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蟲師

2005年10月22日〜、フジテレビ系列にて。
絶賛放送中!

第一話第二話第三話第四話第五話
第六話第七話第八話第九話第十話第十一話第十二話

第十三話〜第二十六話(次ページ)

【2005/10/26】

第一話『緑の座』

<あらすじ>
人里離れた一軒家に、「神の手」を持つと言われるシンラという名の少年の噂を聞いた主人公ギンコは、その噂を調査しようと彼の元へ出向く。ギンコの調査の申し出はシンラにやんわりと断られてしまうが、「世間話程度なら構わないから」と、二人で仲良く酒を酌み交わすのだった。
その夜、眠りから醒めたギンコは、シンラが一人で住んでいるはずの家に、もう一人見知らぬ少女がいることに気づく。はたして、彼女は一体何者なのか?

<感想>
動物でも植物でもなく、命そのものの根源に最も近い存在を「蟲」あるいは「みどりもの」と呼ぶ。彼らの存在を普通の人々が知ることはほとんどない。ごくまれに、蟲たちの“在り様”が人のそれと触れ合った時のみ、彼らの神秘的な存在を感じることが出来る。この「蟲」と「人」とをつなぐ存在を「蟲師」と呼び、主人公ギンコもまたその一人だった……。
彼と、彼の旅にまつわる「蟲」と「人」との物語を描く一話完結型のアニメ、それが『蟲師』だ。

私がこのアニメの原作漫画(著:漆原友紀)に出会ったのはいつだったか忘れたけど、まあとにかく表紙の雰囲気(厚みのある和紙のような紙に、水彩で描かれた絵が印刷されている)が気に入って買ったことは覚えている。
その内容もまた独特の雰囲気を持った作品なので、果たしてこの「雰囲気」をアニメ化できるのか!? と不安に思ったファンも結構といたんじゃなかろうかと。 かく言う私も、その一人だったんです、が……いやぁーこれはいい! 素晴らしい。マーベラス!! 27:45分開始という超深夜(というより明け方)にやってるのが本当に勿体無い……少なくとも第一話を見た限りではそう思った。

人物は漫画の特徴を生かしつつ、アニメの絵として綺麗に昇華されていると思うし、背景は水彩のような塗りが施してあって、これまた原作の雰囲気が良く出てる。
アニメの一番の特徴はやっぱり「動きがあること」だと思うんだが、作品の内容上それほど大きなアクションが出ないかわりに、ちょっとした仕草の表現がとてつもなく良い。廉子(れんず)の髪の毛が揺れるところとか、後姿の帯びが少し遅れてはずむところとか、もうなんというか、ただ一言……萌える!!
仕草もだけど、光酒の描き方とか蟲の描写とか……たぶん特別な手法を使っているわけではないのだろうけど、実に実に丁寧に作られていて美しかった。

ギンコの声も私としては、わりと思っていたとおりだったので、特に問題は無かったです。(シンラ君の声は、エウレカのレントン少年なんすね)
ギンコについては彼自身の声よりも、最初のシーンで背負っていた道具入れの箱をかつぎ直した時に「ゴトリ」と音がしたところで、「うわ! ギンコが! ギンコが動っ動いたあ!!」と感じた。なんでだろう。音の使い方が良いからかなぁ……何にせよ、効果音にすごく存在感があったことは確かだ。

音といえば、エンディングの入り方も良かった。本編から途切れることなく繋がっていて、そこになんともいえない余韻がある。
そういう意味では、土曜の明け方という時間帯に放送されるのは悪くないのかもしれない。 この胸に染みる物語と、幽玄の世界を楽しむには。

とにかく良かった。来週も楽しみ。


【2005/11/02】

第二話『瞼の光』

<あらすじ>
“光を見ると目が痛む”という奇病に冒されてしまった少女、スイ。一日中真っ暗闇の土蔵の中で過ごす彼女の遊び相手は、その土蔵の持ち主の息子ビキひとりだけだった。しかしある日、そのビキまで彼女と同じ病を患うことになってしまい……。

<感想>
この話は、原作では月刊誌アフタヌーンへの投稿受賞作だったかと思うので、実質的には「蟲師」の最初の話、と言ってもいいのかも。
最初期の作品のためか、マンガ版ではギンコがちょっと変なズボンをはいていたり、ビキが洋服を着ていたりして、絵としてはちょっとイレギュラーな雰囲気なんだけど、アニメ版では原作者の意向もあって、その辺は修正されたそうだ。(……って今月号のアフタヌーンに書いてあったよ)

まー、なんというか。画面はあいかわらず綺麗。
途中、ギンコが踏みつけた草が、ペタっとした塗りの草ではなくて、水彩のような塗りの草でちょっとビックリした。あんなのどうやって動かすんだろ? 最初に塗ってから、変型ツールか何かでグイグイやって一コマずつ、とかなんだろうか。サッパリわからん!

さて、今回のお話。ちょいグロな描写とかあったかと思うんですが、実はこれが「蟲師」の真骨頂。光があればまた闇もあるように、「蟲師」の話の中には美しいものと醜いもの、ほっとするものと残酷なもの、やさしいものと恐ろしいものが渾然一体となっている。
まぁ……このあたりがイイところでもあり、また深夜にやる理由なのかもしれない。子供がみたら(怖くて)絶対泣く っていう話も結構あったりするしなぁ。

そんなこんなで、また最近原作を読み返したりしてます。忘れていた話とかもあって、ちょっと新鮮だった。アニメの場合どうやって表現するんだろう? ってな話もあって、今から楽しみ。

ところでgoogleで「蟲師」を検索すると、前まではアニメ版公式サイトがトップだったのに、今日はAmazon.co.jpのマンガ版第一巻がトップになってた。googleのランキングはころころ変わるけど、アニメをきっかけにマンガも売れはじめているのかな。

オダギリジョーの主演で映画化もあるそうだけど、こっちはまだあまり情報が出てないですね。


【2005/11/13】

第三話『柔らかい角』

<あらすじ>
今回の舞台は、雪深い里。そこでは雪の降る季節になると、耳が聞こえなくなるという謎の奇病が流行っていた。蟲師ギンコはそれが蟲によるものだと見抜いたが、その中でただ一人、村長の孫の真火(まほ)だけは他の者とは違った症状を現していたのだった。

<感想>
おっと、うっかりしてたら第四話の放映日だよ。その前に前回の感想ね。
さて、今回はちょっと季節先取りで真冬の話。雪が綺麗だ! 雪みたいに単純だけど沢山のモノを動かさないといけない場合は、やっぱりCG様々なのだと思う。(私はFLASHしか動かしたことないけど)
そうそう、CGと言えば蟲の動きとか、第二話でスイの目からドワーって出てくるやつも、てっきりそういなのだと思ってたんだけど、あれ全部描いて動かしてるんだって……恐ろしい!!

サイト「蟲師空間」ではスタッフの方々の日記も読めるので、こういう裏方のお仕事がチラ見できて楽しい。
ここは「感心空間」のシステムを使っていて、作り手と受け手が渾然一体になったコミュニティを作っているんだけど、実はこういうのって運営がなかなか難しいと思うんだよな……でも蟲師とはなかなか相性良さそうだ。まったりジワジワと広がってるかんじです。

さて第三話の話に戻って、マホの声なんだけどこれはリアル子供さんなのだな! かわゆい。声優さんの演技は大好きだけど、キャラクターに近い年齢の子の声だとやっぱり本物感がある。
声もだけど、今回の話はとにかく音響が良かった。イヤホンで聞いてて正解だった! 深深と降る雪の音、蟲のざわめき。でも、あの一瞬音が無くなるシーンは、「げっ、故障か!?」と思ったのは私だけじゃないよな……。
あと、両手を耳に当てて溶岩の音を聞いてみようとしたのも、絶対私だけじゃないよな。

そうだ、原作読んでいた時は「何でツノが生えるんだ?」と思ってたけど、耳の器官の内耳蝸牛(ないじかぎゅう)→蝸牛(かたつむり)ってことで、ありゃカタツムリの角だったんだね。いやー、ぜんっぜん気付いてなかったヤ。

さて、来週は「枕小路」です。ゾクゾク。


【2005/11/17】

第四話『枕小路』

<あらすじ>
“とても良く当たる予知夢”を見る、ジンという男を訪ねたギンコ。もちろんその夢は蟲が見せる夢だった。
ジンに治療薬を渡し「薬が無くなる頃、また来る」と言って、一度は男の元を去るギンコだったが……。

<感想>
来ました。日本昔話版「本当は怖いグリム童話」
まあ、ヨーロッパの童話の怖い部分が「人為的な恐怖」中心なのに比べて、日本の昔話の怖さは「人智を超えた恐怖」みたいなところがあると思うんで、「本当は怖いグリム童話」とはニュアンス的にはちょっと違うのかなぁーとは思いますが、まあともかくホラーです。
こういう小昏い話もあるところが、蟲師シリーズのおもしろいところ。

それにしても、今回の蟲「夢野間(いめののあわい)」はなんか凄いパワーを持った蟲だ。「人の見た夢を現世に持ち込んで、具現化させる」なんて、そんなの有りかよ〜!とも思ってしまうけど、まぁそれは人間から見た場合のみ「ありえない」話なのであって、蟲からすると「あたりまえ」の生理現象(?)みたいなものなのかもしれない。

だからこそ、この話は悲劇たりえる。まさに『お互いがお互いの生を遂行していただけ』で、誰も悪くないんだから。
蟲師であるギンコが、蟲にある種の親近感を持つ一方で、ギンに「死ぬな」と言うのは、彼の中では全く矛盾していないことなんだろうけど、こういうことがあるとギンコ的にも結構辛いんだろうなぁ。

話的にはちょっと混乱しそうな所が多少あるけど、ジンが見た「現実に起きた事件」の中では、津波だけが自然災害だったということと、後半のジンの夢が現実と混ざってくる所で、ジンが登場しているシーンは全てジンの夢の中だってことを押さえられれば、なんとかなる気がする。
私も一回目は微妙だったところが、二回目を見てやっと納得できました。
そうそう「二回目」で思い出したけど、ジンの寝室が出るシーンでは必ず枕が画面に入るようになってんのね……細かい!

絵は相変わらず綺麗で、特に夢野間の群れが飛ぶシーンが良かった。
それと、最初と最後の「合歓(ねむ)の木」の絵が象徴的だったな。始めは「オジギソウ」(別名「眠り草」:触るとすぐに葉っぱを閉じる妙な植物)かと思ったけど、オジギソウとは花が微妙に違ってたので、たぶん「合歓の木」だと思う。
合歓の木は、夜になると葉っぱをゆっくり閉じる性質があって、文字通り「眠りの木」→「ねむの木」ということらしい。

まあ何はともあれ、皆様……良い夢を。


【2005/11/24】

第五話『旅をする沼』

<あらすじ>
ギンコは医者の化野(あだしの)を訪れるため、海辺の漁村へと赴く。好事家でもある化野は、彼の持つ品を欲しがるが、ギンコはその替わりにあることを手伝って欲しいと頼むのだった。

<感想>
「蟲師」は一話完結スタイルの作品だけど、今回の話のように“「阿」という蟲に寄生された時に生える角”とか“神の手を持つ少年の描いた緑の杯”なんて以前見たことのあるアイテムが出てくると、作品の世界観が広がっていいなと思う。連作短編集って好きなんだよなー。
連作といえば、今回は化野(あだしの)センセが初登場。今後も(たぶん)何度か出てくる人なので、ちょっと覚えといてあげてください……。

さて、五話目ともなるとアニメ版ギンコもかなり馴染んできて、いいかんじになってきました。なんかこー、しゃべったり動いたりする分、マンガ版よりも生っぽい、というか色っぽいかんじがする。
今回のヒロイン「いお」も、最後泣くところでホロリと来た。水神様の嫁になる=人身御供ってことだから、彼女のように奇跡的に生き残った場合でも、元の村に帰るなんてムリなんかねぇ。こっそり一度くらい帰って、母親にだけでも会えればいいなあとか思っちゃうけど、それはまた別の物語。

何はともあれ、第五話『旅をする沼』で原作の第一巻分は終了。原作読みには一区切り、というかんじかな。
さあ、来週は『露を吸う群れ』だ。原作の中では相当好きな話なので、楽しみです。


【2005/12/3】

第六話『露を吸う群』

<あらすじ>
少年ナギが「医者の先生に紹介してもらった」と言ってギンコを案内した先は、彼の故郷の小さな島だった。その島では、人々は“生神(いきがみ)”というものを信仰しているのだが、ナギによると彼の幼馴染のアコヤという少女が、最近その“生神”になってしまったらしい。ナギは彼女をなんとか元に戻して欲しいと、ギンコに頼むのだが……。

<感想>
『露を吸う群』は蟲師の作品群の中でも、かなり要素の多い作品の一つだ。ホラーやミステリ、自然・科学、恋愛や家族愛、希望と絶望、生と死などなど、……まあともかく、あの短編の中によくこんだけの要素を詰め込めるものだ。すごい。
タイトルの『露を吸う群』にも、「露=水」を吸う「群=ヒルガオに似た花に棲む蟲」という意味と、「露=甘露(アッチの世界へ行ける蟲)」を吸う「群=人々」という二つ意味が込められていたりして、なかなか濃いかんじになっとります。
この内容にテレビアニメの尺では厳しいかったのか、多少駆け足かなと思う部分もあったけど、頑張ってまとめてくれていて良かったです。

それにしても、あの“蟲時間”の概念はとてもおもしろい。
アニメーションとしての表現もすばらしく綺麗だったし、そしてなにより、一日ごとに生死を繰り返す人の見る風景ってどんなものなんだろう、と思う。
アコヤは「一瞬一瞬が限りなくすばらしくて、それを見ているだけで胸がいっぱいになる」と言ってるけど、どんなもんかちょっと見てみたいものだ。

“私”という人間にとって“世界”というのは、この五感で感じるものだけが唯一のもので、それは凄いことでもあり、時に歯痒いことでもある。
ま、私が私でいることは(所詮辞められるものでもないし)それなりに楽しんでいるし、たまに違う視点が欲しくなれば、アニメなり漫画なり小説なり映画なり――とにかく他の人の表現物を見ることで補っていけるんだと思うわけです。例えば蟲師のアニメを見るとかね。

でもアコヤのように、“世界”が苦痛と不安に満ちたものになってしまったらどうだろう。しかも人であることを捨てさえすれば、完璧に満たされる“世界”があって、そこに行ける方法を知ったとしたら。
結局アコヤにとって、ナギは「人であり続けようとする理由」にはなれなかったわけで、それは例えようも無いほどせつねぇわけです。
それでもナギにとって、アコヤの存在は、これからも「人として生きる理由」の一つであリ続けるんじゃないかな、と思う。

……この先もずっと続いていく「普通の人生」が、ナギにとって素晴らしいものでありますように。

さて、毎回毎回テーマカラーが設定されている(らしい)蟲師ですが、今回はずばり「ヒルガオに似た花の色」の“紫”で統一されてたような気がする。毎回色設定が大変だと思うんだけど、頑張って欲しいと思います。

次回はついにあのレインボーマンが来るぞ〜。ドキ、男だらけの蟲師。


【2005/12/11】

第七話『雨がくる虹がたつ』

<あらすじ>
雨止み待ちの樹の下でギンコが出会ったのは、「虹を捕まえるために旅をしている」という風変わりな男、虹朗(こうろう)だった。ギンコは、虹朗が捕まえようとしているのが、虹蛇(こうだ)という蟲だろうと言って、共に虹蛇を探しに行く提案をする。

<感想>
原作の時からずっと、虹朗(にじろう)って読んでました……虹朗(こうろう)かよ!
まあそれはともかく、蟲師に出てくる男連中は皆微妙にヘタレなかんじで好きだなあ〜。今回は虹朗くんもだけど、虹朗の父までも!
この二人、声の演技もなかなか良かった。父ちゃんは憑かれたかんじがうまかったし、虹朗は必死こいて走るところとかよかったぞ! ちょっと喘息の気があるんじゃないかと心配してしまうぐらい、ゼエハア言ってたし。
そして、ギンコは回を追うごとに色っぽさを増している気がする。あなどれない。
背景美術も相変わらずハイレベル。雨に煙る山野の描写は、美しすぎるぐらい美しかったし、雨そのものも、アニメなのにえらくリアルな雨でした。

それにしても、虹朗がギンコに旅をする理由聞いた時、ギンコは「特に理由はない」と答えていたけど、実は全く無いわけでもないんだよな……(原作によると)。
アニメは原作と微妙に話の順番を変えながら進んでいるので、このあたりも計算してやってくれているんだろうと思います。

ところで、虹朗父は放蕩息子さんがニートな旅をしている間に、やはり亡くなってしまったのだろうか。それから、虹朗の変わりに何て名前をつけてあげたのか……ちょっと気になるなあ。
何にせよ、清清しいエンディングで良かった。

次回は、ツンデレ嫁 vs 漁村の娘の回だな。海の描写が楽しみ。


【2005/12/11】

第八話『海境より』

<あらすじ>
ギンコが海辺で出会ったシロウという男は、海で行方不明になった妻みちひを二年半もの間待ちつづけていると言った。ギンコの考えでは、その事故にはどうやら蟲がからんでいるらしいのだが……。

<感想>
またもや原作の時から、「海境(かいきょう)より」って読んでた。「海境(うなさか)より」か!! 蟲師はタイトルがどれもかっこよくて好き。
ちなみに原作の漆原さんのお気に入りタイトルは、この間読んだ「ぱふ」という雑誌掲載の原作者インタビューによると、「春と嘯く」や「雨がくる虹がたつ」だそうです。

雑誌といえば、今月の「CG WORLD」に蟲師特集があって6ページカラーで掲載されてました。第一話の絵コンテの、あまりに力の入りようにビックリ。凄い描きこみだった。
監督ご自身で描かれた、ということでしたけど、自分のやる気を見せるため、気合を入れて描いたとのこと。アッパレだと思いました。

さて今回のお話。結構悲しい話なんだけど、ウヘエというかんじにならないのは、それなりに救いがあるからかな。しかしヘタレ男第二段のシロウはモテるなぁ。
海の描写も良かった。どよどよとしたちょっと不気味なかんじが良く出てました。水みたいに不定形のものを絵で動かすのって、どうやるんだろう。不思議。

次は……お、「重い実」か。ドラマティックな話の予感。


【2006/1/8】

第九話『重い実』

<あらすじ>
ある日ギンコが立ち寄った村は、天災があるたびに豊作がおとずれるという奇妙な村だった。その理由はどうやら村の祭主が知っているようなのだが、祭主は「村人の努力が実りを結ぶのだ」と言ってそのカラクリを決して明かそうとはしなかった。

<感想>
いつものようにオープニング曲からじゃなく、いきなり本編(avant――アバンって言うんだっけ)から始まったのでびっくりした!
あと冒頭のお米の絵が凄かった。個人的にパンよりごはんのほうが好きなもので、うっかりゴクリとしてしまいました。

それからこれは毎回書いているような気がするけど、絵が相変わらず綺麗でハッとする。今回の話は特に動きが少ないと思うのだけど、村の情景とか祭主の家とかミッチリ書きこまれていて凄いなあと思います。
特に時間の経過を絵だけで表している部分は凄い! 人物の顔の影がだんだん長くなっていったり、日の光が暗くなっていくというような、一見地味だけど手間のかかりそうな作業に手を抜かない所が本当に素晴らしい。

それにしても祭主は最後でなかなかキツイ選択をしたもんだ。
『緑の座』、『旅をする沼』、『露を吸う群』あたりで「人が蟲になる」ということについて、色んなパターンを見てきたわけなのだけども、この話の祭主さんの場合は“瑞歯”の性質からして「自分自身が光脈の中にダイブしない限りずっと生き続けられる」ってことなんだよなぁ。
サネはいつか大人になって死ぬ。そして祭主を知る人が皆いなくなった後も、ずっと生き続けるってのはどんなものなんだろう。
“生きながらにして伝説になる”――それこそ祭主の選んだ新しい人生ということか。

次回は「硯に棲む白」「やまねむる」の二本立てであります!


【2006/1/14】

第十話『硯に棲む白』

<あらすじ>
医者であり蒐集家(しゅうしゅうか)でもある化野(あだしの)のコレクションの一つに、“使用する者がみんな不幸に見舞われる”という奇妙な硯(すずり)があった。そうとは知らない村の子供達はうっかりその硯を使ってしまうのだが……。

<感想>
化野先生、再登場〜。この人は医者で蒐集家(特に蟲がらみの物品を好む?)ということなんだけど、自分自身は蟲が見えてないかんじなんだよなぁ。直接は見えないものだから、せめてその痕跡だけでも見たいという欲求があるんだろかね。
それはともかく、寝起きの化野がメガネを探す仕草が妙にリアルで笑った。そうそうあんなかんじになるよな〜。メガネが無いと何も見えないから手探りになるんだよね。とは言っても片メガネってことは片方の視力だけが極端に弱いのかも。だとすると事故などの後天的なもので視力が弱くなったのかもしれないなぁ……とかなんとか勝手に思ってみたりしまして。
それにしても化野とギンコはなんだかんだで仲が良さそう。落ち込む化野に肩ポンするギンコとかいいかんじでしたナ。

今回のヒロイン“たがね”さんについては、声がたくましくて良かった! 職人ってかんじでね。
蟲師に出てくるキャラクターの声は、色々とバリエーションがあって面白い。いわゆるアニメ声あり、フツーの人(もちろん良い声なんですが)あり、リアルな子供さんの声もあり……毎回どんな声優さんの声が聞けるかと結構楽しみにしてます。

ラストで降ってくる霰(あられ)を、ガラスの器に入れて皆で食べてたりしてたのは原作通り。ということはこのお話、夏の話だったってことなんね。
霰と言えば去年の夏にバーベキューをした時、突然三〜五センチ大の霰がバンバン降ってきたことがあるのだけど、あれは体にあたるとかなり痛いものです。基本的に氷の塊なので、石が降ってるのと同じようなもの。というわけで瓦もそりゃ壊れるだろう、というかんじですよ。

引き続き第十一話「やまねむる」の感想です。


【2006/1/14】

第十一話『やまねむる』

<あらすじ>
霊峰に異変を感じたギンコが赴いた先にあったものは、光脈筋(こうみゃくすじ)だった。山の異変はその場所を統制する主(ヌシ)の異変と関係があるとギンコは考え、さっそく調査を開始する。

<感想>
“蟲師”は学者であり、医者であり、そして時に呪術者でもある。「蟲師ってのは調査したり対処療法を教えたりするだけじゃないんですぜ」ってことすね。
ギンコはどちらかというと学者肌な人間に見えるけど、今回は彼の呪術者的側面が見られる貴重なお話でした。

それにしてもムグラノリのシーンはかっこよかった! ムグラは神経細胞(ニューロン)がモデルなんでしょうが、原作だともうちょっと太いかんじだったのが、アニメだともう少し繊細なデザインになってた気がしました。個人的にはもっとギンコの全身覆うぐらいにビッチリくっついてくれてたら嬉しかったんですけど、正直あの本数が限界だろうなとも思います。だってムグラの一本一本が全て違う動き方してんだもんなぁ。
続いてムグラノリの最中の山の中を駆け巡るイメージも、疾走感あってよかった。漫画だと見開き一枚絵でドンと見せる構図だったとこですね。

そんなかんじで珍しく激しいアクションのある今回ですが、さらに珍しいことにギンコが声を荒げるシーンがあったりなんかして、いやぁたまーにこういう時があるとやっぱりグッときます。ね!
しかしムジカもまたせつないラストでした。嫁さんの朔(サク)が、あのお美しいオツコト主様にうっかり勝ってしまったばかりに。っていうかサク最強?
他に何かいい方法は無かったのか……とも思うんだけど、ギンコに言わせればやっぱり「無いねぇ、残念ながら」ということなんだろう。この無常観みたいなものこそ、「蟲師」全体に漂っている雰囲気そのものなんだよなあ。

さて、だんだん“蟲師”なるものの生き方についても具体例がいろいろ出てきてるわけですが、「重い実」の祭主さまはあんなラストだったし、この話に出てくるムジカもまたということでなかなか厳しい職種ではある模様。そもそも蟲が見える特殊体質じゃないとなることもできないし。
そうそう、そういえば我らがギンコはそのへんどーなのよ? ってことで次回「眇の魚」ではその辺りが描かれるんじゃないかなーってとこで、本日の感想はここまで。


【2006/2/3】

第十二話『眇の魚』

<あらすじ>
母を泣くし天涯孤独の身となった少年ヨキは、ぬいという女に助けられる。山中の池のほとりに一人住むぬいだったが、そこには彼女の悲しい過去の物語があった。

<感想>
原作を読んでしまった人はもちろん知っていることなのだけれども、「眇の魚」はギンコ自身の失われた過去の話です。いつもと同じように見ていると、蟲の銀蠱(ギンコ)が出てくるところで「うん?」と思い、ぬいが蟲煙草を吸うシーンで「もしや?」というかんじで気付く仕掛けになってるわけです。
そうそう、いつものナレーションの声はぬいだったんだね! 怖いような優しいような、年とってるようなそうでもないような不思議な声だとは思っていたけど、ニクイ演出だ。

というわけでヨキ=ギンコなわけだけど、ヨキは銀蠱から逃れるときにヨキとしての過去もぬいのことも全く忘れてしまっている。
記憶こそがその人自身を形作っているものなのだとすれば、この場合ヨキとギンコは外見も含めて全く別人と言ってもいい。
それなのに不思議とその後のギンコの話し方や蟲煙草を吸う仕草、蟲への接し方はぬいにそっくりだったりする。たとえ記憶からなくなってしまっても伝わるものはあるのだろうか。
一つだけ言えるのは、ギンコ達の世界からすれば“およそ遠し”とされるだろう私たち自身は、今回ギンコ自身も知らない彼の過去を知ることができたということ。
ひょっとすると視聴者と作品内のキャラクターの間にあるかもしれない繋がりが、既に白化のはじまっているギンコを常闇(トコヤミ)から守っているのかもしれないなあ、とかなんとか思ったりするのはちょっとドリーム入りすぎてますかね。

さて、今回の話は――ヨキが母を失う→ぬいに助けられる→ケガが治る→ぬいと別れる→記憶を失ってギンコと名乗り村人に拾われる――というように時間経過を何段階かにわけて描かないといけないので、アニメにすると結構いっぱいいっぱいになってしまいそうだなあと思っていたけど、がんばってまとめられてました。
でも原作マンガでは、ラストシーンの次のページに今現在のギンコの姿が描かれていていい余韻になってたので、アニメでもエンディングあたりで大人ギンコを出してくれてたらもっとよかったかもと思いました。贅沢か。

次回第十三話「一夜橋」からは別ページになります。蟲師もついに折り返し地点。

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