ナムウィリクの戦乙女
後編
季節は移り、暦の上では冬が来ていた。あの収穫祭以来、エルヤの生死はまったく分からなかった。引き取ったクディブは誰にも異人のことを話さず、むしろ隠したがっていた。カファスも最初の方は、用事にかこつけてエルヤの消息を得ようとクディブの屋敷を訪れていたようだが、最近はそのようなこともなく、自分の仕事に集中するようになっていた。カファスの屋敷は大小二つの中庭を持つふた棟続きの、立派な豪邸であった。召使の奴隷も多くいたようだが、魔獣のために落ちぶれたカファスがそのほとんどを売ってしまい、料理女一人だけになっていた。屋敷の一部を物置として貸し出してもいたが、十日ほど前に相手と契約を切り、エカルに命じて昔のように家具調度を運び込ませた。猛獣を買いに来たらしい金持ちや貴族も、時に屋敷へ訪れる。それらを見る限り、カファスの商売は勢いを再び盛り返してきつつあるようだった。バドは度々この屋敷を訪れては、カファスと酒を飲んでいた。彼らは、魔獣が町に現れる前の生活に戻りつつあった。
エカルはカファスの屋敷で働き続けていた。時間が経つにつれ、闘技場で最後に感じた喪失感は薄れていった。彼は奴隷として、自分を取り戻しつつあった。彼は漠然と、カファスを新しい主人だと思いはじめていた。そしてカファスが年をとって死ぬまで、このような生活が続くのだろうと思っていた。
エカルの意識とは裏腹に、周りの者は誰一人として、彼が奴隷として育てられた人間だと知らなかった。西から流れてきた浮浪児程度にしか、見られていなかった。
カファスは時々彼に、自分の持っている獅子や虎などの猛獣を見せに連れ出してくれた。彼は表向き、同い年の少年達のように驚いたり喜んだりしてカファスを満足させたが、内心では物足りなさを感じていた。猛獣達が檻の中ではなく、広い大地を駆ける様を見たいとも思った。
町の市場は冬でもなお、旅の商人達の運び込む色とりどりの商品で賑わい、活気に溢れている。商人達の客を呼び込む口上は、彼の耳に幼い頃から染み付いた懐かしいものではあった。彼は一度一人で、頼まれた買い物のために市場に出たことがある。その時ふとその口上に郷愁を感じて足を止めたが、そのためにあっという間に商人達に取り囲まれてしまった。
さあ、お若いの、北海産の琥珀はいかが?
若旦那、このレンクードの絹の手触りを見てくれ。柄は今はやりの、向かい合う鹿に月桂樹の飾り小円だ。
マーレ! 若さに満ちた人に美の女神の祝福を。この香を服につけて町を歩いてご覧。若い娘がぞくぞく寄ってくること間違いなしだよ。
カファスの古着を着ていたせいもあるだろう。まるで、自分が対等の人間、それも身分の良い人間であるかのように商人達が寄ってくる。奴隷であった彼には信じられない体験だった。彼は恐ろしくなった。自由人として見られることに、嫌悪しか催さなかったのである。彼は一目散に屋敷に逃げ帰り、それ以降決して一人で出かけることはしなかった。終日、黙々と屋敷の雑用をこなす彼に、何も知らないカファスはあきれたようだった。
「お前、群を追い出された老獅子みたいな目をしとるじゃないか。明日の仕事は明日に残しとけ。外に行って、同い年の餓鬼どもと喧嘩でもして来い。そうだ。今度の闘技会に、少年部門で出場してみたらどうだ? 小遣い稼ぎにいいぞ」
「カファスさんがそう仰るのなら……」
「別に強要はしとらん」
カファスはむっつりと答えた。
エカルは屋敷の物置の隣に寝床を与えられていた。彼はそこに、唯一の持ち物である竪琴を隠していた。エルヤの竪琴である。バドが届けに来たのを、預かっていたのだ。主を失くした竪琴は、ほとんど鳴らされることはなくなっていた。エカルは時折その弦を爪弾いてみるのだが、竪琴は嫌々割れた悲しげな音をたてるだけである。五つある弦の内、二本は目に見えてたるんでいた。弦を張りなおさなければならないのだが、弾き手がいない以上、切羽詰った仕事でもなかった。
収穫祭からふた月経とうかという晩のことである。エカルは、酒を飲みに行ったまま帰りの遅いカファスの為に、屋敷の玄関にランプを灯して彼を待っていた。冷え込みは厳しくなっており、彼はマントの中で両手をさすっていた。料理女のフォルティナは、このような寒さは珍しいと言っていた。この地方では冬でも雪が降るのは、山の上だけだそうだ。海からの湿気は山に当たり、そこでみんな雨か雪になって落ちてしまうためらしい。エカルにしてみれば、雨は珍しかったし雪にいたっては見たこともない。
カファスが泥酔していたら、寝室まで彼を抱えて行かなくてはならない。カファスの方もそれに安心しているのか、飲みたい放題飲んで帰ってくることが多かった。月が天頂に達する頃、ようやくカファスの機嫌の良い歌声が通りの向こうから響いてくる。エカルは玄関の蹴上げから立ち上がった。カファスがエカルを見つけ、彼を抱き寄せるとばんばんと力任せに背中を叩いた。
「おうおう。お前もまあ殊勝なこってなぁ! お前に髭が生える頃になったら、俺が店に連れて行って良い娘を紹介してやるからなぁ!」
エカルは黙ってカファスの腋の下から頭をいれ、体を支えながら玄関の蹴上げを登らせる。主人の声を聞いて、真っ黒な飼い犬が尾を振ってまとわりついてきた。カファスはご機嫌そのもので、犬と間違えエカルの髪をくしゃくしゃに撫で回す。嫉妬した犬がエカルに吠え付く。この犬はエカルを自分の下に見ていたのだ。エカルはすべてに忍耐強く耐え、重たい中年男を引きずって一歩一歩先へ踏み出す。
その時、鋭い口笛が夜気を裂いて彼の耳に届く。彼は振り返る。玄関口のランプの中に、長身のマント姿が現われる。と、その体が傾き、あわやという所でマントから突き出た長く白い足が体を支えた。白い腕が壁に伸びる。エカルは呆然のあまり、カファスを取り落とす。カファスががま蛙のように、狭い廊下にひっくり返った。犬がけたたましく吼えた。
エルヤが息も荒く、長い髪を振り乱したままランプの明かりを背に壁にすがり付いて立っている。
「おだまり! 馬鹿犬! 黒い犬なんて大っ嫌いよ!」
エルヤの一喝で、犬は尾を後ろ足の間に挟み、犬小屋へ逃げてしまった。カファスがすっかり酔いの冷めた顔で、立ち上がる。
「……お前、生きとったんか?」
エルヤはカファスを焼き殺さんばかりに激しくにらみつけた。しかしその顔は衰弱が酷い。エカルとカファスが彼女をこわごわ見守る中、彼女の頬から突然ふた筋の涙が炎の輝きをうけて零れ落ちた。白い唇が震える。
「なんで……」
彼女はゆっくりと膝をつく。
「なんで、誰も迎えに来て、くれなかったのよ……」
そして彼女は、前のめりに倒れて動かなくなった。エカルは彼女に近づき、恐る恐るその体を上に向かせる。涙の跡を残したまま、彼女は気を失っていた。エカルの肩越しに覗き込んだカファスが、呟く。
「こいつ、まさかクディブのとこから抜け出して来たんか。やばいな」
カファスはエカルの背中を突いた。
「とにかく、気絶しとる今だ。目を覚ますと荒れるぞ。今のうちに、そうだな……。よし、客室に運べ! フォルティナ! 起きろ! 客室に寝床を用意せい!」
彼はよろめきながら屋敷の奥に駆け出した。
翌日、朝早くからクディブの命を受けた私兵二人がカファスの屋敷を訪れた。カファスはしらを切り、エルヤが生きていたのかと吃驚してみせ、彼女の行方など知らないと答えた。
「だいたい、俺はあの女を利用しただけだ。魔獣がくたばってくれりゃ、万々歳だよ。姿が消えたのか。そりゃいい。俺も約束の金を払わずにすんだんだからな。俺んとこより、バドの訓練所を当たった方がいいんじゃねえか? あの男、あいつを甘やかして大事にしてたみたいだから、あいつだって帰るならあっちの方がいいに決まっとろうよ」
挙句の果てに、バドに厄介ごとを押し付ける。私兵達が帰ってしまうと、カファスはエルヤの寝ている客室に顔を出す。彼女はすでに目覚めて、朝食もとった後だった。カファスは寝台の上で寝そべるエルヤの射るような視線を受け、おっかなびっくり向かいの臥台に座る。
客室には造り付けの石の臥台が二つと食卓があった。エルヤの寝台は臥台の一つにフェルトを何枚も重ねて敷いた簡単なものだった。しかし、そのフェルトも彼女が体にかけている上掛けも、この屋敷にある最高のものである。携帯式の小さな暖炉はカファスの寝室にあったのを、昨晩エカルに運ばせたものである。西方の細工師による金の山羊の装飾がほどこされた見事な品であった。
「あー……、で、傷の具合はどうなんだ?」
エルヤは冷たい表情のまま片手を上掛けから出し、人差し指を動かして彼を招き寄せる。カファスが彼女を上から覗き込むと、エルヤは寝巻きの前を両手で掴み、よく見ろといわんばかりに怒りに任せて左右に開いた。脇の窓から差し込む朝日が、彼女の胸元を照らす。胸骨の位置に、今だ生々しい血のにじんだ傷跡が長いかぎ裂きの線として走っている。傷口は黒い絹糸で縫合されていた。強い薬草の香りが、カファスの鼻と目をつく。彼は後ずさって再び臥台に腰掛けた。
「相当深かったな……」
「肺と、骨の方が、痛いんです」
エルヤは胸元をあわせながら、ようやく口をきく。
「息をするたび痛みます」
「しかし、随分よく治療してくれたじゃないか。あの傷では、普通助からん」
その言葉に、エルヤは眉間に皺を寄せて唸ってみせた。
「医者には、なんの文句もありません。それにしても、あの、爺……! いやらしい奴! 何の用もないのに側でじろじろと。何であいつの見世物にならなきゃいけなかったんですか!」
「クディブのことか? ま、お前も石像みたいなもんだから、見世物というより観賞用だろう。あいつは珍しいものとか強いものに目がないからなぁ。にしても、あの魔獣はやばすぎたがな。お前は魔獣の代わりのおもちゃだ。鑑賞されるだけですんでよかったじゃねえか」
「もう……、いいです。ところで、約束の」
「分かっとる、分かっとるよ」
「全部、宝石でくれませんか? 質より量で。小さくて丸い、木の実みたいな石……」
「よしよし。一生ものの傷をこさえてまで魔犬を始末してくれたんだ、何でもいいようにしてやる」
カファスは客室の戸口にエカルが跪いているのに気がついた。彼は朝日を背にし、瞬きもせず寝台に横たわるエルヤを見つめていた。彼はエルヤの枕を手にしていた。絹の袋に羊毛を詰めるようにと、カファスが命じて作らせたものだ。枕の上には、原始的な形の竪琴を乗せている。
「小僧」
カファスが呼ぶと、彼はハッと気がついて目を擦る。立ち上がってエルヤの目の前にそれらを持って近づいた。
「あら、ありがとう」
エルヤは何気なくエカルから枕を受け取って頭の後ろに敷く。そして竪琴を手に取ると、あちこちひっくり返して確かめる。
「ああ、弦と皮を張り替えないと」
エカルはしばらく何か言いたそうに、竪琴をためつすがめつ見るエルヤの姿を眺めていたが、結局そのまま部屋を後にした。
その日の夕暮れ、カファスの案の定、バドが頭から湯気を立てんばかりに怒り、凄まじい勢いで屋敷を訪ねてきた。
「あんまりじゃないですか! クディブの私兵ども、訓練所の中をみんなひっくり返していきやがったんですよ!」
「しゃあないだろ。後で治安部の方が取り締まって、説教垂れてくれたんだろう? これでクディブも少しは大人しくならぁな。ただでさえ魔獣の一件で、手のひら返した町の人間のひんしゅくを買ってるんだ。奴のおかげでハボス火山は『冥界の入り口』なんてふたつ名貰ってよ。あすこ、新しく神殿おったてるんだろ」
「おかげでエルヤの噂が、再燃しとるんですよ。この都市のどこかにあの娘が隠れてるんじゃないかってんで。みんな、娘の姿を見て、魔獣からの恐怖を取り除きたいんで。……まさか?」
「客室で寝てるから、静かに行って来い。奴の屋敷からは、訓練所は遠いからな。それで多分俺んとこに来たんだろうが」
「ああ……。寝てるんなら、また今度で構いませんわ。俺も訓練所の後始末があるんで」
バドはつるりと頭をなで、のそのそと引き返していった。
クディブがいったん大人しくなったとはいえ、カファスは油断するつもりはまったくなかった。彼は仮病を使い、ほとんど常に屋敷にいるようになった。留守の時にクディブの私兵が来れば、ただの料理女では彼らを制止できないからである。エカルならば多少の足止めはできるかもしれないが、暴力沙汰が起きれば、むしろカファスの方が不利になる。地位も力も金もあるクディブ相手に、カファスができることはひたすら隙を見せず、屋敷に他人を立ち入らせないことだけであった。
エルヤはまだ傷の具合が悪く、一日を寝台の上で過ごした。目を覚ましている時は、同じく屋敷で暇を持て余しているカファスを相手に卓上ゲームをし、ときにそれにバドが加わることもあった。竪琴は手入れされたが弦は張られず、部屋の片隅に置かれていた。その側には、炭で描かれた黒い獣の姿がある。暇になれば炭を片手に獣の姿を上塗りし、あるいは竪琴と同様に粗末な造りの木の櫛で、長い髪をくしけずっていた。これほど穏やかな生活は、漂泊の身の彼女にとっても久しぶりか、初めてのものだったかもしれない。寝て食べるだけの生活で、彼女は次第にふっくらとしてきた。厳しい旅の間に彼女の体から削げ落ちていた脂肪がつき、精悍だった頬も娘らしい丸みを帯びた。栄養を得て毎日くしけずられる髪はつやつやと輝く、まさに陽光の滝である。
エカルは枕と竪琴を届けて以来、彼女の部屋に近づくことはなかった。客室の窓は屋敷の中庭に面していたため、エルヤは中庭で荷物を担いで行き来するエカルの姿を頻繁に目にすることができた。朝はカファスの屋敷の倉庫に蓄えられている、獣の餌を運び出しているらしかった。昼と夕には、屋敷の補修でもしているのか、レンガや泥の詰まった桶、あるいは赤や青の顔料の塊を持って通り過ぎてゆく。
エルヤは窓越しにエカルを呼び止める。エカルはこちらを振り向き、窓辺に近づいた。大きな窓は、大きな木のビーズを通した木柵の嵌め殺しとなっていた。エカルがビーズの隙間から、暗い客室の中をのぞきこむ。長く伸びた前髪に、石の粉が白く被っている。
「私は、春になったらここを発とうと思う。……あんたはどうする」
「屋敷の外は今騒がしい」
エカルはエルヤの問いには答えなかった。
「カファスさんは何も伝えてないだろうけど。クディブがしつこい」
「そう。なら、もっと早めに発った方がいいのか」
「いや、春まで居てあげてよ」
エルヤがいぶかしがると、彼は続けた。彼が自分からこれほど話し出すのは、彼女には初めてだった。
「楽しそうだ。バドさんも。昨日の晩、酒を飲みながら言ってた。一生に一度くらい、女の一人も守り通してみせないと、あの世のお袋に合わせる顔がないって」
「あの顔で、合わす顔ねぇ。そろそろ罪滅ぼしをしたい年齢なのね。どこの元ごろつきかと思っていたんだけど」
「怪我で退役した軍人だよ。上官と部下の関係だったらしい」
エカルは踵を返して立ち去ろうとする。エルヤは、ビーズの隙間から指先を出した。
「これ」
彼女の二本の指先には、小さな赤い貴石が挟まれている。日の光を通して、彼女の指先に透明な赤い影を落としている。エカルはしばらく指先を見つめ、それから窓枠がまだらな影を落とす彼女の腕に視線を沿わせ、彼女の瞳と目を合わせる。
「それはあんたのだ」
「そっちの取り分よ。魔獣に止めを刺すきっかけを作ったのはあんただから。私はしくじった」
「それはあんたのだ」
彼は鋭く彼女を睨みつけ、体を退くと足早に立ち去った。
彼女は後に呆然と残された。遅れて背中に悪寒が走った。自分があの少年をどう扱おうとしていたかに、気づいたのだ。
——主人を持つ奴隷をさらって、私は彼を、生きるべき場所だと信じていた所から無理矢理引き離したんだわ。そして、それが正しいと思い込んでいた。そうか。そうだったのかもしれない。
彼女は唇を噛んだ。
——おまけに何とかしてひき止めようと、彼のご機嫌をとるようなことをして。行き場をなくした奴隷ほど得やすいものはない。前の主人の代わりにでもなろうっての? 馬鹿馬鹿しい。もう私の役目は済んだじゃないか。あの子は自由な身分を手に入れたんだから、これ以上私が関わる必要なんかない。
悪寒が激しい嫌悪にとってかわる。胸の底に湧いたむかつきは、言葉の形をとる前に押し殺された。
彼女は膝を石を握った拳で叩き、視線をめぐらせて八つ当たり出来そうなものを探した。不幸にもそれらは手近にはなく、とうとう破れかぶれに石を飲み込む。小さな冷たい石は咽を通り、凄まじい激痛で彼女を固まらせた。石がゆっくりと胸の奥を通り過ぎ、痛みがひく頃には彼女も平静を取り戻していた。
——彼を前の主人の下から引き離したことだけは、よかったはずよ。黒い獣と同じ。あそこは彼の居場所じゃなかったはずよ。
昼の光でより濃い影を落とす部屋の中、壁の獣が目に入る。
エカルは奇妙な胸騒ぎを覚え、床から体を起こした。冷たい夜気が毛布の間に流れ込み、彼の体に添い体温を奪う。彼は身震いをした。
炎の夢を見ていたように思う。ところが目覚めた後も、その炎は消えることなく心で静かに揺れている。
火事だろうか。
いまだに消えない火の夢が、彼を不安にさせる。彼は再び横になり、毛布を体にきつく巻きつける。目を閉じると、炎は彼の心によりはっきりと、その像を結んだ。炎は音もなく、薄衣のようによじれて闇を舞い、ほどけて広がり波を打つ。金色に燃える輝線が炎の衣を縁取っている。
エカルは現に戻り、立ち上がった。履物をつっかけ、中庭へ出る。風は透明で、身を切るように冷たい。彼は中庭の水盤に歩み寄り、両手を浸す。水をすくって顔を洗うと、心にたなびく炎は消えた。それでも、胸のざわつきはおさまらない。
頭を振って、前髪についた水滴を払い落とす。夜空には星が、町の物見塔には月がかかっている。夜空が明るいのは月のせいだ。吐く息は白い。首の後ろと耳の上の傷跡が、かっかと熱かった。
彼は仕方なしに、屋敷を見回ることにする。中庭を横切り別棟へと入る。彼は真っ先に台所へと向かう。そこはほんのりと暖かい。かまどを覗くと、熾きの赤い色が見えた。隣室から聞こえるいびきは、フォルティナのものである。彼はそっと台所を後にする。
母屋に戻り、カファスの寝室の前へ行っては見るが、そこにも火の気はない。エルヤの部屋も同じようなら、もう火事の心配はなかろうと、エカルは足早に中庭の回廊を廻って再び別棟へと入る。
彼は昼間の出来事をほとんど忘れていた。何かに腹を立てたようだというくらいの認識しか残っていない。腹を立てた理由にいたっては、まったくの謎である。あの感情は、彼の心の知らない部分から突然噴出したのだ。奴隷として教育されていた彼は、負の感情をたくみに押し殺す訓練を積んでいた。しかし押し殺された感情は、その時の記憶もまた曖昧にする。
黄色い明かりが、狭い廊下の先に見えた。彼は駆け出しかける。そしてすぐに、その光は火事によるものではないことに気がつく。あれは灯火の色だ。火の元を見つけて、彼の胸騒ぎもようやく収まった。かわりに不審と心配が湧く。まだ夜明けも遠い真夜中に、なぜ部屋の明かりがついているのだろうか。
真っ暗な廊下を手探りで抜けると小さな中庭に出て、真正面に客室の窓がある。木製ビーズの透かしが入った木枠の窓から、エルヤの姿を見通すことができた。彼女は窓に背を向け、心持ち前傾姿勢をとっていた。エカルは立ち止まり、その後姿を窺う。彼はエルヤの右肩が腕まで露になっていることに気がついた。丸みを帯びた肩には長い髪がほつれてかかり、蒼白の肌とともに今は灯火によって一色に染められている。遠目にその姿は、人間の女となんら変わるところがない。
その長い右腕を見るにつけ、エカルは闘技の日のことを思い出していた。剣を探し、太陽に焼かれた砂の上を彷徨っていた腕は、剣ばかりを求めていただけではなかったのかもしれない。あの時なぜ自分は観客席から飛び降り、彼女を助けようとしたのか。これもまた、出自の分からないあの怒りと同じ所から出たものだろうか。
それにしても、彼女は何ゆえこんな夜中に起き出しているのか。傷の具合が悪化でもしたのか。しかし側へ行くのはためらわれた。
彼女は右肩を脱ぎ、傷を縫い合わせている糸を抜いていた。痛みは残っていたものの、それは一度砕けた骨に由来するもので、傷自体はほとんど塞がっていた。青銅の小さな裁縫用ナイフで、ふつりふつりと糸を切る。ぼんやりと傷を見つめる瞳は、半ば脳裏の記憶をたどっていた。糸を切るたびに、魔獣との戦いの一瞬一瞬が、太鼓の音とともに蘇っていた。
客室の隅には、小さな祭壇が造られている。壁に炭で描かれた魔獣らしき黒い獣がおり、その下の台には葡萄酒の満たされた銀の小盃に、香をくべた小さな炉がある。全て彼女自身が用意したものだった。
強く引いた糸が傷に引っ掛かり、痛みに息を呑みこむ。引きつれた傷口に血がにじんだ。
屋外は物音一つない。大気の冷たさは、慣れれば心地良かった。その静寂と冷気が、ふいに強くなる。彼女は窓の外を見ようと顔を上げた。
雪の気配だと思っていた。それは間違ってはおらず、間もなく白いものが舞い降りはじめたのを、彼女は確かに見た。いつの間にか、戸口に佇んでいた少年の肩越しにである。彼女は面食らった。いつからそこに居たのだろう。雪とともに今突然現われたわけでもあるまい。
寝台脇の灯火台の明かりは戸口から遠く、彼の表情までを照らし出すほどではなかった。彼は月明かりと灯火の明かりの狭間に淡い夜影を纏って、静かに佇んでいる。しばらくどちらも身動きをせず口もきかない。
やがてエルヤが少年に視線を残したまま、そろそろと右腕を寝巻きの中に肘から入れ、袖を通す。すると、エカルのかすれた声が聞こえた。
「まだ、糸は抜かない方がいい」
感情の薄い静かな口調の中に、彼女はどこか弁解めいたものも読み取る。
「どうしたの。まだ夜明けは先よ」
尋ねてみたが返事はない。少年の立ち姿が戸惑うように揺れただけだ。
「……明かりの中へいらっしゃいな。そんなところに立っていられちゃ、落ち着かないから」
エカルはその言葉に従うように、静かに寝台の側まで近づいてきた。明かりに浮かび上がった顔つきは、なぜ自分がここに訪ねてきたのか分からないというように、頼りない様子である。また、戸口から寝台の側まで、僅か数歩の距離ながら彼は随分時間をかけた。その歩みには、彼女の言葉に従ってしまった後悔がにじみ出ているようだった。エルヤは彼に座るよう、寝台の上を軽く手で叩く。エカルはぎこちない仕草で、端に浅く腰掛けた。
エルヤはその横顔をうちまもり、言葉を探す。なのに昼間の彼の声色が思い出されて、彼女の心は震えるだけだった。彼女も実のところ、深い考えがあって彼を部屋に招き入れたわけではない。
窓の外に、雪の気配が濃くなる。
「火の夢を見た」
さきに言葉を見つけたのはエカルの方だった。ほとんど抑揚のない、静かで落ち着いた声色だった。
「目が覚めても消えないで残って、舞っていた。庭の水を被ると見えなくなったから、探しに出た」
彼は一瞬炭の輝く暖炉に目をやるも、灯火台の明かりを凝視する。
「火はここにあったけど、これじゃない。俺が見ていたのは、多分あんたの方だったんだ」
「……違うわ」
エルヤは流れ落ちてきたこめかみの髪を掻き上げる。
「エカル、あんたは火に敏感な感覚を持っている。その夢は正夢になる」
「俺が見た火は、あの日、あんたが操った炎の帯だ」
エカルはエルヤの胸元に視線を投げた。
「その傷は、わざと受けたんだろう。なぜそんなこと」
彼はエルヤの瞳に視線を上げた。彼女はそれを避け、自作の祭壇を見やる。
「そうか。傍目にも分かったかしら」
「死ぬつもりだったのか」
「そう見えても仕方がなかったかしらね。異教の地に連れ去られた気高い生き物が、見世物になっているのは我慢ならなかっただけよ。元の場所に帰せないなら、それ相応のもてなしで、始末しなきゃいけない。あのままさらにたくさんの人間を喰わせていたら、この町は獣の呪いに落ちたかもしれない。この傷の治りが遅いのだって、あれがただの獣じゃなく魔獣だったからよ。時間だけでは癒えない」
そう言って櫛に絡んだ髪を一筋、彼女は炉にくべる。細い煙が上がり、硫黄の匂いが鼻につく。
「……あんた、俺を養うためにあれを倒そうとしたんだろう。どっちにしたって、命をかけようとまでしたのは確かだ」
エルヤは彼の物言いに驚いた。
「違う!」
彼女は押し殺した声で叫び、エカルを振り返る。
「はじめからそんな危険なことするもんですか! だいたい何で、そこまでしてあんたに食べさせなきゃいけないの!」
「なら、本当はどういうつもりだった」
「私にも生活がある。異人は一処に留まって暮らすのは難しいし、そもそも私は流れているのが性に合う。人間の国を彷徨っていると、そこに迷い込んだり無理やり連れてこられたりした場違いな存在を見つけることがある。異人もそうだけど魔獣もそう。あれが元いた土地では、神聖な生き物として崇められていたかもしれない……」
彼女の声はおぼつかなく細くなる。そして相手の瞳に凍りついた。彼は酷なまでに澄んだ瞳で、彼女を見据えていた。少年の姿は、謝って許してもらいたくなるほどに、非常な美しさと好もしさを突如としてまとっていた。それこそ、奴隷商人が教育によって彼に与えた、最大の付加価値となる魅力である。この少年の元来持つ聡明さを巧みに加工し、飾りの一つに仕立て上げている。
彼のこの一見高貴に見えて実際には卑屈な姿は否応なく、彼女に断言を避け続けていたことを思い出させる。結局彼女は一人旅の辛さと寂しさに疲れ、一人の見捨てられた奴隷を、旅の連れにしようと盗んだのだ。奴隷であれば手懐け易い。そんな下心を持って。魔獣を倒そうと決めた時同様、それらしいもっともな理由で自分自身を騙しながら。
この自己を殺された少年は、どこまで見抜いているのだろうか。見抜いていないにしても、彼女の嘘ははっきりと捉えている。そのくせ彼自身は、自分がそこまで鋭く相手に切り込んでいることに、気づいているのだろうか。
彼からこのような態度を引き出してしまったのは、彼女のせいだった。奴隷として教育された彼は、相手の望みを見抜くのが余りにうますぎた。そして、彼は奴隷ゆえにその望みを誤解している。
彼女にとってグロテスクだとしか言えない魅力を纏った彼の姿は、彼の瞳の奥に現れている生来の鋭い聡明さによって、痛々しくも壮絶なものとなっていた。奴隷商人の教育は巧みだった。奴隷として必要な性質を、少年の心を押し潰し殺すことなく、うまい具合に彼の性格に馴染ませている。そのことを、彼女は彼の姿から思い知らされた。
彼女の緊張が限界に達し、気を失いそうになった刹那、彼の唇が動いた。
「あんたの望みを幾晩かなえれば、俺を『自由』にして、前の主人のもとに帰れるようにしてくれるのか」
鞭打たれたように、彼女の全身に震えが走った。否定の言葉が洪水のように頭に溢れるが、そのどれ一つとして口から出てこない。何を言っても、それは新たな誤解と自己嫌悪しか生まないように思えた。彼女はそのどちらも恐れた。
二人は互いに真正面から向かい合っていた。エルヤは怯え、エカルはいましも彼女に止めをさす行動に出そうだった。彼女にはそう見えた。
ところが、エカルは僅かに首をかしげた。彼にはなぜエルヤが怯えるのか、分からなかった。望みを言うだけなのに、なぜ彼女はそこまで怯えなければならないのか。言えばいい。自分は奴隷なのだから、言ってくれればその通りにするものだ。言葉にしたくないならば、その素振りを見せるだけでも良い。何も躊躇することはないはずだ。それなのに彼女は、魔獣と対しているかのように、隙のない緊張で身を固めている。自分は何かまずいことを言ってしまったのかと、彼はひどい当惑を覚える。
互いに静止したまま時間だけが流れて行く。やがてエルヤは、エカルの罪のない様子に気がついた。萎縮しきった心が、徐々に冷静を取り戻す。彼女は、詰めていた息を静かにはいた。胸を裂くような恐怖と羞恥心が消え、次に心を満たしたのは感情ではなく、ぽっかりとあいた虚ろな穴である。彼女は気がついた。今は目の前の少年をいたわってやるのが先ではないのか。しかし、それにはどうすればよいのか。
彼女は彼と視線を合わせたまま、腕を下げ、いつの間にか手から取り落としていた青銅のナイフを探そうとした。
ところが、その動作でエカルの表情が変わった。輝くようなまったくの無垢な顔に、意識と知性の影が射す。彼の姿から瞬く間に、異様な魅力も壮絶さも薄れて消えていく。彼は片手を伸ばし、震えながら寝台の上をうろうろと探る彼女の手首をとった。そしてもう片方の手で、彼女の手に青銅のナイフを握らせる。真剣な様子で、ナイフを握った手をさらに自分の両手で包み、よく確かめるように目の前へ持ちあげる。
「ああ、ありがとう」
エルヤが囁くと、彼は彼女の方へ手をやさしく押しやって離した。彼の表情は先程とは一変していた。瞳の透明な鋭さは跡形もなく、いつだったか、首に巻いた包帯を彼女が代えようとして拒否の仕草を見せたときの、穏やかさが戻っていた。しかしあの時の頑なさはない。かわりに、大切なものを大切な瞬間で、大切な人に取り返されたような、歯痒い苛立ちがあった。
彼女は心が少し軽くなるのを感じていた。目の当たりにしているこの表情は、エカル自身の個性ではないかと、不意に強く感じたのである。彼はこのように怒ったり、すねたりするのだ。今の彼は、自由とまではいかないものの決して奴隷ではなかった。彼女は今の彼の状態を維持し、後戻りしないよう固めてしまいたかった。ところが、それは彼女にはできなかった。彼女にはその力も資格もなかった。それができるのは本人だけだ。
エカルの左手は、二人の間に伸ばされたまま残っていた。彼はまだ目の前の異人に触れようとしていた。数ヶ月ともに旅をしながら今初めて、目の前の異人が物珍しいことに気づいたのか。彼女は緊張に震えながらも、内心で微笑まざるを得なかった。彼はまるで、猛獣を手なずけようとしているかのようである。青銅のナイフが彼の心にどう働いたのかは知れないが、何かを変えたのは確からしい。彼はほとんど無意識のうちに、奴隷の精神から脱却しようと、自ら立ち上がりかけていたのである。しかし無意識ゆえにそれは危うい。
彼女は、少年の様子からその危うさを感じ取っていた。だから、彼女は静かに待って、受け入れることしかできない。彼女の内面の微笑みは、やがてその頬に染み出るように、ごくかすかな表情として現れた。
彼の視線は彼女の胸元に注がれていた。彼女は寝巻きの下で傷口から流れ落ちる血を感じていた。胸の間を伝っていたから、寝巻きには染みていないだろうとは思っていたが、彼の視線からすると、もしかしたら染みてきたのかもしれない。
彼が手を彼女の胸に向かって伸ばそうとしたとき、彼女はさすがに身を硬くした。しかし彼は、彼女の咽下にすっと五本の指を添えた。そのまま上体を傾け、彼はわずかに顔を寄せて目を細める。咽元に立てられた彼の人差し指が、彼女の右鎖骨内側の窪みに触れた。彼女はその位置に、小さいながらもかつて深い傷を負った痕が残っていたことを思い出す。彼の表情は険しくなり、傷痕をよく見ようとしてか彼女の方へ身を乗り出したため、彼女は彼の指に押されて上体をやや後ろに仰け反らした。胸に傷のある身としては少々苦しい体勢である。そのため、彼女は右腕を後ろに差し出して体を支える。その時、彼の表情の変化に気がついた。
彼はすでに古傷の痕を注目してはいなかった。かといって、どこを見ているというわけでもない。視線を落としたまま、彼の顔は非常な苦渋に満ちていた。彼なりに彼女との関係を模索する中で、最初に彼女に触れた場所は、彼にとってはどちらにも転べる微妙な位置だったのである。
彼女はそっと首を傾げてみせる。その動きにつられて、少年は彼女の顔に視線を上げた。彼は彼女の表情に気がつく。ややおどけた微笑がそこにある。
エカルは腕を上げ、ごく自然に彼女の頬に触れた。その手を引き寄せ、彼女の後ろに傾いた上体を元通りに直してやる。
氷のように冷えていた頬が、彼の手のひらでぬくもりを取り戻す。彼女は自分が涙を流していたことを知った。驚いた顔をした彼女に、エカルは初めておずおずと、先程の赦しを請うように微笑んだ。
そして彼女の頬を縁取る長い髪に手をうつし、指を差し入れすくいあげる。彼の手に、彼女の髪は暖かだった。しばらくの後、その髪からもそっと手を緩める。長い髪は灯火の明かりを透し、一本一本が濃い金色の輝線となって、彼の指からさらさらと離れた。彼女は深い息をはき、体の力を抜いた。対き照的に彼の面には、緊張した真摯な表情が現れてくる。
エカルは居ずまいを正し、おもむろにエルヤの左手をとった。彼は彼女の瞳を見つめ、ゆっくりとその手の上に体を屈めて額をつける。彼は長い間そうしていた。それは、目上の身内に対するイルシュ式の敬愛の仕草だった。
エルヤは右手を彼の頭の上に添える。彼女は同じイルシュ式の作法を、若干崩して彼に応えた。
「さあ、これで私達は兄弟分ね。古傷から私の過去を垣間見たし、髪からは異人がどういうものか知ったわけだ」
エカルは生真面目な様子で顔を上げ、彼女の言葉をそのまま真に受ける。
「そうだと嬉しい。お互い似たところがあるけど、俺には過去も故郷もないんだ」
少年は目を伏せた。今や彼の無意識の飛翔は力を失い、僅かな間に彼を奴隷から別の身分にとり残して去っていた。彼は今の状況に、戸惑っているようだった。
「ついて来る?」
彼女が尋ねると、彼はすぐに顔を上げた。
「ついて行っていいのか? この町は好きな感じがしない」
彼女は頷く。
「私はこの大陸を端から端まで渡り歩く。さぞいろんな景色や街が見れることだろうね。あんたが故郷と思える場所も、見つかるかもしれない」
灯火が大きく揺れ、薄暗くなる。エカルは彼女の手を離してすばやく立ち上がり、油を足そうとした。エルヤはそれを制す。
「いいわ。私がやるから。あなたはもう休みなさい」
「傷の手当てを。出血している」
「分かってる。でもそれも私がやるし、あなたの気遣いは嬉しいけれど、糸は全部抜くわ。早いとこ、クディブの館を思い出させるようなものは、みんな取り去ってしまいたいのよ」
エカルは気遣わしげに目を細める。エルヤが血で汚れた寝巻きを脱ごうと片袖を引き抜くと、彼は慌てて部屋から出て行った。
彼の姿が窓から見えなくなるのを確認すると、彼女はそっと額に両手を当ててうつむいた。やがて灯火が消えても、彼女は長い間そのままでいた。
あまりに不公平ではないか。彼が精神の崖っぷちに立っていたことを知っていたのは、彼女の方だけだった。彼女はずっと極限状態で彼と対し、彼の方は無意識と自然体の狭間にいただけなのである。
ところが一方で、少年の無意識は本人だけではなく、彼女もまた助けていた。いや、恐らく少年の方は、彼なりの方法で、彼女を助けようとしていたのだ。それがきっかけとなって、あの不思議な飛翔を彼にもたらした。彼女の心の闇を見抜き、彼の心を彼女のすぐ側まで運んできてくれたのだ。
少年は意識の奥底に、目覚めた知性を隠している。彼が認識できない感情と行動の全てが、そこから発せられている。彼を癒す大きな力を持っている。そしてその知性は野性的ともいえる。目覚めているとはいえ、いまだ自覚されることもなく、御されることもないままの危険なものだ。しかしこれこそが、彼女が彼を盗み出した真の理由である。彼女は彼が内に秘める大いなるその力に、魅せられていたのである。
外は一面薄白くなっていた。雪はやみ、積もったばかりの雪が風で舞い上げられている。エカルは足早に中庭から立ち去った。
彼は火のことを忘れていなかった。母屋の中庭へ戻り、屋敷を見回しながら、物珍しい雪に足跡を残して遊ぶ。
ところが、足はすぐに止まった。玄関口に人影を見つけたのである。反射的に近くの柱に身を隠す。人影は二つで、低い声でごそごそと話し合っていた。この時間帯、人の家先でこのような挙動に出るのは九割がたが盗賊の類である。エカルは舌打ちをした。カファスの犬はどこで自堕落な眠りをむさぼっているのか。彼は大股で彼らに歩み寄る。血がたぎっていた。彼は隙のない構えで、彼らの前に姿を現した。
二つの人影はエカルに気がつき、あっけなく逃げ出した。エカルはそれを追う。しかし、玄関先の異変に気がついて足を止めた。彼はついに火を見つけた。軒先にぶら下がっている木の玉が火を噴いている。木の玉の下には大きな水溜りがあったが、匂いからすると灯火油である。玄関の中ほどまで油浸しになっていた。軒に通じる木製の柱も湿っている。放火らしい。
エカルは素早く玄関屋根の上によじ登り、木の玉を吊り下げている鎖を外して慎重に引っ張りあげる。屋根の上から放火犯の逃げた方角を見ると、彼らの姿が雪の中にくっきりと浮かび上がって見えた。彼らはクディブの屋敷がある方角に逃げて行く。火事を起こし、家の中から避難してくる者を目撃したかったのだろう。エルヤを探すにはあまりに粗末な手口である。彼はあきれると同時に、クディブの力も一時のようではなくなったと考える。魔獣による闘技場の後始末や火山に建立する神殿の費用がかさんだ上、町の人々のひんしゅくも買っていた彼は、凋落の途にある。かと言ってこのまま何もせずにいれば、今後も似たような嫌がらせは受けるだろう。
エカルは燃える木の玉を中庭の水盤めがけて投げる。火は煙を上げて消えた。彼は屋根の上から空を見渡す。
にび色をした雲海の狭間に星が輝いていた。月は山々の陰に今しも落ちようとしている。巨大な闘技場は都市の中央に黒々と横たわり、彼はそのやや西南に、ディアーラの神殿の屋根を見ることができる。その方角をよく確かめ、彼は屋根から飛び降りる。そして神殿に向けて、全速力でかけた。
翌日、昼過ぎに目覚めたエルヤの下へ、カファスが首をかしげながら現われた。カファスはしげしげとエルヤの姿を見つめ、また首をかしげる。エルヤは鼻をぐずらせながら、彼を見返した。
「似とるかなぁ……」
「何がです?」
「いやな、誰だか知らんが、ディアーラの神殿にある戦乙女の像のひとつに悪戯した奴がいるらしいんだが」
「はあ?」
「像の胸元にな、お前の持ってる傷と同じ傷が刻まれとったんだ」
エルヤは唇を噛んだ。
「お前を治療した医者が、像の傷を見てそう証言したんだ。この傷の形をしっとるのは、医者とその弟子、クディブと傷の持ち主本人だけだというてな。町じゃ噂になっとる。魔獣を倒した真っ白な娘は、やっぱりディアーラの遣いだったとな。ハボス火山に新しく建てる神殿に、その像を遷そうとかいう話まで早速出とるんだわ」
「……エカルを呼んでくれませんか?」
その言葉でカファスは合点する。間もなく彼は、エカルの首根っこを捕まえてエルヤのもとに現われた。
「この罰当たりもんが! いったいどういうつもりだ!」
「すみません」
口では謝っているものの、エカルはそれほど反省しているようには見えなかった。彼は自分のしたことがちゃんと効果を発揮していることを知り、興奮していた。神像に傷をつけたことはたいした問題ではなかった。それは確かに不敬な行為だが、エルヤの戦いぶりはきっとディアーラに気に入って、彼女を助ける行為ならばちょっとした悪戯は女神も大目に見てくれるだろうと、彼は踏んだのだ。
像を見た人々は半信半疑の気持ちでいたが、魔獣の霊を抑える何かは欲していた。ことに、闘技場でエルヤを見、魔獣が吐き出した亡霊を目の当たりにした者は、戦乙女の像が命を得て魔獣を倒しに来たと信じて疑わなかった。クディブはついに、エルヤ捜索を断念せざるを得なかった。捜索を続ける行為は、ディアーラの遣わした戦乙女にたいする侮辱となったためである。
エルヤは部屋の隅の祭壇に目をやる。彼女の描いた魔獣がそこにいた。彼女はそっと胸元に手を当てる。
「女神の守る都市に冥界の番犬が現われた。それを舞で倒した戦乙女がいた。彼女は務めを果たし、この世の虜となっていた魂は火口へ、乙女は再び彫像の中へと戻り、彫像の胸に傷跡を印した。は、は」
短く笑い、彼女はエカルを振り返る。
「ねえ、もうすこし気の利いた結末を思いつかなかったの?」
エカルは困って考えるそぶりを見せる。カファスが笑った。
「無茶を言うな。これ以上の締め括りはないんじゃないか。事情を知ってる俺達には、ありがたくもなんともない話だが、臆病な町の連中は、あの話で魔獣の恐怖から救われるだろうからな。んでもな、お前の舞だけは行く末までの語り草だ。あれは見事だった。本当に見事だった。一生忘れられん」
カファスは天井をあおぎながらため息をつく。ついで彼は、柄にもない柔和な笑みを浮かべてエルヤの肩をたたき、仕事のために部屋を後にした。
それからエカルも、部屋を簡単に掃除して立ち去ろうとする。彼が寝台の脇を通り過ぎる時、エルヤは素早く相手の耳をつまんで引き寄せ、頬に軽く口付ける。彼の機転に対する礼のつもりだったのだが、当人は頬に蝿が止まったほどの反応も見せなかった。彼はそのまま何事もなかったかのように部屋を出て行った。窓から外を覗くと、首から耳まで真っ赤に染まった後姿が足早に遠ざかって行くところである。あれはどちらかというと、からかわれたことに怒っているのだろう。
一人残された彼女は、祭壇を見つめた。
——ただの獣同然に囚われ、異郷で死ななければならないのは、私のような異人も同じだ。人間達は随分色々なものを自分達の世界に取り込むものね。私はお前を死でもってここから逃がそうと剣を使ったけど、お前も鋭い爪で私の旅を終わらせようとしてくれた。あの時もう一人、異郷からの少年が現れなければ。私は残された命で、もう少し旅を続けよう。この傷も残して、いずれの時に再び裂ければいい。
彼女は立ち上がり、葡萄酒を湿した布で壁の魔獣をふき取る。
ナムウィリクの戦乙女 - 完 -