逃げた供物

前編

 夕日を受けて、崖の岩肌が金紅に染まっている。
 崖の下から南は、人間とは異なる種族が魑魅魍魎とともに住まうという土地である。しかし、南には深い森が黒々と地平まで横たわり、人の存在を示すものは一切見出せない。
 切り立った崖は落ちれば下につくまで留まることはできず、下につけば骨はすでにばらばらになって沈黙する以外にない。下から登ろうとする者も、崖のあまりの高さに足はすくみ、上に達する前に指の力は失せ、いずれは岩場を転び落ちる運命であろう。人間達は、異人と魔物を恐れてこの崖より南には決して立ち入らない。異人達も、この崖には近づいたことはなかった。
 故に、全身を黄昏に染めて崖の中腹に張り付く人影は、それを見た者がいたならば、悪霊が旅人を死の崖へ誘うために見せる幻影だと思わせたことだろう。
 冷たく吹き始めた春の夜風が、その人影のもつれた髪を乱す。生きている証拠に、その人影は少しずつ、その体を崖の上へと移動させている。髪は金の光を通して、白く輝いている。夕日に染められたその肌は、色味を感じさせない。切り傷だらけの手足は、ところどころが膿んでいる。細い身体に沿った衣服は、焼け焦げと血と泥で、元の色も分からない。人影は、時折進む道を確かめるように、崖を見上げる。その顔は、疲労と飢えと渇きで無残に腫れ上がっている。
 それでもなお、彼女の金の瞳は沈み行く太陽の輝きを受けて強い光を放ち、影の中では緑の燐光を閃かせながら、まっすぐに天へと注がれている。
 深い紫に変わりつつある空に、不意に銅鈴の音色がこだました。その響きは絶えて消えては繰り返し鳴り続け、崖下に幾重もの余韻を重ねて降り注ぐ。あたかも、天人が打ち鳴らす鐘のように。

 それは、人間達の住む土地から遥か遠い場所での話である。
 異人である彼女は、人間達の国へ逃げてくる以前、異人達の神殿に仕える巫女であった。
 彼女の名はエルシャール。その名の意味するところは「虚ろなる神の右人差し指たる者シャール」である。
 彼女のただ一人の親友の名はミルハーディー。その名の意味するところは「復讐神の首たる者ハーディー」であった。彼女はまた、巫女であった頃三人の恋人がいた。彼らもまた、彼女と同じ覡(みこ)の身の上であった。最初の恋人はハルスクアルタ、「渇きの神の額たる者アルタ」。その次がナフィベアルカ、「絶望神の左膝たる者アルカ」。最後がラクマガーウ、「よどむ闇の神の尾たる者ガーウ」であった。
 そして、彼女が神殿の禁を犯し、神殿から追撃を受けるきっかけとなった巫女の名はヒューナラマヌ。その名の意味するところは「狂気の神の右肺たる者ラマヌ」であった。

 丸みを帯びた頂を連ねる古い山脈には、小さな海があった。大海が地上を覆っていた太古、海底が上昇し陸地が形作られるさなか、母海から切り離されてしまった娘海であると伝えられている。その海は空と山々の森の色を映し、深い紺と碧が入り混じったオパールのように輝いていた。小さな海とはいえ、それは巨大な塩湖である。
 彼女の仕える神殿は、その海の中央に浮んでいた。神殿は山の頂から見下ろすと、白い正方形をしていた。それは、湖岸に析出する塩の結晶のようであった。
 幾本もの灰色の円柱が水面からそそり立ち、白い石と帆布の屋根を支える。多くの通路は柱の間に筏を並べて造られ、神殿の主回廊は小舟によって往来する広い水路である。主回廊の天井は、石のアーチが籠のように編まれ、狭間には硝子がはめ込まれて陽光が差し込む。陽光は水面をきらめかせ、水底一面に施されたモザイク画を照らし出した。幾何学模様の帯によって主回廊の道筋を示すそれは、複雑な図形が組み合わさることによって絵にもなり言葉にもなる。そしてそのいずれも、彼ら種族の起源を物語っていた。
 神殿で唯一、大地に根ざしていた場所は、神殿中央部の内陣と大巫女の御勤め場に住居だけであった。神殿は、小さな島の周りに広がって建てられていたのである。南を向く神殿正面は、破風の白い石屋根を百もの柱が支える壮大なものであった。白い影が映る青の水面を多くの舟が柱の間を行き来し、参拝者や神官達を運んだ。
 彼女は巫女ではあったが、他のお役目の巫女達とは異なり神殿内の仕事はなかった。彼女は戦巫女と呼ばれる巫女であった。神殿とそれを取り巻く山々を、すなわち聖域を侵す恐ろしい魔物を狩るのがそのお役目であった。かといって、彼女達が戦士であったかと言えば、それは否である。
 戦巫覡(いくさふげき)は剣持つ、神聖な舞い手であった。それは、彼らが対する魔物もまた、神殿の属するものとは異なるといえ、やはりある種の神性を備えた存在であったからである。
 戦巫覡はそれぞれに、一辺二十人もの方陣を組み、神官達の太鼓の音にあわせていっせいに舞う。神殿騎士達が魔物を方陣へ追い立てると、方陣は容赦なく魔物を切り刻む。彼らの方陣は、俗に破砕機とも呼ばれている。彼らの方陣を上から見れば、その異名の由来がよく分かる。
 彼らの持つ二振りの剣が、舞によって一連の流れを生み出す。すなわち、方陣前部の流れは向かってきた魔物を捉え内に引き込む。最も複雑な流れの渦を持つ方陣中央部は、引き込まれた魔物を百に引き裂く。そして方陣後部の流れによって魔物は方陣から排出される。前列の舞い手が倒れれば後列の者が前に出る。舞は敵を殲滅するか、舞い手が少なくなり戦陣が意味を成さなくなるかのどちらかまで続く。
 彼女は方陣の最前列の舞い手であった。最前列は覚えるべき舞の型は最少である。舞も左右の者と息が合えばそれでよく、前後を気にする必要はなかった。最前列は最も技術を求められずにすむ場所であり、最も命を落としやすい場所でもあった。一回の戦闘で、彼女の左右の巫女が二度三度と入れ替わることは珍しくない。戦舞はいかに型どおりに舞えるかにかかっている。魔物に舞を乱されれば、それは即巫女の負傷や死亡に結びつく。脱落した巫女が、仲間の剣に切られることは多い。その中で、彼女は六年間変わることなく、最前列の自分の位置を保ち続けた。戦巫女がお役目に着任してからの平均余命が四年、最前列の戦巫女が二年であることを考えれば、彼女は非常なる舞い手であったといえる。
 戦巫覡は、幼い頃より剣を与えられ、言葉よりも先に剣舞を覚える。
 彼ら種族は、生まれた時、その頭上に輝いていた星の名にちなんで命名される。星は太古に砕け散った神々の身体の欠片であった。それらの名の中には、不吉なものも多くあった。不幸にして、そのような星の下に生まれついた者が、戦巫覡の候補として神殿に引き取られる。彼らはその不吉な名を魔物に対して発揮し、魔物から聖なる神殿を守る。
 彼女はエルシャールという名のために神殿に引き取られ、戦巫女となった。
 同じ境遇の仲間達とともに舞の鍛錬を積み、日々を過ごす。彼女達の宿舎は神殿の浮ぶ塩湖のほとりにあった。四つの季節に一度ずつある出陣の日が近づくと、巫女達の顔に緊張が張り詰めた。
 戦巫女を務めて六年ともなれば、彼女の周りの巫女達のほぼすべてが年下である。彼女の同期は大半が命を落としており、残りは二度と戦えぬ身となって別のお役目を与えられ、他所に去っていた。彼女は年下の巫女達から「姉さん」と慕われていた。新たに巫女となった娘達は、死のあまりの近さに怯え、支えとなるものを必要としていたのである。彼女は後輩の巫女達をなぐさめ可愛がってやったが、いちいち名を覚えることはしなかった。彼女達は皆はかなかった。

 朝も早い頃、彼女は巫女の舎から出て舟の用意をしていた。彼女は空をあおぐ。朝日は山の向こうである。
 先の出陣で、彼女は珍しく重い傷を負っていた。魔物の体当たりで腕をおかしくしたのだ。彼女の両上腕の肌は裂け、肩の骨もずれた。これで巫女の任を解かれ、別のお役目を与えられるだろうかと彼女は考えたが、結局神殿からは何のお呼びもなかった。最初の半月は痛みで寝て過ごし、ようやく起き上がれるようになると、退屈も手伝って彼女は外出してみる気になった。姉さん、姉様と、うるさく寄って来る年下の巫女達からしばし解放されたい気持ちもあった。
 魔法で風を操り、彼女は塩湖へ舟を出す。空だけが桃色に輝き、山々は青い影に沈んでいる。
 戦巫女達は勝手に舎から外出することは禁じられていた。それでも、午前の早いうちに限り、神殿にだけは自由に出かけてもよいことになっていた。
 季節は短い夏の頃であった。彼女の身につける巫女の衣装は、神殿に仕える巫女達とは異なり、身体に添った身軽なものであった。丈は短く、彼女の腕と膝下は剥き出しとなっている。唯一の装飾は肩掛けの文様で、それは彼女の所属する陣と陣の列を表していた。幅広の帯で腰と腹を締めると、背の高い彼女はよけいにほっそりと丈高く見えた。
 しばらくの後に、彼女は神殿の小さな船着場に舟を着ける。舟番の老人が小屋から現われ、一瞬眩しげに彼女の姿に目を細めると、すぐに顔をそむけた。
 ある程度の年齢に達し体が完成すれば、巫女見習いは戦巫女となる。多くの場合短く終わってしまうこのお役目に、たいした楽しみがあるはずもない。身にまとうことができるのは出陣の折にまとう戦着と、日常生活でまとう訓練着、それに春秋冬に羽織る外套のみで、装身具の一つも持つことは許されていない。彼女達の誇りは、厳しい訓練で鍛え上げられたしなやかな肉体と、なめらかな肌の下で今にもはじけそうな若さである。そして、最も美しく燃え盛る命の炎の輝きを身にまとう。その輝きは、彼女達の命の儚さゆえにさらに強く、透明度を増す。
 神殿で肌をさらすことは、良しとはされていなかった。それでも神殿は、戦巫女達にはそれを許していた。彼女達の美しさはあの世のものに近く、神殿の権威を乱すものではなかったからだ。ただ別のところで、神殿は彼女達に気を配っていた。それは、戦巫女とまったく同じ境遇にある戦覡である。彼らは出会えば火花がはじけ、溶けた黄金のようにたちまち一つになる。神殿は外出時間を、巫女は早朝に、覡は晩にと定め、彼らが出会わないようにしていた。
 彼女が神殿の中庭に現われると、そこにいた神官や参拝者の視線が全て彼女のものになる。彼、彼女らは眩しい戦巫女の姿にすぐに目を伏せるが、彼女のことはずっと意識をしていた。戦巫女になりたての頃は、この注目が何よりも嬉しかった。とにもかくにも人々に、自分の姿を覚えていて欲しかった。自分がこの地上を去っても、彼らの記憶の中で自分は生き続けることができる。思いもかけず、六年間も長く生きることとなったが、彼女にはいまでもこの注目は嬉しい。それは、巫女になりたての頃と少しも変わらない。ところがこの世をあっという間に走り去ってしまう巫女達の姿を、最も多くそして最も近くで胸に焼き付けているのは、恐らく彼女の方だった。
 戦巫女として初めて舞ったのは、神殿の中枢広場、石櫃の大巫女様の御前であった。今までは塩湖のほとりで遠く眺める以外になかった白い屋根の建物。新しく巫女になった娘達は淡い色に染められた薄衣を幾重にも身体に纏い、色素を抜いた透明な髪に花飾りをくくりつけていた。最初で最後に許された唯一の装身具だ。花弁は小さな黄色い野花を乾燥させて束ねたものであり、花びらは白い鳥の羽毛で作られていた。誰だったか。アヒルの羽根だと言って、がぁがぁおどけてみせた陽気な娘は。あの時の姿ほど人々に見てもらいたいものはなかった。また、戦覡を初めて見たのもこの時だった。戦覡どころか、少年というものを見たのも初めてである。大巫女に九竜神官達、その他諸々の神官、神殿騎士や神殿仕えの巫女達。戦巫覡は一辺十人の方陣をそれぞれ四つずつ、計八つの陣を組んで舞った。九竜神官は言った。
——この世で唯一、魔物を地に還す資格を持つ巫覡達よ。我らは日々そなた達に祈りを捧げ、その役目が全うされることを願う。我らはそなた達と三千二百の剣に敬意を表す。
 戦巫覡だけが、魔物に止めを刺すことを神殿に許されていたのである。これらの思い出も、はや六年も前のことである。
 彼女は庭を抜け、神殿の回廊へと入る。回廊は、灯された魔法の明かりでぼんやりと照らし出されている。
 神殿は宇宙の尺図である。迷路のように入り組んだ回廊には、極彩色の模様が渦を巻いて描かれている。宇宙に満ちる力の流れを表すという。
 そこに星の名が刻まれる。
 刻まれるのは死者の名である。地上での生を終えると、その名を回廊に記すのだ。星の魂が名とともに彼ら種族の肉体を通じて地上に降臨し、この地上で生命の炎を灯すことで、よりその輝きを増す。そして肉体の死とともに、再び天空の星へと戻って行く。これを、神殿は宇宙の再編と呼んでいる。宇宙の再編の様子が、この回廊で分かるのである。
 彼女は複雑な回廊を案内もなしに進む。行き慣れている道であった。行く先の回廊は魔法の明かりが灯されていない。視界は暗くなる。朝早いためか、まだこの回廊まで明かり役がまわって来ていないのだ。彼女は手のひらに、黄色味がかった小さな明かりの籠を編む。そして、一つの星の下に立ち止まる。暗い天井に向かって、黒い線で縁取られた白と青の太い曲線がうねりながら流れて消えている。その色彩の渦の中に、その星はある。壁にうがたれた小さな穴に、深い紫に透き通る硝子がはめ込まれている。その星の下に記された名はミルハーディー。彼女の古い親友だ。
「シャール、あなたも舞を覚えるのにもう少し一生懸命になれば、方陣の第五列以降に昇格できるかもしれないのに」
 遠い昔の親友の声が、耳の中にこだまする。
——でも、方陣中央部は、一つでも舞の型を間違えると、剣の流れに巻き込まれちゃうじゃない。恐ろしいわよ。そんな位置。
「そうかしら。一番前の方が恐いし、舞を乱されやすいじゃない。そりゃ、方陣中央はいったん乱されたら、前後左右に逃げ場はないから、魔物のかわりに切り刻まれることもさけられないけどね。でもだからこそ、踊りの上手な人を集めるんだよ。それでかえって方陣中央部の人は長生きなんだ」
——わたし、そこまで才能ないもの。長生きしたいとも思わないわ。早いとこ、星になりたい。
「やる気ないなぁ。ところで、この前話した私の恋人のこと、覚えてる? 私達、今度出陣があるでしょう? もし、私が帰れなかったら、その事、……彼に伝えてくれる?」
——構わないけど。……必要ないんじゃないかな……。私が帰れないってこともあるし……。そっちの方が可能性高いよ。
「あなたにしか頼みたくないのよ。あなたはまだ恋人がいなかったでしょう?」
——いらないからいないのよ。男の子は無礼だから嫌い。
 彼女は瞳を閉じ、静かにうな垂れる。この親友がいなくなってから四年になる。
 戦巫女と戦覡の舎は、塩湖を隔てて真向かいに建てられている。視界を広大な神殿が遮るため、互いに舎を望むことはできない。神殿においても、外出時間をずらされていたため、普通ならば会うことはなかった。
 戦巫女になって最初の数ヶ月目、彼女が初めて一人で神殿に遊びに出たとき、彼女は男の声で呼び止められた。彼女の立つ小さな庭は、土を詰めた箱舟であった。きちんと四方の柱に連結されていないためか、強い風が吹き塩湖の水面が波立つと、それにあわせて庭も揺れる。彼女は周りを見回した。しかし、誰もいない。箱舟が柱に当たってぎぎと耳障りな音をたてる。彼女は恐くなって駆け出そうとした。その時、茂みの中から手が伸びてきて、彼女をひきとめた。茂みの中に少年が隠れていたのである。彼の衣装で、すぐに戦覡であることが知れた。戦巫女とまったく同じ装束だからである。彼は昨晩の内に神殿へ入り、ここに隠れたまま一晩過ごしたのだ。彼は戦巫女に会い、気が合えば仲良くなりたいと考えていた。一方彼女は驚かされたことで腹を立て、平手打ちをお見舞いしてすぐさま逃げ出した。
 戦覡達はよくこのようにして神殿のここかしこに隠れ、戦巫女を待っていることがあったのだ。また戦巫女の方も、恋人となった戦覡に会う為に、日が暮れると舎から忍び出て、舎や舟の明かりを避けながら塩湖を泳いで神殿まで渡ることがあった。
 ミルハーディーもこんな風にして彼女の恋人と出会ったのだろう。そして、戦巫女達が出陣前に友人達と取り交わす約束。もし自分が帰れなくなったら、彼に伝えて欲しいという約束は、彼の後添いともなる新たな恋人を自身で選んだということでもあった。戦覡の方も似たような約束を取り交わすことがあった。
 ミルハーディーの約束は、エルシャールにはどうにもありがた迷惑だった。ミルハーディーは二度ほど彼女にこの約束をさせた。そして、三度目でついに、エルシャールはこの約束を果たさねばならないことになった。
 彼女は親友に教えられた場所で、ずっと相手を待っていた。待っている間、彼女は静かに涙を流し続けていた。側の木陰では生き抜いて再会したらしい少年と少女が、喜びの叫びを互いの口を手で抑えあって、必死に押し殺しながら、頬を合わせていた。ついにどちらも現われなかった待ち合わせ場所もぽっかりと隙間を空けていた。不安に満ち、一人で戸惑ったように辺りを窺う人影もあった。通りすがりの神官達は、喜びに我を忘れ無防備に姿をさらした戦巫覡達を視界に入れないよう、文書に顔をうずめて通り過ぎ、この時ばかりは何も見なかったことにしてくれた。
 やがて側に人の暖かな気配が現われても、彼女はうずくまって座ったまま顔をあげなかった。相手は、見知らぬ少女が大切な少女の代わりにそこにいたことで、事を悟った。彼は彼女の頭をなで、今ではもう忘れてしまったが、何か優しい言葉をかけた。それは、もしかしたら彼女の名前だったかもしれない。彼女は帰る時間が来るまでずっとそうしていた。ようやく顔をあげると、そこには彼女以上に打ちのめされ、疲れ果てた悲しげな青年の姿があった。彼は方陣中央部の舞い手であり、戦覡となって五年だった。彼女よりもだいぶ年かさだったのである。
 物思いにふけりながら、彼女は回廊を廻り、かつての友人達の墓参りを続けた。星は、それぞれが色のついた硝子粒で飾られている。
 回廊から出る。彼女は神殿の水泳広場へと裸足のつま先を向けた。いつもならば冷たい水を浴び、ひと泳ぎするのだが。ここの水は魔法の特殊な処理によって、真水に近かった。
 広場は午前と午後で女性と男性の使用時間が分けられている。若い神官や祭壇の巫女達が水泳を楽しんでいた。彼女は広場の脇に置かれた腰掛に座り、その様子を眺める。泳いでいるのは若い娘達ばかりだが、はしゃぐ声は一切ない。神殿では静寂が原則であり、表情をあらわにすることも禁じられている。とはいえ、彼女達に表情はなけれども、楽しんでいることは瞳の輝きや手足のきびきびした動きに十分表れている。顔で表せないからこそ、それらの動作もより生き生きとするのだ。だから彼女達はよく踊る。
 馴染みの祭壇の巫女が彼女のそばに寄ってくる。
「怪我をしたのね。でも、無事で嬉しいわ。仲良くなっても、あなた達ったらすぐに星になってしまうんだもの」
 そう言う巫女の顔はやはり何の表情もない。巫女は瞳だけを輝かせたまま、エルシャールの手をとり、自分の頬につけて喜びを表した。
「おっと、ナハリ。頬が冷たいよ」
 エルシャールが笑って手を引っ込めると、巫女ナハリは彼女の微笑みにつられて、つい口元をほころばせた。ナハリは慌てて口を隠す。
「私、まだ修行が足りないみたい」
 年上の巫女達に見咎められていないか、ナハリは小鳥のような仕草で辺りをうかがい、再び水の中に飛び込んだ。
 エルシャールはこのように、戦巫女よりも神殿に勤める者達と話すことが多かった。仲間の巫女達はすぐにいなくなり、度重なる別れに彼女は疲れていたのである。
 彼女は立ち上がり、居場所を代えることにする。参拝者の多い場所に行く気はしなかった。彼女は神殿の鐘楼台に登る。そこから神殿を見下ろすことができた。帆布が張られた屋根は風をはらんで膨らみ、波のようにうねっている。強い風に、髪を押さえようと腕を上げかける。腕の傷が痛んだ。彼女は髪を抑えることを諦め、風に従うことにした。彼女は風の吹く方向に向き、髪を後ろに流す。目の先に、神殿中枢の石の屋根が見える。
 大地に根を持つ島に建つのは、内陣と大巫女の御座所のみである。内陣にはかの石櫃が安置され、大巫女が日々それに祈りを捧げている。大巫女は九竜神官以外の者の前に現れることはない。それ以外の者と会う時には、大巫女は常に衝立の向こうに姿を隠す。戦巫覡が御前で舞った時も、大巫女は幾重にも下げられた薄布の向こうにいたのだ。大巫女は先代の大巫女によって選ばれるが、それは秘密裏のうちに行われ、誰が次代の大巫女になったかは知ることが出来ない。大巫女の仕事は神殿でも最も重要で、そして最もつらいお役目だといわれている。
「お早うございます。戦巫女殿」
 声をかけられる。彼女の思考は中断した。
 一人きりの鐘楼に、いつの間にか男性の神官の姿がある。彼女は目をすがめてそれを知る。彼女とそう年は違わない、見習いから神官になったばかりくらいだろう。他の神官に漏れず、その顔に表情はない。
「そろそろ舎へお戻り下さい。私は時を知らせる鐘を鳴らさねばなりません」
 そこで彼女は会釈し、神官の脇をすり抜ける。その時神官が呟いた。
「それだけの傷を負いながら」
 彼女は神官を振り返る。
——まだお役目を解かれることはないのですか。
 後の言葉はほとんど聞こえない。彼女は自分の両腕をみる。風で袖がめくれ、腕の包帯が見えている。包帯の下には今だ癒えない傷があったが、傷の周りの魔法による大きな痣が包帯からはみ出て腕を赤黒く染めている。彼女は袖を押さえる。
「そのようです」
 彼女はそれだけ答える。若い神官達の中には、戦巫覡の厳しい境遇に疑問を覚える者もいる。不吉な名前を持つだけで、過酷なお役目につかされる運命を、彼らは理解できないのだ。彼女は全ての問いかけに、同じ答えを返していた。神殿の与えるものは、それが何であれ、一人の判断を大きく超えた代物である。謹んで受ける以上の聡明な行為が、いったいあるのだろうか。
 彼女は階段を下る。その背に、神官の視線を感じていた。負傷のために足元のふらつく彼女が階段から転げ落ちはしないかと、心配しているのかもしれない。ふいに、すぐ上から鐘の音が響く。それは、常なら考えられないほどに、せっかちに三度叩かれた。彼女は上を見返す。先程の神官が、階段を降りはじめたところである。
「失礼を」
 神官は狭い階段で彼女の横を足早にすり抜け、前に立って降りはじめる。彼は急に並足となる。
 言葉は交わさず、鐘楼台の下で、彼女は別れ際に再び彼に会釈した。彼の目には、今だ割り切れない感情がかすかに読み取れる。彼女は腕の傷を袖の上からそっと押さえる。彼は先程の彼女の答えに納得がいかないようだった。
——そりゃそうよ。私もよく分からないんだから。
 彼女は心で呟き、一人船着場へ戻る。それっきり、あの神官のことも忘れ去る。

 月日とともに、傷は痕を残して癒え、彼女は日常の訓練を再開する。
 彼女の心には、自分の運命に対する疑いがあった。本当にこの生き方しか選べないのだろうか。彼女の名はそれほどに罪深いものなのだろうか。
 彼女の最初の恋人は、かつてミルハーディーの恋人であったハルスクアルタだった。あの日彼女が、ミルハーディーは二度と戻らぬことを告げた時、彼は長い沈黙の後、彼女に言った。もしよければ、ひと月後にここで会ってくれないか、と。彼女は嫌だった。亡き親友の恋人を取るのも、その恋人が自分と会おうとするのも。
 彼はきっと、自分の恋人の気遣いに応えようと、仕方なく、もう一度会おうなどと言っているのだ。そうに違いない。
 彼は彼女の答えを待たずに立ち去った。彼女もすぐに、もうこの場所へは二度と来ないと心に決めたのだ。ただ、この日をきっかけに、彼女はほとんど生まれて初めて、自分の姿を鏡に映し、その中に自分の素顔をしっかりと見た。鏡の中には、まったくの子どもらしい垢抜けない少女がいた。神殿に仕える者がみなそうであるように、色素を抜いた白っぽい髪が、くしゃくしゃと頬にかかっていた。面長の顔は目が覚めるほどに白いものの、瞳はパッチリとは程遠い眠たげな半眼である。彼女が人に自慢できるものといえば、この白い肌だけである。それ以外はとうてい、美しいからはかけ離れている。その上希望もなく、かといって絶望すらしていない、死人のような表情がそこにある。舎に数枚しかない鏡を廻って、入れ替わり立ち代り鏡を覗き込む他の巫女達が憎らしく思える。ミルハーディーも彼女は初めて恨んだ。鏡の中に映った彼女とは似ても似つかぬ。ミルハーディーは本当に美しい少女だったからだ。
 ところがひと月後、彼女は約束の場所に赴き、そこで待っていたハルスクアルタに会った。多分、気が変わったか、ハルスクアルタに本当はどうしたいのか聞いてみたいと思ったのだろう。二人はそれから何度かなんとなく会うようになったが、最初話題になったのはミルハーディーのことが主だった。それから徐々に、会話の内容はそれぞれの舎で起こったささやかな日常の小事件など他愛もないものに移っていった。
 彼女は彼の癖や食べ物の好みのことなどをよく知っていた。ミルハーディーが、常々彼女に話していたからである。また彼も、彼女の好物や髪をくしけずるのが苦手な事、昆虫を長い髪でくくりつけて散歩させる遊びが好きな事まで、よく知っていた。彼もまた、ミルハーディーから聞かされていたのである。二人は会ってすぐに、相手のことをずっと前からよく知っているように、身近に思うことができた。
 彼女は、彼が自分をどれだけ好いてくれているのか分からなかった。また、自分が彼をどれほど好きなのかも分からなかった。彼女は自分でも鈍いと断言できるほど、認識能力に欠けていた。
 彼と過ごした中で、強く心に残っている言葉が一つあった。それは「空」だった。
 自分の腫れたような顔立ちを気にする彼女に、ある日彼は言った。
「シャールは、あと二年もしたら、きっとすごい美人になる。だから、心配しなくていい」
 戦巫覡は、遠い未来の話は決してしない。なぜならそれらは大概がたどり着けない未来だからだ。どんなに先の事を話すとしても、せいぜい次の出陣の直前のことまでである。彼女は彼の無責任な未来の話に、憤慨した。方陣最前列をはる彼女が、二年も生きていられるはずはない。すると彼はこう言ったのである。
「何とか逃げられないかな。ここから。空からならうまくいきそうだ」
 彼はただの冗談のつもりだったのかもしれない。彼女もその時はそう思ったが、その言葉は烙印のように、彼女の心に焼きついて残った。逃げようなどと考えた戦巫覡は、今までいなかったからだ。彼らの名は不吉で、神殿の外に出ればほかの者に迷惑しかかけない。救いといえば、その不吉な名を魔物に向けて発揮し、彼らを倒すことで聖域を守り、ひいては彼ら種族の魂の拠り所を守る栄誉を受けること。神殿を離れたら、彼女達は不吉を運ぶ使者でしかない。存在の価値すらなくすのだ。
 神殿もまた、彼らの逃亡を決して許さない。
 それからふた月後、冬の出陣が迫ってきていた。会おうと約束していた前日の晩、彼女は朝日を待てずに舎の寝床を抜け出し、真夜中の塩湖に滑り込んだ。湖は所々氷が張り、彼女はときにその氷を避けながら、ときにつかまって体を休めながら、神殿を目指した。神殿にたどり着いた時には、冷気から体温を守っていた彼女の魔力も尽きていた。彼女は彼がいつも隠れ家としていた場所に立った。あの時の彼の瞳ほど胸を突いたものはない。彼は、恋人をまた失うことを恐れていた。彼はそれを彼女に悟られ不安にならせまいとして、明日の朝彼女に会うまでに、心を強くしようとしていたのだった。
 結局彼の恐れていたことは起こったが、それは思いがけず彼の方がいなくなったためである。彼は亡くなり、彼女と生死で隔てられてしまった。
 彼女はただ一人、いつもの隠れ場所で彼を待ちながら、彼の言葉を心の中で反芻していた。彼女はよく空を見上げるようになっていった。
 その後、三年の間に彼女は二人の恋人を持った。ナフィベアルカとは一年間一緒にいられたが、彼は夏の出陣で帰ってこなかった。ラクマガーウは戦覡になったばかりの、繊細な心を持った少年だった。彼女は恋人をこれ以上失うことを恐れて、出陣が近づくと彼を避けるようになった。すると彼は友人の恋人を通じ、恋別れのしるしとして彼女に一輪の野花を送った。彼は出陣で命を落とし、彼女の心はかえって打ちのめされることになった。
 それから後、彼女は恋人を持つことはなかった。同僚の戦巫女達のことも、別れが辛くて避けるようになってしまった。彼女は相変わらず方陣最前列で舞い続け、彼女の後ろで倒れていく戦巫女達の血を、その背に浴び続けた。彼女は六年間変わらず、そこで舞った。水浴びの後、時に裸の背を鏡に映し、白い肌に巫女達の血の色が染み付いてはいないだろうかと確かめたこともあった。
 戦巫覡は生き抜いて何年かもすれば、九竜神官からの「呼び出し」を受けて、別のお役目が与えられるとも聞いたことがある。とはいえ「呼び出し」はいつ誰になされるのかも分からなければ、どのような基準で人が選ばれるのかも明らかにはされていなかった。恐らくは、厳しいお役目の中で、心を鍛えた者のみが選ばれるのだろう。「呼び出し」を受けたらしく、ある日突然舎から姿を消した戦巫女に、神殿の内陣近くで思いがけず再会することは、彼女も度々あった。「呼び出された」彼女達は高位の神殿巫女の衣装を身につけていた。もっともその彼女達は、自分がどこでどのような役目についているかは教えてはくれなかった。ただ悲しげに微笑んで、こちらを見返すだけであった。
 自分もいつか呼び出されることがあるのだろうか。彼女は出陣のたびに背を血で洗われながら、なんとなくその時を待っていた。神殿内のお役目に移れば、もはや魔物相手に命を危険にさらすこともなくなる。しかし自分はこの六年間で何を学んだのか。絶望すら学んではいない。彼女にとって死はあまりにも近すぎ、なぜか現実味も無い、風のようなものだった。
 ふっと、彼女は重苦しい過去と物思いの水面から顔を上げる。苦い思い出が頬を伝ってその水面に溶け落ちる。彼女の瞳は、思い出から今に焦点を結んだ。
 今朝私はどうしていたんだろう。ああ、神殿でナハリと競泳をしたんだった。今、私は何をしたらよいのだろう。
 身体には疲労が残っている。肌は汗で湿っていた。上の空の訓練は、すでに終わっていた。水場に向かってそぞろ歩く、巫女達の背中が遠くに見える。
——まだお役目を解かれることはないのですか。
 その言葉だけが、耳の奥によみがえる。
——私はまだ「呼び出し」を受けてお役目を解かれるほど、成長していないのだわ。それどころか、神殿のやり方に疑問を持っている。あの若い神官みたいに。そうね。きっとまだ子どもすぎるのだわ。

 彼女の鬱々とした気持ちは、このところ日増しに悪くなるようだった。ともすれば、自分のお役目に対する疑問が浮び、神殿のやり方に反感を覚える。疲れているせいかも知れないと彼女は考えて、巫女の世話役である神官に訓練休みを求めてみる。
 神官は、彼女の要求を快く受け入れた。神官は、六年という長い年月、方陣の最前列を勤め上げる彼女の精神的な限界を、見抜いていたのだろう。それとなく、彼女に神殿の回廊をよく巡回するよう示唆をしてきた。
 死なないまでも大怪我によって二度と戦えぬ体となった巫覡達は、回廊での瑣末な仕事へと移される。回廊の壁画は、塩湖の潮風のために劣化が激しい。壁画はできうる限り頻繁に塗りなおされる必要があったが、この仕事が引退した巫覡達に与えられる。他にも、過去帳を片手に、星に記された名前が消えかけていないか、間違って記載されていないかなどを確かめる仕事がある。巡礼者達が回廊に入る時間になると、過去帳の倉庫へこもり、死者達の名前の整理をする。その他にも、こまごまとした仕事がある。世話役の神官は、彼女をそろそろこちらの仕事へ移そうと考えたのだ。
 彼女の方は、神官の意図を解すほどには頭を働かさなかった。言われたまま、他の巫女が操る舟に同乗し、神殿を目指す。この巫女に、神殿に何の用事で出かけるのかと聞くと、知り合いの祈り巫女に会いに行くのだという答えが返ってくる。
 舟着場から、回廊へと向かう。いつもの墓参りの道はたどらない。行く先は、いずれ彼女自身の名が刻まれることになるであろう、回廊の一角である。
 そこは赤と黄の曲線が狂ったようにうねり、漆黒の太い帯がその中を貫いて天井の暗がりに消えている。彼女の星は、暗がりに消えた漆黒の帯の先、天井の隅にあるはずだった。
「エルシャールさん」
 突然名を呼ばれ、彼女は声のした方を振り向く。回廊の暗がりの中に、戦巫女衣装だけが浮いているように見える。彼女が頭を振って瞬きをすると、暗がりから漆黒の肌を持つ小柄な娘が歩み出てきた。彼女の真っ白な肌とは対照的である。
 エルシャールは動きの鈍い頭の中で、相手の名前を思い出そうとした。話したことはないが、顔だけは良く知っている。なぜなら相手は、方陣のど真ん中を勤める優れた戦巫女であり、その精神力も非常に高いと言われていたからである。確か、巫女になってもう二年のはずだ。そして、まだ二年なのに「呼び出し」を受ける可能性の最も高い巫女と噂されていた。
「ヒューナラマヌです」
 エルシャールの様子を見て、その巫女は名乗る。色素を抜いた長い髪が、ランプの明かりの色を吸って、橙色に燃えている。
「私の名前は、狂気を呼ぶそうなんです」
 ヒューナラマヌは、ちろり舌を出して肩をすくめてみせた。彼女の姿には、戦巫覡の多くが持つ拭い切れない影も、虚無感に裏打ちされた空々しい明るさもない。まるで経験豊かな神官のように物柔らかに落ち着いて、それでいて、年頃の少女の可憐さと無邪気さが同居している。その表情に影がまったくないとは言えない。しかし彼女の持つ影は、希望が落とす影だ。光があってこその影なのだ。不思議な雰囲気の少女である。エルシャールはすっかり気後れし、言葉を返すこともできずに唇を噛む。
「この付近は、宇宙の中でもとても騒がしい場所だそうです。エルシャールさんの星もここにあるんですね」
「……あなたの星はどこに?」
 ようやく話の火口をとらえ、エルシャールは尋ねてみる。ヒューナラマヌは自分が出てきた回廊を、黒い指先で指し示した。その時、彼女が爪の先に金色の染料を塗っているのに気がつく。おしゃれな戦巫女だ。恐らく巡礼者の誰かが、彼女にほどこしてくれたのだろう。巡礼者の中には、戦巫覡に菓子を分けてくれたり、音楽を聞かせたりしてくれる人達がいる。
「私は静かな方が好きなんだけどな」
 エルシャールは呟いて、壁にもたれて座り込む。ヒューナラマヌは真剣な表情になり、エルシャールの顔を見下ろした。
「世話役の神官達が、あなたの悪口を言っていました」
「そう? 長生きしすぎるって?」
 エルシャールは皮肉に口元をゆがめる。ヒューナラマヌはまっすぐの綺麗な髪を揺らして、首を振った。
「あなたは、どんどん悪くなる一方だって。訓練態度も悪いし、神殿への敬意もないと。私はあなたが心配です。どうか行動に気をつけて下さい」
「……私はそろそろお払い箱だわ。あまりに心根の出来が悪すぎる」
 突然妙に突っかかってきた年下の巫女に、エルシャールはいぶかしがりながらも、ついつい本音を吐いてしまう。ヒューナラマヌは続けた。
「私、あなたにはいなくなって欲しくないんです」
「……どうして?」
 漆黒の巫女の、薄い色の瞳が空色であることを、エルシャールは思い出していた。彼女の瞳は、まっすぐにこちらを見据えている。
「あなたは、生き抜くだけの力をお持ちだから。私には、それはありません」
 漆黒の巫女の瞳に、涙の膜が張る。
「でも今のままでは、だめです。お心を変えて下さい」
 漆黒の巫女は、涙を流す。そして、確固たる口調で言い放つ。
「自分自身の運命と、死んでいった巫女達を嘆くのは、おやめ下さい。私達はそのような小さな存在ではないのです。私達は、何ものにも囚われない……」
 その言葉に、エルシャールの背筋がぞっと寒くなった。
「私は産まれた時の記憶があるんです」
 巫女の口調は不意に変わった。その瞳には、新しい涙が光っていた。
「漆黒の尖塔が、私がこの世で見た初めで最後の故郷の景色です。巡礼者の方が教えてくれました。漆黒の尖塔は、ハデュナハトの国にあると。すべてが黒御影石で造られたお城に、塔があるんです」
「ラマヌ、だめよ。外の話は聞かない方が良い。じゃないと、身を滅ぼすことになる——」
 エルシャールは片膝を立てて、腰を浮かす。相手の口を塞ごうと、手を伸ばそうとした。
 ところが、彼女の瞳は巫女の瞳に釘付けになったまま凍りついた。明かりの色に染まる巫女の瞳が、不意に空色に輝いた。それは彼女の脳裏で本物の空の色と重なり、そして意識の中に突如として大空が広がった。空の高みに、雲が薄い膜となって広がっている。太陽の光のように、遠い呼び声がその空から響いてくる。轟々と耳元で風がなる。彼女は、あ、と小さく声を上げた。
 ハルスクアルタのかつての言葉が、彼女の心を飛び立たせた。白い神殿を浮かべ、濃い青と鮮やかな翠が入り混じる塩湖が遥か下に、それを取り囲む山々の頂すら見下ろして。風を切る音がする——。
 空色の瞳が瞬きをした。
「あなたならいつかきっと、神殿の外をどこまでも、自由に行くことができると信じています」
 巫女は早口でそう告げると、軽く会釈して走り去る。後には、呆然としたもう一人の戦巫女が残された。
 空のイメージは漆黒の巫女が視線をそらして去ったと同時に消えたが、エルシャールの耳には、まだ風の音がこだましている。いずれにせよ、彼女は気が動転していた。その風の音が、回廊の出口を吹き抜けて行く塩湖の風の音であることに気がつくまで、彼女はずっと床にへたり込んでいた。
 一度も言葉を交わしたことのない巫女が、あのようなことを言えるまでに自分を見ていたことに、新鮮な驚きがあった。彼女を批判した言葉は、正しかった。彼女は我が身と他の巫女達のはかなさを憂いていた。それでも、自分に生き抜く力があるとは到底思えない。神殿の外に自由に出ることも、想像を絶していた。
——生意気ね。変な子。
 頭の奥に引っ掛かる余韻を振り払おうと、彼女は乱暴な仕草で立ち上がる。
 彼女達は不吉な名前を持つ。ヒューナラマヌは、すんでのところで彼女を大空の狂気へと誘うところだった。
——ラマヌ、何があなたを私に駆り立てたの。あなたが私の中に見たものは何? 教えて。私には自分が分からない。
 エルシャールは回廊を飛び出す。すぐさま漆黒の巫女の背中に追いついた。ところが巫女は、朝日の下で空色の瞳を伏せ、彼女に頭を下げただけだった。
「すみません。春の出陣が迫っているので、どうかしていたんです。差し出がましいことをたくさん言いました。……どうか今日のことは、忘れてください」
 エルシャールが物を言おうと口を開けかけた時、低いささやきが背後から聞こえた。その声は、ヒューナラマヌを呼んでいる。振り返れば、中庭の樹木の陰に、ほっそりとした戦覡が佇んでいる。エルシャールは道をあけてやる。ヒューナラマヌは彼女に膝を折って会釈し、戦覡とともに樹木の陰へ消えた。