「宵闇の蛍」トップへ 第六幕:「青き海を目指して」→

第五幕:「湯煙温泉旅情」



●状況描写8
投稿日 : 2000年9月14日<木>05時42分

一行は、半時(約一時間)を費やして、瀬ノ尾と青海の国境の町、
「中原(なかはら)」の宿に辿り着いた。
もうすでに日はとっぷりと暮れている。

「中原」の宿は、小さな宿であった…が、今は戦争状態にある
桜と瀬ノ尾、両国のおかげ、というべきか。普段以上の賑わいをみせている。
すでに満室の宿も多く、疲れ切った一行がようやく探し当てた宿は、
町外れを流れる”成瀬川”のそばにある「葉山」という旅館であった。

●状況描写9
投稿日 : 2000年9月14日<木>05時45分

一行が宿ののれんをくぐると、奥のほうから女が出てきた。
やってきた者達の組み合わせの異様さに、一瞬驚いたような顔をするが
、 すばやく商売用の笑顔に切りかえる。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか?
ずいぶんと遅いお着きでいらっしゃいますなァ・・・。」
と言いながらも、上がりかまちには、旅人達の手や足を洗うための
水のはいったおけと、手ぬぐいがてきぱきと用意されていく。

それが済むと女は、
「二階の奥の部屋をご用意させていただきますので…」
と言いながら、とんとん、と階段を上がっていった。
宿の気配から察すれところ、客の入りは全体の八割程度と思える。

部屋は、間仕切りのある二間続きの部屋であった。
隅には清潔な布団が重ねてあり、
窓からは先ほどの雨で増水した、成瀬川の黒々とした流れが見える。
女はすべての行灯に火を入れ終わると、
「お食事は、すぐ用意させていただきますので、少々お待ち下さい。
済みましたら、離れに湯殿がありますので、お使いになってください。では。」
と言うと、そそくさと部屋から出て行った。

●図式3
投稿日 : 2000年9月14日<木>05時54分

旅館「葉山」の図(18kb)

●風理<鬼少年> 題名:はじめてのお泊り遠足
投稿日 : 2000年9月21日<木>02時54分

ここのところ野宿ばかりで、旅館でゆっくりなどするのは久しぶりだった。
腰を落ち着けられる根城が出来たなら、自然、「年頃」の男の子としては、
辺りの探検などもしてみたくなる。
周りで大人達が荷物を降ろしたり、部屋割りを検討したりしているのを横目で見つつ、
窓の外を眺めていると、斜め下方に湯気の立つのが見えた。
そういえば、女中さんが離れに湯殿があると言っていたのを思い出した。
お腹もそれなりに空いたが、道中握り飯をパクついたので、まだ我慢できる。

「ご飯取っといてね!!」
誰ともなしにそう言い捨てると、ひらりと窓枠を超え、部屋の外へ飛び出した。
直ぐ傍の小さな建物を経由して、風呂場の玄関先に着地する。
着地の際、少し平衡を欠いた為、膝小僧と手のひらに擦り傷をこさえてしまった。
しかし、出入り口のところに書いてあった温泉の効能に「切り傷、擦り傷、リウマチ・・・」とあったので、
この傷も効能を試すのに役に立ちそうだ。そう思って、痛みを紛らわせる事にした。

「湯」とだけ書かれた、男湯なのか女湯なのか良く判らない暖簾をくぐり、中に入る。
案の定、まだ客は誰もいなかった。
(よかった。これでお風呂に入れる!)
部屋に置いてくるのを忘れた荷物をやっとこさ
降ろし、服を一気に脱ぎ捨て、湯船を目指す。
脱衣所を出ると、そこは露天風呂だった。
勢い込んで飛び込んだ温泉のちょっぴり熱めの湯に、ほんのり寒いくらいの風が素肌に心地良い。
ずっと、こうしていられたらなぁ…。と思った。

一人で入るんじゃなくて、大勢でワイワイと入りたかったな、とも思った。
(でも、ずっと何かをかぶってるわけにはいかないモン。
そんなじゃ髪の毛も洗えないし…。しかたないよね。)
今日一緒に歩いてきた人達は、風理が鬼である事をもうすでに知っている。ハズだ。
それでも、決定的な証拠なんか見せないに越した事は無い。
今までは、和彦の所有物という扱いだったので、バレてもそれほど心配することはなかった。
鬼を危険生物として見る人も、飼い主がいるのなら安心する。
鬼を貴重品として見る人も、所有者がいるのなら、そうそう奪ったりはしない。
しかし、一人ならば…。

「あ〜あ・・・。ぼく、人間だったらなぁ。」
手拭を頭に乗せ、口が湯に浸かるくらい、深く湯の中に沈みこんだ。

●濁炎<世捨て人> 題名:ウタカタアマタ ハカナシマブシ
投稿日 : 2000年9月27日<水>00時15分

 風呂場の木戸を引きあけると、湯気のさなかには既に先客が居座っていた。
被り物をとっぱらって、ちょこんと手拭いを頭にのせただけのオニッ子は、
こちらを見るなりまず、劇的に顔色を変えた。
 上気した頬の紅みが青ざめて、それが丸ごとざんぶと湯の中に消える。
水面に手拭いだけが浮いていたが、やがていくつも気泡が昇り、
再び唐突に顔を出し。慌ててすぐ湯舟へ消えて、耐え切れずにまた息を継ぐ。
 えーと‥‥今更、隠さなくっても‥なあ‥
気マズさに思わず、眼鏡の弦に手をかける仕種をしたが、
当然、フロに色眼鏡を掛けて入る訳などなく。

・・・かぽーん・・・・。
手桶かなにかが、やけに獅子嚇しみたいないい音で落っこちた。

 素のまんま、目と目を合わせてしばらく。
どちらからともなく空気がほどける。
お互いがそれぞれの位置に腰を下ろし、
とりあえずそれぞれの旅の汚れなんぞを落とす作業にとりかかる。
 薄い石鹸を意味も無く放り投げて受け止めて、熱い湯で泡を立てれば、
幾つもの泡沫に剃刀片手の己の影が浮かび立つ。
『薄気味の悪い──禍つ色の瞳とは』
『鬼の子に違いあるまいよ』
 泡と共に、過去が弾けて消えてはまた浮かぶ。下を向いた双眸に、湯気が染みる。
さっき連れが降って来たのを受け止めた時、ちょっとばかり血を浴びたと思うんだが
あれはどうなった?多分涙で薄まっていつの間にか出てったんだろう。
 そう言や、奴は一人で風呂に入れンのかな?背中ぐらい流してやった方が良さそうだ。

『おお怖や、その紫、人の持ち物と思えぬ。命が縮まる心地がするわ』
 例え抉って見せたって、どうせアンタらは許しちゃくれないんでしょう?
──だって、持って生まれて来ちまったンだから。

もう隠したってショウがねえでしょう。
 傷付け合って、生き合う覚悟が要るんでしょう。

「風理‥だったよなぁ?お前。」
 水鏡で無精髭をあたりながら、覚え立ての名前を使ってみる。
「お前、あの”和彦お兄ちゃん”とは、どういうカンケーだったんだ?‥っと?!」
 軽く尋いた瞬間、傍で風理が大きくスッこけて、はずみで手元が僅かに狂う。
「ありゃ‥。危ねえなァおまえ、風呂場で暴れんなよ。頭っからコケでもしたらどーすんの。」
苦笑して撫でた自分の顎。中指の下辺りにぬるりとした感触が走る。
それすらも何か、象徴の様に思えて、更に深く、苦い笑いが涌いた。

●明鶴院 藤麿<陰陽師> 題名:記憶媒体、即ち・・・ 投稿日 : 2000年9月29日<金>20時29分

「おぉ! 随分と仲が良いようだな!!」
 風呂場に現れた大柄の陰陽師が、並んで垢を落としている二人を見付け、
相変わらずデカイ声で話し掛ける。
その手には、一枚の鏡が、手拭や桶といった道具類と共に携えられている。
 濁炎の隣に腰を下ろし、頭から湯をかぶった後、藤麿は彼の顎の 辺りをまじまじと覗き込む。
「水鏡などで横着をするから、切ったりするのだ!! ちゃんと鏡を使え!!」
と、自分が持っていた鏡を押し付ける。

 渡された品を確認した途端、濁炎が白目を剥かんばかりの顔になる。
「お、お前・・・これって」
「その通り!! 先刻のヨロイからガメてきた明鏡だ。
ちゃんと鏡の機能も果たすし、水気に当てても錆びぬ壊れぬという、スグレモノだ!」
 なんというバチ当たりな、とでも言いた気な濁炎を他所に、
藤麿は体を擦り始めた。
「それは、僕が初めて殺した者達の事を記憶しておくための、言ってみれば形見だ。
目にする機会、使う機会が多ければ、それなりに戒めにもなるだろう。
もっとも、そんな感傷だけで持ってきたと言えば、もちろん嘘になるがな・・・」
 独り言のように、言い訳のように呟く陰陽師の姿は、
濁炎が知っている過去の彼とも、風理が見た今の彼とも違っていた。

  旅の埃を清め終え、三人は湯に浸かる。
風理は一度入ったからもういいと言ったのだが、ダメだちゃんと温まれと、
藤麿に抱えられて無理矢理湯に放り込まれた。
そして藤麿の命により、少年は湯の中でのぼせながら百までの数を数えさせられている。

 その声が響く中、陰陽師は旧友の体躯を眺め、溜息を付く。
「大した傷の数だな」
 男に肌を見いられ、溜息を付かれて生きた心地もしなかった濁炎は、
突然投げられた言葉に反応できず、はぁ?と間抜けな声を出した。
「それは、幾多の敵を倒し、窮地を脱して生き延びた戦いの証なのだろうな。
僕にはまだないが、実家を捨て、桜家を敵に回したとなれば、
そのうちそういう体になるのだろう?」
 傷跡と、それが生まれた過去を見透かすような虚ろな目で、藤麿はぼそりと言った。
「痛そうだな」
 しかし、それが陰陽師の迷いにはならない。
彼には、達するべき野望も、守るべき「もの」もあるのだから。
 すっかり茹って気の抜けてしまった風理の声を聞きながら、
藤麿は思索の内に沈んでいた。
いかにして関所を抜けようか・・・。

●テンブ<ガンスリンガー> 題名:ヨゾラノムコウ
投稿日 : 2000年9月30日<土>02時56分

 風呂場から聞こえてくる数を数える声は100で止まった。
まあ、最後の方ははっきりと聞き取れない部分もあったが。
 その声が止むとほぼ同時に、
テンブは陽気だが決して上手いとは言えない口笛を吹き始め、中へと入る。
「hyuuuuu♪い〜いかんじなんじゃないの?」
誰にとも無く言い放つ。風呂場にいた3人の視線は・・・・頭。

テンガロンハットを頭に乗せたままである。
別に彼の里にこう言う風習があるわけでもないし、彼自身何度かつっこまれている。
そんなとき彼はいつもこう言い返す。
 「こいつは俺の主義ってやつサ。それに、上着を着たまんま入る奴だって見た
ことがあるしネ♪」
 そう言うと大抵の人間は呆れ顔で黙り込んでしまう。
そうやってなんとなく許されるのも、彼の人徳なのかもしれない。

 そのまま洗い場で体を流し、3人の輪に入る。
一人旅を続けていたテンブには懐かしい感じ。仲間という感覚。
 先ほどヨロイにつけられた傷跡は和彦に癒してもらったとは言え、少ししみた。
 「いてて・・・。」
少し大げさにいたがって見せると、濁炎が心配そうに声をかけてくる。
大男・・藤麿の方は「情けない声を出すな。」とでもいいたげだが。
「ああ、ダイジョウブダイジョウブ・・・。」
濁炎の声に気まずそうに答えるとその身を鬼子の方へスイ〜っと近づけた。
鬼子・・風理は少し迷惑そうにして様子をうかがっているようだが、
かまわずその頭に手を乗せる。和彦が最後にしたように。

(代わりに俺のお守りをもっていかんか?)
 その言葉を思い出したところで、風理は頭に置いた手を振りほどく。
「何するんだよぉ。」
子供扱いするな、という表情の風理に向かってテンブは小声で放つ。
「しっかり頼むよ。お守りちゃん♪」
 その言葉に風理はわけがわからない、といった表情を浮かべた。
(俺もしっかりしないとな・・・。)
銃槍使いの男を思い出しながら、夜空を見上げる。そこには銀の星が輝いていた。

●霧子<傀儡> 題名:恐ろしきは日常
投稿日 : 2000年9月30日<土>03時32分

「藤麿様!!濁炎様!!」
すたん!と木戸が開かれる音。ぺたぺたと小走りに近づく足音。
「お背中!お流ししますわっ!!」
湯煙の隙間から彼らが見たもの。
豊かな黒髪を一つにまとめ、肌襦袢を蒸気で肌に纏わり付かせ
(そのせいか歩き方がぎこちない)
やけに気合の入った顔で湯船の
前に立ちはだかる霧子。 頬が上気して赤い。
手にした桶には石鹸やら手拭やら玩具のような物が山のように詰め込まれている。

藤麿は唖然とした。
(客は僕達だけではないというのに。こんなに無防備にずかずかと…。)
(そういえばここは男湯ではなかったのだろうか…。)
(とりあえずはここから追い出さねば…。)
「・・・霧子。残念だが僕等はもう上がる所なのだ」
なぁ濁炎、と藤麿は隣の男を見やる。
「だからお前は自分の背中を流せばいい」
濁炎は、ん?…あぁ…そうだよなどともごもご答える。
あおりで眺める霧子の姿は(普段見下ろす方が多いだけに)かなり圧巻…のようだ。
何を見ているのだ馬鹿者、と藤麿は濁炎を湯に沈める。
しかし霧子は、そんな二人のやり取りなど全く気に掛けていない。

「…なんで霧子に声を掛けてくださらなかったんです…?」
えいえい、と小さな手のひらで湯を掬っては藤麿にかけ、
掬っては濁炎にかけと地味な攻撃を仕掛ける。
「いつもは霧子も誘ってくださるのに!」
この子には再教育の必要がある…軽くのぼせた藤麿の頭にそんなことが浮かんだ。
濁炎が、含み笑いの声色でふ〜ん、とか、そうなんだぁ、などと呟いている。
反撃するための(からかう為の)格好のネタを手に入れた、と言いたいらしい。
ち、と藤麿が軽い舌打ちをする。

「霧子。まさか部屋割りまでは・・・」
「もちろん!昔のように3人一緒のお部屋にしていただきましたわ!」
嬉々とした霧子の声を合図にしたように、湯船の真ん中あたりでぷかぷかと

浮かんでいた風理は「ひゃ〜ぁく…」と言うと、ぷくん、と湯の中に沈みこんだ。

●風理<鬼少年> 題名:心も体も温まり
投稿日 : 2000年10月1日<日>03時56分

「ぼくもう上がるぅ〜・・・」
言われた通り100まではちゃんと数えた。
十分すぎるほどちゃんと温まった。
もういいだろう。ダメって言っても今度こそはゆ〜こと聞かないんだからぁ…
と頭の中だけで藤麿に文句を言いながら、
風理はへろへろになった体をどうにか動かして、お湯地獄の湯船から脱出した。

途中、お湯を手で掬ったりしているせいで、肌襦袢の足元ら辺が濡れて、
ちょっぴり透けている女人の姿に吃驚しながら、
どうにか脱衣所までたどり着き、嫌になるくらい量の多い髪を手拭で纏めていると、
先ほどの変な形の笠を被ったお兄ちゃん

(ちなみに、風理の印象によると、
今日出合った大人で「変な〜」という形容詞のつかない者は少ない。
変な服来たデカイ偉そうなお兄ちゃん…とは藤麿。
変な色眼鏡かけたおじちゃ・・いや、お兄ちゃんという事にしておこう…というのが濁炎。
そんな二人になにかと世話を焼く、大人びた綺麗な、
だけど不思議と子供っぽい所もある、総じて変なお姉ちゃん…が霧子である。
直ぐに別れたサムライでさえ、体から変な糸出す恐いおじちゃんという酷い条件付けをされている。
・・・・・閑話休題。)

――確かテンブ殿さんと言ったか――、に手を置かれたのを思い出した。
男らしいごつごつとした、大きな手。
それでいて、繊細で、温かくって。
「和彦さんのこと、思い出しちゃったじゃないかぁ・・・。」
髪を拭く手を休めると、ポツリと呟いた。
呟いてから、慌ててその科白を撤回しようと、意味もなく手をばたつかせる。
折角一大決心をして、保護者のモトを飛び出たというのに、
これから一人前になろうという時に、そんな女々しいことでどうする!!!!
自分の顔を両手で叩き、喝を入れた。
「お〜っし!がんばるぞ〜!!」

浴衣も着終わったのでそのまま部屋に戻ろうとして、ふと、言い残した事に気がついた。
ガラリと戸を空け、今しがた出たばかりの浴場へと顔を覗かせる。そして、
「早く上がってこないと、ひとりでみんなのご飯食べちゃうんだからね!!」
ぴしっと人差し指を湯船に居る者達の方に突きつけそう言うと、
風理は満足げな顔をして足取りも軽く湯殿を出て行った。
ランタ、ランタという足音と鼻歌と、5人分の食事たのしみだなぁ〜〜♪という呟きと共に。

●寂然<下法師> 題名:酔いどれ坊主
投稿日 : 2000年10月1日<日>22時45分

 さて、これはどうしたものだろう?
鬼子は宿に着くなり温泉へと飛び込んでいった。まあそれは良いだろう。
実に子供らしく元気があってよろしいとも言える。
しかし、その後もまるで灯火に誘われる蛾の如く、
一人また一人と飯も食わずに風呂に入りに行ったのはどうかと思う。

「まあ、お陰で思うさま美味いモノが喰らえるわけですがなあ」
手酌で茶碗に酒を注ぎ間髪入れずに飲み干す。
満足げに息を吐き、料理に箸を伸ばす。
「どうなさった姫君、暖かいうちに喰わねば作ってくれた者に失礼というものですぞ。
おう、この狸汁の美味いこと……御山におったらとても喰えぬ。
いやまったく、何故こんな美味いものを喰わぬのか」
酒が回ったのか、ほろ酔い気分で口数が多い。がつがつと喰いながら、よく喋る。

「しかし、湯殿は今頃大変でしょうな。なんせ一人一人でも充分に個性的な連中が一度に五人。
先客が居たならばさぞや仰天するでしょうなあ」
呵々と大笑し、また酒を飲む。
蛍子はついていけないのか、はあ、とか、ええ、とか言っているだけだ。
正直、困っているのだろう。当然だ。
酔っぱらった破戒坊主の食事に同席する羽目になった亡国の姫君としては
平均的な反応と言っていいだろう。

 寂然は喰い、呑み、喋る。ついには自らの分を食い尽くし、
「ふむ……遅いですなあ。冷めてまずくなってしまっては狸にも申し訳ない。
どれ、この狸汁は拙僧が頂いて成仏させてやりますかな……」
隣の椀まで手を伸ばそうとし、蛍子の方に片眉を上げてにやりと笑う。
何か言うなら今のうちだぞ、と言いたげな風風情だ。

●瀬ノ尾 蛍子<―> 題名:気まずい食事
投稿日 : 2000年10月3日<火>06時43分

寂然の態度や言葉に、どう対応したらよいのか蛍子は困っていたのだが、
<外法師>の手が隣の椀に伸びるのを見て、とっさに
「お坊さま、それなら私のを…」
と、ほとんど手をつけていない自分の椀を差し出す。
そうしてから、寂然の墨染めの衣や袈裟に気付き、
「あ…申し訳ありませんっ、こんな生臭ものを…」
と言うのだが、いまさらながらに、その目が寂然の周りに散らばる
空の酒瓶や、中身の無い椀を見る。

・・・気まずい。

「ご、ごめんなさい…」
すっかり気落ちして、蛍子はうなだれた。
(いつもこうだ…私は。何もできなくて、役立たずで…)
涙が出そうになる。
(その上泣き虫だ。)
睫毛をぱたぱたさせて、必死に涙を押しとどめる。
寂然の視線を痛いほど感じながら、
蛍子はその面もあげられず、その場で小さくなるしかなかった。

●寂然<下法師> 題名:表裏
投稿日 : 2000年10月10日<火>01時12分

 いやはや、参った。
妖を数知れぬほど殺し、人も殺したこともある自分だ。
多少は世を知った気になり、偉そうな口をたたきもする。
しかしまぁ、どれほど修羅場をくぐろうとも、たった一人の小娘が泣くのに参っている。
泣く子と地頭には勝てぬ、とは良く言ったものだ。

 そんな事を考えながらも、表面上は顔色一つ変えず、
「そうですか? それはかたじけない……と言いたいところですが。
姫君、あなたは育ち盛りなのですから、しっかり喰わねばいけませんぞ?」
そう、それが自分らしい態度だ。
あの娘を殺したときでも、決して動揺した素振りを表には見せなかった。
つまらぬ見栄だ。器が知れる。
そう自嘲しながらも、その態度を崩すわけにはいかない。
脆き蜘蛛の糸など、誰がのぼりたがるというのだ?
高みへ上ろうとする者の力になりたいのなら、自分は揺るがぬ縄でなくてはならない。
それすらも浅ましい、自己満足のためと知っていようとも。

「それと、姫君。泣きたいのなら、思いっきり泣いた方が良いですぞ?
あの鬼子や霧子とか言う娘御の言うていたように。
辛いこと、悔しい事があったら泣けばよいのです。
胸の内に貯め込まず、なに憚ることなく泣けばよいのです。
姫君、貴方はまだまだ子どもなのです。弱くて当然、出来ぬ事があって当然」

かつて、泣くことを知らず、何でも出来ると思っていた子どもが居たのだ。
なにも迷わず、ただ正しいと信じて妖を屠り、人を屠った子どもが居たのだ。
「大丈夫、ここには貴方を無理矢理大人にしようとする者は居りはしませぬ。
 一人で戦うことは、ないのですよ」

どんな仮面でも、被り続ければ顔となる。
そして自分は、その仮面を欲しているのだ。
 ……そして、破戒坊主とは、欲するままに動くものなのだ。

●明鶴院 藤麿<陰陽師> 題名:美味なる夕餉
投稿日 : 2000年10月16日<月>17時55分

「早く上がってこないと、ひとりでみんなのご飯食べちゃうんだからね!!」

 少年の、先程までとは打って変わった元気の良い声を聞くと、
藤麿はやおら湯から出た。こちらも、先刻とは顔色が違っている。目が、座っているのだ。
「霧子、体を流すのは、後で女湯でやるがいい・・・」
 声の調子さえ、常の彼とは異なっている。
ドスが利いた、とでも言うべき低音で連れの少女を呼ぶと、
彼は物凄い形相で脱衣場へと駆け込み、湯殿の戸の向こうでドタドタと浴衣を纏った。
帯も着付けもあったものではない。
 やれやれ、と霧子が微笑み、ぺたぺたとついて行く。
藤麿を良く知る彼女にはいつもの事だが、湯に残された濁炎とテンブは、
呆気に取られてしばし真っ白になった。そして、ポツリと、
「俺も出よ」
と同時に呟き、同時に湯から上がった。

「僕の夕餉を食ってしまおうとは、大変いい度胸だ! 少年!!」
 風理は、背後から迫るドタドタという音の正体を確認し、戦慄した。
にこやかに微笑む(もっとも、それは苦笑なのだが)霧子を小脇に抱え、
肉食獣もかくやという形相で追いかけてくる大男を見たからだ。
「そうはいかないぞ!!」
わははは・・・。ドタドタドタ・・・。
 あまりにも奇妙、あまりにも大人気ない「変なお兄ちゃん」に追い抜かれ、
少年はしばしその場で絶句した。

 肉の煮える芳しい香りに勢いづいて襖を開けると、
俯き、瞼を固くした瀬尾の姫と、そんな彼女に微笑みかける寂然の姿があった。
いずれの姿にも無理が見えるのは、狸汁の椀のせいばかりではあるまい。
やがて、姫はただ黙って肩を震わせ始めた。
坊主は、泣く姫に微笑を向けたままだ。
 陰陽師は、そこに「何か」を感じ取り、黙って自分の膳についた。
霧子が、命じる前からつけてくれる椀を受け取り、黙って口をつける。
「空き腹に、不味い物無しとは真理だな」
部屋に漂う気まずい空気を知らぬ気に、藤麿は霧子に笑いかける。
まるで自分の料理が誉められたかのように、少女は喜んで自分も食事を始める。

「生きていればこそ、舌の喜びも感じられる。生きているとは、実に素晴らし  い事ですな」
 部屋の誰にも聞こえる声で、藤麿は寂然に話し掛ける。
誠にその通り、と仏の笑みを崩さず、坊主は応えた。
「『この世の地獄』などと、ご大層な事を言っていたサムライが居りましたが、
 奴は、きっとこのような飯を食った事がないに違いない」
 独白のように、陰陽師は続ける。その瞼は伏せ気味に、法師の胸中を伺う。

「御坊、この世は地獄でしょうか? 僕には、すばらしき物ばかり、
大切な物ばかりに思える。だからこそ、その全てを知りたいと願い、守りたいと思う」
 法師は、目の前の若造が自分に「言の刃」を突き付けている事を察し、
僅かに居住まいを正した。
「すばらしきものを、そのままに受け取るには、真っ直ぐな心がいる。
なのに御坊、あなたは迷いを認め、それを祓おうとはなさらない。
それは、一体なぜなのです?」
陰陽師は、法師の懐へ静かに斬り込んだ。

●寂然<下法師> 題名:若き天才にかつて若かった男は語った。
投稿日 : 2000年10月22日<日>01時24分

「そうですなぁ」
藤麿と言う名だったか。なりは大きいが、まだ年若い。
斬りつけるが如き鋭さを持った瞳は、少年故のまっすぐさを持っている。

「我々は、青海を目指して旅をしておるわけですが……」
手に持った箸で、窓の向こう、街道の先にあるであろう関所を示す。
「青海の方へ向かってひたすら真っ直ぐ歩くと、川にはまったり、崖にぶちあたったり、
関所破りのかどで首を落としたり、まぁろくな事はありませんなぁ」
箸で首をかっ斬る仕草をし、にやりと笑ってみせる。
「それよりは、ここでこうやっていかに関所を越えるか、
旅をするかと知恵を絞った方がよほど良い。
真っ直ぐにしか歩けぬ旅人は、いつしか望まぬ所へとたどり着き、
立ち止まり迷う者こそ目指すところへと進めるのです。どれほど時間がかかろうとも」
 そのまま伸ばした箸で、はす向かいの陰陽師の皿から芋の煮物を失敬する。

「まぁ、そんなところですな。ですから、大いに悩みなされ。若き陰陽師殿。
何が美しく、何が醜いのか。何の為の力で、何を成したいのか。
後で振り返ったときに、悔やむことのないように」

●明鶴院 藤麿<陰陽師> 題名:小悟
投稿日 : 2000年10月31日<火>17時02分

「何の為の・・・力」
 自らが仕掛けた言の葉の罠が、あっさりと打ち返されて、藤麿は呆気に取られた。
法師の説法は、陰陽師の心の全く無防備な部分、
いや、あえて忘れようとしていた部分に飛び込んできた。

 何の為の力かを、悩め。
 後で振り返った時、悔やむ事の無いように。

 そう。彼は忘れていたのだ。
やがて回ってくるだろう桜家家老という栄達を捨てたのは何故だったか?
そんなものより、もっと上に行けるという自信があるから。
 兄弟子であり、上司でもある男の研究を盗み出したのは何故だったか?
彼の鬼殺しが、心の底から許せなかったから。 
そして、追っ手に命を狙われる危険な旅に、一人の従者の同行を許したのは何故だったか?
それは・・・。

 初めて、命の遣り取りというものを体験した天才の若き頭脳は、
本人も意識しないところで興奮し、目を曇らせていたらしい。
しかし答えは、全て旅の始めにあった。
寂然の言葉は、それを迷うていた藤麿に思い起こさせた。
 言葉にて、人を救う。真理のそれでなく、方便に過ぎぬとしても。
それは、宗教を生業とする者の「技術」。
藤麿は、目の前の破戒法師の持つ技に感服し、
そして己の火照った脳が心地よく覚めていくのを感じた。

「なるほど」
 若き天才は、得意の邪悪な笑みで寂然を見返す。
「在り難い説法でした。この藤麿、正に目の覚める思いが致しました」
言いながら、法師の小皿から漬物を一切れ、失敬する。
素直に聞き入った素振りを見せぬ辺りが、まだまだ子供じみている。
「今日の御説法、しかと心に留めておきます」
目の奥にだけ真摯な光を宿し、邪悪な笑みのまま藤麿は言った。
 実際、彼はこの法師の説法を決して忘れないだろう。
今日悟った答が、例え小悟に過ぎず、再び迷う日があったとしても。
長い旅路の上で、この法師と道を分かつ事があっても・・・。

「ところで、関所といえば・・・」
 陰陽師は、姫と智恵者を相手に、今後の行動について話し合う・・・。

●テンブ<ガンスリンガー> 題名:狸汁の狸なし
投稿日 : 2000年11月8日<水>00時05分

「さっきから見てれば感傷に浸ったり、高速で走ったり、今度は小難しい顔をする・・・。
そんな顔をしてると、眉間のしわが戻らなくなるぞ。藤色くん。」
藤麿が振り向くと、そこにはビミョ〜な浴衣姿のテンブが柱にもたれかかっている。
もちろんテンガロンハットはかぶったままだ。
 あいている場所を確認すると、そこにどっかと座り早速狸汁をすする。
その刹那テンブの顔が曇る。

「狸がいねェ・・。俺の狸は何処だ!」
大騒ぎをしながら狸無しの狸汁を箸でジャブジャブとかきまわす。
周りの人間が、しばし呆然とする中、お椀の蓋がものすごい勢いで空を舞いテンブの眉間を穿つ。
「五月蝿いぞ。もう少し静かにできないのか。
だいたい食事をするときくらい帽子を脱ぐものだ。」
藤麿は美味そうに狸汁をすすりながら、視線も合わせずに言い放つ。

テンブはあきらめたらしく、おとなしく晩飯を食べ始める。
蛍子がこらえきれず笑い声を漏らした。
「今日はいろいろあったンだ、明日はこんなに色々な事はないだろーよ。
だったら小難しい事は明日にしよーや。ナァ?」
蛍子に向かって、優しく言った。

●瀬ノ尾 蛍子<―> 題名:やさしい眠り。
投稿日 : 2000年11月11日<土>04時12分

「一人で戦うことはない。」
寂然のその言葉に、蛍子は全身の力が抜ける思いがした。
その言葉だけで、今までの疑念やとまどいや、引け目・・・
つまり一言で言えば、「この人達に頼っても良いのだろうか?」という・・・
まぁ、彼女の立場としては、当然と言えば言えなくも無い思いが、
その一言で消えていくのを、彼女は感じたのである。
・・・つまるところ、自分はまだ「ただの」子供なのだ。
「頼っていいのか、悪いのか」ではなく、「頼るしかない」のだ。

法師と陰陽師はなにやら難しい話しをしていたが、
やがて他の人々も加わり、話題は今後の予定へと移っていた。
さしせまった問題は、明日の関所越えだ。
その話題に加わりながらも、当の蛍子は安心感と、疲れから、うつらうつらしていた。
・・そう。関所だ。明日、青海の国へ行くのだ。青海の国へ・・・。

カコン!!
突然の音に一瞬目が覚める。 見ると、テンブが額を押さえてうめいている。
おそらく藤麿から飛んで来たのであろう、汁椀の蓋が、畳の上を転がっている・・ ・・・思わず笑ってしまった。
その笑いと、テンブのせりふが合図になったのか、
会議はお開きとなり、皆寝る準備を整え始めた。

蛍子は、霧子の整えてくれた布団にすばやくもぐり込む。
テンブの言う通り、「小難しいことは明日にして」今はただ眠りたかった!!
「おやすみなさい。」の言葉もそこそこに目を閉じる。
・・・ほどなくやさしい眠りが訪れ、
ひとときの安らぎの地へ、彼女を連れ去っていった。

●濁炎<世捨て人> 題名:トモヘトモセルアカシノイロヲ
投稿日 : 2000年11月14日<火>03時40分

 視界の隅を、くすんだ影が横切った。
目を上げると、白茶けた羽に蛇の目模様の小さな蛾が一匹、
ひらひらと顔の辺りにまとわりつく。
戸の隙間から入りこんで灯籠を目差す、その道程を遮ってしまったらしい。
  よう、悪かったな。あんたさんも関所越えかい?
独り言にならぬよう声に出さずに語りかけ、
濁炎は再び、膝に広げた図面に視線を落とした。

 如何にして、関所を抜けるか。
ひとしきり夕餉を済ませると、席の話題は専らそちらへと移った。
藤麿が筆と墨を取り出し、桜と青海の勢力図を引く。
(テンブが鍔広の帽子を一層深く被り直しながら、青海方面への道筋をやたら詳しく語った)
 手形を持ち合わせぬ姫君の御為と言えば、どこぞの流行り舞台の様だが、
見た目通りに不揃いな面々が繰り出す、珍案、奇案の数々は
何処まで本気に聞こえただろう?
 かく言う濁炎は、ふつーに袖の下渡したらどうよ?と比較的まとも(だと思う)
意見を出したのだが
関所詰めを任される程の役人にそんなものが通じる訳がなかろう
だからお前は馬鹿だと云うのだこの馬鹿者、と一蹴され、
不貞腐れて早々に宛われた部屋へと引っ込んだのだ。

  今はもう、丑の刻も過ぎただろうか。隣室も既に静まりかえり、微かに寝息も聞き取れる。
‥それにしても、と思う。
なかなか、逃げ切る事ってのは難しいらしい。
獣の道も迷い道も、闇雲に逃げた逃げ道さえも、此処でこうして交わっちまう。

 地図を小さく巻き、懐にしまう。立ち上がって忍び足で、 隣室との境を隔てる襖を少しだけ引き開ける。
ころんと黒髪の半ばまで布団に埋ずめ、やっと休めた子供らの、小さな寝姿を確認する。
 今日明日にでも、関所を抜けて青海へ辿り着きたいのだと、蛍子は言った。
少しでも立ち止まったなら泣いて動けなくなってしまうからと、
今にも涙をこぼしそうな瞳で、そう言った。
 辿り着いたその灯に、たとえ羽を焦がされようとも、一心不乱に目差すのか。
 ‥手形無しの関所越えなど、本気で考えるのならば、
打てる手は無いよりもある方がマシには違いない。
役人は形に弱い。上辺だけでも、人数分の手形を揃える事が出来れば、良かったのだが。
 「昔ならともかく、今の俺じゃあなぁ‥」
偽の手形を作ろうにも、少々の金と時間は要るだろう。

「やっぱり、俺の芸当ってば、コレしか無いのかねぇ‥。」 
仲居が下げ損ねたのか、畳に転がっていた箸を一対、拾い上げ、濁炎は一人ごちる。
かちかちと器用に箸先を鳴らしながら、窓縁へ歩み寄り、
唐突に身を翻すと、鋭く利き腕を突き出す。

 ふるふると鱗粉を撒き散らす、蛇の目の蛾が、その箸先に捕らえられていた。

今の自分でも、腕を金に変える事はできる。
ただ、断りを入れておかなきゃならんのは・・・
「‥宿代、頼むわ。出世払い、な?」
窓枠の上から、寝床に向かって合掌一礼。

 宵のさなかへ羽ひとひら、ひらりと軽く音も無く。
影は闇へと舞い出づる。

●風理<鬼少年> 題名:川のせせらぎ、夜の風
投稿日 : 2000年11月14日<火>19時14分

悪夢を見た。
小さい頃、よく見た夢。 村が焼かれた時の夢だ。
夢の中で自分は、多くの武器を持った大人に追いかけられ逃げ惑ううちに、
焼け落ちた家に巻きこまれ、もろとも炎と化す。
何度も何度も見た夢。その度にうなされ、枕を濡らした。
無意識のうちに、隣の布団へと手を伸ばす。
しかし、手は空を切るばかりで、求める暖かさは見つからない。
その布団に寝ているはずの人物がそこに居ない事に気がついたのと、
夢から覚めたのは、同時だった。
布団に残されたほのかな温かさが、返ってそこを空虚な空間にしていた。
そこから得られるものは喪失感のみ。

温もりが恋しかった。誰かに支えて、抱きしめて欲しかった。
だから、最近は見なかった悪夢なんかを思い出したのだろう。
「ぼくは馬鹿だ。一人じゃ寝られもしないくせに、なにが『守る』だよ・・・。」
我知らず、泣き言がぽつりとこぼれた。

とめどなく流れる涙を止めるすべを知らぬまま、しかし泣いている事を悟られないように、
風理は部屋の外にでた。
全てが寝静まった誰もいない廊下。ぼんやりと辺りを照らす燭台の灯り。
木の箱に詰められた深い闇と、その闇を配下に従えただ一つ堂々と存在する炎が恐ろしくて・・・
ただそこから逃げ出したかった。目的地があった訳ではない。
気がつくと、目の前には成瀬川が横たわっていた。
川を流れる水たちの声が耳朶をやさしくくすぐっていく。

出てきた部屋の2つ向こうの布団には、藤麿が横になっていた。
それほど深い眠りに落ちているようではなかった。
それどころかただ横になっていただけで起きていたのかもしれない。
 『ご飯の時は小うどん取っちゃってゴメン。あやまるから。・・・だからお願い。一緒に・・・寝て!!』
ゆすり起こして、そう元気よくいつものように言えば、彼は渋々にでも、温かい腕を貸してくれただろう。
ひとり、川辺を漂わなくても良かったはずだ。

「でも、なんでだか、そういうわけにはいかないんだよね。」
素直に頼ってみせれば、“ヒト”だって大地に生きるもの、理解しあえぬ事はない。
素直になれないのは自分だ。そう。運良くも幾多の心優しき“ヒト”に庇護されてきた自分だというのに。
体内に脈々と流れる、血に刻み込まれた遺伝情報が、“ヒト”を信用することを拒むのだろうか。

誇り高きル=ティラェで無ければ、男で無ければ、彼らを頼ることができたのに。
そして子供で無ければ・・・、誰にも頼る必要は無かったのに!!

(だって、つよくなんなきゃ!ぼくは蛍子ちゃんを守るって、そう決めたじゃじゃないか。
大きくなって強くなれば、夢を見たって泣かないでいられる・・・んだから!
―――そうすれば、一人でだって生きていける・・・ん・・・だから・・・)

浴衣の袖でぐいと頬を拭い、空を見上げれば、今宵は満月。
煌々としめやかに、ただ静かに辺りを照らす光。
陽光ほどの熱量を持たぬそれは、けれども地上に生きる全てのものに等しく輝きを与えてくれる。
炎の温もりに焦がれつつ、されど炎を恐れるモノにも、光の恵みを分け与えてくれる。

虫達の隣にお邪魔して、草の褥に大の字に倒れこんでみた。
不思議と暖かい夜の風が、頬をやさしく包み込む―――気がした。

●明鶴院 藤麿<陰陽師> 題名:蟐娥の下、闇の内
投稿日 : 2000年11月17日<金>17時35分

 風理が、風を感じていたのと同じ頃。
闇へと降り立った影は、自分より大きな影に出食わし、ほんの少し肝を潰した。
三日月の、微かな光の中にいたのは、寝ていたはずの藤麿である。
ただ月に向かい立ち尽くす彼は、月に挑むようにも、月に祈るようにも見えた。

「何してんの?」と、些か驚愕の色が抜けない声で濁炎が尋ねると、
陰陽師は「供養・・・かな?」と答えた。
「月光は、死者の魂魄を導くそうだ。ところで、お前こそどこへ行く? 
朝、お前がいなければ、霧子が寂しがるだろう」
月光を一身に浴びたまま、微動だにせず、濁炎に言う。
「まあ、お前の考えそうな事などお見通しだがな」
闇の中の影は、ただ苦笑いで応じた。しかし、瞳の内の決意は揺るがない。

「少ない戦力だからと思っていたから敢えて出さなかったが、
本当は 遊撃に人が欲しかったところだ。お前に、その任を授けてやる」
墨染めの影へと向き直って、藤麿は一包みの書状を差し出した。
「これを、青海城下の『冬月屋』に届けるのだ。彼は、お前も知っているな」
闇より出てて、それを受け取りつつ、濁炎のは怪訝な顔をした。
冬月屋は藤麿の実家・明鶴院家とは先代からの付き合いがある。
家を飛び出したはずの彼がそんな者にわざわざ手紙を出すとは。

 彼が疑問を口にすると、
「そうも言っていられまい。取り越し苦労なら良いが、もしもの事があってはまずいからな」
と、まるで何かに気付いているかのような口振りだ。
詮索を止め、受け取った手紙を懐に捻じ込むと、宿代頼むわと軽く言い放って、
僧形の男は再び闇へと歩き出したが、陰陽師の次の科白に、足を止めた。
「お前は、お前の思っているような自由を得る事は出来ないぞ」

「この天羅の森羅万象は、悉くその認識者、即ちお前を中心に回る。
お前が動けば、お前が望むもの望まぬもの、全てがお前に付いて回る。
どこにも逃げ場などありはしない」
 藤麿には、自分の言葉が彼の古傷を抉る刃である事が解っている。
解っていて、なお続ける。
「本当に自由になりたければ・・・。まあ、自分で考えろ。
ただ、逃げる事と自由である事は明白に異なる。覚えておけ」

「難しくて、俺にはわかんねぇよ」
濁炎は苦笑して、藤麿に背を向けた。
そして、何も気負わぬいつもの調子で歩き始めた。肩越しに手をヒラヒラさせる。
「手紙は、確かに受け取った。運が良けりゃ、届けられるさ」
言いながら、墨染めは夜闇に紛れて行った。

 月光の下に居残った藤麿は、ただ濁炎を見送った。
手紙が無事届けられることは疑いないが、できれば、届いた上で無駄になってくれればと思う。
でないと、また一人の子供が、人の心の闇を見る事になってしまうのだ。

 藤麿は、再び月に相対する。
今度は、ただひたすらに浄土を祈る明蓮宗徒のように、ただ祈る事に専心した。

関所を越えれば、その先は目指す青海の国。
だがその裏には、瀬ノ尾滅亡の鍵を狙う“影”達の暗躍があった。
……次回、第六幕。「青き海をめざして」

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