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第八幕:「月下争乱・壱」



●状況描写18
投稿日 : 2001年4月25日<水>05時09分

(これが私の旅の終りか・・・)
感慨も無く、涙も無く。蛍子はただそう思った。
真白な着物を着せ掛けられた時も。豪奢な籠に揺られている時も。
欠けた月のかかる夜の海・・その波間に浮かぶ、幾百もの明りに照らされた
海の神の社を見た時も、彼女の心は動かなかった。

青海到着より三日。“彼ら”と別れたあの時から、蛍子
心は凍り付いていた。
ただ一度あの春星という陰陽師に『白い円盤』を奪われた時には
激しく抵抗した…藤麿の忠告通り、ずっと隠しておいたのだが、
陰陽師の目はごまかしようも無かった。

そして今。社殿の奥に移された蛍子の耳には、遠い波の音と共に、
かすかな楽の音が聞こえている。
もうすぐ婚儀が始まるのだろうか…まるで他人事のようにそう感じていた時、
部屋の扉がそっと開けられた。…である。
蛍子の乳兄弟にして、今は青海の領主に仕える身であった。
この三日間蛍子の身の回りの世話をしてきたのも彼女である。
蛍子の側へすばやく近づくと、何事かをささやいた。

・・ここ数日、ほとんど揺らぐことの無かった蛍子の瞳が、
驚愕に見開かれた。


「…静かすぎる。」
陰陽師平 春星はそうつぶやいた。
彼と死號霧子――見る者が見れば霧子に非常に良く似た女だ――
は、『水神神社』本殿より少し距離を置いた場所に佇んでいた。
しばらく社を観察していた春星は、やにわに袂から式札を取り出すと、
宵闇の空へ放り投げた。
式札は空中で黒い鳥の姿となり、社の方へ飛んで行く。

≪偵察用式≫と感覚を結合させた陰陽師の目に映ったのは、
社内の警備兵、特に蛍子周辺の者の多くが意識を失っている姿だった。
手に祝い酒の杯を持っている…薬でも盛られたらしい。
「神宮家の者の手引による内部の犯行…か?…いや…違うな。」
動かぬ兵の中には薬のせいではなく、あきらかに陰陽術によって動きを封じられている者がいる。
…この式の組成には見覚えがある。
「・・・藤麿。」口の端をゆがめて、春星は笑った。

「来たぞ、死號霧子。“やつら”だ。
・・さあ行こう。おまえはおまえの、そして私は私の願いを・・かなえるためにな。」


●平 春星<陰陽師> 題名:暗い炎
投稿日 : 2001年4月30日<月>01時40分

突然の雷撃が、式打ちをしている最中の藤麿を襲った。
社を警備する兵の戦闘能力を奪うように打たれたはずの式は、
実体化直前で雲散霧消する。
悲鳴を上げる霧子をよそに、その消えた式の変わりに現れたのは、
死號霧子と五連心珠球をあやつる平 春星だった。

「機密を持ち出した罪は万死に値すると言ったはずだ。」
春星はそう言うと、倒れ伏した藤麿の右手…すなわち、
陰陽師の命とも言うべきその手に、己の右足を振り下ろした。
ごきり、という音と共に藤麿の右手が粉砕される。
奇妙な笑みを浮かべながら、藤麿の苦悶の声に耳を傾けていた春星だったが、
ふいに腰をかがめると、蛍子が持っていたはずの『白い円盤』
を藤麿に見せつつ、こうささやいた。

「・・・お前は桜家から自由になることなど出来ない。
ましてや、機密である五連心珠球を盗み出すなど言語道断だ。
そのうえ・・その上、瀬ノ尾の姫君の持っていた『白い円盤』
・・・そうだ、お前はよく知っているはずだ・・・その中に
書かれている明鏡製法までも先に手にいれるなど・・。
お前はいつもそうだ。いつもいつもそうだった。
私を邪魔しようとし、私の努力を無駄にし、
私をはるかに飛び越えて行こうとする。
“天才”の名のもとに、“天才”の論理の名のもとに、
私を踏みにじってきたのだ。弟弟子・・・いや、
明鶴院 藤麿。」

ほとんど“やさしい”とさえ聞こえる平 春星の声に、
暗い炎の色が入り混じる。
彼が藤麿に会ったその時から、その内側を焦がし続けてきた、
暗い炎の色が。


●明鶴院藤麿<陰陽師> 題名:心澄みたる事、明鏡の如し
投稿日 : 2001年5月4日<金>02時49分

筆を握る右手を踏み砕かれてなお、藤麿の心は平穏だった。
彼は、兄弟子を憎んでいた。
その、非人間的な探究心や強すぎる欲望、そのものをでは無く、それを実行に移すことのできるその「強さ」を、である。
天才を自称しながら、その実、他人の評価を意識してしまう己の「弱さ」を知るからこそ、憎んだ。
それは憎しみである前に、憧れであった。
そして今、憧れであり最大の敵であった兄弟子・春星の弱さを知った。
もはや若き天才の心には、立ちふさがるこの男への畏怖も憧憬もない。
ただ、同じく陰陽道を修め、操る者として、相手から「世界」の支配権を奪い取ろうという、
すべての陰陽師に共通の野心が静かに燃えるばかりだ。だから・・・。
だから、藤麿は笑った。邪悪と形容すべき、あのいつもの笑顔で・・・。
激痛が走り続けているはずの右腕を振るって春星を跳ね飛ばすと、立ち上がる。
痛みなど意に介す風も無く、背筋を伸ばし、腕を下ろす。いつもと同じ、彼がもっとも大きく見える姿勢だ。
どこにも無理が無いから、霊力が全身に行き渡る。
「相変わらず小さい男だな!! そんな了見で明鶴院藤麿に挑むつもりか!!」
この大音声も、いつも通りのものではある。
「いくぞ。天才とそれ以外。いや、お前と僕の明確な格の違いを教えてやる!!」

若き天才は、呪文を紡ぎ始めた。
左手で支える、旅の途中で掠めた明鏡を通し、言霊は華洸を帯びて藤麿を包み始めた・・・。


●死號霧子<戦闘用傀儡> 題名:玩具の兵士
投稿日 : 2001年5月11日<金>17時48分

 霧子の悲鳴は、紅蓮の炎を引いて飛来した琵琶の音に引き裂かれた。
倒れる彼女の前に降り立ったのは、同じ顔を持つ忍装束の女、死號霧子であ
る。
 死號の眼が、霧子の熱刃に幾条にも引き裂かれた着物から覗く、白肌の上に走る朱の線を捉えた。
「許さない」
短く、死號霧子は言った。

 その朱線は、傀儡の人造の魂が、己に施された幻術を操作して引き起こす幻覚である。
より人に近付くため、傷付けば血を流すように・・・。
 霧子は、先の二体の魂を組み込まれ、体表に瑕を刻むようになった。
その3番目の魂は、4番目に移植されるはずだった・・・。
 だが、3番目は陰陽師に連れ出され、逃げた。当然彼女の魂の記録は失われ、傀儡「人」化の実験は中断。
不要になった4番目は、五弦を以って五行を狂わす暗器、「永鳴琵琶」を与えられ、兵士になった。
そして、取引の道具にされたのだ。 
 だから、霧子の完成度を示すその朱い瑕は、死號霧子にとって許せないものだった。

 再び琵琶が打たれる。霧子の足元から蔦が伸び、打ち据える。背を打たれ、
息苦し気に咳き込むその姿が、死號霧子の怒りにさらなる勢いを与えた。
「何故、あなたが動いているの?」
 短く静かな声。不完全な魂しか持たない人形、琵琶を武器に戦う玩具の兵隊には、
感情を発露する術がまだ少ない。だが、
 ・・・あなたが逃げたから、私は人形のままだ。
    人形だから、命じられるままにしなければならない。
    人形だから、私は誰にも愛されない。
    
    あなたが、逃げたから・・・。
 
 少しだけ苛立たしい、と他人ならば思うだろう表情の奥に、
殺意という言葉では足りないほどの、「もう一人の自分」への怒りを湛え、
忍装束の死號霧子は暗器を構え直した・・・。


●霧子<傀儡> 題名:魂の透間を覗く
投稿日 : 2001年5月15日<火>14時29分

四肢に焼けるような痛み。
息をする度、胸に鈍痛が走る。

「あなたが逃げたから…私はいつまでも人形のままなのよ」
ともすれば、安らかな囁きにも聞こえるであろう、死號霧子の声。
しかし、霧子を慄かせるに余りある殺気をたたえていた。

(怖い)
 怖い?
 …そうだ、初めて、死號を見たときも。
 私は彼女が怖かった。
 あの子の眼は「人形」の物だったから。

「あなたの魂があれば私は完全なる魂を手に入れることが出来るの。
 あなたの魂を私に頂戴…慘號霧子」
霧子は顔を上げ、死號の眼を見つめる。
死號の眼はあの時と変わらぬ、光の無い「人形の眼」をしていた。
「あぁ…」
息が苦しくなった。死號に打たれた背中のせいではない。

―魂が涙を流した。

成功することは髪の毛一筋にも満たないであろうと思われた、傀儡の
「人」化実験。
霧子「型」傀儡は目覚しい成果を上げていた。
魂の移植を繰り返すことは、人が成長することに酷似している。
実験が進むにつれ、霧子の中に芽生えた「人への憧れ」はやがて
「自分は人である」「人でありたい」という確固たる自信へと昇華した。
それを助けたのは他でもない、明鶴院藤麿だ。
彼は霧子に対して「実験台である傀儡」ではなく「愛すべき人」として接した
明鶴院家唯一の人間だったのだ。
強く強く願うことこそが霧子の完成度を高めたのだ。
人として愛され、誰かを愛したい、と。

霧子は、傘を握り締めた。
「私を憎むことで…あなたは生きてきたの?」
空気が漏れるようなか細い呼吸の合間に言葉を紡ぐ。
傘を支えに、ゆるりと立ち上がる。

不完全なる同じ魂。
育まれた感情 重ねてきた記憶 辿って来た道
すべてが違う。
そう。すべてが違うのだ。

「もう、あなたは、私じゃないのに…」
霧子の言葉を遮るように、琵琶の音が響いた。


●平 春星<陰陽師> 題名:流星
投稿日 : 2001年6月7日<木>02時27分

自らに向けられる“殺意そのものの形”を春星は見ていた。
藤麿の組み上げつつある≪式≫に向かって、集積していく紗の姿を。
その式は特別に緻密でも、正確でもなかった。
それどころか過度に華美で、無意味なほどの威力が込められてさえいた。
だがその式はまぎれもなく“明鶴院 藤麿の式”だったのである。
式そのものにその名が刻印されているかのように、
絶対的な個性がそこにはあった。

(・・・一番出世したけれど、お前が一番出来の悪い子だわ、春星。)
深い記憶の底から母親の声が甦る。
彼女は一度も自分を認めたことなどなかった。ただの一度も。
自分には陰陽師に必要な何かが欠けているのだと言う・・
努力では埋められない何かが。

「持つ者と持たざる者、か。」
だが今の彼には五つの球体があった。
鬼達の力の源、心珠を使った彼の武器。
彼の持てる全てを注ぎ込んだ、五つの輝ける星。
春星の周りを旋回していた五連心珠球が突如激しい光を発しながら
流星のような弧を描いて、藤麿の放った≪式≫に襲いかかった。

「私が真に持たざる者か、その身をもって試してみるがいい!・・藤麿!!」


●明鶴院 藤麿<陰陽師> 題名:天が与えたモノ
投稿日 : 2001年6月11日<月>11時03分

 藤色の巨躯を包んだ光が収束し、星空へと放たれると、一匹の獣が舞い降りた。
三つの首を持ち、紫炎を纏った四足獣・・・《式》だ。
三頭がオニの貌に似ているのは、組み込まれた三つの心珠球の影響か。
 弧を描いて飛来する五つの流星を、獣は雷火を吐いて迎え撃つ。
三星は砕けて墜ちたが、一つに中央の首を破壊された。
獣と感覚を共有する藤麿に、膨大な量の「痛み」が流れ込む。
 そしてもう一星が、《式》の主そのものを狙う。避けられない。
 苦痛に顔を歪めながら、天才は一瞬の決断を下す。
 砕け、役に立たない右腕を振るい、渾身の力で流星を弾き飛ばす。
 星とともに、陰陽師の手は千切れて燃え尽きた。

 二つの圧倒的な「感覚」が、藤色の脳細胞に一条の「光」をもたらした。
 光は「道」だった。
 春星と、そしてかつての主が立ちふさがる道の先に、「天羅」が見えた。
 その天羅は・・・。
 識らず、涙が流れた。

 主の絶叫とともに、手負いの獣が炎の尾を引き、藤色の流星と化し、敵に突進する。
熱を帯びた爪牙が春星に幾度も幾度も幾度も襲い掛かり、引き裂き、押しつぶし、焼き焦がした・・・。
 戦いは、終わった。

 わずかに息のある、だがもう助かるまい兄弟子を、右肘から下をそっくり失った藤麿は静かに見下ろした。
「お前の後ろに・・・天羅が見えた」
 肩で息をする彼の傷も、決して軽いものではない。だが、彼は秀才に語るのを止めない。
「その天羅は、慈しみ合うが難きゆえに、血を流し涙を流し、戦にまみれ 続ける疲れ果てた大地だ」
 先刻の涙は、まだ止まらない。
「そんな天羅を滅ぼせ、終わらせよと、天は僕に才を、いや命を与えた。
 僕は、この乱世を終わらせる」
 今にも絶息せんとする星の陰陽師は、いかにも楽しげに鼻で笑った。
 落涙しながら、自称天才も笑う。
「あなたの後ろには、天羅がありました。俺の後ろに、それは見えませんでしたか?」
 どこまで傲慢なのだと、秀才は臥したまま笑った。笑いながら目を閉じて、満足げに息を引き取った。
 侍が刃で語るように、我らは術で語り、そして解かり合ったのだと、天才は信じたかった。

 明鏡の製法を記憶した円盤、そして銀の扇を兄弟子の遺体から回収し、若き天才・藤麿は立ち上がる。
天が与えたもう一つのモノ、愛する女と、信じられる仲間のもとへ向かうために。
 右腕の傷は、焼け融けてもう血を流してはいない・・・。 


●死號霧子<戦闘用傀儡> 題名:She became woman
投稿日 : 2001年7月5日<木>03時24分
 「もう、あなたは、私じゃないのに…」
 もう一人の「自分」のその言葉は、人造の魂が纏う堅い防壁に酸のように浸透し、その中心に届いた。

 私とは、違う。
 何故、違う?
 私より、「人」に近いからか?
 彼女は愛されたからか? 私は取引の道具に過ぎないからか?

 言葉は死號の「心」に触れた。
 心が悲鳴をあげた。「壁」を粉々に粉砕し、心が溢れ出す。
 許さない、ゆるさない、ユルサナイ!!
 妬み、憎しみ、怒り。目の前の「もう一人の自分」を否定する思いが硬く厚く凍っていた魂を激しく揺さぶる。
人形の目に、瞑い光が宿る。それは健全な
ものとは言えないが、間違いなく「人」の眼光だった。
 心の振動は、その仮面の表情さえも打ち壊す。色をなさなかった作り物の貌は、今はっきりと憤怒の相を刻んでいる。
 彼女もまた、「人」への一歩を踏み出した。愛と喜びが心を育てるように、
悲しみと憎しみもまたその糧となったのだ。

 新たに生まれた「感情」そのままに、戦乙女は琵琶を掻き鳴らす。
世界を狂わす不協和音が五行の凶器を喚起し、それらは憎むべき女へと降り注ぐ。
慘號は色鮮やかな鉄傘を掲げて身を守る。
死號は、その死角に回り込むために、敵の周囲を飛び退って幻惑する。

 耳を圧し頬を叩く風を、死號霧子は心地よく感じていた。
 「お前の望みを叶える為に・・・」 自分をここまで連れてきた春星の言葉が蘇る。
自分が、今その望みを叶えた実感に、抑えようのない笑みが零れる。

 その笑みは、すぐに戦慄へと変わる。
 では、自分は何のために慘號を倒さなくてはならないのか?
 もう長いこと抱いてきた彼女への憎しみは、自分そのものでもあった彼女の魂への渇望は、今、全て無に帰したのだ。
 体を支え、跳ね上げていた両足が震えている。歯の根も合わない。
 立ち止まる。永鳴琵琶がやけに重い・・・。

 「倒さなければ」「何故戦う?」
 願いを真ん中に、過去と現在に縛られた死號霧子は、立ち尽くしたままもう一人の自分を見た。
 その表情は、ほんの数刻前からは想像できぬほどに複雑だった。


●惨號霧子<傀儡> 題名:望み・かなえ・たまえ
投稿日 : 2001年7月28日<土>02時38分

死號が、感情に囚われた。
互いをじっと見据えて。強い眼差しを、受け止めあう。
「戦う理由を探しているんでしょう」
霧子の声に、死號は体をこわばらせた。
「知ったような口を…」
その端麗な顔に浮かぶのは、叱られた子供の涙が溢れる寸前のもののように見えた。
「私は…」死號の瞳が震える。
「誰に愛される事もないんだ…」死號が叫ぶ。
「私の居場所は、此処しかないのだ!」
解き放たれた殺気に霧子は思わず身構える。
ふと、死號の言葉が消える。彼女の脳裏をよぎったものは…それとも誰かだっただろうか。
「私は、此処でしか生きられない。だから、此処で道具となる生き方を選ぶ」
死號の腕の中で、琵琶が鳴く。風が唸った。
「ならば私も、あなたと戦う理由が出来た」
霧子の傘が彼女を守るように、大きく開く。

死號の琵琶が、狂気の音色を奏でると、大気中の水が、火が、空気が、足元に広がる大地が、
自然の全てがまるで、人を殺めるための意思を持ったように霧子を襲う。
霧子は、傘を自在に舞わせ応戦する。避けられぬ攻撃ではない、が、反撃が出来ない。
まだこの子を殺してはいけないような気がする。

「なぜ戦わないの!?惨號!!」
一際大きく永鳴琵琶が鳴る。
轟、と音を立て風が吹く。それに乗って炎が伸びる。大蛇のように。
避けようと上体を低くし、踏み込んだ瞬間、背後で轟音が響いた―藤麿が放った式だ。
霧子は一瞬、ほんの一瞬だったが気をとられた。蛇が、霧子を呑む。
何かが焦付く嫌な匂いがした。霧子の艶やかな髪が、肩下から茶色く焼け焦げていた。
本能的に霧子の足が駆け出していた。その手には、いつのまにか細身の純白の傘が握られていた。
狂気の旋律の中。霧子は走る。

次に聞こえたものは、2人の雄獣の咆哮だった。霧子は、真直ぐに死號を見ている。
その死號は、霧子を見ていなかった。
彼女の視線は力尽きようとしている、一人の陰陽師を見つめていた。
「春星様」
前のめりに一歩踏み出す。
懐に霧子が飛び込む。

死號の左胸に、浅く傘の切っ先がうずまる。じわり、と赤く、滲む。
人である証の華。

「貴女は、望み通り人になれた。人として自由に生きていける。」
唇が触れるほどの距離で、霧子がささやく。
「それとも、彼の元へ行きたいの…?」
死號が一筋、涙をこぼした


●死號霧子<戦闘用傀儡> 題名:Free Man
投稿日 : 2001年7月30日<月>08時20分

 この、頬を伝うものを涙。
 この、胸から溢れるものを血潮。
 確かそう呼ぶのだと、死號はどこかで考えていた。
 では、傷付いた胸の奥で脈打つこの想いは、一体なんと呼んだろうか?

 自分の血を吸い上げて咲く赤い華を掴み、胸から引き抜いて後方に跳躍。
 いまだその目の片隅に「主」春星の臥姿を捉えながらも、
 その目には再び「戦う」意思の光が宿っている。
「私は・・・道具で構わない」
 それは、彼女が初めてした選択。
「私は、あなたを殺し、藤麿を殺して春星様の仇を討つ」

 そう、とそっけなく惨號は言った。
 同じ光の視線が交錯する・・・一瞬。

 さあ行こう。おまえはおまえの、そして私は私の願いをかなえるためにな。

 初めて、自分にも「望み」がある事を判ってくれた男。
 その男が主ならば・・・・。
 私は、彼のための道具で、構わない。
 人は、この「想い」をなんと呼ぶのだろう?

 ・・・一瞬。
 清楚なる白蝶が、華麗なる美蜂へと変じた。血を食らう白い針を掲げて。
 妖艶なる黒蝶が、優美なる羽音を打ち鳴らす。天羅があげる悲鳴にも似た。
 五行が、使い手の心のごとく、正確な平行を描いて霧子を狙う。
 だが、暗い夜空に大輪の華が咲いた。開かれた傘に込められた《式》が、
相克の理を以って不協和音を鎮め・・・仕込まれた刃が、
死號霧子の首を胴から払い落とし・・・。

 私は死ぬ、いや、壊れるのだろう。
 せっかく、人間に成れたのに。 

 ・・・・人間?

 ヒトというケモノの「間」にあるモノ。
 この胸の想いが、人間の証か。
 ならば、私は気付いたよりほんの少し早く、人間だったのだ。
 あの星の魔法使いがかけてくれた呪文に、心がほんの少し動いたあの時から。
 
 首だけの死號霧子は、首だけで、「自分」だった女に言った。
「私も、恋をすることができた。
 私も、愛する人に愛されたかった。
 私のこと、忘れないで・・・・・・・」

 幻術が失われ、もはや物言わぬ木像の一部に成り果てた死號霧子の唇は、
最後に音にならない言葉を刻んだ。
「来世では、お傍にいさせて下さいませね、春星様」


●惨號霧子<傀儡> 題名:たどり着いた道
稿日 : 2001年8月15日<水>00時50分

足元に転がる私の顔。
そっと触れてみた。(ざらざらとした木の感触)
そっと抱き上げてみた。(冷やりと胸に沁みる)
ばさりと焼け落ちた霧子の髪はちょうど肩上で
その風貌は、胸に抱く死號と瓜二つに見えただろう。
彼女が、話し掛ける。
霧子も、話し掛けた。
「私は、貴女のように戦う力を持っていなかった。
きっと私もどこかで、あなたに嫉妬していたわ」
惨號の手が、彼女の頬をそっと撫でる。
「ごめんなさい…」
震えていた。腕が、足が、声が。
「何故こうなってしまったのだろう…。
私たちはやっぱり不完全だわ。私たちは、一つになるべきだった…」
―それは違うわ
死號がささやく。
―あなたは愛される為。私は戦う為。私達には必要とされる理由があったでしょう?
死號の唇は、艶かしく紅い。
―そう、言ったのは、あなたでしょう?
でも、と言いかけた惨號を瞳で制し、死號は続けた。
―貴女は大切な人の為に戦う事ができた。その力を手に入れることが出来た。
―私も恋をすることができた。 私も、愛する人に愛されたかった。
―…ほら。もう私たちは、不完全じゃないわ。

―私のこと、忘れないで・・・・・・・

惨號の胸の中には
小さな木の塊
ひんやりと冷たい
これは私の魂の欠片

とめどなく溢れる涙を遮ろうと、瞼を閉じようとした時
目の前が、暗くなった。血の匂い。懐かしい匂い。
片腕で優しく包まれた。
「傍に、居てくれるだろう…?霧子」


立ち塞がるのは、疾風のサムライと傭兵の銃槍使い。
四散する緋の色は珠の欠片か、血の飛沫か。
……次回、第九幕。「月下争乱・弐」

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