逃げた供物

後編

 春の半ば、出陣の日が来る。戦巫女は塩湖西部の山岳部へ。戦覡は塩湖の遥か南部の谷あいへ。
 戦巫女達の割り当ては、狼によく似た小型の魔物の群れの掃討戦である。神殿騎士らの包囲網によって、巻狩りのごとく魔物達は巫女の方陣の前へと追い詰められる。群れの最初の一頭が、木々の狭間から飛び出す。そして、楽師神官の笛の音とともに舞が始まった。
 冷たい朝霧の中、方陣は前進し、魔物達を陣の中へと飲み込んでゆく。騎士達に追い立てられた魔物は、森の茂みから飛び出すと同時に方陣とぶつかり、なすすべもなく悲鳴も上げる間もなく打ち砕かれる。
 魔物達はただの獣とは異なり、魔力を持つ。瞳をあわせれば心を砕かれ、彼らの咆哮は言葉を越えた言葉となって聞く者の魂を打ち砕く。死ねば土に還らず水となり、大地の奥底へと沈んでゆく。彼らはある神性を持ち、それ故いたずらに彼らの生命を損なうことは、大地の生命を損なうことに等しい。しかし共存するためには、彼らの剪定が不可欠である。
 戦巫覡達は、名によって選ばれた舞手である。彼らの人生は極限まで純化され、生と死のみの結晶となっていた。そこで育つのは、心ではなく魂かもしれない。彼らだけが魔物に匹敵する神性を得て、魔物へ捧げる死の舞手となれる。
 巫女達の八百の剣はよどみなく、朝霧もまた方陣に巻き込まれて複雑な渦を巻く。笛の音は高らかに、巫女達の拍子を取る掛け声はそれ以上に澄んで、ともに森に響く。方陣は貪欲に魔物の群れを狩り続ける。
 にわかに森がざわめいた。濃い血の匂い、笛の音、巫女達の息づかい。それらはいっときに、神殿騎士達の悲鳴にとってかわる。巫女達の方陣はしかし、一切崩れることはない。まもなく血まみれの騎士達が、助けを求めるように方陣の前に現れたときまでも。
 最前列があわや騎士達を飲み込まんとした時、停止の太鼓の一打ちが響く。
 エルシャールが差し出した二振りの剣の間には、恐怖に目を見開いた騎士の頭がある。はたして彼は、何に恐怖しているのだろうか。彼らを血まみれに傷つけた魔物か、それとも破砕機の異名を持つこの方陣か。
 騎士達が逃げてきた森の先で、白い光がきらきらと輝いている。揺れる木の葉の上を、白い光の細かい反射がいくつもよぎる。
 前列が傷ついた騎士達と向かい合った直後、間髪いれず次の展開がせまった。森から巨大な魔物が飛び出し、一瞬の間に方陣の角を一つ、なぎ倒したのだ。傷を受けた巫女達の、悲しげな叫び声がいくつも重なる。
 すぐさま舞を再開する笛が鳴った。
 エルシャールは目の前の邪魔な騎士を蹴り倒す。方陣に巻き込むつもりはない。
 魔物は銀色の毛で覆われていた。背骨の部分だけが鏡のような鱗に覆われている。森の底に差し込む木漏れ日が、その体にまだらに落ち、魔物は朝霧の中で白く淡く輝いている。頭には巨大な二本の角が生え、黒いひずめは二人をまとめて踏みにじれるほどである。
 魔物は本当に巨大であった。この方陣で対処ができるのか。誰もがそう思っていた。すでに何人かの巫女が方陣から脱落している。足場も悪すぎる。狼の魔物の屍骸が、彼女達の舞台に散乱していた。
 魔物は再び跳躍した。あろうことか、方陣の真ん中へ向かって。
 巫女達はいち早く舞い、中央部に隙間をつくる。間に合わなかった巫女二、三人が魔物の下敷きになる。笛の音は敵も味方も容赦ない。変わらずに舞を導き、一度開けられた中央部の隙間が、魔物を切り裂こうと狭められていく。
 魔物が頭を下げ、角で巫女達を横になぎ払う。巫女達は魔力を身体に通し、力を強くし体重を増加させ、剣を構えて受け止めようとする。
 角が巫女達の剣とぶつかる。一人の巫女が、魔狼の死体を踏んづけ足を滑らせた。巫女は魔物の角を支えきれずに身体のバランスを崩す。魔物の角が彼女の体を捉えた。巫女の身体が宙に高く放り出される。魔物が跳躍し、その巫女を口にくわえて方陣の外へと着地する。そしてそのまま、森の奥へと去ってゆく。
「エルシャール! 戻って!」
 前列の仲間達が叫んだ。彼女は止まらなかった。魔物を追って、一人方陣を離脱し駆け出したのである。
 傷を負った魔物の走りは遅く、巨大な身体ゆえに木々の枝に行く手を阻まれる。枝をなぎ倒しながら逃走する魔物の後には道ができる。全力で駆ければ、彼女は追うことができた。
 薄暗い森に沈む霧が濃くなる。霧は木漏れ日を拡散させ白く輝きながら樹幹を漂う。湿った空気が彼女の咽を痛いほどに冷やす。霧の中の魔物は、影だけとなって彼女の少し前を走り続けている。影が、薄くなっていく。霧の中で、銀の光だけが踊る。
 引き離される。彼女は焦りを覚え、限界以上まで足を速める。行く手を遮る冷たい木の枝が、彼女の肌を裂く。
 霧の輝きが、金色に眩くなる。銀の光はその光の中に消えた。追う影はその輝きの中に一瞬色を濃くし、すぐさま光に溶け消える。
 枝葉の天蓋と霧が尽きた。陽光が、森の湖にそそいでいる。淡い霧が湖面を漂う。紗よりも薄い蜘蛛の巣が幾層も、露を結んで水面にせり出した枝の狭間に重くかかっている。
 魔物は水の中に巨体を沈め、湖の沖を目指す。
——待て、待て! その子を返せ!
 彼女は心の中で叫び、魔法で湖上をひた走る。ついに魔物に追いつき、その背に飛び乗る。裸足の足の裏で、魔物の体が硬く緊張するのを感じる。その背に震えが走ったかと思うと、魔物は激しく体を揺すって彼女を振り落とそうとした。彼女は耐え切れずに水の中へと落ちた。
 森の色を映して、深い翠をしている水。陽光の帯が樹幹を通して射し込む中、彼女は純白の湖底を見る。魔物のひと踏みで、視界が濁る。その一瞬の隙に、彼女は白の正体を知った。
 骨だ。どれもこれも奇怪な形をしていた。人のものでも獣のものでもない、魔物の骨だ。この湖底は、彼らの骨で埋め尽くされているのか。
 重たい音とともに、彼女は水流にもまれて目を回す。魔物のもうひと踏みが、彼女の体をかすった。今すぐにでも魔物の動きを封じねば、彼女自身が湖底で永遠に眠ることになるだろう。彼女は死に物狂いで手にした剣の一本を、視界を遮る影に向かって刺した。切っ先が影の中に埋まり、どす赤い煙が噴き出す。
 水を飲みながら、彼女はどうにか水面に顔を出す。足はついたが、水深は胸まである。
 魔物の頭が、目の前にあった。鋭い金の瞳が見開かれ、まっすぐに彼女に向けられている。
 もはやあがくすべはない。彼女の全神経は、最後の瞬間に向けて、一筋一筋凍りついてゆく。頭は痺れ、意識が遠のく。
 彼女の視界の中で、魔物の体が傾いでゆく。それは、自分の体が倒れていっているのだと、彼女は思った。
 その時、何かが凄まじい力で彼女の片腕を締め付けた。彼女は我に返る。足の裏の確かな地面の感覚から、彼女は錯覚より目を覚ました。片腕を締め付ける力は、まだ彼女の腕を放さない。彼女は残った片腕を、湖上に振り上げた。その手に、一振りの剣が日の光を受けて輝く。彼女はその剣を、湖底に没しようとしていた魔物の眉間に突き立てた。そしてすぐに、片腕を掴んでいたものを胸に引き寄せ抱き上げる。魔物にさらわれた巫女だ。
——ああ、エルシャール……。なんて事を……。
 魔物は石のように固まったまま、静かに厳かに沈んでゆく。彼女は巫女を抱えたまま、岸辺に向かって泳ぐ。
——ひと目だけでいい。黒い城を、故郷を見てみたかった。
 水の中、震えながら幾つかの言葉を呟いていた巫女は、岸に引き上げた時にはすでに事切れていた。
 体が重たい。彼女は水の中に片足を残したまま岸辺に腰を下ろし、巫女を膝に抱く。致命傷となった傷口が目に入るも、彼女は何もしなかった。ヒューナラマヌの冷たい額に手を乗せて、彼女の見つめる先にはさざ波をきらめかせる湖面がある。魔物の姿は、嘘のように消えうせていた。彼女のいる岸は、鳥の声も聞こえず、風もなく、森の土と影が冷気を放って全てを暗く沈めている。明るいのは、陽の射し込む湖ばかり。その湖底には、魔物の骨が白く堆積している。
 なぜこの湖底には、あれほどの数の骨が埋まっているのか。水につけた彼女の片足の先に、細かく砕けた骨の欠片が白く点々と散らばっているのが見える。
——まるで、魔物の墓所だ。この子は、供物としてここに連れてこられたのかしら。
 この世での全ての力を失った巫女の体重が、じわじわと膝にこたえてくる。彼女は寒さで震える。それでも、彼女の頭はこれまでにないほどに、冴えていた。
 あの魔物が、巫女をわざわざ生かしたまま湖へ運んだのには、理由がある気がした。あの凄まじい顎の持ち主ならば、巫女の体を口に挟み込むより、真っ二つに噛み砕いてしまう方が楽だろう。
「供物」
 彼女は呟く。
「そうか」
——私達は、魔物を倒すだけがお役目ではないのだわ。私達は、魔物に捧げられた供物でもあるんだ。
 ヒューナラマヌにつかまれた腕は、内出血の痣となって彼女の腕に残っている。ラマヌの最後の呟きも思い出す。
——彼女は私を止めようと、この腕を掴んだんだ。助けを求めたんじゃない。
 エルシャールは、深いため息とともに、まぶたを閉じて額の濡れた髪を左右に掻き上げる。両耳の上で手を止め、彼女はうな垂れる。
——魔物は邪悪ではない。尊い存在だ。けれども、とても恐ろしい倒すべき生き物だ。だから、供物が必要なんだ。彼らの魂をなぐさめるために。だから戦巫覡は、強ければ強いほど、経験豊かであればあるほど、神殿にとっては具合が悪いんだ……。
 あの魔物が、巫女をさらってここへ連れてきたのも、仲間の魂をなぐさめるためだったのだろう。つまり、命を奪われる魔物と供物として捧げられる戦巫覡との釣り合いが崩れかけているということだ。本来均衡は、一つ一つの戦場で完結されなければならないものだからだ。
 まもなくして、神官と騎士達が湖に駆けつける。騎士達は、ほうけた様子で湖面を眺める白い巫女と、彼女の膝で眠るように横たわる黒い巫女を見つける。彼らは巫女の遺体をマントに包んで運び、もう一人の巫女を取り囲む。彼女は、視界を遮られても動かない。その瞳は瞬きをせず、騎士達の体を透かして、まだ湖を見つめているようであった。
 彼女の背中側に立った騎士が、彼女を立ち上がらせようとその背をそっと突く。とたんに、巫女は片膝を立て、目の前の騎士が持っていた剣を奪い取る。そして、剣の切っ先を顎の下から自分の頭につきたてようとした。騎士達がすんでのところで巫女を取り押さえる。
 騎士達は、愚かな行いはよせと、彼女を押し留める。
 彼女は、騎士達の言葉を聞いた。狂気じみた行動に走った彼女は、心の奥底ではひどく冷静だった。自分はもはや、戦巫女であり続けることは不可能だった。彼女は自身の運命を、受け入れることができなかったのだ。
 彼女は体の力を抜く。すると、騎士の一人が彼女を抱き上げた。奪った剣も取り返される。
 務めを終え、巫女達は舎へと帰る。出陣で命を落とした巫女達の遺体は、舎から離れて山奥にある小さな堂へと運ばれた。そこで一晩星の光を亡骸に浴びせた後、翌晩、だびにふすのである。
 エルシャールはヒューナラマヌが眠る石の寝台に背を預け、頭を垂れて座っていた。
——とんでもない星の名を受け継いだばっかりに、こんなお役目を負わなくてはならなくなるなんて。なぜ私達だけが……。いやだ。こんなこと……。
 巫女達には個室が設けられている。石の寝台一つの狭い部屋は、天井が高く、ドーム状の天井の中央には、星明かりを導き入れるための窓がくりぬかれている。壁面には一面、死者を天に送り出すためのモザイク画がある。白と黒、金と銀の流線がうねりながら天蓋の窓へと向かっている。
 寝台に横たわる巫女は、全身を繭のような白い袋に包まれている。魔法の糸を使って織られており、保存の魔法がかけられている。そうでないと彼ら種族の遺体は、硬い石像になってしまうのだ。袋の上、巫女の頭部には一枚の色鮮やかな布切れが載せられている。この布には、「ヒューナラマヌ」という星に至るまでの天空の道筋が、魂にのみ解読できる言葉で記されているという。布の中央には大きな白い星が描かれている。これは天の道標である、「光の神の心臓」という星を示している。魂は一度この星を目指して天へと登り、そこから各自の星へと旅立って行くのだ。
——自分自身と、死んでいった巫女達を、哀れむのはやめろ……か。
 ヒューナラマヌの言っていた、漆黒の城のことを思い出す。エルシャールは、その城を頭の中に描こうとしてみたが、無理だった。どうしても、塩湖の神殿を黒く塗りつぶしたような城になってしまう。
「行こう……」
 彼女は立ち上がり、眠る巫女を見下げる。
——もう、祭壇に捧げられた供物ではいられない。あなたも、故郷の夢を捨てきれなかった。私達は所詮そこまでしか到達できなかったのだわ。「呼び出し」を受ける資格なんてない。もう、ここにいても救いはないんだ。
 道標の布を、懐にしまいこむ。白い袋に手をかけ、彼女は巫女を横抱きに持ち上げた。
 見回りの神官をやり過ごすのは簡単だった。誰も、遺体を持ち出されるなど考えもしないのだ。彼女は堂から森へと出る。道は、塩湖の方角にしか通じていない。そのため、道を外れて森の斜面を歩くしかなかった。彼女は魔法を駆使し、足音を消す。落ち葉が厚く堆積した森を、足音を忍ばせて歩くなど不可能だ。おまけに湿った落ち葉は、彼女の足跡をくっきりと残す。せめて翌朝まで誰にも発見されなければよいがと、彼女はため息をつく。
 足跡の窪みに闇の妖精が落ち込んで、時折目を光らせながらぞろぞろとムカデのようにうごめいている。水の精達は苔の下を這いながらぶつぶつと囁きを交わし、頭上の枝には風の精霊達が鈴なりになって、枝から枝へと糸を引いた蜘蛛を投げ上げて遊んでいた。精霊達の気配はかすかな花の香りのようなもので、気にしなければそれまでのものだ。
 星明りだけを頼りに進む。それはあまりに無計画で無謀な逃走だった。黒の城があるという北を目指すも、外の世界を知らない彼女には、北のどの辺に目的の城があるかさえ分からなかった。その距離も、不明である。
 傾斜が下りに変わる。彼女の持つ荷物は、絶対に落としてはならないものだ。進む足は慎重に踏む場所を探り、歩みはいらだたしいまでにはかどらなくなる。森の中に、自分以外がたてる物音を聞けば心臓が縮まり、安全が分かるまで落ち葉の中に身を隠す。
 どれだけ進んだかは分からない。傾斜は再び登りとなっていた。前方に薄明かりを感じて彼女は顔を上げる。先の森がひらけている。彼女はため息をつく。崖崩れで、木々がなぎ倒されていたのだ。星明りに照らされて、土砂にまみれた巨木の無残な姿が浮かび上がっている。根元近くから真っ二つになり、木の根は天に向けてひっくり返り、大きく広がった枝は、彼女の行く道を塞いでいた。巨木の周りには、何十本もの木々も倒れている。崖の上に生えていた木もあるだろうし、土砂に押し潰されたり巨木が倒れた際に巻き添えになったりしたものもある。その中には、その身の半分を巨木に引き裂かれた木もあったが、その木は残った半身で根を張り、無事な枝にはつぼみさえ結んでいた。
 彼女は、倒れた巨木の端に座り込む。別の通れそうな斜面を探さなければならない。彼女は星ばかりの夜空を見上げた。
——空からなら……。飛べたら……。
 彼女はうな垂れる。
 疲労のため、眠りかけた彼女の耳に、明らかな人の足音が入った。彼女は脇に寝かせた袋の上に素早く身を伏せ、耳で様子を窺う。足音はまだ遠いが、確実にこちらへ近づいてくる。複数人いる。明るい場所にいる彼女の姿は、すでに発見されたかもしれない。観念して彼女は目を閉じ、声をかけられるのを待つ。恐ろしかった。
「ラマヌなのか」
 荒い息の音とともにかけられた言葉は、半分は彼女に向けられたものではなかった。意外な言葉に彼女は顔を上げる。二人の若い男が、彼女を見下ろしている。彼女が身を起こすと、一人の青年が入れ替わりに白い袋にすがりついた。彼の手に白銀の光が閃く。布を裂く音が聞こえて、森の夜気の中、安らかに眠る漆黒の娘の面が中から現われた。青年は幼さが残るそのなめらかな頬を愛しげに両手で挟み、ゆっくりとうな垂れる。彼の背は、汗で戦覡の衣装が張り付いていた。
 エルシャールはそっと立ち上がり、もう一人の青年に顔を向ける。彼の表情は硬い。
「最後の別れをしようと思い、舎を抜け出して、ヒューナラマヌを訪ねようとしたのです」
 息を弾ませながら、彼は低く静かな声で彼女に話す。エルシャールは、ラマヌの遺体の上に屈みこむ青年の横顔を確かめる。かすかに見覚えがあった。彼は、ラマヌの恋人だ。
「彼はザテアルドル。『死の神のテムたる者ルドル』という意味を持ちます。僕はメルフィベル。『滅亡神の角たる者イベル』です」
 メルフィベルはそう言って、エルシャールの瞳をじっと見つめた。
「私はエルシャール。虚ろなる神の右人差し指たる者シャール……」
 メルフィベルの瞳には、押し隠した悲しみがある。こちらの青年は、恐らくは片思いをしていたのだろう。
「あなたの足跡は、分かりやすいものでした。少なくとも、彼女を思う者達にとっては」
 イベルの言葉に、彼女は自分がどれだけ浅はかな逃げ方をしたか、思い知らされる。
「彼女が死んだのは、僕の名のせいかもしれない……」
 身をかがめたまま、ザテアルドルが呟く。エルシャールはぽつりと呟く。
「弔いの言葉のためだけに、ここまで追ってきたの」
「違う。黒い城のために。森の海を裂く銀色の大河沿いに下り、千の頂を越えた先に、黒城がある。彼女がそう歌っていた」
 ザテアルドルは、ラマヌを腕に抱いて立ち上がった。彼はラマヌをエルシャールに差し出す。彼女は戸惑いながら受け取った。二人の青年のどちらかかがラマヌを抱いて一緒に逃げてくれると思っていたのだ。メルフィベルが、彼女に恐るべき事実を告げる。
「神殿にはすでにばれている。追っ手は放たれた。僕達には時間がない。エルシャール、あなたはここに残れば命は助かる」
「……連れて行って。足手まといにはならないから」
「走って逃げるなんて不可能だ。だから、僕らは飛ぶ。神殿は戦覡の逃走を許すくらいならば、僕らを射ち落としてしまうだろう。そうなれば死は免れない。あなたは飛べるのか」
「……いいえ」
「イベル」
 ザテアルドルが友人を制す。
「彼女を見捨てるつもりか。ラマヌを連れ出してくれたのは、彼女だ」
 メルフィベルはくっと歯を食いしばって、頬をゆがめた。
「すみません、エルシャール。あなたもたった一人で、僕らと同じ道を選んだこと、忘れていた」
「……ありがとう」
「黒の城に無事着いたら、そこでラマヌの眠れる場所を探そう。それから、神殿が諦めるまで三人で隠れ暮らせる場所を、見つけよう」
 ザテアルドルはそう言って、二人に背を向ける。彼は逆さになった巨木の根に足をかけた。彼の頭上には、崖崩れによって何遮るものなく拓かれた空がある。二人は彼の背に立つ。
 ザテアルドルが大きく息を吸う。そしてその息を吐き出すにつれ、彼の体が膨れだす。頭は前に突き出し咽が太くなり、両腕には濃い色の羽根が生える。戦覡の衣装を突き破り、羽毛に包まれた背が現われる。メルフィベルは、ラマヌを抱いたエルシャールをさらに抱きかかえ、巨大な鷹に姿を変えつつあるザテアルドルの背に飛び乗った。
「彼に風を!」
 メルフィベルはエルシャールに叫ぶ。風を呼び込む呪文を、二人は声を合わせて唱える。
 両肩に広げられたザテアルドルの翼が、風を捉えて大きく膨らんだ。
 突然の衝撃とともに、エルシャールはラマヌごとザテアルドルの背に突っ伏す。風が耳元で駆け抜けた。頭を上げると、強風が顔を打ち、息はつまって目からも涙が出る。彼女達はすでに空高くに舞い上がっていたのだ。そして、北に向かっていた。
 彼女は頭を下げ、後ろを見返る。風の流れが顎の下で渦を巻き、暴れる髪の毛が首すじを痛いほどに打つ。涙の向こうに、星の散らばる漆黒の空が見えた。その空には、ひときわ輝く橙色の大きな星が五つある。
「彼女が落ちないよう、しっかり支えていてくれ!」
 メルフィベルがエルシャールの隣で叫び、彼は飛ばされないよう羽根の中に深く手を差し込みつつ、両翼の中央まで移動する。彼はそこで後方を向いたまま、見張りをするかのように動かなくなった。
 エルシャールはじっと五つの輝く星を見つめた。あれは、追っ手なのだ。彼女は前に向き直り、硬く目を閉ざして身を伏せた。羽根の中に身をうずめれば、風で凍えた体がほんの少し温まる気がする。恐怖を感じているように思えたが、不思議な安らぎもそこにはあった。恐怖という感情を突き抜けてしまったのか。それとも、腹を括ってしまったが故の達観した気持ちなのか、彼女には分からなかった。
 夜の間、追っ手との距離はそのまま変わることはなかった。やがて、空の彼方がやわらかな薔薇色に染まりだす。
 光を感じて、彼女は顔を上げる。メルフィベルを振り返り、彼女は目を見開いた。夜の間は星に過ぎない大きさだった追っ手が、今やその姿がはっきりと確認できるまでとなっていた。彼ら四騎は一人一人がそれぞれに巨大な鳥の背に乗り、片手に手綱、片手に槍を持っている。乗り手の身につけた衣装は神殿騎士のものであり、飛行部隊のあかしである鮮やかな空色の布が槍の穂先に結び付けられている。残りの一騎は、巨大な空を飛ぶ長虫のような生き物である。その背には、槍を手にした騎士が四人と、杖を掲げる騎士が二人いる。
 エルシャールはラマヌを包む袋に額を押し付け、口の中ですばやく呪文を唱えた。彼女の長く白い髪がラマヌの袋に絡まり、そのまま生き物のように羽根の上を這って袋と鷹の首とをしっかりと結びつける。彼女は袋に絡めた髪を魔法で焼き切り、メルフィベルの隣へにじり寄る。
「奴ら、代え馬を持ってる。せめて半分でも打ち落とさなきゃ、逃げ切れない!」
 メルフィベルが風の中で怒鳴った。
 そのうち、太陽が空に現われ、全ての世界が明るく照らし出された。それと同時に、とうとう追っ手の攻撃が始まった。騎士達の掲げる槍の先から、いくつもの氷の針が撃ち出される。それらの針は、メルフィベルとエルシャールの魔法によって、鷹に刺さる前にすべて溶け消える。ところが、このような攻防が続くに従って、騎士達の攻撃は激しさを増してきた。防ぎきれなかった魔法の炎が、鷹の翼を焦がす。
 鷹はたまらず高度を上げ、雲の中に逃げ込む。視界は一気に悪くなった。しかし、鷹の背の二人はその間に、雲の中から稲妻の元を両手で巻き取った。
 再び日の下に出る。追っ手は下方を飛んでいた。エルシャールは練り上げた稲妻を彼らめがけて投げつけた。不意の攻撃に、一騎が白い稲妻に焼かれる。メルフィベルの稲妻が、さらに追い討ちをかけた。空へ投げ出された騎士は、まっすぐに下の森へと落ちて行く。騎士を乗せていた鳥も、煙を上げながら溶けるように姿を見る見る小さくし、やはり一人の騎士の姿へと戻ってゆく。長虫の背に乗っていた騎士の一人がこれを見て、空に身を躍らせる。彼の姿はこうもりの羽を持った野獣へと変わり、落ち行く二人の仲間を追って森の下へと消えた。
 これに追っ手達の態度が変わる。長虫の背に乗っていた残りの四人の騎士達が次々と空を飛ぶものに姿を変え、追跡に加わったのだ。中には、口から火を吹く幻獣に姿を変えた者もいる。
 鷹の体が大きく揺れた。酷い匂いがエルシャールの鼻をついた。強い光と熱が左頬にぶつかる。鷹の右翼が炎に包まれていた。紅の目を持った幻獣が、鷹のすぐ隣を飛んでいる。間髪いれず鷹に向かって体当たりをした。それと同時に、鋭い爪で鷹の横腹を裂いた。
「走れ!」
 振り落とされまいと羽根を掴みながら、メルフィベルが叫んだ。まもなく次の体当たりが来る。速度と高度を落とし始めた鷹のすぐ後ろにも追っ手が迫っている。
 二人は鷹の首筋まで駆けた。その時、すでにザテアルドルは頭から降下していた。炎に包まれた翼が時々羽ばたく。エルシャールは傾いだ足もとで、メルフィベルに体を支えられながら、ラマヌの袋を背中に負ぶい上げた。自身の髪の毛を、今度は自分の体に巻きつけラマヌを背中に固定する。
「ルドル!」
 メルフィベルは一度、友人の頭に向かって叫ぶ。答えて鷹が耳を突く鋭い鳴き声を上げた。
 幻獣の体当たりが、鷹を襲った。二人は空に投げ上げられる。エルシャールの腕をつかんでいたメルフィベルの手が離れた。彼女は悲鳴を上げようとした。ところが、風が彼女の悲鳴を喉の奥へ叩き戻した。彼女は空が恐かったのではない。ザテアルドルの最後を見たのだ。
 炎に巻かれた黒褐色の鷹が、鋭いくちばしに幻獣の首を捕えたまま、森に向かって落ちて行くところであった。
 エルシャールは顔を背ける。彼女の真下に、深い翠に輝く水面のようなものが見えた。朝日に、それらはさんざめいて強い輝きを波打たせる。彼女の体はその上に叩きつけられる。風圧で体が後ろへと滑る。彼女は息を詰まらせつつ、かろうじて途中の角に足をかけて体を留めた。
 彼女は翠の鱗を持つ竜の背にいた。その背から竜の頭の方へと顔を上げた彼女は、あまりの美しい翠に、身を震わせる。竜が風を捉えて体をくねらせるたび、鏡のような鱗の上を、陽光の輝きが波紋のように伝わってゆく。
「メルフィベル!」
 彼女は叫ぶ。答えは、彼女の心の中に返ってきた。
——翼の間に隠れて。僕は飛ぶことに集中する。あなたは、守ってくれ。
 竜は速度を上げる。対して、これまでの追撃で疲労していた騎士達は、追いつくことができず見る間に距離を開けられる。エルシャールはこれを見て、ほんの一時の安堵を覚える。
 眼下に広がるのは、あいも変わらずの深い森である。ところどころに峠や崖が突き出している。そして、北に向かって大きく蛇行しながら流れる黒銀色の大河があった。竜は、その流れの向こうを目指して飛ぶ。
 風は常に耳の側を、轟音を立てて通り過ぎてゆく。彼女の耳は冷え、ずっと前から感覚がなくなっていた。体も凍えて、手の指は心なしか腫れているようである。彼女は時間が経つのをじっと待っていた。時間が経てば、それだけ黒城に近づいているということだ。
 やがて、空が再び薄暗くなっていく。夜の帳が降り、星が輝きだす。ザテアルドルの魂は、今頃「光の神の心臓」を目指して空を登っているのだろうか。彼女は夜空にひときわ輝く星を眺める。メルフィベルの翼があれば、生きたまま自分達はあの星へと行けないだろうか。彼女はそっと首を振る。ヒューナラマヌもザテアルドルも、まだこの地上に留まっている。彼女の背には、今や二つの魂が乗っていた。これらの魂を、黒城へと連れて行くのが、残された彼女達の約束だ。
 竜の鱗が、時々赤い光を受けて輝く。追っ手達の魔法の火の玉が、彼女達に届き始めたのだ。夜は追跡には向かない。追っ手は、明らかに焦っていた。
 地平の彼方まで森の海が広がっていた景色は、いつの間にか周りを険しい山々に囲まれている。メルフィベルは山の鋭い嶺の間を縫い、大河の注ぐ深い渓谷へと高度を下げる。柔らかい竜の体は、複雑な地形を飛ぶことに長けていた。追っ手との距離が再び開く。このまま行けば、追っ手を振り払い、山岳地帯を越えられる。そうすれば、黒城は目と鼻の先のはずだ。
 ところが、目印となる地上の大河を追っていた二人は、思いもしなかった分水界に突き当たってしまった。大河が、峻峰の足もとで、真っ二つに分けられている。
「どっち!」
 エルシャールは叫んだが、メルフィベルは迷わなかった。彼はすばやく一つの道を選ぶ。分水界でどちらを行くかで迷って立ち止まり、騎士達に追いつかれるよりは、間違った道を選ぶ方がましであった。メルフィベルはさらに、姿をくらます絶好の機会を逃さなかった。彼は翼を縮めて体を包み、大河へと向かって滑らかに飛び込んだ。そのまま、荒々しい水流から乗り手を守りつつ、大河の底を飛び込んだ勢いに乗せて突き進む。息の続く限り河底に身を隠し、やがて覚悟を決め、一気に水から飛び出した。竜は水の尾を引きながら、翼を広げる。
——エルシャール。追っ手はいるか。
 問われてエルシャールは振り返る。峡谷の岩肌に、明かりが二つ這うように飛んでいる。追っ手は分水界で二手に分かれたようだ。
「二騎しか見えない。まだ遠くにいる」
 追っ手達は、脱走した戦巫覡が黒城を目指していることを知っているだろうか。彼女は風の抵抗を減らそうと、体を竜の背につけて頭を下げる。鳥とは異なり、竜の背は掴りづらかった。そのうえ、鱗は冷たい。いっそ手を離して全てを諦め、楽になりたいという考えが浮ぶ。その度に、彼女はそれが不可能であることを背中の重みから知る。ラマヌは彼女の背に括り付けられている。そして竜の背には、ラマヌの体をしっかりと固定できるような場所はない。鷹の姿のまま最後を迎えた青年と、今も休まず飛び続ける青年を、裏切るまねはしたくなかった。彼女の閉じた目蓋の端に、涙がにじんだ。悲惨なことに、諦めようが諦めまいが、彼女の指は確実にその力を弱くしている。
 竜の高い鳴き声が響いた。筋肉の緊張がさざ波のようにその翠の身体に広がったのを、彼女は全身で感じる。
 顔を上げる。峡谷の壁が途切れ、前方には地平に半顔を覗かせる巨大な月と、夜空が広がっていた。
 再び、竜の悲鳴が上がった。彼女は竜の背を叩いた。何があったのか分からない。高度が下がっている。彼女は竜の翼を見、そこに大きな穴が開いているのに気がついた。彼女の脳裏に、ザテアルドルの姿が甦る。観念する時が来た。墜落するしかない。逃げ切るなど無理だったのだ。
 下方は相変わらず森だった。メルフィベルは頭を下げ、森へ突っ込もうと体勢を整える。彼は背中に乗せているものを、安全に下へ降ろす使命が残されていた。
 エルシャールは目を閉じ、衝撃に備えて最後の力を振り絞って竜の背にしがみつく。
 竜は頭から木々の中へと突っ込んだ。翼を垂直に立て、背にいる者達を木々の硬い枝から守る。
 エルシャールは地面が近づくと、メルフィベルの背から飛び降りる。そして、森の奥へ向かって走り出した。彼女の心に、メルフィベルの言葉が響いた。
——走れ! 走れ!
 彼女の背後で、竜が暴れ木々をなぎ倒す音、恐らくは追っ手達のものである怒鳴り声が響く。彼女は振り返らない。ただひたすらに走りぬき、その場から一刻も早く立ち去ることを考えた。

 どれほどの時間、そこに倒れていたのか。
 昨日の晩に起こった事は、すぐには思い出せなかった。恐怖だけが心を支配し、北という方角のみが、彼女の足を導き続けた。彼女はすでにたった一人で森の中に倒れていた。木の根に足を取られ、のたくる根っこの狭間に頭から落ちた。そのまま気を失ったのだろう。
 夕暮れの森の中は、ひどくのどかだった。小鳥が歌い、木々は白や黄の花をつけ、金色の木漏れ日が地面で木々の影と戯れている。
 彼女は木の根の間から体を起こし、小動物のように辺りを窺いながら根を這い降りる。這いながら、太い根がひさしのように突き出した地面の窪みに入り込んだ。そこは一筋の細い光が差し込むだけで、あとは影に守られている。彼女は疲労に震える指で、懐から道標の布を取り出した。布には、三つの遺品が包まれていた。
 一つは、ラマヌのひと房の髪である。メルフィベルの背から跳び降りた後、彼女はずっと走り続けた。それでも疲れきっていた彼女は、いくらも行かないうちに転んで倒れてしまったのだ。彼女はラマヌの身体の重みで、起き上がることができなかった。そこで、限界を感じたのだ。ラマヌを背負ったままでは、絶対に逃げ切ることはできない。
 彼女はラマヌの袋を開け、その白くまっすぐな髪をひと房切り取った。故人を、生まれた場所で眠らせてやりたかった。だが、諦めざるを得なかったのだ。彼女はひと房の髪を懐におさめ、ラマヌをその場に捨てて去った。遺髪だけでも、黒城へと運ぶために。
 もう二つの遺品は、ザテアルドルの黒褐色の羽根とメルフィベルの翠の鱗だった。鱗は二人が森へと落ちたとき、木々が彼の体を傷つけてあちこちに剥がれて飛び散った。手のひら程度の大きさで、硝子のように透き通って、彼女の汚れた膝に澄んだ色を落としている。ザテアルドルの羽根は、鱗を拾ったときに気がついた。それまでずっと右肘に違和感があったのだが、それは羽根の軸が彼女の右腕に刺さっていたせいだったのである。羽根には、彼女の血が渇いてこびりついていた。
 彼女はこれら三つの遺品を、丁寧に道標の布に包み、懐に戻す。くしゃくしゃになっている自身の髪も、目の中に入らないように後ろへ手ぐしで流した。
 騎士達はまだ彼女を探しているだろう。逃げるために彼女はまだ走り続けなければならない。
 黒城の正確な方角はもう分からなかった。川が流れる音も聞こえない。彼女はとりあえずも、北を目指して行くしかなかった。身体の節々が痛み、彼女の手足の指はあかぎれになって血を流していた。体温を守る魔法を使っていたために、二日に渡る冷たい風の中でもこの程度ですんだのだ。彼女は食べられそうな木の実や草、小動物や虫を見つければ口にする。水は魔法を使って、木の根や植物から引き出した。森の湿った風から絞り出したりもしたが、いずれも満足な量ではなく、彼女の咽はいつも渇いてひりついていた。
 彼女は静かな森を小走りに駆け抜けながら、嗅いだことのない匂いを嗅ぎ取っていた。この森は、神殿の周りの森と違っていた。獣の影が濃く、対して魔物の気配は一切無かった。彼女を最も落ち着かなくさせているのは、妖精や精霊達の影が薄いことである。まったくいないわけではないが、ひどく控えめで、彼女の目の前に現われてこない。辺りに立ち込める魔法の気配が薄すぎる。まるで、別世界に来たようである。
 彼女が頭を働かすことができたのは、その日が最後だった。あとはただ、捕まってはならないという思いだけが歯車となって彼女の足を動かし、彼女は足もとを虚ろに眺めながら日の光を頼りに北を目指していた。彼女の目はひどく悪くなり、遠くはぼんやりとしか見えなくなっていた。咽は腫れ、身体についていた傷の幾つかは膿んでいた。後から思い返せば、なぜあの身体で生きることが可能であったのかまったく不思議である。
 何日目かの昼のことであった。彼女は目の前を支配する色が、緑ではなく茶色であることに気がついた。彼女は腫れ上がった目を擦り、目の前のものに意識を集中させる。それは崖であった。高く高く、天にそびえている。
 さっと風が吹き抜け、彼女はよろめいて膝をついた。風はある臭気を運んできた。彼女は獣の死骸が近くにあることを知る。魔法で火を通せば、まだ食べられるかもしれない。彼女は匂いを頼りに、地面を這いながら岩のごろつく崖の根元を探る。
 やがて、彼女の視界に灰色が飛び込んでくる。目の前に横たわっているのは、彼女の見たこともない生き物であった。彼女の住む土地には、驢馬はいなかった。彼女は、初めて驢馬を見たのである。それはあまりにも無残な肢体で横たわっている。明らかに、崖の上から滑り落ちて死んだものだった。
 彼女は、奇妙な獣を恐る恐る見やる。期待したのが愚かだった。とても食べられそうなしろものではない。その時、彼女は獣が布きれのようなものを胴に巻きつけているのに気がついた。首の辺りには、青銅の鈴が転がっている。明らかに人の手によるものを見つけ、彼女はよく確かめようと立ち上がる。その目に、別のものが飛び込んでくる。岩場の隙間に、光るものがある。
 ふらつきながら駆け寄った彼女は、口を開けた。腫れた咽から声は出なかった。彼女が拾い上げたのは、装飾のついた携帯用の鏡だった。近くに壊れた木箱が転がっており、ひっくり返すとすばらしい模様のはいった反物が、泥にまみれて現われる。その全てが、彼女には見たこともないものだ。神殿に閉じこもって暮らし、世俗の生活も何一つ知らない戦巫女であっても、これらの品物が自分達の種族に属さないものであることは、すぐに分かった。なぜならば、彼女のいるこの場所は、見慣れた精霊も居なくなり、魔物の痕跡も一切見当たらぬ、静かで安全な場所であったからだ。このような場所は、彼ら異人種の住む土地には一切ない。戦巫覡達のような犠牲となる存在を必要としていない。
 彼女はいつのまにか、人間の住む領域へと足を踏み入れていたのである。それはつまり、黒城を遥か後ろにしてきたということであった。行きすぎてしまったのだ。
 彼女は岩の上に崩れるように被さった。枯れたと思われた涙が、とめどなく頬を伝った。黒城に引き返す体力は無かった。あったとしても、黒城に向かうのは彼女にはもう無理だった。騎士達が待ち伏せていると考えると、彼女の足も心も恐怖で凍りついた。ここにいれば、少なくとも騎士達には絶対に捕まらない。
——だめだった……。空からも、だめだったよ……。逃げられなかった。もっと悪い方へきてしまった。約束を果たせない……。私は何もかも失くした。いいえ、私ははじめから何も持っていなかったけれど、もう「何にも持っていない」ことでさえ失くしてしまった。もう……なにも……。
 自然と嗚咽が漏れたが、彼女の身体はその衝撃に耐えられなかった。嗚咽が上がるたびに、彼女は全身の痛みを味わうことになった。
——これからどこに行けばいい? 苦しい。体中が暑い。あの時は、あんなに寒かったのに……。
 涙が止まった後も、しばらくぼんやりと石の上にうつ伏せになっていたが、間もなく彼女は眠りに落ちた。逃亡の晩以来、初めての深い眠りだった。
 次に目覚めた時、彼女は夕暮れの中にいた。まだ生きていることが、意外だったし鬱陶しくもあった。身体は相変わらず重かった。ところが、驚くべきことに活力が甦っている。彼女は自分で思う以上に頑丈な体をしていたのだ。彼女の若さもまた、奇跡の源となった。視力は眠る前と比べて著しく回復し、髪を撫でていく風もまた感じる余裕ができていた。彼女は体を起こし、転がっている鏡を手に取る。鏡面を擦って磨き、自分の顔を映し出した。
——なんて汚くて醜いんだろう……。でも、生きている。
 不意に、彼女の耳に、澄んだ音色が届く。それは空から降ってくる。彼女は空を見上げた。崖の遥か上のほうから、途切れ途切れにその音は響いてくる。
 彼女は崖を登ろうと岩に足をかけた。頭が冴えてくる。
——上に道があるんだ。だって、あの変な牛は、崖の上から落ちたんだから。……水。水がもらえるかも……。
 エルシャールは走って崖から離れた。上に登れるルートを探すためだ。相変わらず咽は腫れて声は出ない。彼女は夕日に赤く染まる崖を見上げた。この崖の上に、見たこともない別世界がある。そして行き場をなくした彼女の、新たな漂泊の旅が待っていた。

逃げた供物 - 完 -