眠れる巨人
前編
その男は、見るからに悪党であった。相手から切り取ったばかりの血に濡れた指をつまんで、これ見よがしにさらしている。血の滴る刀は、今は男の腰の革帯に下がっている。年の頃は二十代後半という話だった。しかし強い陽射しと乾いた風にさらされるその面は、彼の生き方と気候のために、実際より老けて見える。肌は浅黒く、日に焼けた茶色い癖毛が、砂埃にまみれて片目にかかっている。鷹のように鋭く険のある瞳は灰色で、シュチ族の血を引くにしては色素が薄い。恐らくは、サラードに多く見られる、様々な民族の混血なのだろう。彫りの深い顔立ちは、中央ジュルガのクリ族を思わせる。背はそれほど高い方ではなかったが、砂漠の厳しい気候の中を生き抜いてきた風貌には、十分な威圧感があった。
ラク・グアという言葉が何を意味していたか、名付け親たる民族が滅んで久しい今となっては、もはや分からない。しかし現在では、ラク・グアといえば「死の砂海」の別名をもってして呼ばれている。
ラク・グアは北をアテン山脈、南をカラン山脈に縁取られた砂漠地帯であった。「死の砂海」ではあったものの、しかし一方では大陸東西を走る交易路のルートの一つとして栄えてもいる。旅商人達が東からは繻子、天鵞絨、羅紗やフランネルといったものを、西からは琥珀、瑠璃、翡翠や鋼玉といったものを携え盛んに往来する。それというのも、このラク・グアがいち早く西部の照耀平原と東部のフヨウ草原を結び、他ルートに先駆けた利益を上げることができたからだ。
コウサと名乗るこのシュチ族の血を引く若い男は、ラク・グアを叉に掛ける交易隊商の隊長として知られていた。砂漠の剽悍な部族ラシャにも顔が利き、それ故に彼はラシャの略奪からは無縁であった。いや、それどころか、彼自身が時として盗賊に豹変することがあった。彼は自分より小さな隊商や、武装の甘い交易集団から、脅しや暴力で物品を一つ残らず巻き上げてしまう。彼はラク・グアのあらゆる場所に通じ、砂漠近辺の戦場もものともせず、カランアテンの古い神の姿を染め抜いた隊商旗を掲げて砂漠を思いのままに縦断するのであった。
フェルキリアから遥々旅をしてきた隊商は、この男を前に一切の自由を失っていたのである。質の高いジュルガの宝石と金銀細工、ガラス製品を求めて交易路をたどって来たこの隊商は、最後の最後で目測を誤った。文明も高く文化も成熟しきったフェルキリア出身の隊商長にとって、ラク・グア近辺は未開の地であり、野蛮だが稚拙という見下した油断があったのだろうか。
「さあ、もう一度尋ねてやる」
コウサは低い声で、痛みにうめく隊商長を脅しつける。
「貴様らの積んでいる錦七十反を、カランの水玉七十団と交換するか」
しかし隊商長は、痛みに呻きながらもかろうじての抵抗として黙り続け、この法外な取引に応じる気配は見せなかった。隊商の他の者達は、このやりとりを固唾を呑んで見守るしかなかった。彼らの周りには、コウサの隊商に属す凶暴な顔つきのラシャの男達が、武装に身を固めて立っていたのである。
「そうか、よし」
返事のないのを返事ととったコウサは、大きく頷いた。
それには予告も警告も、何の前置きもなかった。コウサと隊商長の間に、再び血が流された。隊商長の苦痛の叫びとともに、彼の地についた手の甲にコウサの刀が再び突き立てられていたのである。
「分かった。従う。従おう!」
ついに切羽詰った隊商長の叫びが響く。その返事にようやく満足した表情をみせたコウサは、つまんでいた隊商長の指を砂の上に捨てた。
取引は、峡谷を抜けた先で行われた。そこにはコウサの連れていた隊商が待ち受けていた。錦を積んだ木箱がコウサの隊商に運ばれ、代わりに水玉を詰めた包みが彼の隊商からフェルキリア側に移された。
いまやフェルキリアの隊商は全て、シュチ族の血を引く若い首領の支配下にあった。あれから首領は、さらにフェルキリアの隊商長に商談を持ちかけていた。もちろん、それは商談と言うよりはむしろ強制に近かったが。この冷酷な首領はフェルキリアの隊商に、ともに行動することで、少なくとも他の盗賊からは安全に、ラク・グアを渡りきる保障をしてくれたのである。
油断のならない首領は、もちろんフェルキリアの支柱を押さえるのも忘れなかった。傷を受けた隊商長と副長でもある彼の息子ともども、自分の側につけたのである。そして彼らの周りに、数名のラシャの男達を付き添わせた。
駱駝の荷物が取引に応じて積み替えられ、無事に隊列がそろうまで、首領は何度も怒声を上げて部下達を急かしていた。常に利益を考える商人としても、彼は隊をあらかじめ計画した日程から遅らせるわけにはいかなかったのである。彼の部下達は、ここでは珍しい装束のフェルキリアからの旅行者達に、好奇の目を向けてやまなかった。武装しているラシャの男達には、首領と同じかそれ以下の年の者の姿が多かった。
彼らの目を特にひいたのは、奇異な姿の異人達であった。角を生やしているのもいれば、尻尾のあるもの、金の肌をした娘や、緑の髭を生やした老人もいた。それはフェルキリアの奴隷商品であったのだが、自由身分の者もいた。
首領は隊の一角にできた人だかりを目ざとく見つけ、そちらに怒鳴り声を散らしても益のないことを知ると、砂を蹴立てて大股に近づいていった。人だかりの後ろにいたラシャ族の青年がそれに気づき、慌てて周りの仲間にそれを告げる。すると、文字通り蜘蛛の子を散らすように人だかりは崩れ、中央には異人達がとり残された。異人の中に一人、白樺のような女が首領の目をひいた。彼女は異人達の中でもっとも背が高く、それどころか周りを囲っていたラシャ族の青年達よりも幾分背が高かった。そして、まったく色味のない純白の肌とまばゆい陽光のような金の髪をしていた。
首領はわざわざ近寄る手間はかけなかったが、短く怒鳴った。
「女か!」
異人は怯える様子もなく、ちょっと肩をすくめてみせる。
「男に見える?」
言葉は東方の訛りが強かった。
「異人ごときが、二度と俺に口ごたえをするな。薄気味悪い連中め」
首領はそうとだけ答え、彼の部下達が滞りなく出発の準備を進めているかを見るために、その場を離れていった。
異人の女は、黙って彼の背を見送った。
そもそもの発端は、半月以上も前のことである。
「ヌーク峡谷の扉が閉まる前に、ファロに着きたいんだけど」
よく日に焼けた少年が、日除け越しに窓からぬっと顔を突き出してきた。
「ああ、急ぎね。砂漠越えの隊商を探してるんだな」
宿の主人は帳簿から顔をあげ、旅人の少年に答えた。
「あいにくだけど、うちにはラク・グア越えの隊商は泊まってないよ」
この埃っぽいシャルフの町には人と物と動物があふれていた。というのも、この町が東西に糸束のように伸びるいくつもの交易路の合流地点であったためだ。様々な国や言葉を持つ幾多もの人種が行き交い、商品を運び、取引をする。ここで旅を終える者もいれば、ここから旅を始め、西の豊かな照耀平原を目指す者もいる。
「最近はどこも物騒だよ。ラク・グアの危険も霞むくらいだ」
「その道は険しいのですか」
「なにせ死の砂海だからな」
外では真昼の陽光が、容赦なく降り注いでいた。空気は乾いていて、汗は出たはしから乾いていく。
「あそこは、道の砂が人の生気を吸い取るとまで言われているんだ。それに、名物の人食い虫も出るぞ。当然盗賊もいる。気が荒いんだ。あそこの砂漠の住人は。砂も虫も人間も、血に飢えてるところさ。あんたみたいに生きのいい若いのは、格好の餌食だよ」
「そう脅さないでくださいよ」
少年は答えて、窓から顔をあげた。通りは肩がぶつかり合うほどに、多くの人でつまっている。少年が人ごみの流れに身を任せて歩き出すと、人を掻き分けながらもう一人の旅人がやって来て、彼の隣に並んだ。
驚くほど背の高い、そして異様な風体の女だった。彼女の肌色は、ウリヤに産する蛋白石に似た乳白色であった。強い陽射しの下で、フードから時々覗く彼女の白い頬は、あまりに白すぎるために、人々に硬質な印象を与えた。瞳は瞳孔が小さく、金色にも見えたが、次の瞬間には緑色に閃いた。面長の顔は、暑さのせいかそれとも旅の疲れのせいか、どこかぼんやりとしていた。彼女はしなやかな動作で、周りの人間を避けて歩いた。彼女の側を通り過ぎた者は、大抵けげんな顔で彼女を振り返った。彼女が珍しいというより、彼女が自由身分の異人であることの方が珍しいらしい。
一方の少年は明るい色の髪と瞳を持ち、精悍な目鼻立ちは、どことなく東州北域人の雰囲気を持っていた。彼は、先程の宿でのやりとりを、異人に伝えた。
「そうね……。それじゃあ、もう少し他の宿を探してみましょうか」
彼女はそう答えた。
人ごみが、出し抜けに二つに分かれた。少年は危うく、正面衝突をするところだった。
「うすのろ! 道を開けろ」
短衣姿の丸坊主の男が、少年を脇に追い払った。そして彼は、首をぐるりと後ろに向けて怒鳴る。
「早く歩け!」
彼の後からついて来たのは、鎖につながれた人間達だった。彼らの殆どは色素の薄い姿をしていた。金髪が多い。それは彼らが捕まった犯罪者などではなく、東州の南の果て、極寒の地から連れてこられた奴隷であることを示している。
二人は奴隷達の列を避けて、近くの露店に入った。
「ふたつ」
異人の娘は幼い店主からよく熟れた瓜を受け取る。少年が代金を払った。二人は露店の脇にできていた日陰の中に入り、それぞれ瓜をかじった。
生暖かく甘ったるい汁が咽を潤す。かじるとあふれ出した汁が、手首を伝って肘まで落ちる。少年は瓜を持つ自分の腕を肘辺りから手首まですっと舐めて、汁を吸い取った。
「エカル、お行儀悪いね。それにあなたの腕、埃だらけでしょ」
「うん」
何食わぬ顔で瓜をかじり続けている少年を笑っていたが、そういう彼女も慌てて自分の手首に吸い付いた。汁は乾けば後でべたついて、なんとも気持ちが悪くなる。
そのような時だった。通りの向こう岸から、大声で何かを叫びながら男が近づいてくる。とはいえ、雑踏も物売りの声やなにやらでうるさいから、彼女達のところまで声は殆ど届かない。緋色のリボンに縁取られた上等そうな紺の上着に、膝までの頑丈そうな長靴。極彩色の刺繍の入った円錐形の黒い帽子は、先の方を前に折っている。その姿格好は、東州南域辺りのものである。顔はと見れば、何かに緊張して強ばっていた。
男は人ごみを掻き分け掻き分け、こちらにまっすぐやってくる。途中からは、なにやら怪訝そうな面持ちで独り言を呟いているようだった。その男が目の前に現われ、異人の女に両手を差し出そうとする。少年は皮だけになっていた瓜を捨て、片手で口を拭いながら、手をかけて男の進行を阻んだ。男は一瞬眉をひそめて少年を睨んだが、すぐに異人へ視線を戻した。
「何か御用? 何処かで会ったかしら。おっと、失礼」
彼女が口を抑えて瓜をもごもごしている間に、男は彼女の全身に視線を走らせていた。
「そう思っていたが、人違いのようだ。腕輪も足輪もつけてないな。お前は自由身分の者か」
と、男は言った。
「そうよ」
彼女は眠たげに答え、とろんとした目で微笑んで見せた。男の態度に内心では軽い怒りを感じた彼女だったが、まだそれを面には出さなかった。西州に近づくにつれ、異人の影は薄くなり、異人の社会的地位も地の底に落ちていた。それを思うと、彼の彼女に対する口の聞き方は、致し方のないことかもしれなかった。まさか東州から来た人間にまで、このような態度をとられるとは思ってもみなかったが。
男は彼女の返事にしばらく思いをめぐらせていたようだが、彼女の持っている物に目を留めた。男は三十前後といったところか。こざっぱりとした美青年だった。
「竪琴を持っているな。芸人か」
「そうよ」
彼女は先程と同じ調子で答えた。
「そうだな……、よし。お前を雇いたい。いくら払えばいいか」
彼女は背筋を伸ばし居ずまいを正した。男の視線は、彼女の鼻頭くらいの高さだった。
「私は個人に雇われるほどの芸人ではないわ。それにファロへの道を急いでいるの」
「なら我々と一緒に来るといい。だが私は、芸のためだけにお前を雇いたいわけではないんだ」
「ええーと……」
それでは何のために雇いたいのか。芸のためだけでなければ、異人の彼女に求められるようなものは、もうあとはいくつもなかった。しかしそれよりも、彼女は男の素性が気になった。
「あなたはファロへ行くの?」
「私は東州南域のフェルキリアから来た織物商人だ。ラク・グアを縦断するための案内人が見つかったから、明日ここを発つつもりだ。アテン山脈南道をとる。もし一緒に行きたいのなら、明日の朝、町の門のところまで来るといい。ところで、この男はなんだ」
「弟分です。ほら、離しておあげなさい」
少年はその言葉でようやく男から手を離した。男は少年が手にかけていた袖を軽く払うと、もう一度女の顔を凝視し、探るような目つきをした。
「自由民ですよ。証明書も持ってます」
異人はもう一度言った。
「本当にそのようだな。ああ、私はもう行かないと。名前だけ先に聞いておこうか」
「エルヤ」
「分かった。それと同行人の合わせて二名だけだな」
「ええ」
「分かった」
男はくるりと向きを変え、小走りに雑踏へと消えていった。
「あの人、何? いきなりあんなことを尋ねてくるなんて」
少年がいらいらと呟いた。
「知ったことじゃないわ。まあ、ラク・グアを越える一行が見つかってよかったってこと」
エルヤは残りの瓜にかじりついた。
翌日の早朝、二人は約束した門の場所へと赴いた。手続きを済ませて門を出ると、朝露が木々や草むらを朝日に淡くにじませている。まだ気温は低く、外套が必要であった。東州の衣装を纏った人々が、駱駝や荷物の間で立ち働く者達の中にちらほら混じっている。駱駝はざっと見渡しただけでも軽く二〇〇頭以上はいるだろう。羊だか山羊だかも、一箇所に何十頭か集められている。人は駱駝曳き達も合わせると、六〇人ばかりいるだろうか。身なりのいい男達は商人なのだろう。彼らは荷物が全て滞りなく駱駝の背に乗せられていっているか、見回っていた。そして隊商の先頭は、今しがた出発するところだった。駱駝達は五頭から一〇頭ずつ繋がれて、一列に荒野へ向かってゆっくりと歩き出した。
二人はしばらくその光景を眺めていたが、そのうちに、昨日の男に見つけられた。彼は手を振って近づいてきた。
「来たんだな。ちょうど同行する旅人のリストを作っていたところだ。君達も入れておこう。荷物は?」
「自分達で背負います」
「ラク・グアの道は険しいそうだ。空いている驢馬がいるから、一頭手配しようか。ジュルガの銀貨で三枚だが」
「そんなお金まではありません。同行賃だけで精一杯」
「ツケでいい。それと私の名はウェンラだ。この隊商の副長だ」
男はそう言って勝手に決めてしまうと、驢馬番の一人を呼んで一頭連れてこさせた。そして自分はせかせかとどこかへ消えてしまった。
「ツケって……」
戸惑いながらも、エカルは自分と義姉の荷物をロープで縛りなおし、驢馬の背に固定した。一方のエルヤは、軽い衝撃を覚えながら、ある光景に目をやっていた。
それは、たった今門から外に連れ出された者達の姿だった。彼らは皆手枷をはめられ、足輪はひと繋ぎの鎖で前後の者と結ばれている。彼らは、異人奴隷達だった。異人奴隷はこの辺りではその珍しさゆえに、高い付加価値をつけられて取引されていた。東州はスンシャの錦の生産地だけではなく、こうした異人奴隷の輸出でも有名なのであった。彼らもまた、駱駝達の列の方へと追いやられていく。
今の自分の身分と彼らの身分との間に、何か違いがあるだろうか。エルヤは思った。ほんのわずか、紙一重の幸運があったかなかったかだ。彼女は頭を振って目を伏せた。
彼女と義弟は、奴隷達が列の向こうに見えなくなってしまってから、ようやく出発した。
最初の数日は、草木の生い茂った雑木林が続いた。しかし草木は、乾燥地帯特有の様相を持っていた。エルヤは道の脇に枝を伸ばしていた柳の葉に触れた。葉は彼女の手の中で、ぱりぱりと音をたて、葉の先がちくちくと掌に刺さった。
四日目には、雑木林はどんどんまばらになり、あたりの景色は荒涼としてきた。強い風が旅人達へ横殴りに吹き付けてくる。風は多くの砂を含み、視界は褐色となる。そして六日目にしてようやく、隊商はラク・グア砂漠の入り口の町へと到着した。
その日の晩はちょっとしたお祭り騒ぎであった。連れてきた羊が何頭か屠られ、夕食のご馳走になった。明日からのラク・グア越えに対する景気付けでもあるのだろうが、フェルキリアの祭日にも当たっていたようである。隊商と行動をともにしてきた旅人達の中には、旅芸人の一座もいた。彼らの芸は食事とともに焚き火の側で披露され、人々を楽しませた。
エルヤはと言うと、食事が済むとそそくさと隊商宿に引っ込んだ。旅芸人の中に、めっぽう歌のうまい詩人がいたのだ。彼女も竪琴を片手に弾き語りをして旅する身であったが、あまり実力のあるほうではなかった。語りだけならまだしも、あの歌い手の次に歌でも求められようものなら、自分は赤っ恥をかくに決まっている。
賑やかな外とは対照的に、宿の中は静かだった。奥の小さな食堂では、隊商の主だった者達が集まり、明日からのラク・グア越えについて打ち合わせをしているらしい。幾つかの話し声と灯火の明かりが暗闇に漏れていた。
日はとっぷりと暮れたのだが、まだ寝るには時間が早すぎ、エルヤは手持無沙汰になってぶらぶらと廊下を彷徨い、宿の裏手に出た。そこからなんとなく空を見上げる。目に痛いほどの満天の星空がそこにある。地平の彼方にアテン山脈の影だけが、真っ黒に空を切り取っていた。
——あれはなんだろう。
アテン山脈のある山の頂上付近に、赤い火が灯っていた。幾つかの山を隔てて、他にも火が灯っている。一瞬、山のきわで星が瞬いているのかと思ったが、どうも違うようだ。赤い小さな火は、他の星と違い、ゆっくりと瞬いていた。
「やあ、エルヤ」
突然名前を呼ばれ、彼女は夜空から宿の方へと視線を移した。明るい星空に目が慣れたせいか、暗闇にたたずむウェンラの姿を確認するまで、しばらくの時間がいった。
「あら、こんばんは」
まずいところであったものだと内心で思いながら、エルヤは近くに生えていたポプラの幹でウェンラの視線を妨げるように回り込んだ。しかし、ウェンラはそのままとことこと彼女のすぐ脇までやって来てしまった。彼は単刀直入に言った。
「今晩、お前を買いたい。あそこの月が、山向こうに落ちるまででいい」
——面倒だな。
普通に考えれば、彼女の歌を買いたいのだろうが、どちらにせよ似たようなものである。
彼女は口ごもった。最初に出会った時の失礼な態度を、彼女はまだ根に持っていた。しかし一瞬ではあるが、自分はこの男に騾馬一頭分の貸しがあることを思い出した。銀貨三枚とは、騾馬の貸付のどれだけに当たるのであろうか。数日分の対価であるのか、それともラク・グア縦断全行程の賃料の手付に過ぎないのか。あの時ウェンラははっきりさせなかった。
——これはもしかすると、してやられたのかなぁ。
嫌々ながらも、そんな結論が頭を過ぎる。そして、なぜウェンラがこれほどまでに彼女にこだわるのか、疑問にも思った。何か気味が悪い。初めて会った時の彼の様子からは、一目惚れなどであるとは思えなかった。思い切って本人に聞いてみてもいいが、それでかえって気のあるふうにとられてしまっても困る。彼女は再びポプラを中心に彼の反対側へ出ようと足を運んだ。それでも、ウェンラの視線はずっと追ってきた。
「そうねぇ」
彼女はほとほと弱り果てて言った。
「率直に言うと、嫌」
「お前は何か誤解をしてないか。一晩一緒にいるだけでもいい」
「歌が必要ないなら、一緒にいる必要もありませんよ」
「そういうわけじゃないんだが。機嫌が悪いんだな」
ウェンラはため息をついた。
「なら、今晩はいい」
そう言って、宿の中へと戻っていく。さんざめく夜空の下に一人取り残されたエルヤも、大きくため息をついた。
一方のエカルは、宿の中の食堂の一つにいた。彼は壁の窪みに灯る火を見つめていた。その火は、辺りを照らし出すほどの火勢はなく、己ひとりだけが暗闇に灯っているだけの、消える間際に近い火だった。その為、彼は部屋に満ちた闇の中にいた。彼は長いことじっとそうしていた。彼は火が好きだったが、それ以上に炎を包む暗闇に心地良さを感じていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。まもなく、外から足音が聞こえてきた。足音はいったんは彼の部屋の前を通り過ぎたが、すぐにまた戻ってきた。そして、やんだ。
エカルは、目だけを動かして脇の床の方を見やった。星明りが、部屋の入り口のアーチを通って、床に光を投げかけている。そしてアーチの柱に沿うようにして、一つの影法師が浮んでいた。
「誰かいるのか」
と、影の主が尋ねた。
「ええ」
エカルは答える。声の主が誰だか分かって、彼は少しうんざりした。
隊商との旅を始めてから、彼は隊商について様々なことを調べていた。まず、フェルキリアが東州龍尾半島の南の付け根辺りにある小国であることを知った。
またこの隊商は純粋な交易よりもむしろ、西州の見聞を広め、上質の工芸品を安定して得られる交易路の開拓のほうに重きが置かれているのも知った。駱駝達が積んでいる荷物の中には、西州の王達への捧げ物にする宝物があった。フェルキリア貴族からの使者も、主から託された財宝を持って隊商に同行していたのである。となれば、危険と隣り合わせのラク・グア砂漠のルートをとろうというのは、愚かなことだ。しかしそれには、西州への入り口であるヌーク峡谷の事情が一枚噛んでいた。ヌーク峡谷の東州側の乾燥草原では、勇猛な騎馬民族が跳梁跋扈していた。そして度々ヌーク峡谷を抜けて、西州のより豊かな草原へ略奪に走ることがあったのだ。その為ヌーク峡谷の大門は、その騎馬民族たちの勢力に応じて、防衛のために開けたり閉めたりされていた。去年の冬までは、ヌーク峡谷の大門は閉ざされていた。それが開いたという知らせが東州諸国に知らされたのは、この春先のことだった。しかし依然として騎馬民族の動向は火のように激しく、またいつ閉ざされるとも分からない状況だったのである。一度閉ざされると、次にいつ開くか知れない。急がねばならない理由が、そこにあった。
フェルキリアの隊商は、フェルキリア商人や使者や水先案内人など合わせて二七名。フェルキリアから随行してきた兵士や傭兵達が一五人、そのうち一〇人が騎馬だ。あとは駱駝曳きが三〇人あまり、駱駝は約四〇〇頭にものぼる規模であることも、彼はすでに知っていた。
それらの話の殆どは、フェルキリア護衛隊の隊長と仲良くなって聞いたことだ。休息中に剣稽古をしていた護衛達に近寄って、彼らに剣勝負を挑んだのが仲良くなったきっかけだった。はじめは生意気な小僧だとばかりに思われていたが、彼がそれなりに手強いことを知ると、彼らの目は真剣になった。そして、彼の剣技に喝采した。
「お前の剣さばきは、なんだか華があるなぁ。見ていて面白い」
というのが彼らの感想だった。それはある意味、的を射ていた。
そして護衛達の口からウェンラのことも聞き、彼がなぜエルヤに執着するのかということも、エカルはすでに知っていた。なんのことはない。フェルキリアから連れてきた異人奴隷の一人が、まばゆい金髪と純白の肌を持つ、恐らくはエルヤと同人種の異人だったということ。そしてその奴隷が、ひと月ほど前に逃走したということだった。よほど美しい異人だったと見え、ウェンラは彼女を失った痛手に相当参っていたらしかった。もっとも手をつけたことでその異人に逃走の隙を与えてしまったのは、間違いない。ウェンラの異人にまつわる行動は、少なくとも護衛達にはいい印象を与えていなかった。
エカルはそのことを一応エルヤに話そうと思っていたが、食事を終えた頃には彼女の姿は見えず、探している間にこの食堂に灯っていた明かりに誘われるようにして、ここにやって来たのである。
さてウェンラはといえば、暗がりにいるエカルに、少々ぎょっとしたようだ。確かに真っ暗な部屋に一人で座っていれば、そう思われても仕方がない。エカルはウェンラから、ある特徴的な魔法の気を感じ取った。それはかすかだったが、彼はウェンラが直前にエルヤに会っていた事を、それで知ることができた。彼女の義姉はいつもある種の魔法の気で身を包んで、彼女の側に近づいた者にも、その気がしばらくの間まとわりつくのである。
——断られたんだな。
と、彼はそこまで知ることもできた。こちらは簡単な推理である。
ところが彼の困ったことには、ウェンラはエカルにどうにかして義姉のご機嫌をとってくれる様に頼んできたのだ。エカルは驚きのあまり、しばらくの間黙っていた。それから、おもむろに口を開いた。
「姉の仕事に、私から口を出すことはできません。もっとも彼女も、ずっと断り続けることはできないでしょうが。いずれにせよいいですか、彼女は芸人で、売笑じゃないんです。少しは振る舞い方を考えてください」
「分かってる。だが私は、芸妓遊びなどしたこともない。ただ彼女の髪と肌に、惚れこんだのだ」
ウェンラは答えた。そして廊下の向こうへと消えていった。
エカルは再び一人とり残された。壁の窪みの赤い火は、振り返ったときにはもう消えていた。彼はウェンラの答えに不愉快を感じて、暗がりで顔をしかめた。
翌日、隊商はついに死の砂海とも呼ばれるラク・グアに足を踏み入れることとなった。辺りは見渡す一面石の転がる荒野であり、まばらに下草が生えているだけだった。陽射しはまるで肌に叩きつけてくるように激しく、午後には必ず強い北東の風が吹いた。こうして一日の行程を終えると、人も駱駝も疲れきっていた。砂が人の生気を吸うとはよく言ったものである。厳しい環境に、人が歩ける時間帯と休める時間帯は限られている。時によっては休息する機会も十分になく、強風にまんじりとできないまま、真夜中近く凍えるような寒さの中で再び歩き出さねばならなかった。
エルヤは旅立ちの際、ウェンラが驢馬を貸してくれたことに感謝せざるを得なかった。重い荷物を背負ってでは、とても一日分の行程はこなせなかっただろう。砂漠に入って初日にしてそれを感じた彼女は、ウェンラの要求を呑むことにした。裕福な家に生まれながら、遊びに洗練されていないところが、逆に扱いやすくもあった。何より彼の広い天幕でゆっくり休めるのは、有難い。
砂漠に入ってから五日目などは、あるはずの隊商宿に行き着けず、人々ははやくも道に迷ったかと嘆いたりした。この時は案内人が数頭の駱駝と駱駝曳きを連れて探しに出かけ、どうにか事なきを得た。
道に迷う心配もしかりだが、それと同等以上に盗賊や砂虫の襲撃も恐れながら進まねばならなかった。特に砂虫の危険は、砂丘地帯に入ってからのものだった。しかし、盗賊の襲撃と砂虫の襲撃を避けるには、互いに相反する方法しかなかった。隊商は駱駝に鈴をつけて旅するものだが、ラク・グアではそれはなされなかった。鈴の音で通行が分かり、盗賊襲撃の心配が大きいためであった。しかし一方で、虫除けの笛だけは、時折吹かざるを得なかった。笛の音は高く天空にこだまし、砂漠の果てに消えるのだった。
砂漠に入ってから、砂虫の襲撃はまだ一度きりだった。しかしその恐怖は、人々の心にはっきりと焼き付けられていた。それは一四日目の深夜の頃だった。一行が野営を張り、眠りにつこうとしていた時だ。駱駝曳きの一人が毛布に包まって寝ていた所を襲われ、足の肉を食いちぎられる深手を負った。砂虫の口は擂粉木のようになっているらしく、一度それに捕らえられて傷を受けると、傷は長く血を流し続け、また癒え難かった。
砂虫の体長は大人の人間程度。胴の幅もちょうど人間の胴と同じくらいだ。普段は砂の中に潜み、地中の音を通じて獲物の居所を知る。そして獲物の足音を間近に聞くや、集団で狩りを始める。地中でばたたと音がなったと思ったら、砂虫は砂の中から飛び出し、獲物に喰らいつく。この砂虫の跳躍は、人々が思っている以上に素早い。数匹で一つの的を絞って跳躍し、頭から襲ってくるのだ。
エカルはこの時の襲撃で初めて砂虫を見たのだが、一目で嫌悪に顔をゆがめた。彼は砂虫の赤い腹が、どうにも苦手だった。あれに剣を突き立てると思うと、ぞっとした。しかし、やむなく彼はそうしなければならなかった。
そして一七日目の午後遅く、隊商は砂漠の峡谷へと降りていくことになった。そここそがフェルキリア隊商の命運が尽きた場所だ。これまでに盗賊の襲撃は受けたことがなかったから、油断があったのかもしれない。砂漠の旅の疲れで、警戒が鈍っていたのかもしれない。隊商の半分が峡谷を通り抜けた時、突然の鋭い叫び声が空から降り注いできた。
人々は上を見上げた。峡谷の上に人の影が見えた。と思うまもなく、数十本の矢が降ってきた。
この矢の攻撃で、隊商は一気に混乱した。駱駝は怯えて一歩も動かなくなる。あるいは暴走を始めたのだ。数匹の暴走が、周りにいた駱駝達にも伝播する。彼らは恐怖に気が狂ったようになる。荷物は背から滑り落ち、峡谷にがらがらと大きな音がこだました。人々は、狂って走り回る駱駝達から身を守るため、逃げ惑うだけとなった。駱駝曳き達は止むを得ず、駱駝同士をつなぐ縄をいくらか断たねばならなかった。護衛達もこの混乱の中で、思うように移動できなかった。そうこうするうちに、峡谷の入り口や出口めがけて、駱駝達が大脱走を始めた。
それと入れ違うように、峡谷の入り口側から、駱駝に乗った白装束の盗賊達が姿を現した。彼らは、駱駝から振り落とされすっかり無防備な状態になっているフェルキリアの隊商の人々に、いとも簡単に近づいてきた。彼らの手には、抜き身の刀が握られている。
「命が惜しけりゃ、両手を挙げて地面に伏せな!」
盗賊達が怒鳴る。
気がつけば、隊列後尾は前の部隊から完全に孤立させられていた。ここには、数人のフェルキリア人と隊商長もいた。峡谷の出口側から、護衛の一人が疾駆して来る。彼は、絶望的な知らせを伝えに来たのだった。
「峡谷の外に、奴らがいっぱい出てきました! 盗賊の一団がいます!」
万事休す。あとはもう盗賊達に降参し、自分たちの命を守ることが必要だった。
峡谷の出口にいた盗賊達こそ、コウサの隊商であった。盗賊達はフェルキリア隊商長を捕え、コウサは彼らに近づいていった。
その男は見るからに悪党であった。
彼は有無を言わせぬ交渉のために、フェルキリア隊商長の左中指を半分切り取り、そして残酷な笑みを浮かべたのである。
エカルはコウサの隊商を見渡した。規模こそはフェルキリアの隊商にはるかに及ばなかったが、引き連れている護衛達は、フェルキリア隊商護衛の約二倍もの人数だった。そして彼らの殆どが騎馬だった。
逃げ出したフェルキリアの駱駝達は、コウサの部下達によって捕えられていた。しかし捕まえられなかった駱駝達の捜索は行われなかった。数も少なかったし、探しに出たところで、砂虫の餌食になった彼らの残骸を見つけるのが関の山だったからだ。
フェルキリアの隊商が隊伍を整え、出発し始めた。それらを見送りながら、ウェンラは自分の馬の脇で頭を抱えて嘆いていた。彼の父親であるフェルキリアの隊商長は、重い傷に呻いている。隊商に同行していた医師が傷の処置をしたが、彼はぐったりとしていた。コウサにさんざん脅されいたぶられ、精も根も尽き果てたといった様子であった。
フェルキリア隊商の後尾が出発を終え、すぐその後ろからコウサの隊商が続いていく。フェルキリア隊商長らは、コウサの近くを行くことになった。異人奴隷達もコウサの後ろにつき従わせられる。前の方を歩かせていると、後続のラシャの護衛達の好奇をそそり、注意力をそぐからである。いかなコウサといえど、砂漠の砂虫までも思い通りにとはいかなかった。
それにしてもラシャ族の戦士達は、砂虫のあしらい方が実に見事であった。どうやってか、彼らは砂虫達が飛び出てくる直前の地面を、見抜いてしまう。彼らがその地点に渾身の力を持って刀を振り下ろすと同時に、砂虫も砂の中から飛び出てくる。そして自ら飛び出した勢いもあって、砂虫は綺麗に縦真っ二つにされてしまうのだった。
ただ、こういった戦闘の後のラシャ族の行動は、少々いただけなかった。彼らは、真っ二つになって散らかった砂虫の中から肉付きのよいものを選び出すと、内臓を取り払って身を切り出す。そうして取り出された砂虫の身は、その日の晩の彼らの夕食になったのだ。
これにはさすがに度肝を抜かれたのか、コウサに対してこれまで沈黙を保っていたウェンラは、思わず彼に尋ねたのだった。
「あの肉を食べるのか!」
「彼らなりの考えがある。駱駝曳き達は食わない。俺も必要がなければ食わない。俺達は陸に暮らす人間だからな」
コウサの言う「陸」とは、オアシスやラク・グア周辺の土地のことらしかった。砂漠を砂の海にたとえた捉え方だった。
「砂虫は人を食べるのに、その砂虫を食べたんじゃあ、間接的に共食いになるんじゃないかしら」
エルヤはウェンラの背中側で、蕎麦粉の練り団子入りスープをすすりながら、ぽそりと呟いた。ウェンラには聞こえたはずだが、彼はそれを改めてコウサに尋ねることはしなかった。
それから数日後、地平線の向こうに樹木や建物の影のようなものが見えてきた。あれも今までによく眼にしてきた蜃気楼なのだろうと、エルヤは思った。しかし道を進めていくと、それらの影は上にゆらめきながら消えることはなく、はっきりと木々の梢や建物の窓まで、その形をあらわにしてきた。川と水辺にたたずむ都市だった。
エルヤ達が町に入ると、すでに到着していた先頭の隊商達は、駱駝達から荷物を解いているところだった。
フェルキリア隊商長は衰弱がひどく、町の医療施設へと運ばれた後だった。傷の具合がどうであれ、彼がこのまま先の行程をこなすだけの体力があるかどうかは疑わしかった。どうやら、ここから先はウェンラが隊商長として一行を統率していかねばならなくなったようだ。
荷降ろしを見守りながら、ウェンラは近づいてきたエルヤに言った。
「シャルフで盗賊まがいの交易集団が出るという噂は聞いていたが、まさか自分達がその罠にかかるとは思わなかった。あいつはラシャの盗賊よりたちが悪い。砂漠の出口まで護送してやるとは言っているが、とんでもないことだ。今に我々の残りの荷も、全て巻き上げてしまう魂胆だろう。お前も今は自由身分かもしれないが、旅の終わりにはあいつの奴隷にされていることだろう。異人は高く売れる。多少なりとも芸を身につけているなら、なおさらだ」
彼はそこで言葉を切って、顔を上げた。ラシャの戦士達数人が、積み上げられたフェルキリアの荷に手をかけている。
「それは我々の商品だぞ! 手を出すな!」
戦士達は顔を上げなかった。言葉が通じないのだ。ウェンラは側に行って彼らを制止する勇気までは、ないようだった。しかし彼の叫びに答えるかのように、別の場所から声が上がった。コウサの怒鳴り声だった。
まもなく声のした方向から本人が現われ、ラシャの戦士達をフェルキリアの荷から追い払った。そしてコウサは立ち去り際、鋭い一瞥をウェンラに投げつけた。
「……まぁ、がんばってね」
エルヤもウェンラの背中を軽く叩き、その場から離れていった。
町には西州側からやって来た隊商などもいて、宿や市は賑わっていた。ウェンラもコウサも、この町に二日ほど滞在し、取引をしたり駱駝達を休息させたりする予定らしかった。
「西州から来た人達に聞いたけど、彼らが峡谷の門を出た時は、情勢は安定していたらしい。峡谷の門もしばらくは大丈夫。開いているだろうって話だ」
エカルは早速市に出かけていき、最新の情報を仕入れてきた。エルヤはお茶をすすりながら、頭を振った。
「峡谷の門の心配はひとまずなくなったとしても、問題は今の私達の身分よ。殆どコウサの虜状態じゃない」
「ならどうする? ここにしばらく滞在して、西州へ向かう別の隊商を待つかい?」
「……無理だわ。異人の私を隊に入れてくれるかどうか、分からない。あのコウサでさえ、異人奴隷達を気味悪げに見ていたもの。今の私達って、思っている以上に、フェルキリアの隊商には助けられているのかもよ」
「でも、奴はこの先頼りになるのか?」
奴とは、ウェンラのことだった。エルヤは苦々しく笑った。
「驢馬の賃料の相場を調べておいてくれる? 場合によっては彼から、たっぷりお釣りを頂くから」
「なあ、曲がりなりにも歌人なんだろ。歌だけで稼げないの。隊には聞き手がいくらでもいるし、珍しい歌、たくさん知ってるじゃないか」
「どうも西に行くほど、異人の歌は受けないようよ。東州出のはずのウェンラは、歌に疎いし。この音色も古臭くてお気に召さないんだって」
「姉貴は古い歌しか歌わないよな」
「こう見えても年だからね」
エルヤは傍らの竪琴を爪弾く。竪琴は乾いた音色で答えた。
暗闇の中で、エルヤは目を覚ました。しばらく、自分がどこにいて何をしていたか分からない。すぐ側で、寝息が一つ聞こえる。半分寝ぼけたまま彼女は手で探り、隣にエカルが寝ているのに気がついた。
——ああ、そうだ。仮眠のつもりで一眠りしたら、寝過ごしてしまったんだ。
彼女は静かに立ち上がり、宿の部屋から外に出てみた。食堂に顔を出すと、人で混んでいる。しかし夕食はすでに終えているようだ。人々は一人の歌人を中心にして座り、彼の歌を笑いながら聴いていた。軽快な曲で、滑稽な歌の文句だった。
——なるほど。ああいうのが面白いのか。
立ち去り際に、食堂の隅に仲間とかたまって酒を飲んでいたウェンラと目があった。気の小さい彼らしく、難しい顔をしてちびちびとやっている。今後の方針を立てているようで、彼は物憂げに追い払う仕草をした。エルヤは食堂から頭を引っ込めた。
頭に指を差し込み、長い髪を手ぐしで梳く。昼間に桶一杯の水で体を洗ったが、髪を洗うほどの水の量ではなかった。
——髪、洗いたいな。砂だらけだ。
彼女はいったん井戸の所へ足を運んだが、そこで水を使って髪を洗うのはやはりはばかられて、湖の方へと向かった。
月がくっきりと出ていて、空は驚くほど明るい。彼女は水のほとりの木の側でマントを枝に引っ掛け、着物の裾を膝上へ巻いて結び止める。膝をついて前かがみになり、髪を水の中につけた。流れの中で彼女の髪はほどけて広がり、月の光をうけて明るく浮かび上がる。辺りは肌寒かったが、彼女にはそれほど気にはならなかった。
あらかた髪を水にすすぎ、彼女が髪を絞っていた時、彼女は突然尻を蹴られ水の中に頭を突っ伏した。一瞬何が起こったか分からなかったが、彼女はすぐに立ち上がろうと水底に手をついた。間髪いれず彼女の背に何者かが乗り、彼女の両肩を押さえ込む。彼女は水の中であがいた。そして片手に川底の石を握り、渾身の力でもって上に被さっていた者を払いのける。相手がこの馬鹿力にたじろいだ隙を突いて、彼女は相手の胸倉を掴む。そして相手の頭に石を握った拳でするどい一撃を与え、水の中に押し倒そうとした。
ところが彼女の相手は一人ではなかった。彼女の背に、もう一撃が背後から加えられた。何か硬い物で殴られたらしい。苦痛の悲鳴を飲み込む。騒いで人が来たところで、異人の彼女の方が有利になるとは言いきれなかったからだ。しかし、彼女の中で怒りが爆発した。
彼女は水の中に押し倒していた相手を、再び引っ張り上げる。
「こいつがどうなってもいいの!」
後ろの敵にそいつを突き出した時、枝葉から差し込んだ月光が、彼女の掴んでいる相手の顔の上を走った。彼女は絶句した。彼女の掴んでいる相手は、彼女の義弟と同い年かちょっと上程度の少年だったのだ。彼女の目の前に立ちはだかった二人の敵も、その程度の年だった。白い装束はラシャ族だ。
それから彼女は、掴んでいる少年がぐったりしていることに気がついた。
——しまった! 強く殴りすぎたか!
彼女は相手を屈強な男だと思い込んで、殴りつけたのだ。しかし、彼女の心配はすぐに消えた。彼女に捕まれていた少年は、彼女の手に思い切り爪を立てた。まだそこそこ元気そうだ。彼女は、少年を仲間二人の方へ振りやった。少年はよろめきながら、仲間に助けられ立ち上がる。彼の顔半分は、額から流れた血で赤く染まっていた。
「お前達に異人女は二十年早いよ!」
彼女の怒りのこもった声は、夜空にいんいんと響いた。通りの向こうから、幾つかの人影がこちらを覗いた。
少年達はくるりと向きを変え、逃げ出した。怒りに燃えた彼女は追いすがる。頭から血を流している少年を捕まえた。そして首根っこをつかまえて、何度も揺さぶった。それから首を締め上げる。
その時、鋭い声が暗闇を裂いた。彼女の腕の中で、少年に体に緊張が走った。ついで震えだす。こちらに黒っぽい影が近づいてくる。
「何をしている!」
コウサは再び問いただした。彼は抜き身の短刀を手にしていた。彼の意に沿わなければ、あれはどういう使い方をされるのだろうか。口の端は上がり、半分笑っているようだが、かなり酔ってる。
エルヤは腕を緩める。少年がどさりと彼女の足もとに崩れ落ちた。コウサが少年に彼らの言葉で怒鳴る。少年はよろよろとコウサの元へ行き、彼に指示されて通りの向こうへと消えていった。コウサはそれを見届けると、びしょ濡れのまままだ呆然と突っ立っている彼女の側へ、つかつかと近づいた。
これもまったく不意だった。コウサはいきなり彼女の肩に手を掛け、力任せに引き倒す。彼女の体は勢いで半回転し、無様に地面へ叩きつけられた。
「異人めが! カランアテンの流れを穢すんじゃねぇ!」
彼は怒鳴ると鋭く踵を返し、その場から立ち去った。後には彼女一人だけが残された。
——やれやれ、とんだ晩だわ。
痛みで痺れる腰を手で押さえ、定まらない足元で立ち上がる。手加減なしの乱暴に、まだ頭がぐらぐらしている。
彼女があちこちの痛みに耐えながら宿の部屋に戻ると、エカルはまだ寝ていた。何も知らない呑気さが小憎らしい。彼女はエカルの脇腹を蹴りつける。するとエカルはちょっと顔を起こしたが、側にいるのが姉だと分かると、ため息もつかずまたすぐに寝入ってしまった。彼女は濡れた服を床に広げると、毛布を巻いて横になった。
翌日、彼女はエカルに揺り起こされた。
「起きてくれ。たいへんだ」
彼女は痛む背中を堪えて肘をつき、半分起き上がった。
「もうちょっと寝かせてよ。今日は一日ゆっくり休めるはずじゃない」
エカルは彼女の顔を見て目を丸くした。
「どうしたんだ、顔」
「どうなってる?」
「左頬が腫れて、随分綺麗な赤色がにじんでる。それに擦り傷だらけだし。頬骨、折れてはいないよな」
エカルが顔の傷に触れようと手を伸ばしてきたので、エルヤは不機嫌にそれを振り払った。
「昨日の晩、ラシャの悪ガキ共と大立回りしたのよ。そしたら、コウサにはっ倒されたの」
「拳で殴られなかっただけでも、まだよかったよ」
「それなぐさめてるの? で、何が大変なの」
「フェルキリアの隊商がもぬけの殻だ。俺達、置いて行かれたんだよ」
「え?」
彼女は飛び起きた。
「見て来なよ。目を疑うまでもないから」
エカルの言うとおり、昨日までフェルキリアの隊商が泊まっていた宿は、空っぽになっていた。フェルキリアの隊商に同行していた旅行者達も、置いてきぼりをくったようだ。彼らは、フェルキリア隊商に払った同行賃を反故にされたと憤っていた。もっとも、傷を受けていたフェルキリアの元の隊商長はまだこの町に留まっていたため、彼らはこれから金を返してもらうために会いに行くと言っていた。
「一言声をかけてくれてもよかったのに」
エルヤはウェンラに裏切られたような気がした。
「でも姉貴、それなりに気に入られていたようだよ」
エカルが厩を覗きこんで言った。彼は奥の方を顎でしゃくってみせる。エルヤが中を覗いてみると、彼らの騾馬が一頭だけ残っていた。
「ここにいたか」
男の声が聞こえて、二人は振り返る。コウサが立っていた。
「追うつもり?」
エルヤは尋ねた。フェルキリアの隊商がだめになったら、コウサの隊商に同行させてもらわない限り、彼女達には行き場がない。
「追うが、出発は予定通り明日だ」
コウサは機嫌が悪そうだったが、少しも慌てていなかった。その自信に、エルヤはウェンラが少し気の毒になった。
「私達も連れて行ってもらえる?」
「……払うものを払うなら、いい」
「お金、そんなにないのよ」
「じゃ、そこの小僧を俺に貸せ。大体そのつもりで、お前らを探していたんだ」
「だめよ、だめ!」
エルヤは反射的に首を振った。コウサの眉間がみるまに険しくなった。
「だまれ! それというのも、お前が俺の子分を一人だめにしたからなんだぞ!」
「あの子、死んだの?」
「生きているが、当分一人ではまともに歩けんだろう」
「でもそれは、先に向こうから襲ってきたからよ。悪いのはあいつらよ。やんちゃ盛りを放し飼いにしてた、あんたも悪いんじゃない」
「やかましい! いちいち口答えするな!」
「殴るつもり? それで大人しく言うことを聞くとでも? 異人を甘く見るんじゃないわよ!」
「姉貴……」
エカルは義姉を制止しようとした。しかしそれより先に、コウサの堪忍袋の緒の方がぶち切れたらしい。彼はいきなり彼女の長い髪を掴むと、思い切り振り回した。エルヤは悲鳴を上げる。直後、鋭い鞘走りの音がなり、彼女の体は突然自由になって草の上に投げ出された。
当然、その程度でへこたれる彼女ではない。ますます反骨精神を刺激され、何か手痛い反撃をしてやろうとすぐに体を起こしてコウサを睨み上げる。そして、
「あっ」
彼女は思わず間抜けな声をあげてしまった。
視界の中に、幾筋もの金糸が舞っている。彼女の見ている前で、コウサは手に持っていたものを地面に投げ捨てた。風がその金糸の束を、ころころと転がしていく。
「今度俺の邪魔をしたら、首が飛ぶぞ」
彼はそういい捨てると、エカルを連れて行く。エカルは彼女と違い、一言も発さず、大人しく彼に付き従っていった。ところが。
「殺してやる!」
放心から我に返ったエルヤが、突然コウサの背に襲い掛かったのである。コウサも驚いたが、一番驚いたのはエカルだった。
エルヤは背中からコウサに抱き付いて、後に引き倒そうとした。しかし彼は反対に、彼女を背負い投げる。そしてエルヤが地面で体勢を崩した所を、踵で彼女の胸を打った。彼女は胸を押さえて地面に伏せる。コウサがさらに彼女を踏みつけようとした時、エカルが二人の間に滑り込んでコウサの靴を受け止めた。
「堪忍してくれ! 堪忍してくれ!」
エカルは叫んだ。その間にエルヤはよろよろと立ち上がる。そして再びコウサに掴みかかろうと前に進んだ所を、エカルに抱き止められた。
「行かせなさい!」
「何を考えてるんだ! 信じられないよ! 相手を選べ!」
コウサはあきれた様子で一歩下がり、両者を眺めた。エカルはあがく義姉の体を、弾みをつけて担ぎ上げる。
「後ですぐに顔を出す!」
コウサに言い残すと、義姉を連れて一目散にその場を離れたのだった。