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蟲師

果てなき生命、定めなき姿態。
ヒトと蟲との世をつなぐ蟲師・ギンコの旅路。

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第一話〜第十二話(前ページ)

【2006/2/3】

第十三話『一夜橋』

<あらすじ>
通称“谷戻り”と呼ばれる存在になってしまった少女ハナ。少女の回復をひたすらまつ少年ゼン。
二十年に一度「一夜橋」がかかるという言い伝えのある村で、ギンコが谷戻りの謎に挑む!!

<感想>
推理モノっぽいあらすじを書いてはみたものの、「一夜橋」は蟲師シリーズの中でもかなりな鬱話なんだよな……。
シチュエーション的には“ゾンビもの”なんかにすごく近いんじゃないかと思うんだけど、これがハリウッド映画だったら、『二人の男女の悲劇を乗り越え、蟲師ギンコがニセカズラ蟲を派手に退治。最後はハナの親も改心して大団円。全米が泣いた!』というかんじになる気がするんだけど、まぁそうはならんわけで。
谷戻りになったハナは元に戻ることはないし、ゼンも結局谷戻りになった上にあと二十年はゾンビのまま。ハナの親が改心するシーンもないし、ギンコは谷戻りと一夜橋の原因をつき止めはするけど、元を断つようなことはしない。

ギンコはいつも、『皆ただ在るように在るだけ』言いながらあくまで人間の側に立ちつつも、常に一歩退いたところから、人も動物もそして蟲も含めた一つの大きな関係性みたいなものを大切にするという態度を崩さない。
ま、ギンコもいわゆる普通の人間からは程遠い人種なわけだし、蟲の生き方を否定するのは自分の生き方を否定するにも等しいことなのかもしれないけど、今回の「一夜橋」ではギンコの心情がかなりストレートに出てた話とも言える気がしました。

さて、一夜橋の作画なんだけど……近寄ると一本一本動いてたよ! スゲー!! もぞもぞもぞ……キモいっちゃキモいんだけど一本一本動かすのって気が遠くなる作業なんだろうな。

次回は「籠の中」。竹の描写が楽しみな回です。


【2006/2/16】

第十四話『籠のなか』

<あらすじ>
ギンコは竹林の中で奇妙な男と出会う。男はもう随分長い間竹林から出られないのだと言うのだが。

<感想>
近所の山にちょっとした竹林があって、子供のころはよくそこで遊んだ。竹林の中から上を見上げると、林立し空へ向かって伸びている竹はすばらしく美しかった。うすみどりの色も、風が吹くとざわざわ揺れる様子も好きだった。

――というわけで、今回の話ではビジュアル面もだけど、ストーリー面でも主役はまさに『竹』!! “一体全てで一つの株”という竹の生態は、そのまま過去のキスケ(と彼の妹)と村の関係に重なるし、竹に擬態・寄生するマガリダケという蟲は、そのまま人の姿を借りた鬼子(蟲と人のハーフ)であるセツの姿そのものだ。
もちろんタイトルの「籠のなか」は、竹籠を想像させつつも、竹林から出られないキスケの状態を表してもいるわけで、このイメージの類似性の積み重ね具合がよくできてんなぁと感心してしまう。

それにしても主役なだけあって、竹の描写は良かった。葉っぱがハラハラ落ちるところなんかもう最高。聞いた話によると全て手書きでアニメーションさせていたそうで、いやもうお疲れ様です! としか言えない。

しかし今回のギンコはちと迂闊だった気もするんだ。マガリダケの水を飲んだらやっかいなことになると予想がついてたら、普通飲まんだろうに。
ヤバイなと思ってもついやってしまうのは、かさぶたをついはがしてしまうような心境なんだろうか。それとも蟲師としての好奇心とか?

さて、セツと子供さんは竹の子に戻ってしまったのだけど、キスケはこのあとどうなるのか……。
確かめるすべもなく、ギンコの旅はまだまだ続いていきます。


【2006/2/16】

第十五話『春と嘯く』

<あらすじ>
冬の旅を続けるギンコは、ある民家に一夜の宿を頼む。その家には二人の姉弟が住んでいたのだが、姉のスズの話によると、弟のミハルは冬の最中に突然姿を消したかと思うと、冬にあるはずのない物を持ち帰ることがあるらしい。
ギンコの見る限り、どうやらミハルには蟲の見える性質のようなのだが……。

<感想>
冬のこの時期にふさわしいお話だった。ミハルのほっぺが赤いのがどうにもかわいくて、あれにはやられたな! ギンコのマチコ巻き(紫のマフラーを、ほっかむりしてるやつ)も良かったけど。

この間雪が降った時に思ったのだけど、雪の中の旅はマジでキツイ。それを考えると、今回のギンコがいつもより人間らしいかんじだったのは仕方ないというか、そりゃギンコも人恋しくなるよなというか、まあそういう気がした。
それでも頑として一箇所に留まらないようにしているのは、これは原作にも無いのだけど過去によっぽど酷い目にあったことがあるに違いないね……。
まあそういうかんじで、ヨロめくギンコはいつにも増して妙に生っぽくて良かったということです。

それにしても、蟲師に出てくる人は基本的に標準語っぽいしゃべりをするんだけど、不意になまりっぽいのが出ることがあって、それがいい味出してるなあと思う。
ギンコも「妙なもの見つけてもやたらと手ぇ出さんように」とか「そりゃ“春まがい”ってやつかもしれんな」とか「世話になったと言っといてくれな」とか言ってたりして、語尾に変化がある。
うちの両親は関西出身で似たようなしゃべり方をするのだけど、原作者の漆原さんも山口県出身ということで、その辺りが出てるのかなあと思う。いいよなーこういうの。
なまりを嫌がる人っているのかもしれないけど、関東に住んでいる身としては正直うらやましくもある。関東人だってちゃんと関東弁があったのに、標準語に上書きされてしまったからなあ……なんてあまり蟲師には関係ない話でした。

さて今回の美術面としては、やっぱり“春まがい”の絵が良かった。春以上に春らしいというか、まさに目がくらむ美しさ!! 冬山の様子と、春まがいの鮮やかさの対比が鮮烈でした。
モノトーンの冬を越えて、桜色の春へ――次回『暁の蛇』へと続きます。


【2006/2/17】

第十六話『暁の蛇』

<あらすじ>
“もの忘れ”は誰にでもあることだが、さらに夜眠れなくなってしまった時は気をつけたほうが良い。それはきっと蟲のしわざに違いないから……。

<感想>
“母さん”ことサヨの記憶喪失は蟲の仕業ってことになってるけど、どうにも若年性のボケというか、記憶障害というか妙に現実味ある話だ。父親がなかなか帰ってこなかったのは、外に女を作ってたからだった……という結末もなんだかえらくリアルだったのだけど、おっとりしたサヨ母さんと、しっかり者の子供カジのキャラクターに救われたという感じ。ギンコにも実は小さいころの記憶がごっそりぬけてる箇所があるはずだから、サヨみたいな人は放っとけなかったのかね。
そうそう、最後のサヨの呟き――あれはせつないよねぇ。声の人もとても上手かったので、何ともいえない余韻の残るラストシーンでした。

さて、今回のメインカラーは桜色。桜というのは咲き始めも、満開の姿も、散り際も全て良い! 大好きな花だ。ま、日本人なら嫌いな人はそうはいないと思うけども……。
『暁の蛇』は春の話だけど桜がメインというわけではないので、第十四話『籠のなか』の“竹”みたいに“桜”が主役の話もぜひ見てみたいなぁと思う。漆原さん、是非お願いします。

しかし影魂という蟲にとり憑かれると、記憶を喰われてしまう上に治療法が無いというのだから恐ろしい蟲だ。
桜の樹の下には蟲以外にもいろんなものが潜んでるらしいけどね――“これは信じていいことなんだよ。何故って、 桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。”

おー、次回は『虚繭取り』か。久々にギンコの蟲師っぽい活躍が見られそう。


【2006/5/23】

第二十二話『沖つ宮』

<あらすじ>
“死んだ者が還って来る”という噂を聞き、とある島へやってきたギンコ。どうやら村人が“竜宮”と呼ぶ海の一角が関係あるらしいのだが……

<感想>
前回の第二十一話『綿胞子』は見逃してしまって残念! というわけで、地上波放送終了後、BSフジに移行してからは今回が初めての視聴でした。
『沖つ宮』は原作の中でも結構好きな話なので期待していたのだけど、相変わらずハイクオリティな出来で大満足。

久々に見るギンコはあいかわらずちょっとモサくて(誉め言葉です)漂々としているのだけど、月明かりの下に佇む姿は近寄りがたく神秘的であったりして、なかなかこういうキャラもいないよなあと改めて思ったりしました。
ゲストキャラのマナは、海の女らしく日焼けしていて男勝りなかんじ。娘のイサナも蟲めがけてモリで攻撃するところとかがかっこよかった!蟲師に出てくる人たちは、大概“蟲”に翻弄されてしまう人たちばかりなので、イサナみたいに立ち向かっていくようなキャラが新鮮に思えたのかもしれない。
それにしても、この二人とギンコが並んでるとなんだか親子みたいで妙になごんでしまった。イサナもギンコになついていたみたいだったし。

今回の背景は月夜の海がメインということで何だか難しそうな題材なのだけど、これがまた美しくて、本当に蟲師の背景美術にはいつも驚かされる。
海の底、通称“竜宮”から湧き上がってくる、まるでサンゴの産卵のような蟲の卵も綺麗だったし、何といっても蟲の本体が良かった。
あの部分的に発光した触手、ね!! いや、別に触手が特別好きってわけじゃないですが、何となくひじきを長くしたようなのかなと想像していたので。
『ああ そりゃあ たいそう悪い 冗談だ……』と言うギンコの独白も、まるで水中音のように加工されていて臨場感抜群でした。

さて、今回の話は色々な意味でクローン技術を巡る問題を彷彿とさせる内容だったわけだけども、結局ギンコ自身は「こうするべきだ」とは言わないし、ラストのモノローグにあるように、おそらくこの島では産みなおしが――要するに人間のクローニングが――今後も行われ続けるのだろう。
とは言ってもその問題について何の示唆も無いかというと、そうではない。結局のところ問題は産み直しの是非ではなく、“その生命が唯一のものであるという証”とは一体何なのか、ということにつきる。同じ遺伝子を持つ者同士は、同じ生命であると果たして言えるのだろうか?

いずれにしても、イサナならきっとこう答えるだろう。「その人の過ごした時間が、その人をただ一人の人間にするんだよ」と。

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