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第十幕:「月下争乱・参」



●状況説明20 題名:最終戦闘
投稿日 : 2001年11月19日<月>03時13分

風理蛍子のもとへ辿りついた時、彼女は泣いていた。
和彦様が・・」
そう言う蛍子に風理は手を差し伸べる。
「和彦さんは大丈夫。ぼくは信じてるから。だから・・大丈夫。」

風理が蛍子と、蛍子の乳兄弟であるを助け出し、オニの持つ念動力である“ディ“
で向こう岸まで渡し終えた時、廊下の向こうから藤麿霧子がやって来るのが見えた。
遅いよ!何やってんの!!と風理は叫びかけたが、藤麿の焼け焦げた右腕と
傷だらけの霧子の姿を見て、その台詞はきちんとした言葉にはならなかった。
その様子を見て藤麿は「ん、これか?」と言うように右袖を振ってみせ、
平 春星の冥土の土産にくれてやった。」とだけ言うと、周りを
見回してから「下男・・じゃない、テンブは?」と風理に問い正した。
「テンブお兄ちゃんは・・・ちょっと・・ケガをしてて・・・あっちのほうで休んでるんだ・・。」
口ごもる風理に藤麿は、
「そっちはさっき通ったが誰もいなかったぞ。やたら血痕はあったが・・・」
と言って風理の肩をぽんぽん、と叩いた。
「大丈夫さ。きっと先に行っているんだろう。僕たちもさっさとここを出て、
寂然の坊さんと合流しよう。」

出口付近に、妙に憔悴した寂然が立っていた。
片手に持った酒瓶を力無く振りつつ、
「テンブ殿については心配なさるな。御仏の加護がありましたからな。それより・・」
ちら、と外を見る。
「・・・・・奇妙なほどに静かですな。しかし、行かぬわけにも行きますまい。」
空の酒瓶をその場に放り捨てて社の外へ出る。

白浜には黒々とした海水がうちよせていた。
満月は中天にさしかかっており、その冴え冴えとした光をなげかけている。
一行は静かにその光の中を歩んでいく。
静かすぎた。何もかもがおかしかった・・・。
だから。
彼らの目の前に、一つの“影”が舞い降りた時、誰も言葉を発する者はいなかった。
来るべき者が来たのだ・・・。


●“惨光”の雷哮<苦是衆>題名:死の影、惨の舞
投稿日 : 2001年11月22日<木>01時01分

「・・・くだらねェ」

闘争の歓喜の中にあったはずの心が、不意の夜露に濡れたかの如く冷めていた。
射しかかる月の光の中に垣間見えるのは、血臭を身に纏った影。
人の影。
・・・否。その影は、ヒトではなく、オニでもなく、ましてや傀儡や妖物でもなく。
あえて言葉にするならば、それは―――。

死の影、とでも形容すべきか。

「面白そうだった奴ァ失せやがり、残った奴も満身創痍、ときたか」
太陽の色の髪を持った、異相の銃士。
誇り高き、若き天才陰陽師。
それを護り、母の如く包み込み、娘の如く付き従う傀儡の娘。
ただひたすらに、前だけを見据え歩むオニの子。
その若き心に影を宿した銃槍使い。
全ての迷いを見届けんと嘯く、外法の徒。
そして、己と同じ臭い―――死の臭い―――を漂わせていた、黒衣の死神。

くだらねェ。と、もう一度呟き、指を一弾き。
と、何かを叩きつけたような音と、くぐもった悲鳴。そして、走り去ろうとする足音。
「・・・気が収まらねェよなァ」
獣の唸り。


助かった助かった早く逃げなきゃ逃げなきゃ殺される殺されたら無くなる全部無くなる怖い怖い恐い恐い恐い嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だイヤダイヤダ嫌だ嫌ダ嫌ダ死ぬのはイヤだ誰か助けて助けてタスケテタスケテタスケテタスケテ!!

突如訪れた解放を喜ぶことも無く、ただ心の中で恐怖を叫びながら男は白浜を駈ける。
あまりの恐怖に、男は発狂寸前だった。人が、人があんなにも簡単に・・・!
だから、前方に何人かの人影を見た時、男の心に張り詰めていた<糸>は容易く千切れた。
『助けて! 殺される!』
そう叫んだ、はずだった。
気がつけば、白浜の砂に横倒し―――否。男の首だけが、砂の上を転がっていた。
視界は急速に暗転していき、そして、終わりの直前、男の心は完全に砕けた。
苦痛は、無かった。


・・・一行の前にまろびでた男は、声をかける間もなく、その首を砂の上に転がした。残された身体は、何故か倒れることなく・・・。
右肘が跳ね上がり、宙を舞う。舞った右肘から先は、小気味良いとさえ感じるほどの拍子でばらばらにされていく。かと思えば、残された四肢が、がくがくと、まるで下手糞な舞いの如く揺れ、千切れ、裁断されていく。

そして、吹き上がる血煙の中から現われる、死の影。
「よォ・・・。『惨の舞』、楽しめたか?」
瞳の奥の虚無はそのままに、面白くも無さそうに問い掛ける男。

「苦是衆が一人、“惨光”の雷哮だ。・・・実にくだらねェ話だが、皆殺しにさせてもらうぜ」
そう言い放った瞬間、足元の砂が爆発し、無数の光条が月光を引き裂いて踊り出る。

男―――苦是衆の特務兵“惨光”の雷哮の瞳には、やはり虚無以外の何者も宿ってはいなかった


●寂然<外法師>題名:反魂
投稿日 : 2001年11月27日<火>15時38分

「――さて、ここは拙僧に任せていただけますかな」
 懐を探りながら、皆の前へと破戒僧は歩み出た。

「真打はいまだ訪れませぬが……前座ぐらいはつとめさせていただきましょう」
 にやりと笑い、懐から印籠を取り出す。中から油紙に包まれた粉薬を出し、手の甲の上に筋を作るように乗せる。
 それを顔に寄せて、深く、鼻から吸い込んだ。

 どくん。

 心の臓が大きく脈打つ。視界が極彩色に染まる。身中を血が駆け巡り賦活される。
 さらにもう一吸い。精神が昂揚する。それに反して、強すぎる作用に耐えかねた目元の血管が破れ、血が筋となって流れ落ちる。
 あたかも、紅い涙のように。

「迷いも何も、忘れたという顔をなさっておられる。
 悔やむことも哀しむことも、腹の底に押し込んで――
 "惨光"などと嘯いて」
 詠うように囁きつつ、錫杖を目の前の砂に突き立てる。

「生きながら死を歩む貴方には――死して死に切れぬものの声が届かぬのですかな?
 迷うて輪廻の輪へ戻ることもかなわず、悔やみ哀しみ泣く声が聞こえませぬかな?
 忘れたというならば、思い出させて差し上げましょう。
 押し込み知らぬ顔をするならば、引きずり出して差し上げましょう。
 哮りたつ雷鳴でかき消してきたその声を、今、聞かせて差し上げましょう」

 破戒僧は懐に再び手を入れ、取り出したのは無数の位牌。
 放り出されるように手を離れたそれらは、寂然とした砂浜に響く読経に応え、錫杖の周りを円を描くように回り始める。

「まずは……この哀れな娘の声を聞きなされ」

 仁王立ちで印を組み、血涙の僧が声高らかに名号を唱えると、一つの位牌が浮かびあがる。
『励考遊寂信女霊位』
 そう戒名の刻まれた位牌を中心に、朧に少女の姿が浮かび上がる。
 さらに寂然は自らの血をもって中に文様を描き、式を起動。
 少女を包み込むように、半壊したヨロイが姿を現した。

「・・・とーさま・・・・」

 救われぬ表情の少女、九鬼葵の霊魂は、そう呟いて腕を雷哮へと伸ばした。


●“惨光”の雷哮<苦是衆>題名:その瞳、闇色に輝きて
投稿日 : 2001年12月7日<金>04時40分

「……は」
己の眼前に顕現した≪式≫と、その奥にあるはずの哀れな娘の魂を見上げながら、男は軽く嘆息。

「……正に『外』法ってヤツ、だな」

その声に動揺の色は無く。

「……面白すぎて反吐が出るぜ」

だのに、月光すら引き裂く光条は、死の舞を舞わず。
苦是衆の特務兵の身体は、ヨロイを模った≪式≫の手の中に朽木を圧し折るかの如き音と共に収まり。

「ッ……今生の別れに遊んでやりてェところだがよ」
刹那の後。
≪式≫の見せた、子供がすがりつくような動作に、刀を握ったままの男の右腕が引き千切られ、転がる。
吹き上がる血煙を浴びながら、それでも≪式≫を、否、哀れな娘を視る男の瞳は―――。

「……ガラじゃねェんでな」
一息。
「Direct Access! Total Control Program“FUTSUNUSHI”Pass Code“9zCL”Point『W.AOMI』X-46 Y-78 Target Name『K.UGETU』 Rewrite!!」

その男以外には、理解することはおろか、聞き取ることもできぬ言葉が響き渡った瞬間、異変は起こった。

今まさに、男の全身を握り潰さんとしていた右腕が。
だらりと、駆動の仕方を忘れたように下がったままの左腕が。
脚が、胴が、頭が。
禍々しい光を放ちながら、全てが内側から裂け崩れていく。
あたかも、見えざる神の手に引き千切られ、砕かれていくかの如く。

                     ソレハ

       
      ナンテ
                             
                            無惨ナ
               
                光景


「49日まで、行使権はこっちにあるからな。……存在の類似性を利用した強制介入による再構築。再現性の高さが仇になった……ってェところだ、坊さんよ」

血反吐を吐き出し告げる、男。
千切られた肩の中で、吐き出した血の中で、異形の≪蟲≫が、踊る。
≪式≫を構成していた『紗』が、風に流れ、消えた。
残された手の中には、薄ぼんやりと輝く極限まで磨き上げられた、鏡。

「甘過ぎるな、アンタも、俺も」

病み色の瞳を光らせながら呟かれた言葉は、呆然と浮かぶ少女の霊体をすり抜け、破戒僧へと届く。

「……だが、まァ、たいした前座だったぜ。……こいつァ、御代だッ!」
その叫びと同時、一瞬の光条と共に、打ち捨てられた右腕が跳ね上がり、その手に握られたままの兇刃を閃かせながら外法の徒へと襲いかかる!


「……届いているさ。聞こえているさ。忘れられる筈もねェ。……だから俺ァまだ生きているし、もう死んじまっているのさ……。わざわざ言われなくともな」

言の葉は、暗き潮騒に流れ消え、誰にも届かない――――――。


●寂然<外法師>題名:死を供に歩む者
投稿日 : 2001年12月19日<水>01時01分

「無情なるかな神の業。慈悲の欠片もありませんな」

 形態複写式――蘇った雨月を無残に解体され、呆然とする魂魄を哀しみの瞳で眺める。
 四十九日の間、彼女を見守りその残念を晴らす手助けをする。それが寂然なりの供養。
 四十九日で晴れなければ、安らかに輪廻へと戻れるまで見守り続ける。
 寂然が見届ける迷いに、生者死者の別は無い。
 だから、

「!? 何を……!!」
 
 切り落とされた右腕、それが持つ刃が寂然を貫こうとして――
 そして直前でその動きを止めたとき、寂然は紅い涙を流しつつ叫んだ。

 少女の魂魄は、雷哮を抱き締めていた。
 雷哮の体から伸びる糸が、気の伝導により救われぬ男の意のままに踊る糸が、霊魂との接触によりその動きを乱されたのだ。
 その糸の先にあるのは、千切れた右腕。

 気とは紗の振動であり、返魂とは霊に紗の振動で現世に干渉する力を与えること。
 その異なる振動数が接触すれば、それはお互いに影響しあい、

 哀しい少女の姿が揺らぎ始めた。魂魄そのものが消滅しかかっているのだ。

「いけませぬぞ! 貴方は……まだ、消えるには早すぎる!!」

 焦りの色を隠さず、印を組み読経。返魂の術は解かれ、魂魄の姿が薄らいでゆく。
 姿が消える直前に、少女は雷哮とその傍らに視線を向け――
 
 微笑んだ。

 ――少女の魂魄に抱きしめられた瞬間。
 男は死を見た。
 それは、少女の故郷の風景。幸せそうに笑いあう家族の姿。
 だが、それは、正に少女の死、そのもの。
 生き地獄の世に在り得ぬ風景。在り得ぬ姿。
 それは死の夢。叶えることすら出来ぬ死彩夢。

 不意に男は後ろへたたらを踏み、こめかみを押さえながら片膝をつく。
 指と指の隙間から垣間見えるのは、微笑み消え逝く少女の姿。

「なんだって、お前らは」

 その暖かな死は、闇を払うかの様に男の心を照らし。

「いつだって、笑って逝きやがる―――」

 男はその苦しみ故に、傍らに向けられた笑みの意味も解さず。

「これだから」

 己の右腕を引き戻し、肩口へ。

「餓鬼は!」

 一呼吸。
 その一瞬をもって引きちぎられた神経を結合。同時にその身に刻まれた<式>を発動。
 赤光が男を包み、その場に現われたのは、ただ、闘争するためだけの生き物。

「……苦手なのさ」

 紅と黄金の燐光を漂わせたサムライは、獣の気迫を込め、一同を睥睨した。

「余興はここまでだ。……まとめて終わらせてやる」

 紅い涙の外法師は、獣の視線に人の笑みで応えた。
 人だけが表せる感情。哀しみと慈しみの怒りの笑みで。

「死ねぬ死ねぬと泣き駄々をこね――死のなんたるかすら知らぬ貴方に、どうして何かを終わらせられると?」

 しかしあまりに複雑なその表情は――
 つまるところ、人の悪い、揶揄するような笑顔だった。

「よろしいでしょう。余興は終わりです、確かに。
 貴方がもっとも聞くべき声。
 貴方の傍らで、ただひたすらに貴方を見守り続ける人の声を聞かせて差し上げましょう」

 異形と化した男を前に、寂然はただ印を組み読経を始めることのみで応える。
 長い、長い読経。暗く、遠い所へ呼びかけるための読経。


●“惨光”の雷哮<苦是衆>題名:『オロチ』
投稿日 : 2002年1月10日<木>02時31分

 外法師の紡ぐ読経に合わせるかの如く、燐光を放ちながら舞う無数の<糸>。
 その中心に立つサムライが、揺らめくような足取りで間合いを詰める。

「聞こえなかったか? 余興は終わりだと」

 その身は紅と黄金の光を纏い、その瞳は燃え盛る焔もかくやという勢いで炯々と輝く。
 大気を引き裂くほどの怒気を漲らせながら、サムライは言い放つ。

「長すぎる余興は、無粋の極みだぜ!」

 突如、狂ったかの如き勢いで舞い踊り始める<糸>の群れ。
 同時に、柔らかな白浜の砂を吹き飛ばしながら幾度も立ち昇る爆光。
 それぞれの光中に垣間見えるのは、あろうことか蛇の瞳。
 ひと一人を丸呑みにすることすら容易であろうほどの大蛇の瞳であった。

 輝きを身に纏ったその姿は、幾条もの<糸>で構成された大蛇。
 <気>を纏いて、抗う者を皆喰らい、砕き、潰す悪夢の如き暴虐の獣。

「……喰らい尽くせ、『オロチ』」

 無音の咆声を上げながら、『オロチ』たちは月下の砂浜に舞い踊るように疾駆を開始。

 そして、その巨獣の疾駆こそが、惨光の宴を彩る死の舞踏の始まりであった。


●状況説明21 題名:死の舞踏(1)
投稿日 : 2002年1月18日<金>02時30分

<苦是衆>“惨光”の雷哮の放った数匹の『オロチ』が最初に捕らえた獲物は、
<陰陽師>の明鶴院 藤麿だった。
いつもならば高飛車なセリフの一つでもはき捨てているところだが、
今は反射的に打った防御用“式”を、左手で結ばれた印で保持しつつ
眉間を微かに寄せ、黙って眼前の『オロチ』と対峙している。
藤麿によって作られた不可視の盾が、彼自身とその後ろに控える<傀儡>霧子
とさらにその後ろに二人寄り添っている風理蛍子を守る唯一のものだった。
しかしゆっくりと、だが確実にその盾は『オロチ』に侵食されつつあった。
藤麿の霊力・・陰陽術の力の源・・は底をつきかけていた。

同時刻、若干離れた位置に立っていた<外法師>寂然には
舞い踊る惨光に輝く糸も、爆光の生み出した砂の爆発も、それらが形作る暴虐の獣も、
全て見えていなかった。
ただ傾いだ錫杖を前に仁王立ちになり、数珠を握り締め印を組み、
紅の涙を流しながら読経を続けるのみ。
隣り合わせでありながら、酷く冷たく哀しい所へ居る者に呼びかけるために。
惨い輝きを放ち、雷鳴の如き咆哮を上げて、巨獣が寂然を今まさに飲み込まんと顎
を開き、
――――真二つに断ち割られ、白浜へと転がった。
見れば、錫杖の周りに浮かんでいた位牌の一つが浮かび上がり、巨躯のサムライが
姿を現している。野太い笑みを浮かべたその霊は、逆けさに野太刀を振り上げた姿勢をとっている。
間を置かず、さらに二つの位牌が浮かび上がる。
姿を現す霊は、白い髪の若い娘と、あろうことか仮面に顔を隠した天狗。
霊は寂然を中心に正三角形を描くように散開。辺りを睥睨する。
止まらぬ血涙とともに経を紡ぐ寂然は、思わず苦笑した。
――いやはや。まだまだ、死を許してはくれぬという事ですか・・


●状況説明22題名:死の舞踏(2)
投稿日 : 2002年1月18日<金>02時38分

“式”を展開させ続けていた藤麿の眉間の皺が深くなるのと、
霧子が悲鳴をあげるのと、『オロチ』が咆哮を上げたのはほぼ同時。
鮮血が飛び散り、藤麿の左肩口は『オロチ』によって食いちぎられていた。
<陰陽師>の“式”を破った『オロチ』は藤麿に駆け寄る霧子をも吹き飛ばし、
風理蛍子に踊りかかった。

「お姉ちゃんに手を出すな!」
圧倒的な殺気を放ちながら彼らの元に近づいてくる死神を前に、
風理が精一杯両手を広げて立ちはだかる。
その様を見て、雷哮は彼らに向かう『オロチ』を呼び戻し、標的を寂然に定め直した。
そして彼はゆっくりと<鬼少年>風理に目を向ける。
もちろん、背に庇われている少女よりまだ小さな騎士など、勇ましく睨み付けながらも、
その実膝を震えわせ立っているだけで精一杯な負傷兵など、
<苦是衆>の特務兵たる雷哮の敵ではなかった。
刀を振るうまでも無い。
「ふン…」緩慢な動作で腕を振り上げ、振り下ろす。
それだけで、戦闘は終了だった。

手刀が貫通したのは少年の左肩口の裂傷部。
先の戦いで致命的な傷を負った場所。
傷口を再度こじ開けられる激痛と、堪えがたいほどの吐き気に襲われながら、
それでも風理は込みあがった絶叫を必死に飲み込んだ。
護ると決めた者の為に。
「大丈夫。大丈夫だから、泣かないで。お姉ちゃん。それより……早く…逃げ…」
薄れゆく意識の中で、弱々しく紡がれた言葉。
しかし、蛍子の耳に届いたのはそこまでだった。
後に残されたのは再度掌が体の内部深くに差し込まれる、ズブリというおぞましい音。
何か重い物が砂浜に落ちる音。
もはや蛍子と死神を隔てるものは何も無かった。
大声で風理の名を叫び続ける蛍子に、雷哮は言った。

「なァ、姫さんよ。お前さんが生きているせいで、親も子もある連中の命が幾つも無駄に燃え尽きた。
お節介なお仲間も半生半死だ。……これだけの惨劇の原因が自分だと理解して、
なお生きていたいと、お前さんは思えるか? ……答えてみな」


●瀬ノ尾 蛍子<―>題名:悪夢
投稿日 : 2002年1月18日<金>02時39分

・・・答えられるわけがなかった。

それは祖国が滅びてからずっと彼女を攻めつづけている
終わりの無い悪夢、そのものだったから。

生き延びる資格も、守られる理由も自分には無い。
たとえあったとしても・・そう、あの「奇妙な白い円盤」のせいだったとしても、
それは今、彼女の手元には無い。
ここにいるのは、家族も家も、そして今や頼れる友すら失おうとしている
無力な小娘だけなのだ。

蛍子はうなだれた。足元に風理が倒れていた。
「・・ごめんね・・許してなんて言えないよね・・」
願わくば、目の前の「死」がすみやかにおとずれますように・・。
この期に及んでも“すみやかな死”を望む自分の傲慢さすら、
吐き気を催すあの悪夢の一部だったとしても。


●明鶴院 藤麿<陰陽師>題名:たとえ、光小さくとも・・・
投稿日 : 2002年1月21日<月>19時26分

「答えろ、姫!! あの化け物に、自分は生きたいのだと言ってやれ!!」
 全て終わったかに見えた、血の香りばかりが濃い砂浜に、陰陽師は立ち上がる。
 自慢ですらある彼の藤色の衣は、たっぷりと主の血に染まって形容しがたい色を
成しているが、当の本人の目には光がある。
「餓鬼が・・・手前ェの出番はとうに終わってんだよ」
人の形をした「虚ろ」が吐き捨て、手負いの虫けらにとどめをさそうと向き直る。

 藤麿は、重い体が何かに引きずられているのを感じていた。引きずられるまま、
風理と、蛍子とをかばうためにサムライに立ちはだかる。
「風理は、貴女を守ろうとした。だがそれは、彼自身が選んだ事だ。力足りずに倒
れ臥す事も、風理自身の覚悟の内だったはず」

(それは、俺も同じ。俺は今、自分自身に急かされてここに立っている)

 残された左腕の明鏡に、残された霊力をありったけ注ぎ込む。力は鏡面で光に変
わり、光は、一つが二つに、二つが四つに、無数の光の粒子となった。その一つ一
つに敵の力の源、人に打たれた<式>を分解する力が秘められている。
「風理に謝りたいなら、まずはあの男に言ってやるのだ。貴女の望みを。それがど
れほど勝手で、根拠がなく、無謀でもかまわない」
 陰陽師は、光を高々と掲げ上げた。それを合図に、光の礫が不規則な軌道を描い
て雷哮に放たれた。
「願いは、願わなければ空想に過ぎない。そして、どのような願いでも願う事自体
は罪ではない。汝、その欲するところを為せ。陰陽師の金言だよ」
 飛来する光は、しかし鋼の糸に一つずつ切り飛ばされて消えていく。ただの一つ
とて死神の体に至るものはない。
「残念だったな。最後の希望の光も燃え尽きたようだぜ、天才さんよ」
 全ての<式>を消し去り、雷哮は大刀を抜いた。
「手前のおかげで、もう質問の答えも、今はどうでもいい気分になった。地獄でま
たお会いできたら、その時にでも答えを教えてくれや」

 白刃一閃。邪魔な馬鹿でかい図体ごと、その太刀は蛍子を刺し貫くはずだった。
 その刀は、一本の金剛杖によって防ぎとめられている。見覚えがある品だ。
「やっと、主役のご登場か・・・遅いぞ、馬鹿」
 藤麿は邪悪に微笑む。時間稼ぎの狙いどおりだ。

 現れたのは、鴉の如き黒衣の男。捩れた宿命の螺旋から、偽りの僧形にて逃れ逃れ
て生きようとしていた男。
 すなわち、世捨て人・濁炎である。


●濁炎<世捨て人>題名:ハテナキノゾミノカイテイヲ
投稿日 : 2002年2月5日<火>02時38分

月夜の闇を一際黒く、鴉の濡れ羽に切り取って、その男は其処に居た。
 聞き慣れた「馬鹿」付きの挨拶にも、眉一つ動かさず。投げ付けた錫杖の元まで辿り着くと、
濁炎は、横抱きに抱え留めていた霧子を、爪先から下ろした。
 ぽん、と軽く尻を叩かれて、霧子は初め躊躇うように、そして次第に小走りに、藤麿に駆け寄る。
 「‥‥お前ねぇ‥‥」
 見下ろす、色付き眼鏡の奥、表情は読めない。
 「‥ナニ、死にかけてんの?怒っちゃうんだけど俺。」
 ──声だけはいっそ晴れやかに。
 腰から下げた何か長物を丸ごと引き抜く。ただ振り向くように身をひねる。
 ひとなぎ、紗を引くように跳ね上がる、砂の幕の向こう
 必要以上に間合いの外へ退いた、蟲サムライの、虚無を宿したままの眼が、僅か歪んだ──気がした。

 火傷に痛む目蓋を、藤麿は無理矢理にこじ開けた。
 墨染めに身をやつしていた男の手に、あろう事かしっくりと、黒く艶めく鞘ごとの太刀。
 幼き頃より見知った朱赤の紋──”終わらじの環” 刻まれし、その一振り。
 「それは・・・『紫電』か・・・」
 面倒臭そうに、濁炎は軽く顎を引いた。
 「‥突っ返されちまった。『まだ俺の』なんだとよ。」
 「・・・・・・それは・・つまり・・・未だお前が」
 「てゆうか俺、怒ってるんだけど。言ったでショ?」
 脈絡がない。
 「折角だから、今からお前が一番嫌がる事をヤってやろうと思ってンの。イイ?了解?」
 了解もなにも、有無を言わさぬ一息でまくし立てた後、濁炎は、やおらその場に膝をついた。

 「──『明鶴院藤麿』殿」

 藤麿よりもむしろ、霧子がはっと顔を上げた。
 熱っぽい視線が、濁炎の”らしからぬ”端然たる居住いを捉えて潤む。
 紅い涙を流した法師も何やら物騒な笑みを浮かべる。空気が動く、その予兆。



 「我、名を謬りし身なれども、現身、魂、これに有り。」
 背筋を伸ばし拳を地につけ、朗々と響く善い声で、濁炎は続けた。
 「我が名と右の太刀に懸け、また左には、御身の封じし徴<しるし>に因りて、
 この身、其許の式鬼とも思えば、今御前にさぶらうも、主命賜わんとての仕儀。
 今、この時こそは‥」
 藤麿は濁炎を見た。彼の手にあるモノを見た。
 未だ抜かれぬ太刀。
 瞬時にその意図を理解して、明鶴院きっての若き天才陰陽師は天を仰いだ。
 
「御下知を、我が主。」

 さすが──と言うべきだろう。藤麿はものの数秒も時を無駄にはしなかった。
 冷静速攻大胆無比の8文字に於いて、彼は全く、稀代の天才軍師であった。
 「お前の心の赴くままに、では筋は通らないのだろう?」
 矢張りお前は馬鹿なのだな濁炎。嫌がらせと言ったがお前の考えている事など手にとるように解るぞ?スケスケだ。
 何故だかな。
 「だが、俺は決して殺せとは言わない。濁炎に命じよう。瀬尾の姫の、全てを守れ。
身体も心も、その未来もだ。その上で誰も殺さずに済んだなら、その時は我らの完全なる勝利と知れ。」
 傲慢に言い放っておいて、藤麿は一瞬、言葉を切る。
 「・・この世界は、生きるに値するものだ。・・そうだな?」
 「御意。」
 間髪入れずに濁炎が応えた。それからちょっと顔を上げ、初めて鋭く、にやりと笑う。
 藤麿も唇の片端を持ち上げて、いつもの表情を形作る。火傷の皮膚が引き吊れようが。
 「なれば、──急ぎ急ぎて、我が命果たせ!わが強き右腕よ!」
 「拝命した。主殿。」
 今一度、完璧な角度で頭を垂れると、反動をつけて濁炎は立ち上がった。

 「悪りぃ‥待たせたな‥」
 吹き付けるような殺気すら、不思議に懐かしい感触だ。久々に取り戻した右手の中の重みもまた。
 ゆるく、息を吐く。
 ──一世一代の大賭みたいな気分だ。
 鞘を払う刃は、思うよりずっと澄んだ音を立てた。


●“惨光”の雷哮<苦是衆>題名:『告死(酷死)』
投稿日 : 2002年2月6日<水>21時53分

「遅すぎるぜ、死神さんよ」

 言葉だけは不機嫌に、その実、湧き上がる闘争への歓喜を押さえ切れずに獣が哄笑う。
 数瞬前まで、荒れ狂う光に支配されていた白浜は、それまでの暴虐の嵐が無かったかの如く静まりかえっていた。
 
 この場に在るのは、ヨルイロの闇と、ツキイロの光。
 
 そして、閑寂なる夜の、時ならぬ騒屑を嘆くように虚ろに響く潮騒の音。
 
 ただ、それだけであった。

「……とはいえ、余興の終わり、本番の始まりにゃァ間に合ったようだが、な」
 
 夜が、蠢く。
 収まりかけた赤光仄かに輝き、金色の燐光が再び妖魅の舞を舞い始める。
 サムライは、鬼の子の血に濡れた腕を打ち振るう。その傍らに、飛散した血を欲するかの如く現われ出でる、赤色の眼をした巨獣。

「……無様な踊り手どもには、もう飽きた。俺が欲するのは、互いの命を喰らい合い、互いの魂を汚し合う、殺し合いに相応しい悪鬼羅刹の如き舞い手だ―――」
 
 言葉と共に斬光一閃。オロチの頭蓋に右手の刃が叩き込まれる。
 潮騒の音を貫くように、犠、とも、餓、とも取れる音が響き渡り、黄金の大蛇は力無き糸の群れへと還る。
 そして、荒々しき魂群れを還したサムライの手の中には―――。

「……『告死』。お前さんに死を告げる刃であり―――」

 ―――薄氷の如き鋭さを宿した、闇に溶け込むかのような漆黒の刃。
     極限まで薄く、細く鍛え上げられた、ただ、殺すためだけに在る刃。

「―――数多の生に『惨酷な死』を与えて続けてきた刃さ」

 ――――口中を貫く/異形/幼子/死/這いずり逃げる男/頭蓋を貫く刃/死/黒鋼の少女/口中を貫く感触/死/立ちはだかる母/瞳を抉る/死/無明の闇/死/ヨロイの少女/死/赤/死/血/紅/死/黄金/死/朱/死/刺/糸/死/シ/し/屍/シ/死――――!

 ―――駆け抜けた幻視風景は、刃の記憶か、業の鎖か。

「さァ、足掻いて見せろ、死を告げる刃音に。
                 抗ってみせろ、惨酷な死を告げる、この俺の破音に。
                 
                              ……殺し合おうぜ、死神同士でなァ!」
 
 夜闇を切り裂く裂帛の気合と共に砂塵が巻き上がり、幾筋もの光条が遅れてきた死神に襲いかかる―――!


●濁炎<世捨て人>題名:ソハユクカタヲテラシタリ
投稿日 : 2002年2月22日<金>01時43分

「銘は紫電。伝家の宝刀ってヤツ…かな。」
 抜かれた刃は、微かな光を反射して、朱味を帯びた。
 黒い天と海の間に、赤い層が生まれ始めている。
 夜明けは近く、闇は最も濃い。

 鋼糸が空を走る。針となり刃となって襲い来る。
 墨染めの袖を風に翻し、濁炎は、己と敵を結ぶ糸の上に軽やかに降り立った。
 疾走。銀色の道を、彼は敵へ向けて翔ける。明けの朱を引いた刀身を、真っ直ぐに敵へ突き出す。

 「軽いな」
 短い声、同時に横風。薙ぎ払われて強か背中を打ち付ける。硬い砂の感触。胸には熱く鋭い痛み。
引き裂かれた衣の奥に、赤い血を吐き出す傷口が見えた。
 「…止めてください…もうやめて…おねがい…」
 傍らには蛍子がいた。随分飛んだなと他人事のように思う。
 彼女の目には、黒と赤ばかりが湛えられている。何も映し出していない。
 「そんな顔すんな。おいちゃんが守ってやっから。そうだ…コレ、持ってろ。」
 蛍子の腕を取り、濁炎はそこに、紫電の鞘を押し込んだ。
 「『果敢なき其が故にこそ、汝、千刃を払い万槍を渡り、百騎を墜としむ』…俺ンちの家訓。」
 乾いて張りつめた瞳を覗き込む。吹き晒す嵐に今にも折れそうな花。
 「簡単に言うとだ…弱くてガキンチョだからこそ、守る価値があんだ──って、な。」
 立ち上がり、キレイに調えられた黒髪をグリグリかき回す。
 「だからお前は、風理を看ててやってくれ。今度は、お前がアイツを救う番だ」
 見つめ返す蛍子の瞳に、枯れた筈の涙が溢れ出した。

 
 「無駄だな、その餓鬼は死ぬぜ。もって四半時ってとこだ」
 彼方から、笑っているような声がする。
 「死なねぇよ!!」
 応えて、再び駆け出す。一閃。剣風が糸を吹き払う。
 紫電と告死が噛み付き合い、火花を上げた。
 「坊さんのつまらねぇ説教が移ったか?餓鬼は死ぬ。瀬ノ尾の姫も、大勢を読み間違えた間抜け共もだ。
お前も殺す。生きて帰しゃしねぇよ、誰一人な」
 そう嘯く顔が真近にある。涙の跡みたいな頬の傷。
 「死なせやしねぇって。しつけぇな」
 血の匂いがする。失われた命の臭い。
 「解ンねェかなあアンタも?俺が死なねーって思ってるから、死なねーんだよ。了解?」
 「ハッ、勝手な言い分だな」
 何で、こいつは楽しそうなんだ?
 「元々、勝手な生き物だろ、俺タチってさ!!」

   人が真実に死ぬのはどんな時だと思う?

 蛍子が、泣きながら風理に呼びかける声が聞こえている。

    あの弱きもの──幼き少女が、
    自分を守って倒れる者の最期を、幾つも看取らねばならぬとしても。
    
    歩けぬほどに傷付き、涙で地べたを這いずり、泥水を啜り、草の根を
    齧り、それでも生きて、生きて、生き抜いて・・・

    生き抜いた宵闇の先に、光を灯す事ができるなら。

 「俺はそーゆう勝手な奴らの中でも、最ッ高に勝手な部類だけどよ。
   アンタはどうだい?    何が欲しい?    何を望む?」

    やがてあの子がいつか、本当の、強さの意味を知るのなら。
    俺はその傷をすら望むだろう。

 喰らい合う刃を跳ね上げて、間合いを取るが、死の糸は濁炎に追いすがる。
 しかし、砂に縫いとめたは墨染めの衣ただ一重。
 「衣一つかい?」
 問う声も軽やかに。
 水面へと降り立つ。微かな曙光を背にした為、その表情は窺い知れない。
 「金か? 名利か? 大義に支配に他人の命? それとも破壊か?
 ブッ壊すってのはいいねぇ・・・楽でさ!!」
 剥き出しの、血染めの衣に、点々と光が灯る。
 「けど、違うよな…?アンタが欲しいのは『命』じゃねぇ。…『命懸け』が欲しいんだ…」
 光は、その強さを増していく。
 「楽しませてやる。俺の本気、見せてやるよ…」


●“惨光”の雷哮<苦是衆>題名:螺旋の檻
投稿日 : 2002年2月28日<木>00時45分

愉しい。

 闇夜を貫く稲妻と化した異形。
 『紫電』の名に偽りの無い鉄風雷火の一撃。
 癇に触る軽業めいた、しかし綺麗とすら言える舞いの如き身のこなし。
 目前の獣の行なう全ての『殺技』が愉しくて仕方がない。

 だが、何よりも愉しくて堪え切れないのは。

 ―――この、お喋りな死神との殺し合いが、イヤでイヤで仕方ないって事だ。

「『百騎墜とせし夜叉鴉』。誇張でもなんでもねェようだな」
 空を渡る不可思議な歩法で後方に跳び、雷哮は呟く。間合いを取った代償は、古傷を抉るかの如き横薙ぎの一閃。その、新しい傷痕に蠢くはずの蟲たちの姿は、既に亡い。
「……くく、坊さんの茶番にも、存外意味があった、ってェ所か」
吹き出る血潮を拭おうともせず、哄笑う。
「いいだろう、教えてやるぜ」

 脊髄を伝い、脳髄へと這い上がる、氷の如き殺意。
 人が持ちうる手段の中で、最も単純な力による、命の鬩ぎ合い。
 こんなコト、恐くて怖くて、

 ―――気が狂う。 

「“惨光”の名の、意味って奴をな」

 その身より放たれる、うねり踊り狂う無数の牙。だが、そこから先がこれまでとは違った。

 空を裂く金色の奔流の上を、駆け抜ける紅い風。
 黒の死神がやってのけた獣の動きの更に上を往く、それは魔物めいた飛翔。
 眩過ぎる黄金と紅の光の中に乱舞する、闇より昏い蜘蛛の脚。

 斬撃。

 <糸>と『告死』と。

 刺突。

 それは、月光の下ですらあまりにも鮮烈に過ぎる無限螺旋の檻。

――――――告死・惨禍螺旋

「ふン、……終幕だ。まぁ、それなりに愉しかったぜ」

 顔を寄せて、告げる。
 全身を斬り裂いた、黄金色の<糸>の群れ。
 異形の胸元を貫いた、漆黒の刃。

 引き抜かれ、吹き上がる、赤い、紅い、血潮。

「これが“惨光”の意味って奴さ。……聞こえてねェだろうがな」

 紅と金に染まった、世界。

 それは、なんて、無惨な、光景―――。


●濁炎<世捨て人>題名:ヤガテハダイチニノマレユク
投稿日 : 2002年5月7日<火>23時49分

        刃を交わす瞬間がどんなモンかって?
             ‥そうだな

       其処には人生ってヤツが見えるのさ。
 ソイツがどんな道を歩いて来たか。俺がどんな道を歩いてくのか。
    人の悩み苦しみ、迷いなんてもの、全部映すのさ。
           まぁ、当然だよな。
        其処で賭けてるのはさ、『命』なんだ。
     薄っぺらい刃の上に、自分の全部を乗っけてさ、
    ほんの一瞬の交叉で、何かが解るって思い込んでさ。


「‥か‥はっ‥」
息の代わりに、俺は大量の血を吐いた。
ぜいぜい鳴る胸郭には、もう幾許の酸素も無い。
全身を圧迫する痛覚。
胸を貫く、黒き死の刃。

‥身体の中にあるのに、えらく冷たい。

「これが“惨光”の意味って奴さ。……聞こえてねェだろうがな」
 ぬるくて赤い雨の中に立ち尽くしながら、誰かが言う声が聞こえた。
 聞こえてる。
 聞こえてるさ。
 俺は──守らなきゃいけないものがあったんだ。
 でも、叶わないんだな。
だって雨が降ってる。赤い雨、涙。血、血が。涙の血。降る。濡れる。降り注ぐ。
流れる涙。立ち尽くす男は──
 ああ。そう言えば、お前は、
 お前は。

「‥そっか‥似てるンだ‥。」
俺はもしかしたら笑ってたかもしれない。 
瞼を開けても、霞んだ目は至近距離にあるはずの相手の顔を捕らえない。
ただゆらりと揺れた空気を読んで。俺は続けた。
「言わね‥。だって言ったら、アンタ、多分怒る‥。」
そして俺は、自分を貫く黒い刃を右手で握る。
「『全然違う』ってさ‥」
 死と生ほどに違うってさ。でも見ろよ。死は生の鞘の中に。その刃は肉の中に。
 此処に居る限り、このひとときだけは。
 あんたは誰も傷つけなくていいよ。

手の平からじんじんと響き渡る痛みは熱にも似て、冷えかけた体を覚醒させる。
紫電はとうに彼方に弾かれ、俺はいきなり丸腰だ。
 けどな、賭けの極意って知ってるか?

 「──俺の、ガキの名前、聞いてくンねぇか?」

 ありがとよ、藤麿。こんな奥の手を用意してくれてよ。

 ガキ、の一言で、相手の動きが止まった…いや、気のせい、気のせいだろうけどよ。
油断してただけかも知ンねぇ。俺は瀕死だったし、相手は自分の間合いを良く知ってた。
糸の一本で俺の首を撥ねられる寸法だったんだろうな。

 「……『綺羅』…って言うんだ…。」
 広げた左の手を、ごく軽く、朱金の死神に向けて差し出す。
 右手で鍔元を強く掴んだ黒の刃も、指を切り落とすには至らない。
 皮を裂いても筋を裂いても、骨が、それを喰い止める。
 生きると云う強い意志の様に。

 痛い痛い痛い痛い、生きたい。

  すう、と突き出した左手には光。

 「『命の剣と同じ名』なんだってさ──イイだろう?」

 幼き日の陰陽師が仕込んだ、『式』で出来た、光の剣。

  …ごめんな。アンタも痛いだろ。
  …ごめんな。こんな風にしちまってよ。
「…ごめんな…ごめん…。
 本当はさ──、ぜんぶ、否定するか、でなきゃ全部を肯定するか…出来りゃイイんだよな…?
 でも、俺、甘ちゃんだからよ…
 いっつも、中途半端、選んじまうんだよ…。」

ひゅうひゅうと、耳喧しく鳴る息を呑み込んで、俺は目を凝らした。
体温、息遣い、そういうもんを頼りに、ずっと色眼鏡で隠してた、身内すら怯えさせた、
俺の紫眼をまっすぐ向けた。
見えない目で覗き込んで、酸素の残りを振り絞って、俺は囁く。

──届けばいい。
  届けばきっと、殺し合っても忘れない。


             あんたは。

             オレは。


     研ぎ澄ました一瞬で、何かを知りたくて、


       「──アンタは、正気だ。雷哮。」


       傷付け合って、俺達は生きてる。


●“惨光”の雷哮<苦是衆>題名:分かれ交わる道
投稿日 : 2002年5月20日<月>00時38分

「……ハッ」

 諦念と、微かな歓びを込めた息を吐く。
 “俺”の胸を貫いた刃は、命の熱さで肺腑を灼いている。
 
 死に至る一撃。

 “俺”の手の中にある、数多の死を告げてきた刃が、音も亡く白浜の砂に転がった。

「馬鹿ぬかすんじゃねェ。俺は―――」

 そう、“俺”は正気だ。
 何故ならば、狂気に逃げ込むことすら許されぬほどの業を、“俺”は背負っているのだから。

「……『命の剣と同じ名』か、成る程な」

 短く長い沈黙の後、そう言って半歩、後ろに下がる。それだけで輝く刃は何の抵抗もなく抜け、消える。
 同時、胸にあいた大穴から、命の欠片が吹き上がり、喉の奥から灼熱の赤が駆け上がる。
 溢れ出す血潮を眺めながら、その名の意味を考える。

 ―――“俺”を殺した“いのちのひかり”の名には、不思議と納得出来た。

「……イイ名前だぜ」

 そう、分厚い雲に隠れて哮えることしか出来ない惨めな光など、その命の輝きとは比べるべくもない―――。

 広がっていく死と引き換えに冴え渡っていく思考の片隅で、そんなことを思いながら“俺”は薄く笑った。

 それは、いちばん大切なものを喪った時に亡くした笑い方。
 自嘲も、諦念も、侮蔑も、悲哀も一切含んでいない、それは、そう。

 ―――何だ、こんなに綺麗に笑えるじゃねェか―――

 そう思う自分にまた笑いながら、半歩前へ。
 目前にいる、呆然とした表情の“俺”とそっくりな死神を殴りつける。その力無い拳の一撃を、しかし男はまともに受け、しりもちをついた。

「お前さんの相手は終わりだ。次は―――」
 へたりこんだ、だがその瞳で強く毅くこちらを睨みつけてくる姫さんへと一瞥を送る。と、死に損ないどもが、それぞれの死力を振り絞って立ち上がり、それを護ろうとするが―――。

「動くな」
 
 その一言で、死に損ないどもの動きは止まる。
 大地に仕掛けられた最後の罠。縛死結界が、奴らの動きを止める。
 その中で動ける者は、俺と―――。

「これで、邪魔者は無し、だ」

 ―――凍りついた世界の中、亡国の姫が立ち上がり、苦是衆の男が、影法師のようにゆらゆらと歩みを進める―――。


「……さて、だ」

 呟いて、見下ろす。その目前には、気丈な瞳で“俺”を見上げる少女の姿。
 全然似てもいねェのにそっくりに見えちまうのは、死の淵に立っているせいか。
 
「よォ、姫さん。答えを貰いに来たぜ」

 “俺”の言葉に、少女は“?”の疑問符を返す。

「お前ェは多くの生と死を見てきたはずだ。それが自分が生きているせいだからってのも理解ってるだろ?
 さぁ、お前ェ自身の答えを寄越せ」

 その答えは、迷いの中に置き去りにしたまま、“俺”が求めてやまないもの。
 死を選んでしまった娘と今、同じ位置に立つ娘の選択。
 “俺”はどうするべきだったのか。“俺”は、何と言ってやるべきだったのか―――。

「『生きるために地獄を創り出すか、それとも永久の安息を得るために死を選ぶか』

 お前ェ一人のために傷つき、苦しみ、死に瀕した連中。その目の前でお前はどちらを選ぶ?

                                ――――――どちらを選べる?」

 逡巡は一瞬。迷いも一瞬。

 答えた少女の瞳を覗き込み、真実を計る。

「……上等だ」
 そう言って、皮肉気に―――やはりこちらの方がしっくりくる―――笑い、“俺”は震える手を掲げた。
 命の炎に焼かれた“俺“の命を繋ぐ蟲たちを励起する。もはや亡いはずのそれらを、己の血肉を持って蘇生させる。

 夜に小さな灯が灯り、まるで、儚く散り逝く運命の蛍のように燐火の舞を舞う、それは最後の『惨光』。
 光は、奇跡のような美しさで、少女の手の甲に小さな傷を刻んだ。

「ならば、そいつを見るたび思い出せ。己の想いと、やがて訪れる死の刃音を」

 そうしてゆらりと、“俺”は<道>を選んだ女の脇をすり抜ける。 
 向かう先は、闇。歩み行くは、“俺”にはお似合いの、幾人もの死によって彩られた、穢れた森への、血塗れの道。

「そして精々迷い足掻け。命の火が消え失せる、その瞬間まで」

 後悔だらけの命の道程を、今だけは振り返らずに歩く。それが、歩む決意を固めた者への礼。


―――それでも、それでもこの命の終わりに於いてさえ、未だ悔やむことがあるとするならば、きっと、そう、それは―――。


●寂然<外法師>題名:分かれ交わる道・弐
投稿日 : 2002年5月28日<火>00時28分

 読経が終わる。
 紅い涙の筋を頬に張り付けた破戒僧は、男が消えた森へと目を向ける。
 全ての戦いを。
 生と死のきらめきを見届け続けた目を向けた。

「まったく、なんとも……仏にでもなれそうな面構えでしたな」

 微笑む。敬意と羨みが、素直に顔に表れていた。

 ゆっくりと辺りを見回す。
 夜明け前のひときわ暗い闇の中、傷ついた者達が血に塗れた砂浜にいる。

 迷う者、迷わぬ者、その全てがただ己の道を進むより他なく、
 その道は時に交わり、また離れ行く。
 綺羅々々と、輝けるものをそこに残して。

「新たに旅立とうとする者達に、――祈るとすれば、ひとときの安らぎを」

 陽が昇る。凄惨な殺戮の跡も、流された涙の跡も、歩み行く者達の足跡も、
 全てを祝福するように曙の光が包み込む。

 寂然は、ただ無心に、頭を垂れて合掌した。

 そう。
 
 祈るとすれば、ひとときの安らぎを。

 
 
 
 
 
 


 森の中を、男が歩む。
 雷の如く哮り、命の道程を駆け抜けた男が、今は静かに森を歩む。
 木漏れ日が彼を包んでいた。

 男が、顔を上げる。

 気配が、傍らに降りてくる。
 まるで天から舞い降りるように、彼の傍らに二つの気配が訪れ――

 男は、ゆっくりと何かを呟いた。

 その顔は、確かに微笑んでいた――――


●状況説明23 題名:朝焼け
投稿日 : 2002年6月3日<月>00時32分

「アレ・・・。終わっ・・・ちまったか?」
屋根の上にあぶなっかしく立ちながら、テンブはつぶやいた。

オレハイツモ・・・

「何をしている。行かないのか?」
突然背後から声をかけられ、危うく屋根の端からズリ落ちそうになりながら
なんとか体をひねって振り返ったその先には、
和彦がいた。

ずぶぬれで、全身裂傷だらけで、しかも髪の毛の先は焦げている。
だがテンブは、それらについては一言も触れないまま、
和彦に向かって、さァ?と言うように両手を上げてみせ
「・・どこに行くって?」と、とぼけてみせた。

和彦は黙って自らの銃槍の先で、遠くに見える一団を指した。
「俺は蛍子殿に礼をまだ言っていない。それに・・・
・・俺の相棒にもだ。で、おまえはどうする?」
めずらしく、饒舌な<銃槍使い>に対して、テンブ
「そう・・・・だな。」と言ったきり、黙ってしまった。

和彦のほうも結論を聞く必要はない、とでも言うかのように
「俺は行く。」
とだけ言い残し、その場を去って行こうとしていた。
そのあぶなっかしい足取りに苦笑しながら、テンブは思う。
(あいつ・・このことを言うためだけにあの怪我でここまで
のぼってきたのかよ。)

かすかな溜息をつき、タバコを探す。
だがどこを探してもタバコは一本も見当たらなかった。

「・・・そうだよな。おれも最後まで見届けねーと。
先に進めなくなっちまうナ。」
いつの間に夜が明けていたのか。
まぶしい朝焼けに目を細めながら、テンブはそうつぶやいた。
そして和彦の足取りを助けるために、彼の元へ歩いていった。


●“明鏡使い”の嵐<苦是衆>題名:予兆
投稿日 : 2002年6月3日<月>01時36分

雷哮が死んだ!?」
神宮家<苦是衆>“明鏡使いの”嵐は、信じられないという表情でしばらく固まった後、
矢継ぎ早に、繰り返し繰り返し真偽を確かめていた。
しかし何度確かめても、それはゆるぎない真実そのものだった。

「・・・。」
ついにはあきらめて四肢を投げ出し、その体を空間自体がやさしく受け止めるままにまかせた。
いや、正確に言うならば、そう感じたのは彼女の意識なのであって、
実際の身体は“現実”の執務室で横たわったまま、明鏡に接続されているにすぎない。
だがそんな些細な違いは彼女にとって大した問題ではない。
天羅のあらゆる事象は、各地に供えられた明鏡や、“神の目”を通じて嵐の明鏡に送られる。
一日の大半をこの明鏡内で過ごす嵐にとっては、この世界こそが現実そのものだった。

嵐はその体を空間にあずけながらも、雷哮のことを思っていた。
<苦是衆>“惨光の”雷哮。彼女の部下。・・・いや、今となっては“部下であった者”のことを。
・・しかしそうしていたのも束の間のことで、不意に彼女は立ち上がると
現在、彼女にとっての最大の使命――機密情報である明鏡製法の漏洩を阻止すること――
に意識を集中させた。
明鏡製法の保持者はすでに分かっていた。
天羅西方大陸の小国、今は無き瀬ノ尾の亡国の姫

(それにしたって、なぜあんな小国に機密が渡ってしまったのかしらね。)
天羅の全てを知る、と言われる嵐にとっても、
解からないことなどいくらでもあったが、彼女にとっての
最大の謎は、自らの属する“神宮家”という存在だった。
彼女自身そこに属し、重要な位置を占めているにもかかわらず、
“何かの手の上で踊らされている”というかすかな、だが確かな感覚をいつも感じるのだ。
彼女は自分の感覚というものを信じていた。
時には、天羅全土からもたらされるあらゆる情報よりも。

だが今は目の前の目的を遂行しなければいけない。
早急に雷哮の代わりを指名し、機密を取り戻す。苦是衆の中で誰を行かせるべきか・・・

「・・・・・っ!!」
その時突然、嵐は激しい失墜感に襲われた。
落下していく体を止めることも、"悲鳴"すら上げることも出来ず------

--------------------------------

------気づくとそこは“現実”の彼女の執務室だった。
彼女と明鏡を結ぶ接続具である“魂緒”が引きちぎられ、散らばっている。
強引にそのようなことを行えば、接続中の者が死に至ることもあるにもかかわらず。
猛烈な嘔吐感を押さえながら嵐は顔を上げ、
眼前に立つそれを行ったと思われる、見知らぬ仮面の人物をにらみつけた。

「私を・・・誰だか知っててやってんの。こんなこと。」
「神宮家<苦是衆>、嵐殿。最上級命令により速やかに出頭せよ。
命令違反・若しくは命令遂行を故意に遅滞させる行為を確認した場合、
二十四天羅時間以内の消去あるいは―――」
「もういい。行けばいいんでしょ。」
逆っても無駄だ、と悟った嵐は、あっさりと仮面の言葉をさえぎって言った。
このタイミングの良さ!!まるで“誰かが故意に機密漏洩をしたがっている”かのようだ。

(私にとっての最大の謎・・。)
命令に従いながらも嵐はめまぐるしく考えていた。
神宮家について・・・そしてこれからの天羅について。
どちらにしても面白いことになりそうだ。
彼女は不敵な笑みを浮かべながら、まるで死装束のような衣装を着た
仮面の人物を見やる。
(どーなるか、見てやろうじゃないの)
ふらつく足でなんとか体を支えて立ち上がる。
――たまには肉体労働もいいかもしれないしね。
そう思いながらうしろ姿の死装束のあとを追って、嵐はゆっくりと自室を後にした。


●桜真幻<桜国領主>題名:桜舞
投稿日 : 2002年6月9日<日>03時14分

手が、桜の大木の樹皮の上をすべってゆく。

まるでその触れた手の感触だけが、自らと世界をつなぐ唯一のものであるかのように。
年経た幹の手触りから命の鼓動を聴こうとするかのように。

桜殿
その言葉に手は止まる。もちろん、随分と前から気配には気づいていた。
だから今、手を止めたのは、ただ単に自らを呼んだ者に対する返答にすぎなかった。
この桜領内で"桜殿"と呼称されるものはただ一人しかいない。
桜の領主、桜 真幻その人である。
彼はその齢、四十の半ば頃のはずだったが、もっと若くも、あるいはある意味もっとずっと
歳をとっているようにも見えた。
その銀灰色の髪の色よりもずっと明度の高い、薄茶がかった灰色の目は、今は朝の光を
うけて桜色に染まっている。その中に浮かぶ闇色の虹彩が"報告者"の姿を認め、
"桜殿"は軽く頷いた。

「青海の東、水神神宮にて、神宮家苦是衆の手の者の死亡を確認いたしました。
蛍子姫、および姫を助ける者達数名は、現在神宮外へ逃走中。
・・おそらく例の物も彼らが所持しているものと思われます。」
報告者は一端ここで話を切り、自らの主をちら、と見やる。
「・・・して。いかがなさいますか。継続追跡はさせておりますが・・・」
桜 真幻はしばらく考えるように視線をそらしたが、すぐにそっけなく
その必要はない、と答えた。

・・もしそれを桜が手に入れていたとしても、結果は同じだっただろうと。
こちらの意図は神宮家の機密を独占することにあるのではなく、
むしろ開放するためにある。
秘密は秘密である間だけ、効果を発揮するのであって、一度世に広まれば、
それがたとえどんなものであっても、いずれはひとつの技術として受け入れられ、
吸収されるものだ。
こうして我々と、神宮家との距離はまたひとつ近づくことになる・・
「無論、"あちら側"があえてそうしようとしている可能性は否定できないが。」
"桜殿"はそれきり口をつぐみ、その顔に奇妙な笑みをたたえたまま、明けゆく空のかなたにある
あかね色の雲に、あるいは彼の目だけに映る"他の何か"にその視線を向けた。

報告者は辛抱強く待っていた。
主が、そういった表情をみせることはほとんど無く、―――いや、
そもそも感情というものが彼の表情の深部、その瞳の奥底まで浸透することなど、
もう二度と無いことを知っていたとしても―――
そのかりそめの時間を邪魔することだけはしたくなかった。
やがて、ふいに桜 真幻は振り返った。
もはやその表情からは、表情らしきものは一切消えていた。
波ひとつ立たぬ湖面のように。

「青海を落とす。」
「―――はい。」
命令は一度、返答も一度。
だが返答を返した者は自分のすべきことははっきりと理解していた。
青海領主、朝比奈 明継の最も新しい側室にあらかじめ与えてある命令を実行に
移させる時が来た、ただそれだけのことだ。
突然、頭立つ者を失った青海の指揮系統は大混乱に陥るだろう。
ことにあの国ならばなおさらだった。国境の警備を増強させる隙など与えず、
一気に桜の軍は青海領内になだれこむ手はずはすでに整っている。
瀬ノ尾攻略時より計画の遅滞、乱れは一切無い。
いや、ただ一つ瀬ノ尾の姫とその一行の件だけが計画外の事態であったが。

「―――海は久方ぶりだな。」
そうつぶやく主の言葉に、もはやこの場で話すことはない、という響きを感じとった
報告者は、すばやく目礼をし足早に辞していった。
桜真幻は、その後もしばらくそこに佇んでいたが、やがて彼も
その場を去っていった。

後には、桜の樹だけが残った。


ありがとう、さようなら。
―― そしてまた、いつか。
……次回、最終幕。「宵闇の蛍」

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