレするとね……みたいな)設定が万が一あったとして、じゃあ仮に超えられたと仮定しよう。ルキアが勝利できたことにする。しかしその先の世界はどうかというと……

『ハジクロ』の世界も「抜け落ちたページ」とは言われているけれど、「ページ」と言われている以上、本の一部であることは超えられない。

さらに一段レイヤーを上げよう。『クロセカ』という作品そのものも、私たちから見ればCDという音楽データの記録媒体以上の何ものにもなれない。ある日いきなり曲が増殖したり、中の曲が変化したりってことは無いよね。。。 まあ、データが消えることはあるかもしれないけど(笑

さらにさらに一段上がってみよう。私たちのいるこの世界だって、物理法則は絶対に変えられないし、もっと上のレイヤーにいる人たち(神様でもいいや)から見たら、CDを叩き壊すのと同じぐらい簡単に消しちゃえるものなのかもしれないね?

……つまり「勝利」=閉じられた世界から抜け出すこと、なのだとしたら、まず抜け出すのがすごく難しい。しかも、万が一抜けたとしても、その先にはまた幾重にもかさなる世界があって、結局また捉えられてしまうのだ。
これが、「書の囁き」でクロニカさんがぶつぶつ言ってることの本質だと思う。

しかしそれにもかかわらず、なぜ『ハジクロ』は勝利の歌なのか? と。
一旦ここで切ります。

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前項のまとめ

・『ハジクロ』は黒の預言書への勝利の歌である。
・しかしルキアたちが勝利できたかどうかは疑問。
・そもそも「勝利」とはどういうことなのか。とりあえず=閉じられた世界から抜け出すこと、と仮定する。
・しかし結局はクロニカさん言うところの、「ワタシもアナタも誰ひとり逃がれられないのですから」ってのが真実である。つまり、閉じられた世界から本当の意味で抜け出すことは絶対にできない。
・にもかかわらず、やはり『ハジクロ』は黒の預言書への勝利の歌である。 ←今ココ

つづき

さて、『ハジクロ』は黒の預言書への勝利の歌である、という前提は正しいとするなら、その勝利の方法=閉じられた世界から抜け出すこと、ってのが間違っているんじゃないかと考えなおして、もう一度『ハジクロ』について考えてみます。

『ハジクロ』の歌詞を読むと、そこには「この世界から抜け出そう!」という趣旨の話は出てきてなくて、徹頭徹尾何が言われてるかってと、「とにかく生き延びてちょうだい」ってことが書いてある。と、思う。

そりゃあ「閉じられた世界からは抜け出せない」という前提があれば、こうせざるをえないよね(笑 とにかく与えられた世界、生まれた世界で一生懸命やれよってこと。
ま、でも考えてみればそれが正解なんじゃないかな、と私は思うのね。そもそも閉じた世界から脱出しなければならない、と考えるのがちょいおかしなことであって。

だって、閉じた世界にいるからこそ、私は私として存在できるわけだし。例えばこの体という閉じた系があるからこそ、こうやってモノを考えることができる。この世界という閉じた系の中の強固な物理法則があるからこそ、こうやって生きていられるってわけ。

ルキアたちにとってもそれは同じこと。ノアによって作られたループ世界を超えることは、ひょっとしたらできるかもしれない。でも、もうちょい広げて「クロセカ」という作品単位で考えたら、そもそも「クロセカ」がなければ、ルキアは存在すらできないんだから!

というわけで、『ハジクロ』は黒の預言書への勝利の歌である、という前提は、勝利の方法=閉じられた世界から抜け出すこと、ではなく、閉じられた世界を肯定し、そこで一生懸命生きることで、黒の預言書=クロニカさんのつぶやき=「ワタシもアナタも誰ひとり逃がれられないのですから」から逆説的に逃れることができる、と捉えることができるのではないかな、と。

さて、「閉じられた世界からは抜け出せない」って散々言っといてなんだけど、実は一つだけ方法があります。ってか強制的にそうなるっていうか……それはつまり「死」です。
死ぬと越境できます。っていうか正確に言うと死ぬとどうなるかよくわからんけど、なんかこの世界からはいなくなるっぽいから、どっか別のとこに行っちゃうんじゃないの? という推測ができるって程度なんだけど……。あんまりここ突っ込みすぎると宗教くさくなるので、この話はここで止めときますが。

『ハジクロ』に出てくる「ボク」は実はもうすぐ「越境」しようとしている人だと思うのね。咳をしてるし、きっと病気かなんかなんだろう。「ボクは、もうすぐキミの世界から消えてしまうから。」って言ってるってことは、自分がもうすぐ死ぬってわかってんだなー。
そういう人がこの曲の主人公だって考えると、なんかすごく切ない。自分はもうすぐ死んでしまうというのに、「生き延びるんだ。どんなことがあっても生き延びてゆくんだ。」って残される「キミ」に向かって、一生懸命語りかけてるわけです。

最後に、結局ルキアってどうなったんでしょうね? ノアの統べる世界はループする世界なので、ひょっとするとそれって「死の無い世界」と言えるのかもしれない。いやアルヴァレスさんとかは確かに死んでるけど、結局最後で巻き戻されて~って考えると有る意味復活してるとも言えるわけで(笑
なので、ルキアがノアに勝ったのだとしたら、それはノアの作った(?)世界に「本当の死」を呼び込んだことになるのかもね。つまり、私たちが唯一可能な「越境方法」ってやつを手に入れたのかもな。

そう考えると少し『Moira』のタナトスに似たところあるのかも。

でもルキアのその後は語られていないから、わからないね。
まあそんなかんじです。