ナムウィリクの戦乙女

前編

 闘獣をこよなく愛するある貴族が、はるか異国の魔獣を得て、どれほどが経ったであろう。半年も過ぎてはいまい。にもかかわらず、かの魔獣の臓腑におさまった虎や獅子、熊達は三十頭あまり。あわれな罪人どもにいたっては、数える者すらいない。
 かの魔獣の名を人々は知らなかった。魔獣を売りつけた商人は「化物」と呼び、持ち主となった貴族は洒落たつもりだったのだろうか。愛らしい少女を思わせる名をつけてはいたが、浸透はしなかった。魔獣に最も相応しい名を与えたのは、とある一人の興行師である。彼が最も大切にしていた五頭の獅子が、魔獣に食い殺された時だ。口元から鮮やかな血を溶岩のように滴らせる魔獣に、彼は声の限り罵った。
 このデロアの糞犬め!
 冥界神デロアの僕にして、冥府の門を守る魔犬である。

 ナムウィリクはイルシュ帝国の植民都市である。また、帝国の植民地とされる以前から、闘獣が盛んに行われる町であった。帝国の支配下へ落ちるとともに、日干し煉瓦で組み上げられた昔ながらの建造物は破壊され、新たに石によって都市は造りなおされた。都市の大広場の先にそびえる闘技場が、都市で最後に完成した最も背の高い堅牢な建築物であった。この闘技場によって、かつての闘獣はこれまでにない規模と様々な演出で彩られる。ナムウィリクの人々は最も分かりやすい形で帝国の力を知ることとなった。
 そのようなわけで都市の中心部は帝国風の建物が立ち並んでいた。一方で、屋根のひさしや、外壁に残された足場の木棒には、この地方独特の飾りである木製の大きな玉が彩色されて吊り下げられている。商人達は店の壁に昔ながら文様を色鮮やかに描いて人目をひき、文様に負けず劣らずの自慢の商品を並べて商売にいそしんでいる。それらは帝国の荘厳と優美を旨とする装飾様式と趣を異にしていた。
 この調和とも競合ともつけかねる文化の混雑は、いずれにせよ朝の雑踏の凄まじさほどではなく、通りに蹴立てられた砂埃に白くかすんでいる。
 値段の交渉に夢中になっている商売人と客、あるいは卸売商と小売商、荷台から物騒な言葉を叫んではなんとか道を確保しようという御者、スリに騒ぐ若者や、人々の足の間をぬって餌を探す野良犬に家禽、逃げ出す荷馬。叫んでみたところで、自分の声すら耳に入らぬまでの喧騒ぶりである。
 遠路はるばるたどり着いた旅人達にとって、この喧騒はただの悪路よりも始末が悪い。市壁の外は灌漑用水路が張り巡らされた刈り入れ間近の田園風景が広がり、旅人の疲れた足と心を癒すのだが、一歩市門をくぐれば緑などほとんどない。かわりに、ごみが所狭しと散乱した通りに人と砂埃がもうもうとしている。今は朝だからまだましであるが、昼になり気温が上がれば、わずかな湿気とともに悪臭が立ち昇り、この喧騒に付け加わる。
 だからその旅人は、昼までに宿を見つけてしまいたかった。彼女は、自分の連れを休ませなければならなかった。
 道にひしめく人の群れから、かの旅人の頭が突き出る。日よけのマントとフードで体を覆い、素朴な形の竪琴を人ごみに潰されぬよう頭の上にのせて片手で支えている。旅に薄汚れたその頬は、フードの中に差し込んだ朝日を受けて、なお白く輝いた。たとえそれに目を留める者がいたとしても、この人ごみでは足を止めることすらままならない。多くの人々は、あの旅人が果たして白い顔料を顔面に塗りたくっているのか、それとももとからそのような顔色なのか、確かめるすべもない。運良く彼女を近くで見た者は、我が目を疑う。そしてもう一度よく見ようと目を凝らした時には、相手はすでに人の波に飲まれて遠ざかっている。
 白面の旅人は人々のささやかな驚きを後に残しつつ、人の流れを強引に横切る。そしてようやっと、人気《ひとけ》の少ない路地へと自身の体を引き出すことに成功する。最後に人ごみに残った右腕が、渾身の力をこめて引き抜かれた。
 白面の旅人の右腕につながれて、幾分小柄な旅人が路地によろめき出た。彼女は倒れかけた連れの体を支え、建物を背に座らせる。連れの隣に竪琴を置くと、そのままその手をひるがえし相手のフードを脱がせてやる。擦り切れたフードの下から、濃い金褐色の短髪が現われる。少年は苦しげにまぶたを閉じ、大きく息をついた。小麦色の額にはうっすらと汗が浮き、呼吸は荒いが力のない浅いものである。彼の首には包帯が巻かれていた。
「無理をさせたね。少し休もうか」
 そうつぶやいて、白面の旅人も自分のフードを後ろにはらう。
 路地を行き来していた町人は、いまやその旅人の白すぎる肌が、顔料によるものではないことを知る。顔立ちもどこか異質だ。鼻筋は通っているのに、眉間から額は妙にのっぺりしている。彼らは大分通り過ぎてから彼女を振り返り、気味悪げに目を細めてはそのまま行き過ぎる。声をかける者も、石を投げる者もいない。せいぜい遠くから子どもが指をさすくらいである。
「取り替えよう」
 人ならぬ女は、少年の前に片膝をつき、首筋の包帯に手を伸ばす。その声は低く静かで暗かった。故に彼女の声は発せられると同時に大通りの喧騒に流され、少年の耳には届かない。それでも彼は、彼女が包帯の結び目に両手を伸ばした時、拒否の印として彼女の腕に片手をかけた。
 少年の動作は優しく、緑の瞳は穏やかでかたくなであった。
 彼女は両手を下げる。
 少年は自身で包帯を解く。首の後ろに当てていた布をとり、左の膝に置く。体に巻いたマントをはだけ、腰の皮袋から新しい布を取り出して首の後ろに乗せる。
 彼女は少年の前に片膝をついたまま、これらの動作を見守るしかなかった。少年は緩慢な動きながらも包帯を元通り巻き終え、彼女が手出しする隙を与えない。彼女が首の傷を見せてほしいと頼むことを思い出したのは、少年が疲れきって両腕を下ろした後だった。彼女は手持ち無沙汰に、少年の膝に残された布を手に取る。それはわずかに血で汚れている。
——傷はほとんどふさがったようね。
 汚れた布を帯の間に挟み、彼女は立ち上がる。何気なく見上げた視線の先に、闘技場の屋上部がある。
 帝国の政策で闘技場では剣闘士同士の対決が一応のメインとして行われたが、古くから闘獣に慣れ親しんできたナムウィリクの人々には、受けが悪かった。ただ、都市の守護神が戦の女神ディアーラであったことから、女性剣闘士の対決だけは好まれていた。もっともディアーラは正義の戦をつかさどる神であったため、彼女に仕える闘士らが無為に命を落とすのは避けられる。そのため剣闘士達は刃を丸めた剣を使い、スポーツとして闘技は行われていた。闘技会の運営に悩んだ帝国の役人達はこれに倣って、男性の剣闘士達も切れない剣によって闘技を行い、時には一般の市民から彼らに対する挑戦者を募るという形式を採用した。これによって辛うじて剣闘試合の人気も獲得し、役人達は本国に対する面目を保ったようだ。しかしながらこの人気も、獣同士の闘獣に比べれば氷と火ほどの温度差がある。闘技場の壁に見られる落書きの多くは獅子であり虎であり熊であり、そしてかの魔獣とおぼしき獣であった。
「あそこに冥界の番犬っていうのがいるのか」
 彼女は呟き、少年を振り返る。相手はわずかにうな垂れて目を閉じている。半分寝ているのかもしれない。彼女はため息を一つついて麻袋を担ぎ、少年の脇に置いた竪琴を拾って頭の上に乗せる。もう一度少年を見下ろすと、彼はぼんやりと彼女を見上げていた。右手を差し出すと、彼は大人しく手を預ける。彼女は少年を立たせ、再び大通りへと踏み出した。
——奴隷なんか盗むんじゃなかった。これじゃ、私の方が前の主人よりも悪人みたいじゃないか。
 彼女は白い唇を噛む。
 ただ手を引いていることだけが、彼女がこの少年を引き止めておける唯一の方法だった。少年には、彼女から逃げ出すべき正当な理由がある。それでもなお、彼が敢えて彼女の手を振りほどいて逃げようとしなかったのは、傷のために体力が十分でなかったことや、逃げたところでどこにも行くあてがなかったせいだろうか。
 少年はフードを深く被り、顔を隠して歩いている。彼女の視線を感じると、彼はことさらにうつむいて目を合わせまいとする。
——無視したかと思えば突然素直になるし、いい子にはしてくれてるけれど、目は合わせてくれないし。
 彼女の中で苛立ちは大きくなる。
——そうね、私は盗人だわ。そしてあんたはあのひどい主人の下に帰ることもできないし、一人じゃ生きてゆくこともできない哀れな生き物で。やれやれ、かわいそうに。私を盗人と罵ったのが嘘のよう。ご主人の元に帰れないと知ると突然大人しくなって、まるで魂の抜けた木偶だ。
 黒く濁った感情をかき回し、彼女はそこから気をそらそうと、ますます強く前方の闘技場を睨みつける。
 彼女は、少年を助けたと思っていた。いつ死ぬかも分からぬ生活から救ったのだから、相手もそれを喜んでくれると思ったのだ。ところが彼は彼女を盗人呼ばわりした。彼女はその言葉に衝撃を受けた。それでも挫けることなく少年の傷の手当てをし、自分の食料を削ってでも彼に一人前の食事を取らせてきたのは、相手の考え方の方が何かの間違いだと信じていたからだ。ところが彼は、彼女の一連の親切などただの筋違いなおせっかいだといわんばかりに、頑なな態度をとり続けた。態度を軟化させたと思って彼女が油断すれば、必ずすぐ後に拒否の仕草を出し、油断した彼女の心を手ひどく痛めつける。
 彼女は思い悩み、徐々に疲れ果て追い詰められていた。
——異人の私と、奴隷だったけど人間であるこの子は、結局違うというわけか。妙な同情を持つんじゃなかった。闘技場の裏手の死体置き場に、そのまま寝かせておくんだった。帝都なら、他に拾ってくれる人間だっていたはずだもの。
 そのような考えが浮び、少年に新しい主人を見つけて手放すべきだという思いも日増しに強くなる。
 ぷつりと、そこで思考の糸が切れる。彼女は頭を振った。卑屈な感情と物思いは心の底に再び沈降し、通りの雑音が一気に耳へ戻って来る。彼女の右手には、少年の左手首があった。
——思い出しなさい。この子はあれから随分だんまりを決めこんでるじゃない。私一人であれこれ考えても仕方がないわ。それより今は、もっと単純な問題を片付けないと。
 彼女は闘技場を見上げ、足を速める。
 彼女はすでに文無しであった。彼女が最後に食事をしたのは二日前であり、少年は昨日の朝が最後であった。要するに彼女は糧を必要とし、それを得る財産を調達せねばならなかった。少年の傷に塗る薬も買わねばならなかった。こちらは特に高価だった。彼女の弾き語りごときで賄える額ではない。彼女は竪琴と歌以外の技能を使って稼がざるを得ないところに来ていた。人が集まるこの場所は、客を引くには都合がいい。

 ナムウィリクの闘技場は規模こそ小さくあれ、石造りの立派な建築物である。壁の下方は白地に赤、緑、青の文様が施され、柱頭に無理やり差し込まれた鉤から極彩色に彩られた木や皮の丸い玉がいくつも吊り下げられている。内部に通じる門は柵で閉じられ、奥はひっそりと冷たい。対照的に、闘技場外周を取り巻く回廊は、通りに向けていくつもの露店が朝早くからひしめいている。
 異人の旅人は少年に竪琴を預け、柵の脇に座らせた。彼は黙って座り、じっと露店の一つを見つめている。そこでは今しも新鮮な鱸がさばかれ、赤や緑の香辛料とともに銅板の上でじゅうじゅうと焼かれている。
「見るだけならいくらでも」
 彼女は軽くため息をつく。少年の様子を気遣いながらも、何気なく柵に歩み寄り、通路の奥を窺った。この先は客席にでもつながっているのだろうか。風の吹きすさぶ音が暗闇の向こうに響いている。そこでふと、奇妙な気配をその奥に感じた。人間達と異なる世界の息吹だ。
 彼女は魔法を用いて建物内部を探ることにする。彼女は柵を両手に握り、目を閉じて意識を集中させる。
 通路に落ちる影に自身の魔力をなじませ、魔法の視覚を少しずつ通路の奥へと進ませた。彼女の魔法は影に沿いながら通路奥の脇に見つけた地下への階段まで達する。階段の壁に穿たれた穴で燃える灯火が、彼女の侵入を危うくする。また火が灯っているということは、中に人がいる証である。彼女は魔法の視覚を、その道筋たるより深い闇を探して、壁の石積みの隙間を這わせる。
「おい、ねえちゃん」
 男の低くざらついた声が、地下へ意識を飛ばしていた耳に突き刺さる。彼女は息を詰めて目を開ける。四十がらみの男の仏頂面が柵越しに見えた。癖の強い黒髪は短く切りそろえられ、香油でてかついている。厚いまぶたの下からは、血走った黒い目が彼女を睨みつけていた。
 背の高い彼女は、男の薄くなりかけている頭頂部を見下ろすことができた。彼女はいまだ地下に飛ばした意識を、心に戻しきれない。何が起こったのか理解できず、柵を両手でつかんだまま何の意味もなく男と睨みあうことになる。
 誰かが彼女の袖を引き、彼女を下がらせる。
「脇へ」
 少年の声が肩越しに聞こえ、彼女はようやく柵から離れる。男は鍵をがちゃつかせながら柵を開け、表に出てきた。男は彼女の頭からつま先まで、油断のない目つきで素早く睨め回し、鼻を鳴らした。
「随分でかい女だな。首と足で身長をかせいでるってとこか。首の長い女は好みだが、胴回りは細いし胸もたいしたことねえな。しっかし、色味のない肌だな。石像かと思うたわ。彫刻愛好家にゃ受けはいいだろうが、俺達みたいな普通の人間にゃ、まだ石像を抱いた方がましだて。ここいらより、東の界隈の方が稼げるぞ」
 そこで男は口をつぐんだ。異人の髪が美しかったからである。灼熱の陽光をより合わせた淡い金髪がフードから零れ落ち、あらわな首筋から胸を這って膝まで結われることなく流れ落ちていた。
 異人の方は瞳を精一杯見開いて、目の前の男が何者なのかを考えようとしていた。
 身なりは良い。そこだけを見れば裕福な市民とも言える。しかし男の浅黒い顔には殺気立つような厳しさがあり、頬には皺とは言えない縦の線が一筋はいっている。
 意識がようやく体になじみ、彼女の頭も正常に働きだす。この男は門の鍵を持っていた。闘技場の関係者に違いない。同時に男が彼女に向けて発した言葉を思い出し、腹を立てる。
「いきなり何。まるで人を商売女みたいに。楽器を持っているでしょう」
「同じようなもんだろうが」
 男は乱暴に彼女を押しのけて通りに出ようとする。その時、彼女の後ろにいた少年に気づく。少年はよろめきながら道をあけた。
「ほう、こっちは人間か。西の生まれか。ほう、きれいな顔をしとるな」
「ちょっと!」
 彼女は叫び、素早く少年のフードを顎まで引き下げ、彼を守るように立ちはだかった。
「勝手に見たてないで! 一体、なんなのよ」
「そうかいそうかい。悪かったな」
 男はうるさげに片手をあげ、そそくさと通りへ立ち去ろうとする。彼女はその腕を素早くつかんだ。
「おい! お前こそなんなんだ! お互いもう用はなかろうが! 触るな、気色悪い」
 男は勢いよく腕を回し、振り返りもせず彼女の手を払う。
「待って」
 彼女は素早く男の前に回り込む。
「ここの闘技場に冥界の番犬がいるって……」
「いるぞ! それがどうした!」
 男は彼女がみなまで言う前に、怒鳴り返した。その額に、太い血管が浮き上がっている。険のある瞳がさらにぎらつき、彼女を睨みつけた。
「あの糞犬がどうした! 今日も世話係を一人食っちまった! あの野郎、人間様を食うたびにぶくぶく太っていきやがる! 奴の口こそが冥界の扉だ! そしてこの世の冥界が奴の腹の中にあるんだ!」
「この建物の中にいるのね。そんな危険な生き物、なぜ殺さないの」
「持ち主に言ってくれ」
 男は真顔に戻って呟く。
「持ち主はあれに魅了されとる。あれの強さを自分の強さだと思いこんどる。始末するなんぞ夢にも思わんだろうて」
 いつしか二人を囲む人垣ができている。露店の前をふさがれた壷売りの女は、顎をしゃくって露骨に顔をしかめている。少年は、柵の側で竪琴を抱えてぼんやりと座り込んでいた。
「なら、探してるんでしょう。あれよりも強い勇士を」
 彼女は男に近づき、顔の上にかがみこむ。濃い緑に縁取られた金色の瞳が男を見据える。異人の瞳を目前にして、男は慌てて顔の前で魔除けの印をきった。
「何の話だ。俺は忙しいんだ」
 彼女はその手を掴んで止める。男は抵抗しようと腕に力をこめたが、彼女の痩せた腕はびくともしなかった。それこそ男は本当に、重たい石像に捕まったかと思った。
「始末する方法は?」
「何をいうか」
 彼は脇を向いてふてぶてしく笑う。力を緩めた彼女から自分の腕をもぎ取ると、男は一歩引いて両足を踏ん張り、広場中にとどろくかのように彼女を怒鳴りつけた。
「真っ向勝負だ! 奴も見ている前で、あの糞犬を叩き潰す! そうすりゃ奴だって文句は言えんわ! 公明正大な試合だ! 俺の胸も爽快ってもんだ!」
 男は鼻息も荒くまくし立て、火のように激しい笑い声をたてた。集まった群衆の中には、同情するように苦笑を浮かべる者もいる。異人は眉をひそめる。彼女はしばらく男を笑わせたままにした。そしておもむろに彼に近づくと、肩に手をかけ耳元で囁いた。
「私が仕留めてみせましょうか」
 彼女はゆっくりと肩から手を離し、男を見下ろす。男は幻聴でも聞こえたとばかりに、耳に手を当てて退いた。
「今、なんか言ったか」
「聞こえたはずよ。魔法で声を耳の奥まで運んだからね。それで私は誰に会えば闘技にでれる? 東の界隈とやらより、稼げそうね」
 男は心底嫌そうな顔で彼女を見上げた。この異人は頭がおかしいか、ただの馬鹿なのか、はたまた妙な趣向の自殺志願者か、いずれとも判別をつけかねたのだ。かといって男は、せっかくの珍しい異人をこのまま放っておくのは実に惜しいことだと気がついた。
「……手配してやってもいい。ひと月後に闘技会があるからな」
 やっとのことで男は答える。
「だが、俺も暇じゃない。嘘やはったりに付き合うつもりはない。お前の実力を測らにゃならん。例えば、こんな風にだ!」
 言いざまに男は懐から短剣を引き抜き、彼女の顎の下に突きつけた。人垣から女性の悲鳴が上がる。
「何がしたいの?」
 彼女は男の突き出した腕を眺めながら、とりあえず聞いてやった。男の意図はだいたい読めていた。
「こんなちっぽけな刃物を恐がるようじゃ、話にならんってことだ……」
 男は決まり悪げに答える。そして、ついて来いと手を振って通りに歩みだした。人垣も事が終わったことを知り、自然と崩れていく。彼らの胸には近々面白い見世物が起こるのではという期待が残されている。
「ったく。俺の腕も鈍ったもんだ。女一人脅せん太刀筋か」
 彼女の前を行く男は、ぶつぶつと愚痴っている。少年の手をひきながら、彼女は男に声をかける。
「あなたは、闘技場の管理人?」
「俺はただの興行師だ。くそっ、馴れ馴れしいぞ! お前、異人の立場をわきまえろ!」
「あら、ごめんなさい」
「『失礼しました』だろうが!」
 男は青筋を立てて振り返り、彼女の後ろに少年がいることに気がつく。
「おい! その小僧まで引き受けた覚えはないぞ。だいたい、何で手を引いとるんだ。異人のくせに、人間のひも持ちか。気色悪い。手を離せ。追い払え」
「怪我をしているんです。一人じゃ、まだ歩けません。手を離したら、人ごみに流されるわ」
「流せ! きれいな顔をしとるんだ。他の金持ち女が拾ってくれるわ!」
 男は高い壁に囲まれた建物の前で立ち止まる。壁同様に高い木の柵越しに一声怒鳴ると、建物から一人の薄汚れた子どもが現われる。男は彼女を指差しながら子どもに何事か伝えている。
 彼女は少年と向かい合った。少年は相変わらず穏やかな表情のままで、彼女を見る瞳だけが鋭さを帯びている。彼女はなんと言ってよいか分からず、空を振り仰いだ。
「どこに行けるわけでもない」
 少年の突然の言葉は、危うく聞き逃すほどの小さな声だった。彼は相手の答えを待つことなくゆっくりと背を向けると、壁に手をつきながら彼女から離れ、曲がり角に腰を下ろした。彼女は少年の側に駆け寄り、自分のマントを旅の荷物ごと彼の隣に下ろす。腰帯から刃の欠けた短剣を取り出し、肩から垂れている金髪の一房を断ち切る。
「エカル」
 彼女は少年の名を呼んだ。
「異人の髪は人間のものより高く売れる。これで銀一枚にはなるはずだから、うまく使って。これもね。一仕事終えたら、探しに来る」
 少年は返事をしなかった。ただ、差し出された髪と短剣は素直に受け取った。彼女は竪琴一つを抱えて、男の側に戻る。最後に一度だけ、少年を振り返る。相手は不器用な様子で、彼女の金髪と短剣を懐に納めていた。
 男は柵を開け、彼女に中に入るよう促した。

 興行師の名はカファスと言い、冥界の番犬の名付け親にして、貴族クディブから番犬を預かる身であった。カファスは各地の猛獣を集めて飼っており、獰猛な獣の扱いに長けている。そのためクディブは例の魔獣の世話を彼に委託し、結構な謝礼も払っていた。
 ところが番犬の世話は困難を極める。カファスは猛獣の世話に熟練した奴隷を何人も失う羽目となった。クディブは交渉人を介してかなりの賠償金を払ったが、カファスには何の慰めともならなかった。猛獣の世話役が減ったことで、彼は何頭かの虎やサイを手放さざるを得なくなったのである。それらの獣は興行で、番犬に向かってけしかけられた。彼らが勝ってくれればまだ良かったのだが、結果は番犬の圧勝である。カファスが受け取ったのはまたしても、闘技会主催者からの番犬に食い殺された獣に対する僅かな賠償金であった。
 カファスとしては、これらの賠償金全てを番犬の上に積み上げて、圧死させたいとどんなに思っただろう。番犬の犠牲となった獣や奴隷達は、彼が様々な土地を廻り大変な苦労をして集めた、いわば彼の人生そのものだったのだ。彼の年ではもはややり直しはきかない。彼はそれらを永遠に失ったのである。
 カファスには、番犬の世話をする以外に道はなかった。番犬の世話賃は、落ちぶれた今となっては彼の重要な収入源だった。
「あの魔獣を冥界に叩き返してくれたら、おれが今まで奴のために手にしてきた賠償金を全部くれてやるぞ」
 カファスは異人の娘を建物の奥にいざなう。かすかに、女のものと思われる威勢の良い掛け声が聞こえる。
「魔獣って。育ちすぎた獅子とか熊とか、そういうのかしらね」
 闘技場の奥にあった気配を思い出しながら、彼女はうそぶいてみる。案の定、相手は良い顔をしなかった。
「……お前が強いと分かったら、後で会わせてやる。他に使い道がなかったら、興行で『動く女神像』とかの文句で見世物になってもらうからな」
「……私、大抵のものになら勝てるから。心配しなくてもいいわよ」
 カファスは首を振った。本格的にこの異人は頭がおかしい。彼は通路の先の木戸を開けた。
 小さな部屋には、左目を眼帯で覆った坊主頭の男がいた。年の頃はカファスと同じに見える。男は窓枠に腰掛け、外を眺めていたようだった。部屋に入ってきたカファスを顔半分の笑顔で迎える。彼の左半分の顔は古い傷跡で凸凹になっており、頬の筋肉が思うように動かないらしい。男は片目を異人の娘に向ける。
「また珍しいもんを連れて来ましたねえ」
 男はやや不明瞭な発音でカファスにそう言う。カファスは不機嫌な相好を崩さない。彼は娘の前で遠慮なしに、彼女の頭を指差しながら男に掃き捨てる。
「こいつの腕っ節と、脳の空き加減を見立ててやってくれ。魔法と聞いたときにゃ、ちょっとはやるんじゃないかと錯覚したんだが、ここに来るまでにどうしようもないアホさ加減を露呈してきやがった」
「うちの女戦士どもとやらせてみますか。こんな細長い娘、四つに折って薪にしちまいそうな奴らですが」
 男は両腕を広げ、部屋の左右の壁にゆったりと手をつき、二人の来客を見下ろす。彼女はその片目を睨み返しながら、この部屋が小さすぎるのか男が大きすぎるだけなのか、暇つぶしに考えていた。男の日に焼けた左腕には、火傷の跡のような引き攣れが見られる。
「まかせる。俺は一仕事に出るから、今夜までに知らせてくれ。使えそうなら、興行の日までここに部屋をつくってやってくれ」
 カファスはそれだけ告げると、異人の娘の腕をつかんで男の方へ引き出し、自分はさっさと部屋を後にした。
 男は短い間面白げに彼女の姿を眺め下ろすと、腕を組んで姿勢を正す。彼女は胸に抱いた竪琴を握る手に、そっと力をこめた。天板のひび割れた粗末な机と、小さな腰掛くらいしか目に付かない粗末な狭い部屋だ。男の坊主頭は天井に届いている。窓には青銅の透かし枠がはめ込まれ、そこから差し込む白い日差しの中で、砂埃が輝いて舞っている。外からは相変わらず女達の掛け声が届いていた。
「なんて名前だ」
 男の顔は、まったくの無表情に戻っている。彼女は相手の片目をじっと見つめた。ほとんど獣同士の睨み合いだ。先に視線を逸らせば、負けるような気がする。彼女はじりじりと間合いを取りながら答える。
「エルヤ」
「そうか」
 とたんに男は破顔した。
「意外と人間っぽい名前だなぁ。偽名だろ。ま、どっちゃでもいい」
 男の声の調子は明るく高くなり、彼は気軽な様子でひび割れた机の上を叩く。太い指の下で、机は乾いた悲鳴と砂埃を上げる。
「その得物はここに置いとけ。あと、その邪魔な長ったらしいスカートもここだ。腰布の巻き方は知ってるんだろうな」
「し、知っているけど」
 男の思いがけない豹変に、エルヤは息を呑まれて瞬きを繰り返す。男は自分の腰に幾本も巻きつけた革のベルトを一つはずし、彼女に差し出した。
「服は全部脱げ。腰巻は解けんようにこれでしっかり縛り上げろ。今つけてる帯は、胸に巻け。とにかく動きやすい格好になるんだ。髪もまとめ上げろ。長すぎる。すぐ始めるぞ。木剣は外にあるからな。おい、……何ぼっとしてる。早く用意しろ」
「いや、あの……」
 恐ろしい形相の男が皮ベルトを片手にさばさばと迫ってくる。エルヤはよろよろと壁際に追い詰められた。
「私もそうしたいんだけど、出て行ってもらわないと、着替えられないし……」
 それを聞いた男の目が点になる。彼は肩を下げ、くだらないといった風に鼻を鳴らした。
「どこのお姫様だ」
 それでも男はベルトを彼女の首にかけると、背中をかがめて戸口をくぐり部屋を出て行った。

「バド、で、どうだった。あの異人は」
 澱ばかりの濁った葡萄酒をあおり、カファスは隣の席に腰掛ける坊主頭の男を見上げる。
「お前の女剣闘士どもにひねり殺されたか?」
「いえ、それは危ういところで止めましたがね」
「それみたことか!」
 カファスは器に盛られた干し果実を口の中に放りこむ。そしてすぐに床へ吐き出した。
「くそ! 虫が巣をつくっとるじゃないか。酒もすっぱいばかりだ。こんな安酒場なんぞ燃えちまえ! 酒神の怒りが落ちればいい!」
 落ちぶれた興行師は怒鳴り散らし、酒の杯を通りすがりの給仕に投げつける。木杯は給仕の胸に当たり、残っていた葡萄酒がみすぼらしい衣に大きな染みをつくる。恐らく大男のバドが側にいなければ、カファスもここまでの乱暴は働かなかっただろう。杯を投げつけられた給仕もバドの姿に恐れをなし、恨みのこもった瞳でカファスを睨みつけただけで、店の奥に引き下がった。
「明日か明後日にでも、あの娘に魔獣を見せてやったらいいでしょう。娘は勇敢とか大胆とかいう以前に、仰るとおり脳味噌が鈍いようで。多分魔獣を見ても動じないでしょう」
 バドは燭台を引き寄せ、ふたつに割った果実を注意深く確かめる。
「あの異人、半殺しにされたんじゃないのか?」
「剣闘士達をまとめて全員伸した後で、ですよ。あの娘が勝って武器を手放した隙を狙って、例のハルミナが娘の髪を掴んで引き倒し、他の連中が皆、娘の胸を踏んづけたんで。見事なチームワークでしたよ。闘技の時もああならいいんですが。ハルミナは俺より力が強いんで、取り押さえるのに大の男が三人がかりでしたな」
「ちょっと待て、あの異人、勝ったのか?」
 カファスは身を乗り出す。バドは浮かない様子で頷いた。
「勝ったから、強いんでしょうなあ。見た目に寄らず、馬鹿力の持ち主ですよ。異人だからですかね。ハルミナ達がキレたのは、あの娘が魔法を使って戦ったからだと言うんです。実際に手合わせした者にしか分からんようで。女達には、あの娘が正々堂々剣だけで勝たなかったのが、卑怯と映ったんでしょう。見ていただけの俺には、いつ魔法を使ったのか分かりませんでしたわ。ただ、魔法はともかく、あの娘は剣術の『剣』の字しか知らんのです」
「『術』を知らんと?」
「剣の持ち方はしっかりしとるんですが、大きく振り回すことしか知りませんわ。ありゃあ、絶対に」
「構わん!」
 カファスは蜘蛛の巣だらけの暗い天井を見上げて、ひとしきり笑う。
「相手は番犬で、剣士じゃない。考えても見ろ! あの馬鹿でかい奴相手じゃ、細かい剣の駆け引きなんぞ、できようができまいが関係ない。大切なのは、力と雄心だ。……女には普通どっちもないもんだが。で、娘の怪我はたいしたことないんだろう? 明日、明後日連れ出せるってことは」
「打撲だけです。なんでも、これもやっぱり魔法を使って、女達の脚力から我と我が身を守ったとか何とか。当日は面白い試合になるかもしれませんな。それより、異人を闘技に出せるんですかい? 規定じゃ、異人の出場は罪人である場合を除いて、禁止されとるんでしょう」
「それは俺が何とかして見せる」
 カファスは天井の闇を凝視した。
「あの糞犬を始末できるなら、何が何でもあの異人の出場を、クディブと主催者に認めさせるぞ」
「なら俺は、あの娘の体調を試合日までに万全にさせときますよ。今はちょっと痩せすぎなんで、いいもんを食わせてやらにゃ……」
 バドは果実をほおばる。いつのものとも知れない干し果実は、海綿を噛むように甘みも味も何もなかった。
「……あの娘の食事代とか世話賃はいただけるんでしょうな」
「分かった、分かった」
 カファスは鼻を鳴らす。
「娘にやる約束をした俺の賠償金の中から払う」
「やれやれ、あの娘もかわいそうになぁ」
「番犬を仕留めたら、俺も少しは気前良くなれるわい」
 肩で笑うバドの隣で、カファスは苦々しげに呟く。それから二人はしばらく黙った。酒場の一角で喧嘩が持ち上がったらしく、景気の悪い陰気な店が若い男達の怒声で賑やかになる。
「……仕留められんでも、あの娘はここいらじゃ見たこともない異人だ」
 カファスは暗い顔つきで唸り、腕を組んでマントの中に首をうずめる。声色は先程とは対照的に、ひどく冷めていた。
「期待してないんですかい」
「期待できるか。今まで何人の男が奴に挑んで、空しい結果に終わったか。中には魔法使いもいたが、観客席に被害を出したばかりで糞犬はケロリとしとったじゃないか。あの異人に声をかけられたときゃ、俺もどうかしとったんだよ。でもなぁ、あの異人を俺の名義で闘技に出しゃ、そこそこいい金が手に入るんだ。あのいかれた異人から俺が得られる慰めは、それだ」
「異人っても、たかだか小娘をそういう風に扱うのは感心しませんけどなぁ。番犬にけしかけようとしてる俺も、人のことはいえたもんじゃないが。……おい! 喧嘩なら向こうでやれ!」
 二人の食卓の上に、男が一人投げ出されてきた。卓上の杯が倒れて酒が飛び散り、ひっくり返った器の干し果実がカファスの顔めがけて放り出される。カファスは迷惑げに顔をしかめ、バドは男の首根っこを捕まえて食卓から引き摺り下ろす。男は地面に落とされてうめき声を上げた。その声を聞いて、バドは再び男を自分の目の前に掴み上げる。張りのあるなめらかな頬と濡れて輝く瞳が、バドの目に入った。ひどく若い男だった。むしろ少年である。彫りの深い面立ちが暗がりの中で繊細な陰影を描き、痛々しいまでの若さと若さゆえの美しさを浮き上がらせていた。
 カファスが少年を見上げて、思わず立ち上がる。ところが後ろからやって来た大柄の若者達に乱暴に突き倒され、食卓に上半身を突っ伏すことになった。
「じいさん、そいつを返してくれ!」
 リーダー格らしい両腕に刺青をほどこした男が、少年を顎で示しながらバドに怒鳴る。
「厄介をかけといて、随分な態度だな」
 バドは適当に答えを返す。掴み上げたままの少年が再びうめいた。それがあまりに苦しそうであったため、バドはいったん彼を下に降ろす。すると少年はそのまま床に崩れ落ちた。バドは少年が首に巻いている布が包帯であることに気がつく。
「そいつは姐さんに失礼を働いたんだよ」
「そんなこたどうでもいいけどな、これ以上苛めると、こいつ死ぬぞ」
 バドはうつ伏せの少年をひっくり返す。繊細な顔のわりに、意外と体は重くしっかりしている。
「失礼を働けるほど活きがいいとも思えんけどなぁ。それともお前らが殴ったから、こうなったのか? こいつが死んだらお前、罪人になって例の番犬の腹に行くことになるぞ」
「そいつははじめっからそんなんだ。俺達は投げ飛ばしただけだ」
 刺青の男は不機嫌に吐き捨てる。バドが少年から顔を上げて男を振り返ると、いつのまにか彼らの言う「姐さん」らしき年配の女が、男の隣にしんなりと立っていた。かつては美しい女であったのだろう。体の線こそ今だ崩れてはいないようだったが、少年の若々しい顔を見た後での女の顔は、ひどく老けて疲れて見える。
 カファスが若いごろつき達の後ろから、痛そうに腹を押さえて女の脇へもぞもぞと出てくる。
「あら、カファスさん。お久しぶりね」
「このすけべ女が」
 カファスは振り返りもせずに悪態をつき、よたよたと床の少年の側に寄った。
「いい年して、こんな若いもんを相手にするのはやめろ。どう見ても失礼を働いたのはお前の方からじゃないか。お前、今年で四十三だろが。店じゃ二十もサバを読みやがって。小僧、お前はいくつだ」
「……二十……」
 カファスに足で頭をごつかれ、少年がうめくように答える。バドはため息をついた。
「こっちも年齢偽称だな。声変わりもしとらんくせに。体はそこそこ成長しとるが、無理やり鍛えた感じだな。どう見ても十六、七がいいとこだ。……まさか十五じゃないだろうな」
「金持ち女が拾うと言ったんだが。二十七も年上の娼館の女主人が相手じゃ、さすがに哀れだわい」
 カファスは女を振り返る。彼女は斜に構えて腕を組み、紅でねっとりと輝く厚い唇をゆがめて見せた。
「横取りするつもり?」
「こいつは俺が貰うぞ」
「いやね。カファスさん。そんな趣味がおありなの?」
「なんで俺がお前と男を取りあわにゃいかんのだ」
 カファスはバドに、少年を外の荷車まで運ぶよう指で示す。
「この小僧は俺の知り合いの連れなんだよ。悪いな、ミリエラ。今度の収穫祭で開かれる闘技でどえらい事が起こったら、埋め合わせにお前の店で大盤振る舞いしてやるぞ」
「口だけよ」
 女は上唇を引きつらせて嫌悪の表情を浮かべ、バドに抱えられ店の外に運ばれる少年を未練たっぷりに横目で追った。カファスは今でも彼女の店の常連で、かつては非常なお大尽であったから、それ以上追うようなまねはしなかった。
「さて、いい働き手が手に入ったわい。人質はお前がとっとるんだ。逃げもせんだろう。元気になったら家の力仕事を任せられる」
 店の外に出たカファスは、さっそく荷台のエカルを覗き込む。少年は横向きに寝かされており、頭を折り畳んだマントの上に乗せて目を閉じていた。
「こいつ、こんなものを持ってましたが」
 バドがカファスに、月光にはじけて輝く金糸の束を差し出す。
「あの異人の髪だ。これは喧嘩の仲裁料としてもらっておこう。お前、先に俺の屋敷へこいつを運んでいってくれんか。俺はこれでまともな酒とつまみを買ってくる」
「俺は明日があるんで、屋敷に届けて酒をちょっと頂いたら、すぐに帰りますよ。それにしても、今日は久しぶりに楽しい一日でしたわ」
 バドは驢馬を荷車につないで手綱を取る。
「気晴らしにはなったがな。明後日、娘に番犬を見せても逃げ出したりしなかったら、またお楽しみが増えるぞ」
 カファスはそう言い残し、唯一の確かな楽しみを求めて、そそくさと宵の市に向かって去った。

 結局、カファスがエルヤを魔獣に会わせたのは、四日後のことであった。彼は朝の暗いうちから女性剣闘士訓練所に現われ、エルヤにマントをすっぽりと被らせて連れ出した。彼は闘技当日まで、異人の存在をできる限り隠したがったようだった。そうでなくとも白く目立つ彼女は、町に踏み入ったその日から人々の噂の口にのぼっていたのである。魔獣の持ち主である貴族に、魔獣に対する挑戦者を熱心に支援していることを知られたくないカファスは、ひどく神経質になっていた。
 冥界の番犬は、闘技場の地下で飼われていた。魔獣を売りに来た商人は、魔獣を大人しくさせるため、麻薬の一種である薬草を大量に使っていた。薬草はあまりに高価であり、魔獣を得たクディブもこの薬草を与えて飼いつづけることは望まなかったようだ。闘技場の最も頑丈な檻に閉じ込めっぱなしにすることで、薬草を買う必要を失くした。この檻は両脇が石材の壁で、前後の壁は太い鉄柵となっている。鉄柵は落とし扉になっており、一方は闘技場内部に、もう一方はアレーナへ向かって開いている。鉄柵の開閉は、檻の上に設けられた機械室で行われた。魔獣は麻薬で眠らされた状態でこの檻に運び込まれた。建物内部へ通じる鉄柵が下ろされた後、すぐさま石材が柵の前に積み上げられ、餌を投げ入れる穴を一部に残した以外は全て壁として塗り込められた。魔獣が何かの間違いで、町の方へと逃げ出すのを防ぐためであった。
 魔獣を闘技へ出す際はアレーナへと続く鉄柵が上げられ、魔獣は地上から漂う濃い餌の気配に誘われて、狭い通路を潜り抜けアレーナへと登っていく。闘技が終われば、檻の中に餌が投げ込まれ、魔獣は再びその匂いに誘われて檻に戻る。
 この恐ろしい魔獣に打ち勝ち、名声を得ようと挑戦する者は数多かった。猛獣使い達は自身の持つ最強の獣で、腕に覚えのある者は自らの武器を持って、魔獣に挑んだのである。その度に魔獣は無慈悲な牙で獣を噛み砕き、剣をへし折って使い手を食い散らかした。人々が酒の肴としてことさら話すのを好んだ対決は、魔獣が巨大な象と戦った試合と、辺境からやってきた魔法使いと戦った試合であった。さしもの魔獣も、頑丈な牙を持つ自分よりふた周りも巨大な相手に、苦戦を強いられた。しかし牙で激しく突かれながらも敵の体に食いつき、ついに咽もとを爪で切り裂いた瞬間は、人々の心に輝かしく焼きついていた。魔法使いの方はと言うと、本人の奮闘よりも、魔法の火が観客席に飛んで事故を起こした事でよく覚えられていた。
 異人はその魔獣を、餌入れの穴の向こうにじっと見つめた。
 日が昇り、バドは朝食をとりに食堂へ赴く途中、訓練場のベンチに一人腰掛けている彼女を見つけた。
「なんだ。もう帰ってたのか」
 声をかけたが、彼女はちらりとこちらを見返しただけで再びうつむいた。その顔つきはひどく張り詰め、決心に研ぎ澄まされて輝くように見えた。そのためバドは思わずベンチに歩み寄り、隣に腰掛けた。
「やめてもいいんだぞ。いっとくが、それが普通だぞ。あんなものに勝てると思う方が、どうかしてるんだからな。なんたって魔獣というくらいだ。奴と目を合わせるだけでも、頭がおかしくなる。なんでこれまで、魔獣の飼育係が何人も喰われてるのか、それだけでも分かるだろう」
 うつむいた異人の横顔は、長い白金の髪に隠れて見えない。彼女はベンチの後ろの壁にもたれて、片足で地面の砂をいじっている。
「やめない。あの化け物は、私のような異人には、ちょっと弱く見えるものですからね。あなた達の見ているようには見えないのよ」
 本人がこう答えているならば、自分としては何も問題はない。バドはそう考えたが、どうにも腑に落ちないところがあった。娘の不明を修正してやりたくてたまらない。彼は砂をいじる白い裸足の指先を視線で追う。その足を見て、本当にこの娘は大理石の彫像のようだと思った。その肌の下に血管が通い、温かい血液が流れていることなど、到底想像だにできない。また彼は、腰巻と胸帯だけの異人の体に、幾つかの古傷の跡があるのを見ることができた。石のように見える肌も、やはり人間と同じように、強い力を受ければ崩れるのではなく裂けてしまうのだ。その古傷が、闘獣士達の体に刻まれているものとほぼ同等のものだということも、彼は見立てることができた。
「お前、本当に歌人なのか?」
「そうだったらいいんだけれど」
 エルヤはため息をつく。それから腕を上げて長い髪を肩の後ろにやる。瞳は冷え冷えと彼に据えられた。
「カファスさんに言って、頑丈で重たい剣を二振り特注で用意してもらって。とにかく、折れないのがほしい。あと、闘技会で太鼓を叩く楽士隊がいるでしょ? 彼らにも、私が教える幾つかのリズムを覚えてもらいたいの。そうしてくれたら、私は魔獣を倒せると思う」
「はあ? 剣はともかく、なんで太鼓が必要なんだ?」
「私、剣術を知らないでしょ。だから、太鼓で戦いのリズムを掴むの」
「なんだそれは」
「見れば分かる」
「やっぱり魔獣と戦うのはやめた方が良いんじゃないかねえ。俺達からすりゃ、お前の見納めくらいにしかならないと思うんだが」
「何よ。この間までさんざん人を焚き付けてたくせに」
 エルヤはすっくと立ち上がり、仁王立ちになって彼を見下ろした。対してバドは、額に横皺をいくつも寄せて、柱のように背の高い娘を仰ぐ。娘の口角が僅かに上がり、瞳が冷たく輝いてどことなく勝ち誇った表情である。
「それとも、私に情が移ったのかしら?」
「お前は度をすぎた、かわいそうなくらいの馬鹿娘だからな。馬鹿な子ほどかわいいと言うからなぁ」
「なんだ。否定しないんだ。素直ね」
「年をくってからは、できるだけ素直になるようにはしとる。でも、俺を味方につけたと勘違いすんじゃねえよ。利益を確かにしたきゃ、カファスさんに媚びとけ。お前の食費代で、取り分がどんどん削られとるからな。応援はしてやる」
「話は変わるけど、エカルは元気にしてます? 結局カファスさんが引き取ってくれたんでしょ?」
「二晩休ませたら、一人で起き上がれるようになったそうだ。カファスさんの屋敷は、今じゃくたびれた料理女一人しか働いてないから、男手があるといろいろ便利だろう」
「それを聞いて安心しました」
「あれはいったいお前のなんなんだ?」
「拾った仔犬です」
「飼い慣らしていたようには見えん。油断してると、噛み付かれるぞ」
「噛み付いたら噛み返してやります。喧嘩できるようになるだけでも、大きな進歩だわ」
「そういう意味じゃない。あいつは前の主人への忠誠をだな……」
「知っています」
 彼女は短いため息をつく。それからすぐにその顔を引き締めて、訓練場の隅へと大股で立ち去った。そこには戦の女神ディアーラの小さな祭壇が設けられている。彼女は、朝食を済ませた他の女剣闘士達が訓練の前に祈りを捧げられるよう、祭壇を掃除し灯火台に油を注ぐ。そして、一列に並べた五つの灯火台の上で片手をひらめかせる。五つの小さな炎が、ぱっと同時に灯火台の芯に燃え上がった。バドはひどく感心して目を丸くする。エルヤは半身だけ振り返りバドの反応を確かめて、こんなことはなんでもないんだという風に、つんと澄ましてみせた。灯火台を配置すると、訓練道具を出すために倉庫へ向かって颯爽と立ち去って行く。

 朝晩の冷え込みが厳しくなるごとに、木々はその葉を錆び色に染め、実を膨らませていった。都市周辺に広がる田園はすでに麦の刈り入れが終わり、剥き出しになった農地に家畜が放たれている。市壁の外に住む農民達もこの日は晴れ着をまとって都市の収穫祭へとつめかけ、豊穣の女神の神殿に供物を捧げる。白い石を積み上げた戦の女神の神殿もまた、昔ながらの木製の玉が数多く飾られ、太古と変わらず額を赤く染めた女達が、奉納の闘技を控えてぞくぞくと訪れる。彼女達は鍛え抜かれた男顔負けの肉体をあらわにし、金色に輝く兜と盾、そして槍を持って神殿前を行進する。彼女達の兜にはそれぞれ麦や葡萄、木彫りの小さな羊や鳥がくくりつけられ、柘榴の粒は蔦の冠に編みこまれて宝石となっている。それは、ディアーラの乙女達と呼ばれる戦乙女達の姿を模していた。乙女達は戦場に舞い降り、流された血を豊かな土に変える女神の侍女である。彼女達は多くの場合、女神像の足もとに小さな石像として飾られるのが常であった。しかし巨大なこの神殿では、内陣を囲む形で乙女達にそれぞれの祭壇を設けていた。剣闘士達は自分達が扮した乙女の像に各々自身の髪を捧げ、ついでディアーラの加護を求めて女神像に祈るのである。豪華な彼女達の姿は収穫祭の見せ場のひとつでもあり、人々は神殿の前に押しかけて儀式の見物を楽しんだ。
 一方エルヤはと言うと、カファスに護送車のような馬車に押し込まれ、一人冷え冷えとした闘技場の地下室へと送られていた。その日の朝は他の剣闘士達の着付けを手伝い、金色の盾や見事な装飾の兜にため息をつき、自分も少しくらいはこういった格好をさせてもらえるのかと、半ば期待していたのである。彼女が入れられた地下室は、どう見ても猛獣の檻である。ふて腐れて檻の真ん中に立ち尽くすエルヤに、カファスは告げた。
「お前は猛獣だ。猛獣として闘技に出る」
「どういうこと……」
 カファスは檻の出入り口に立ち、必要ならばいつでも外に出て檻の扉を閉められるよう、若干体を構えている。彼は不機嫌そのもののエルヤに、ゆっくりと言って聞かせる。
「つまりだ。闘技会の規定では異人は出場できん。いいか、お前は『異人』なんだ。人間じゃねぇ。つまり、猛獣として出場リストに登録することしかできんかったんだ」
 言い終わるが早いか、地下室に低い唸り声と、砂のついたサンダルが石の上で滑る音、青銅の柵の扉が閉められる騒々しい音が立て続けに響く。カファスはすんでのところで檻の外に逃れて扉を閉め、エルヤは突進して青銅の柵を両手に掴み、両者はお互いにらみ合っていた。
「私が猛獣ですって! ふざけないで! 私は『人』だ!」
 エルヤは扉の柵に手をかけて引っ張る。カファスもその扉を開けさせまいと、片足を柵にかけて踏ん張った。扉はまだ鍵をかけられていなかったのである。
「他に方法がなかったんだ! ちったあ俺の苦労も考えろ!」
「何が苦労よ! こっちはこれから命かけんのよっ! 人として戦わせろ!」
「大会の規定とプログラムの都合の上でだけだ! 俺は別にお前が人じゃないとは言っとらんだろ!」
 二人の間で、青銅の扉がギイギイと悲鳴を上げる。顔を引きつらせた闘技場の奴隷が、そろそろと近づいてきてカファスに来客を告げる。
「とにかくいったん押さえろ! お前の注文どおり、剣が届いたから!」
 そこでエルヤは憤然としたまま扉から手を離し、腕を組んで地面にどかりと胡坐をかいた。カファスは額の汗をぬぐって、来客を通すよう奴隷に伝える。間もなく石段を下る複数の足音が聞こえて、狭い階段からバドの坊主頭が陰気に現われた。弱い松明の明かりだけで見る彼の姿は、地下の溶岩に立って世界を支える巨人族を思わせる不気味さである。彼の後から小柄な影が続く。その相手を見て、エルヤはさっと立ち上がる。
「剣一本の重さが、男一人が両手で扱える程度。切れ味よりも頑丈で折れないことが大事。これでいいな」
 バドは抱えていた長細い包みをエルヤのほうへ差し出す。後ろに立つエカルも同じ包みを紐でぶら下げていた。カファスは檻の扉を開ける。バドとエカルは檻の中に入り、エルヤの足もとに剣を置いて包みを解いた。
 刀身が松明の明かりを金色に跳ね返す。エルヤはエカルを気にしながらも、それらの剣を両の手にとって持ち上げる。檻の真ん中に立って、それらを交互に振った。
「どこからそんな力が出るんだ……」
 カファスは檻から後ずさり呟く。エカルも、そろそろとカファスの近くに寄った。
「どんな感じだ? だめだったら、この間試作して見せた剣も持って来ているが」
 バドはエルヤの怪力を見るのは初めてではない。彼はそれが魔法によることを知っている。
「これでいい。なるべく短時間で勝負を決めるわ」
 エルヤは剣を包みの上に戻し、じっと剣を見つめると満足げに頷く。折りしも、石の壁を通して陽気な楽の音が響いてくる。闘技会の開催を告げるパレードが始まったのだ。
「魔獣との闘技は、あのパレードの後だ」
 カファスは地上からのかすかな音色に耳を傾ける。
「今のうちに用意しとけ。俺達は観客席で見せてもらう」
 彼は踵を返して振り返ることなく階段を登っていった。エカルもそのまま彼について行きかけたが、不意に振り返ってエルヤをまっすぐに見つめた。
「……盾、使わないのか」
 思いもかけず少年の口から突然発せられた言葉は、いささか間の抜けた質問だった。エルヤは少年の瞳を窺うが、純粋な疑問以外そこには何もない。本当に何もない。まるで二人は初対面のようであった。エルヤはこの薄情な少年をねめつけた。
「魔獣の大きさを見れば分かる。かわせなきゃ終わり。盾なんか必要ない。兜も鎧も。……皮一枚で助かるってことはあるから、皮鎧だけは身につけるけど。あなたも、元気になったみたいね。あれからひと月だからね」
 少年の瞳がかすかに動き、彼はゆっくりと顔を伏せる。エルヤはその様子を見て声色をやさしくする。
「異人には異人にしか分からないことがあるし、私には生まれと育ちがある。だから私は、自分の意思で化け物と関わるの。もちろん、現実的な問題もあるけど。ほら、行きなさい。闘技の砂場が本当にあの化け物に相応しかったのか、見せてあげよう。見たことないんでしょ。……観客席からは」
 彼女が階段を指差すと、少年はのろのろとそちらへ向かって去った。どうも頭がちゃんと働いているのかどうか怪しい。エルヤは心を持たない人形を相手にした気分だった。
「いけそうか?」
 バドが尋ねる。エルヤは大きく息をついた。
「終わるまでは分からないわよ。でもありがたく思って欲しいわ。私はあの化け物の葬り方を知っているもの。今だにあなた達は、私の頭がおかしいと思っているようだけど」
「まあまあ……がんばってくれや。期待してるからな」
 そう言ってからバドは、しばらくエルヤの顔を見つめた後、来た時と同じように帰っていった。
——顔を覚えておくつもりだったのかな。皆、私が死ぬと思ってるのね。私も半分はそう思ってるけど。……やれやれ。
 彼女は小気味の良い音をさせて、両の頬をぱちんとはたく。そしていそいそと後ろ髪をかき上げて、檻のテーブルから髪紐を取った。

 人々は驚いた。プログラムを見直す者もいれば、アレーナに現われた人物が異人だと知ってただ物珍しがるだけの者もいる。歓声が上がるはずの一瞬は、人々の当惑の声に取って代わった。
 秋の澄んだ陽射しの中に、ナバルの珊瑚を思わせる白い肌を持った長身の娘が立つ。陽光に火花を散らす白金の髪は、頭上に三つ編みの冠と結われている。胴には膠で黒く煮詰めた皮鎧。胸の真ん中には磨き抜かれた真鍮の円盤が取り付けられ、娘が動くたびに日の光を強くきらめかせた。獣に対する目くらましをかねた装飾である。鎧の下から膝丈までの朱色の短衣が覗く。独特の長い両手足は一糸もまとうことなく、日の光に白い。両の手には金色の長剣を下げていたが、刀身は剣にしては太く、締まった細い腕に対してひどく無骨にも見える。
 人々は、彼女が久方ぶりの冥界の番犬にたいする挑戦者であることを知った。そして彼女が、まもなく現われる番犬の腹の底に納まるのも明白であった。異人とはいえ挑戦者が女であることで、観客席からは試合をやめさせるようにとのディアーラへの信仰篤き声も幾つか上がる。一方でこの対戦を喜ぶ者達もいた。その多くは旅行者であり、他所では珍しい女剣闘士の試合を見に来た者達である。
——ここで試合を中止されたらまずい。
 エルヤは観客達の反応に危機を覚える。彼女は素早く金の剣を天に向かって掲げる。観客席がやや静かになった。両の剣を頭の上で交差させ、彼女は大きく息を吸った。
 気合一閃、彼女は頭上で交差させた金の剣を振り下ろし、体の前に突き出す。剣の軌跡に青白い月の弧が残り、剣が突き出されると共に襞をうって淡く弾け散る。観客席から感嘆の声が上がる。それと同時に、魔獣を贔屓にする人々の嫉妬に満ちた罵声も上がった。口々に戦乙女の名を呼ぶ声も混じる。異人は短い安堵の息をつく。
 彼女は観客席を見回し、カファス達を探そうとしたが、あまりの人の多さにすぐ挫けてしまった。かわりに番犬の持ち主だという貴族を、特別席の中に探す。カファスはその貴族を頭のはげた老人だと大雑把に言ったが、それに該当する貴族は四人もいた。ただ、四人の中の一人が最も熱心にエルヤを凝視しており、あれがクディブかもしれないと、彼女は考えた。
「異郷より現る白皙の乙女! かの恐ろしき魔獣に挑み、みごとその剣を心の臓に埋めることができるか! いまここに魔術を用いた剣の舞踏を、魔獣と異人との舞踏をお見せしよう!」
 進行役の口上に、エルヤはどきりとした。魔獣との舞踏。確かにその通りである。彼女が闘技場の楽士隊にあるリズムを教えていたことが、関係者の耳にも広く届いていたのだろう。口上はこれから始まることをまさに言い当てていた。
「舞手よ! 冥界の番犬を地下から解き放つ。用意はいいか!」
 エルヤは歌人として鍛えた咽で、これに答える。
「私が合図を出し、太鼓が六つ打ち鳴らされたら、解き放て!」
 彼女は答えながら番犬が出てくる闘技場の門を見据えて、アレーナの中央へと歩む。彼女は背筋を逸らして剣を構え、頭上で刀身を互いに打ち合わせた。それを合図に、楽士隊の太鼓が一定のリズムを刻み始める。一本の笛の音が、独特の拍子をとって太鼓を導く。太鼓が六つ目を打ち鳴らした。
 門の奥から、一つの咆哮が上がる。それは闘技場の中央に立つ彼女に、戦慄として襲い掛かかる。彼女は全身が粟立っていくのを感じる。暗い門の奥で、一対の瞳がきらめいた。と、次の瞬間、門の闇がそのまま白日の下に飛び出す。彼女はかの獣の影の中にいた。天を振り仰げば、魔獣の赤い瞳と目があった。
 凄まじい砂埃とともに魔獣は地に降り立つ。人々は異人の姿を失った。
「五の舞!」
 なめらかな女の声が、観客のどよめきを裂いて響く。単調な太鼓の拍子が一変して激しいものに変わった。砂煙の中に、再び青い稲光が光る。娘が煙の中から躍り出た。金の剣を持つ腕を体の横に伸ばし、彼女は独楽のように回る。勢いをつけた二本の剣が魔獣の後ろ足を横様に襲う。魔獣は吼えて彼女から離れた。
 エルヤは魔獣の全身を初めてひと目のもとにおさめる。魔獣は巨大な獅子に似た体躯を持っていた。たてがみはないが、全身は漆黒の長い体毛に覆われている。瞳と口の中は深い紅色で、四肢は彼女の胴よりも太く、熊のものに似ていた。太い尾は長い飾り毛で覆われ、アレーナの砂を掃いている。神々しいまでの力強さに満ちた美しい獣であった。しかし、かの獣を魔獣と呼ばしめるものは別にあった。魔獣の瞳に宿る光である。彼女は見た。かの魔獣の瞳に奥に眠る、数多くの言葉を。彼は多くの言葉を持ち、感情の嵐を抱え、それでいながら何も語らず、何も表現しないものであった。彼が欲するのは飢えを満たす餌でなく、他者の生命そのものであり、肉体から離れ行く魂の軌跡だった。
 彼女の与えた最初の攻撃は、魔獣の黒く艶やかな体毛に弾かれていた。魔獣は数歩後ろ足をひきずっただけで、すぐに体勢を立て直す。エルヤの胸についた小さな鏡からの反射に、赤い瞳を細める。
 エルヤは旋風の舞を続けながら、魔法を口ずさむ。金の剣の軌跡から薄い炎の衣が生まれる。燃える紗の羽衣は、剣の素早い回転によって長く引き伸ばされゆるやかに天に向かって昇って行く。雨だれのように打ち鳴らされる太鼓は強弱の波にうねり、笛の音は雨を切り裂いて飛ぶ海鳥のように鋭い。人々は秋の陽光が弱まったように錯覚する。彼らの目に、空にたなびく炎の帯が陽光よりも輝いて映る。
 息を呑む緊張が観客席に満ちる。魔獣が踊り子に向かって飛び跳ね、太い前足を大きく横にかいたのである。ところが、踊り子の剣はその一撃を受け止める。剣の動きに合わせて炎の帯が大きくうねる。彼女は根を深く張った大木のように、その一撃にびくともしなかった。魔獣は彼女の舞を乱すことはできなかった。彼は前脚に傷を負い、一声叫んで後ろに飛びずさる。踊り手は変わることなく身軽に旋回しながら、魔獣を見つめ続ける。
「三の舞!」
 太鼓の拍子が重く力強いものに変わる。その強い一打ちごとに、天に上った炎の衣が燃える雨に変わり魔獣めがけて流れ落ちる。魔獣の背は燃え上がった。魔獣は仰け反り、後ろ足で立つ。柔らかな顎下が無防備になる。
 エルヤは追撃をかけない。あくまで太鼓に合わせて舞い続ける。魔獣から目を離さず、ゆるりと長い右足を伸ばし、太鼓の一打ちと同時に大きな一歩を鋭く進める。両腕は垂らして体の横につけ、双剣は砂の地面に二本の軌跡を描く。
 魔獣が重たい四肢で再び大地を踏みしめる。次の太鼓のひと打ちで、エルヤは素早く剣を構えて静止した。魔獣は背に炎を負ったまま、エルヤを飛び越し向かいの壁に向かって走る。そして、炎の背中を壁に向かって打ちつけた。壁の上の観客席から悲鳴が上がり、人々は我先にと火の粉から逃げ出す。太鼓のひと打ちと、魔獣の体当たりで歪む壁の唸りが重なる。魔獣は幾度も壁に地面にと体を打ちつけ、炎をすり潰す。ついに炎が煙と消え、魔獣はふらふらと頭をめぐらす。エルヤはすでに踵を返し、剣を構えたまま魔獣を見据えている。
 闘技は完全に異人のペースで進んでいた。魔獣は彼女の恐るべき舞を一切乱すことができなかったのである。観客達は彼女の勝利を信じ始めた。ところが。
 魔獣が頭を下げ体を低く伏せた。真っ赤な口が僅かに開き、異人の魂を求める鋭い牙が覗く。怒りの息がシュウシュウと口蓋に響く。
 エルヤが、魔獣を誘うように両の腕を左右に広げた。鏡を飾る鎧の胸が、白い首筋が、無防備にそらされる。彼女の喉は、うっすらと浮いた汗に輝いていた。
 魔獣の後ろ足が地面を蹴った。一瞬のうちに、エルヤは魔獣の前足の下に敷かれる。魔獣は彼女を踏みつけた前足をばねに、跳躍した。巨体が生み出す風に砂塵が巻き上げられ、血しぶきがその中で影として飛び散った。彼は大きく弧を描いて宙を飛び、轟音ともに降り立つ。
 砂塵がおさまった後、仰向けに倒れた異人の姿が明らかになる。彼女の髪はほどけて広がり、砂と混じり合って白金色のしとねとなっている。胸は赤く染まり、剣を握ったままの両腕は力なく投げ出されていた。
 誰にも理解出来ぬ展開だった。彼女は攻撃も防御も何もなさなかった。彼女に三の舞を指示されたままの太鼓がとまどい、力を弱める。
 魔獣はゆっくりと彼女に歩み寄る。彼は前足を再びエルヤの胸の上に置き、彼女を押さえつけた。そして首を下げ、その頭を食いちぎろうと口を開ける。
 轟く咆哮が天に響く。人々は見た。異人の白い両腕が動き、その先にひらめく金色の軌跡が、魔獣の首を左右から襲ったのである。剣に白い稲妻が走る。魔獣の被毛が逆立ち、傷口から黒煙があふれる。太鼓と笛の音はついに消えた。
 魔獣はよろめき、後ろに下がる。剣の一本が、その重みのために傷口から抜けて地面に滑り落ちた。魔獣は静かに体を伏せ、全身を震わせる。赤い目を細め、薄く口を開けてはっはと短い息をする。
 異人の腕が、地面の上に投げ出された。彼女の上半身は、魔獣の血と自身の血で朱に染まっている。彼女は頭をもたげ、起き上がろうとした。地面を掻く手は剣を求めている。彼女は剣に向かって手を伸ばし、その半ばでついに力尽きた。
 観客席のカファスは目を凝らし、魔獣とエルヤとを見比べる。両者はどちらも動かなかった。
 隣の席の観客が呟いた。
「終わったのか? 相打ちか?」
「こりゃあ、見せ物じゃねぇ。いつの時代の奉納闘獣だ」
 カファスは呟いた。しかし、魔獣はまだ生きている。エルヤの片足も、動いていた。エカルが黙って席から立ち上がった。
「小僧、すわっとれ……。ありゃ、だめだ」
 カファスは少年の袖を掴む。ところがその手は彼が思っていたほどの力はなかった。エカルはそのまま観客席の前列へと去る。最後には走り出していた。
 カファスは汗で冷たくなった背中を感じていた。重傷の魔獣は、やがて死ぬだろう。しかし、手負いの獣ほど恐ろしいものはない。まして魔獣は最強である。アレーナに人を出して魔獣を始末し、エルヤを回収することは危険すぎた。闘技場の衛兵達が高所から弓を射て魔獣をしとめようとしても、漆黒の被毛を通して矢が刺さるか怪しかったし、エルヤに流れ矢があたる可能性も、暴れた魔獣が彼女を踏み潰してしまう可能性も否定できない。勝利者となった娘を助けることは、諦めるしかなかった。
 その時、観客席の前方で息を呑む緊張が走った。カファスは慌てて腰を上げ、そちらへ走る。なんとエカルが、最前列の柵を越えてアレーナへと飛び降りてしまったところである。カファスは柵から下を覗く。飛び降りるにはやや高さがあり、少年は下でうずくまって足の痛みに耐えているようである。カファスは魔獣に視線を上げる。魔獣は新たに現れた敵に注目していた。その肩が僅かに動き、すぐにでも立ち上がって襲いかかろうとしている。
 異様な緊張で静まり返っていた闘技場に、重たい門扉が開く音が響いた。カファスはアレーナに通じる闘士用の門が開いているのに気がついた。そこから現われたのは、鎧兜で完全武装したバドと、午後からの闘技に出場するはずだった剣闘士の男達である。彼らは体を低くし、素早く静かに散開する。
 魔獣が鋭い動きで立ち上がった。彼はエカルに背を向け、一人の剣闘士に向かって突進していった。悲鳴が上がり、剣闘士が魔獣に跳ねられて宙に飛ぶのが見えた。
「逃げろ!」
 誰かが叫び、逆に幾人かの剣闘士達は魔獣に向かっていった。彼らの武器は魔獣の強靭な筋肉に弾かれ、一切役に立たない。瞬く間に数人の剣闘士達が魔獣に蹴散らされる。次いで魔獣は、剣闘士達が出てきた門に向かって突撃をかけた。門の側にいたバドは必死の形相で門の中へ飛び込み、門はすんでのところで閉じられた。
 すでに闘技会は中止の状態となっていた。アレーナは混乱を極め、観客席から激励と叱咤の怒号が沸きあがる。魔獣は騒ぎの中でますます錯乱し、暴れていた。
 エカルは隅の方で魔獣の様子を伺い、地面に伏せるようにして、倒れた剣闘士の一人に近づいた。エルヤを助けなければならなかったが、その前に魔獣の動きを封じなければどうにもならない。彼は剣闘士の兜を脱がす。それから近くに転がっていた剣を手に取ろうとして、やめた。並みの剣が役に立たないことは、すでに分かっていた。離れたところに、エルヤが使っていた金色の剣が落ちている。彼はそれも横目でちらりと確認しただけだった。彼はその剣の重さを知っている。魔獣の素早い動きに対応できるほど、あれを自在に操る腕力と体格はない。
 エカルは兜を被り、他の武器を探した。魔獣が駆け込んでくる。エカルは肝を冷やした。かろうじて彼は魔獣を避けることに成功する。彼は魔獣を振り返る。魔獣の首に、エルヤの剣がまだ一本刺さっている。
 魔獣が別の敵めがけて再び走り出す。その隙に、エカルはちょうどよい武器を見つけた。素早く駆け寄り、彼は棍棒を手にする。それから立ち上がろうとしたとたん、彼は思いがけず足を吊った。激痛が右の脛に響く。彼は堪らず地面に手をつき、唇を血がにじむほどに噛んだ。アレーナに飛び降りた時から感じていた。彼の脳裏には、剣奴であったときの戦いの記憶が鮮明に残っていた。ところが今の彼の体は、その記憶の中の動きをまったく再現してくれなかったのである。怪我が治ったばかりで体が弱っていただけではない。日々の厳しい訓練をしなくなった体は、すっかり鈍ってしまっていたのである。彼の戦士としての自尊心は深く傷ついた。また、彼はそのような誇りを持っていた自分の心に初めて気がついた。
 彼は頭を動かし魔獣の姿を探す。闘技の場にいることが、戦士としての彼を支えた。鈍い体なりに動き方を考え、ことをなさなければならない。彼は体を起こす。視界に魔獣の黒い巨体を捉えた。
 魔獣は一人の剣闘士と相対していた。剣闘士は非常に大柄な男であり、手には三叉の槍を握って必死に威嚇している。彼の数歩後ろには、エルヤが血の染みた砂の上に横たわっていた。別の男がエルヤに近づこうと試みているが、魔獣に恐れをなしていまだできずにいる。
 エカルは走った。魔獣は直前まで、目の前の剣闘士に気をとられて気がつかなかった。彼は魔獣の背後から接近し、狙い澄まして魔獣の首に刺さっていた剣を棍棒でさらに奥深く叩きいれる。
 魔獣の咽から、これまで聞いたこともない咆哮が漏れた。それは、いくつもの人間の断末魔の叫びを束にしたようだった。まだ相手は生きている。エカルは咆哮におののきながらも、さらにもう一撃加えようと棍棒を振り下げた。しかしそれより先に、魔獣の前足が彼の頭を打った。
 彼は軽々と空に向かって弾き上げられる。自分は今空を飛んでいると、激しく移り変わる目の前の景色から彼は知る。あまりに頼りない浮遊感から、飛んでいるのはもしかしたら自分の頭だけで、体は魔獣の足もとにあるのではないかとも思う。そして次の瞬間、全ての現実とともに彼の体は地面に打ち付けられた。全身の激痛が彼の意識を襲う。
 彼は瞳を見開いた。魔獣が黒い塊として見える。息が荒くなっている。誰の? 自分の呼吸とも魔獣の呼吸とも、彼には判別がつかなくなっていた。魔獣の息が青白く輝いている。エルヤが自力で上体を起こし、魔獣に向かって高らかに語りかけている。それとも、言葉ではなく呪文だったのだろうか。魔獣の体が震え、黒い姿が陽炎のようにゆらめいた。エルヤは胸の傷に手を当て、自身の血に染まった手を天に差し出す。そして再び地面に伏した。数人の剣闘士達がエカルに習い、魔獣の剣を狙って攻撃を加えようと武器を振り上げている。
 徐々に暗くなっていく意識の中、彼はあの大きな剣闘士が槍を投げ出しエルヤを抱き上げ、門に向かって走るのを見た。剣闘士がエルヤの長い足を扱いかね、門をくぐる際、柱に思い切りその足をぶつけてしまったのも見た。それから彼の焦点は投げ出された自分の腕の上に移った。彼はまだ手に武器を握っていた。彼はたとえ意識を失っても、武器を放すことはなかった。訓練士が感心したこともある、彼の性であった。ところが今、もうろうとした意識の中で、彼は武器を握る手を緩めた。棍棒は砂の上に転がった。生まれて初めて自由な意志で戦いの場に降り立った彼は、もはや戦士であり続ける必要はなかった。彼は自分が最初から、奴隷でも剣奴でもなかったことに、気づき始めていた。

 混乱を極めた闘技会最初の演目は、魔獣が青白い息を撒き散らし、冷えゆく心臓からこれまで捕えていた亡霊達を解き放つことによって終わった。亡者達の悲鳴は長く尾を引いて闘技場を旋回し、やがて都市の北西に位置する火山の火口へと消える。人々は身を寄せ合ってこれらを見守り、観客席の特別列を占めていた戦の女神の巫女達は、神の加護を求める歌を歌い、亡者達を弔った。
 地上は現の光を失い、なかば神話の世界へと彷徨っていたが、闘技場の地下には現の苦しみと喧騒が一切合切あふれていた。松明がここかしこに灯され、ひどい熱気と煙の中、怪我人がぞくぞくと運び込まれてくる。重傷人から奥へ入れろと怒鳴る者、いかめしく突っ立って、自分こそ重傷人だと言い張る血まみれの剣闘士。担架に載せられたまま、すみに追いやられそのまま忘れられ、一人痛みに呻く者。魔獣に止めを刺そうとしたのか、闘技場の一角に展示されていたカタパルトが運び込まれていたが、用を失くした今ではただの障害物として通路を塞ぐばかりだ。
 エカルは硬い木の板の上で目を覚ました。全身に鈍い痛みが残っている。重い腕を上げ、額に触る。額はかなりの熱を持っている。兜は脱がされたようだった。額に触れた腕を再び上げると、手のひらに色が写っているのに気がついた。額に緑の顔料で印をされていたらしい。まだ焦点のおぼつかない目で、左右逆に写っている手のひらの文字を読む。
——放置。
 エカルはごしごしと額を擦った。
 彼は体を起こす。どうやら地下の医務室に運ばれたようだった。周りには木の粗末な寝台が並べて置かれ、その幾つかに男が横たわっている。彼が立ち上がると、すぐ近くに寝かされていた男がこちらを向いた。
「寝ていた方がいいぞ。お前、頭からはっ倒されていたろう」
 男は片足に添え木を当てられている。エカルはその一つ向こうの男を見やる。そちらの男は意識を失っているようだ。その額に、エカル同様「放置」と書かれている。医者に見捨てられたのか、それとも唯一の治療法を後から来た看護士に知らしめるものか。恐らく、後者だろうが。
「おい、待てよ」
 男が自分に話しかけていることも意識に上らないまま、エカルはふらふらと医務室を後にする。熱に浮かされた頭に残っているのは、砂の上に横たわる異人の姿だけだった。壁に手を沿わせ、彼はあてもなく薄暗い通路を進む。通路に面する部屋から、松明の揺れる明かりのみが道を照らし出していた。白い前掛けに血をにじませた看護士らしき者や、金色の兜を被った女剣闘士、武器を抱える闘技場の奴隷などと、時々すれ違う。
 ざわついた通路のどこかから、耳慣れたカファスのだみ声が聞こえた気がした。エカルは耳を澄ます。通路を逆戻りし、脇の階段を登った。
「おう、お前か」
 エカルの前に、巨大な影がぬっと現われた。バドである。彼はいきなりごつい指でエカルの顎を掴んで、彼を右や左に向かせる。しばらくした後、バドは舌を鳴らした。
「右耳の上んとこが、ばっくり割れとるじゃないか。傷口を洗って糊を塗っただけで、包帯もなしか。やれやれ。闘技場つきの医者がエルヤを診ていたら、あいつは死んどったわい」
 バドは通路の端にエカルを寝かせ、耳の上に布切れを当てて手で押さえさせた。バドはエカルの隣にしゃがむ。彼らの目の前には部屋の入り口があり、ランプの明かりが暗い通路に漏れていた。エカルが室内を確かめようとする前に、カファスが彼の視界を遮って鼻息荒く現れる。カファスは横たわったエカルにちらりと一瞥を投げた。
「クディブの野郎! 魔獣の次は異人か! あの糞爺め! 俺から何もかも取り上げて、この期に及んでまだ取るつもりか!」
 カファスはこぶしを握り、肩を怒りで震わせる。彼は片手にエルヤの鎧を抱えていた。それをバドに投げる。エカルは頭をもたげてその鎧を見た。胸の鏡は見事なまでに二つに裂け、金属片が内側に曲がっている。内側に曲がった金属片は、彼女の胸の傷に食い込み、なおかつ傷口を開いたままにさせていただろう。
「助かったのか」
 エカルは鎧から目を逸らし、カファスを見上げる。カファスは部屋の中を、力いっぱいに睨みつけていた。彼は部屋に視線をやったまま、歯軋りを繰り返した。
「あの爺がな、お抱えのトーラッド人の医者をよこしてくれたんだ。外科手術の知識が深いんだとよ。あの国の連中は。……ああ、くそ! あの野郎、うまいことエルヤを掻っ攫っていきやがって! 俺が世話した異人だぞ!」
「まあまあ……。エルヤもこれで助かるかもしれんのですから、いいじゃないですか。それにあれは別に異人奴隷でもないでしょうが。いくらあのじいさんでも、そうそう好きにはできんでしょうて」
「まあな……。それはそうかもしれんが」
 バドの言葉にカファスはうな垂れる。彼はエカルに立つよう促した。
「帰るぞ」
「……でも」
「あれはクディブが引き取る。どっちみち、当分あの医者の治療が必要なんだ。痛み止めがなけりゃ、呼吸だってまともにできんらしいからな。お前も家に戻って、しばらく安静にしとった方がいい。まったく、無茶をしおって。首の骨がへし折れてもおかしくなかったんだぞ」
 カファスは居残るバドに手をあげ、後も振り返らず地上への階段へと足早に進む。エカルは何度も振り返りながら、彼を追った。
「午後からの催しは夜から再開されるそうだ。あいつの訓練所の女が出るし、一応エルヤも一時期とはいえあすこに所属しとったからな。娘が意識を取り戻した時、知った顔が見えたら安心するだろうって言うんだよ。馬鹿か、あいつは。俺は今日中に奴が目を覚ますとは思えん。甘やかしすぎだ。それにしてもまったく、番犬めが。死んだ後も一苦労だ。ディアーラの巫女達が清めの火で魔獣を焼いて、闘技場側も、観客どもには気付けの酒を配り、ハボス火山には調査隊を送り、アレーナの汚れた砂は不吉だからってんで、大掃除をせねばならん。まったく、あの魔獣はどこから捕まえられてきたんだ。密猟者どもが、どっかの聖域か禁断の地かで見付けたってのか。冗談じゃない。この町に天罰や呪いが落ちたらどうする! そうなったら全部、クディブのせいだわ!」
 カファスは聞かれもしないことをべらべらと喋り続ける。平常を装おうとはしているようだが、常より多い口数は、彼の気が動転していることを如実に表している。それを察したエカルは、彼に尋ねてやった。
「なにか損害を受けましたか」
「そうだっ! 全部あの女のせいだ!」
 打てば響くように、カファスは立ち止まって叫んだ。ガラガラした耳障りな声が、地下いっぱいに響く。
「気付けの酒も、調査隊の費用も、怪我をした剣闘士達の治療費も、夜間試合の照明燃料も、俺が半分も出さにゃならん! あの騒動は、エルヤが糞犬にちゃんと止めを刺さなかったせいだからな! ほんでも、残りの半分とアレーナの砂はクディブ持ちだ。ところがどうだ! あの金持ちにゃ、痛くも痒くもない出費だわい。おまけに俺から異人まで取り上げよった!」
 カファスの文句は再び最初に戻ったようである。彼は石床につばを吐いた。それでも言いたいことは全て吐き出してしまったのか、その後は憤然としたまま黙りこくり、外の荷車にたどり着くまで彼は口を聞かなかった。エカルが荷車に騾馬をくくりつけて手綱を握ろうとすると、カファスは大きな尻を乱暴に御者台に滑り込ませて、エカルを横に追い落とした。彼は太く短い指で、エカルに荷台を指差す。彼なりの気遣いだったのだろう。エカルは大人しく荷台によじ登り、縁にもたれ掛かる。
 闘技場の外は中から出てきた観客と野次馬で溢れかえり、人々は盛んに魔獣の最後について繰り返しては、靄にかすむ火山の影を彼方の空に振り仰いでいる。中にはエルヤについて、あることないことを話す者もいる。あれは本物の戦乙女で、まがまがしい魔獣を葬るためにディアーラに遣わされだの、魔獣を迎えに来た冥界神の使者だのという話はまだましで、カファスがイリーナの密林でテナガザルと一緒に捕獲した伝説の女狂戦士だという話まで出ていた。
 大抵の者は、かつてない闘技を目の前にし、興奮して怯えていた。またある少数の者達は、自分達が目にしたものが、遥か異郷の神聖な生贄儀式の一つではないかと感じていた。なぜなら彼らの見た異人の舞は、豊穣の女神や戦の女神の神殿で、巫女達が舞う奉納の舞と、ほぼ同じ雰囲気を持っていたのである。それは単純でありながらも、厳粛な気配に満ちている。魔獣を倒すだけなら、舞う必要などなかった。不思議な技で二本の剣を操った異人は、より実際的な戦い方をいくらでも選べたはずだ。彼らはそう見抜いていたのである。しかしその考えを確証するものは何もなく、彼らは互いに集まり声をひそめて憶測を述べあう以上の事はできなかった。
 やがて荷車が都市の中心をはずれ、大きな屋敷の立ち並ぶ住宅街へと入る。人影は少なく、ひっそりとしていた。エカルは闘技場前の喧騒の中で聞いた様々な噂を反芻する。あの闘技は最初から最後まで、太鼓の拍子が続いていた間まではすべて、エルヤの思惑通りに進んでいたのではないか。彼女が魔獣の攻撃を誘い、胸に傷を受けたのまで、すべて彼女の算段であったはずだ。彼女の動きに迷いはなかった。焦りがはじめて見えたのは、魔獣が地面にうずくまった後だ。彼の脳裏に、剣を求めて砂の上を彷徨う、異人の白く長い腕がよみがえる。あの時あの腕は、ひどく悲しげに見えた。
「助からんかも知れんなぁ……」
 御者台からカファスが一人呟いた。エカルは体を屈め、瞳を閉じる。あの異人の生死が、自分の身の上にどのような影響をもたらすのか、彼には分からなかった。異人の面影が記憶から薄れていくにつれ、闘技場で悟った自己の意識すら遠く霞んでいった。