眠れる巨人

後編

 正気に戻ると、彼女は泣きたくなった。腰まであった自慢の髪は、その一部が背中の中ほど程度にばっさりと切られていた。彼女は髪を一つに編み、不ぞろいな毛先をごまかす以外になかった。
 翌日の昼近く、予定通りコウサの隊商は出発した。
 エルヤはエカルの姿を隊商の中に探したが、彼の姿は見えなかった。恐る恐るコウサに尋ねに行くと、彼は数人のラシャ族の男達と隊商に先行し、フェルキリア隊商の痕跡を探したり、砂虫の警戒にあたったりしているとのことだった。砂虫の来襲は、砂漠の奥深くに入るにつれ、増えていた。
 聞きたいことを聞いてしまうと、彼女はコウサから少し離れて振り返り、軽蔑のあかしとして舌を突き出して見せた。その子どもじみた真似に、コウサはまともに対応するのも馬鹿らしいと思ったのか、嫌な顔だけしてみせた。
 エカルは、ラシャの少年に十分代わる働きをしているらしかった。砂虫退治でも、彼はラシャ達のように砂虫の出てくる地面を見切ることはできなかったが、一度姿を現した砂虫ならば、切り口も鮮やかに見事に退治してのけた。彼の戦い方は荒々しい中にも無駄がなく、洗練されていた。エルヤは、こうした戦い方を見たラシャの男達が、嬉しそうに呻くのを聞いた。あの少年は、周りの人間に気に入られるコツを知っている。
 道のりの困難さは、はじめとさほど変わらなかった。夜半頃になると彼女の疲労は限界に達し、砂に足をとられて何度も転んだ。それでも彼女に差し伸べられる手はなかった。ラシャの男達は、エルヤがラシャの少年を散々な目にあわせてしまったことを知っていて、彼女には一様に冷たい目を向けていた。彼女は隊からはぐれないよう、歩調を維持するのに必死だった。さらには疲れて歩きたがらない彼女の驢馬を、なだめたりすかしたりして引っ張っていかなければならなかった。驢馬はエカルの方に慣れていて、彼が側にいないのを不服に思っているようだった。出発の翌日以降は凄まじい砂嵐が吹き荒れ、空は茶色く濁ったままになった。
 数日後、一行は次の隊商宿へと到着した。エルヤは隊列の後尾からずっと遅れて、ようやく一人宿へ入った。門のところではエカルが待っていた。彼はエルヤから驢馬を預かると、世話をするために厩へ連れて行く。彼女は夕食まで一眠りするため、宿の中に入っていった。
 夕食になると彼女は義弟と一緒に食事しようと、姿を探した。エカルはコウサのいるグループと一緒にいたので、自然と彼女もそちらで食べることになった。コウサは二人に言った。
「フェルキリアの隊商は、道から大きくずれているようだ。進む方向を誤ったらしい。馬鹿な連中め。探すのが骨だ」
「彼はあなたから逃げるので必死なのよ」
 エルヤはウェンラのことを思った。盗賊や砂虫の犠牲になっていなければよいが。
 食事が済むと、彼女は義弟と一緒に宿の外に出た。宿の近くに遺跡らしい岩の塊があり、興味を覚えたのだ。空は月で明るかったが、月の輪郭はぼやけ、星空もくすんでいた。砂嵐で巻き上がった砂が、まだ大気に浮遊しているらしかった。
 岩の塊に見えたのは日干し煉瓦を積み上げ、土を塗りつけて固めた建物跡だった。四角い建物の横に、屋根の丸い小さな塔がある。塔は天井が崩れていた。周りには、他の建物跡らしい石で囲まれた部分がいくつかあった。二人は建物の中を覗いてみる。エカルが一歩踏み込んで、ランプで中を照らし出す。
「空っぽだね」
「風の音が響いていい」
 建物の中には、奥の塔に通じる階段が月明かりを受けて浮かび上がっている。部屋の壁には、明かりを置いていたらしい壁龕がいくつか開いていた。何らかの宗教的施設だったのか、住居跡だったのかは分からなかった。
 二人は建物から出ると、平らな所を見つけて仰向けになった。エカルは、あーあ、といって思い切り伸びをした。
「あなた、これまでの道中で、コウサに暴力を振るわれなかった? 凶暴な奴だから」
 夜空を眺めながら、エルヤは唐突にエカルに尋ねた。エカルは足を組んで、片足をぶらぶらとさせた。しばらくして返事が返ってきた。
「俺は姉貴と違って、ご機嫌取りは上手いんだよ」
 義弟の答えに、彼女はため息をつく。
「その生意気な口の聞き方は、あなたの生来のもの? それとも私に似たの?」
「ほら、それがいけないんだよ。聞き流すってことも知らなきゃ」
 義弟は穏やかに彼女を諌める。それから彼は体を起こした。
「星、よく見えないな。最初の晩に、ラシャの人から独自の星座を教えてもらったんだけど」
「明後日くらいには、砂埃も晴れるでしょうよ」
 彼女も半身を起こした。地平の彼方に、アテン山脈の赤い火が、かすかだがゆっくりと瞬いている。
「あれ、何の明かりだろうねぇ。砂漠に入ってから、夜はずっと見える」
「火だろう。消えかけている。もうずいぶん前から」
「分かるの?」
「いや、そんな気がしただけだ」
 しばらくしてエカルは後ろを振り返り、立ち上がった。
「いいか。おとなしくしてるんだよ。ここじゃ、あいつらがはるかに優位なんだから」
 彼はそう言って明かりを取り上げ、そそくさと立ち去る。不審に思ってエルヤが振り返ると、宿の門のところからコウサがこちらに歩いてくるところである。
——え? 私を置いて行くの!
 彼女は義弟を恨む。それでもコウサはエルヤのほうに用事があるらしく、彼女までも逃げるわけにはいかなかった。彼女は仕方なく、砂の上に両足を投げ出したまま、赤い火を眺めてコウサがこちらに来るのを待った。
「何を見ている」
「アテンの赤い火を」
「カラン山脈にも同じような火が灯っている。お前は歌人だったな。あの火にまつわる話を知っているか」
「気になってたけど、聞きそびれているまま。もう十年経ってしまった」
「ここを通るのは二度目か」
「初めて。前は南道を使ったから、ここは通らなかった」
 彼は彼女から少し離れてあぐらをかいた。しばらく会話に間が開いたので、エルヤは髪を片方の肩から前にたらし、そっと編み始めた。
「お前、今までどうやって生きてきた」
「どうって……」
 彼女は編んだ髪の端を頭の上で留める。
「今よりはもっと慎重だった気もする。でもこの数年は、慎重にするのも疲れてきた。死に方を選ぶために生き方を選ぶのも馬鹿馬鹿しい」
「その通りだ」
「この建物は随分古そうね。山脈の火と同じくらい」
「五帯教の僧院だったと聞いたことがあるが、年代は知らん。ラシャは数百年前のことも、『この間』と言う時があるからな」
 エルヤははじめてコウサを振り返り、びくりとした。月影の中で見る彼の容姿は、鬼気迫るものがあった。落ち窪んだ眼窩の中で、灰色の瞳だけが月の光を吸い、銀色に鋭く光っている。その容貌はラシャの男達と酷似していたが、彼には砂漠の気候以外にも耐えねばならないものがのしかかっていた。この砂漠の道において、一度咥えた獲物は何物にも変え難く、それを逃がすのはいかに彼であっても死活に関わるのだ。
 彼は口を開いた。
「奴はいくらで一晩お前を買った」
 突然話題が飛んだので、エルヤはきょとんとした。そして、しばらくして何を言っているのかに気がついた。
「そんなことを聞いてどうするの」
「俺はそれ以上出そう」
——ウェンラとそんなので張り合って、どうするんだろう。
 彼女は色々思ったが、ふいに思い当たる。
「東州人の真似しても無駄よ。あそこじゃ西州の商売人は、奴隷よりも下に見られるくらいだから。異人の扱いにしても、東州では珍しい人型の生き物程度の扱いだけど、西州では穢れとして忌み嫌っているじゃない」
「穢れなんぞ、ここには存在し得ん。最後には砂が全て清める」
「先の町で私に言ったこと、覚えていないと」
「なぜ覚えている必要がある」
「まぁ、私に触れなくても、あなたは十分穢れているでしょうけどね」
 コウサは懐から携帯用の天秤を出した。それを彼女の方へ吊り下げて突き出す。エルヤは何を秤にかけるのか分からず、とりあえずも周りに無限とある砂をひとすくい載せる。と同時に、コウサはもう片方の皿に銀貨を載せた。
——断れないならせめて、取れるだけとってやろうか。
 彼女はもうひとすくい、砂を載せる。コウサも、再び銀貨を載せて釣り合いをとった。皿には、六枚の銀貨が乗っていた。彼女は自分の相場を知っていたが、遊郭の芸妓ではない行きずりの異人にはかなり破格の値段だった。しかし、彼女は再び砂をすくった。
「砂遊びしてんじゃねぇんだぞ。これ以上はだめだ」
 コウサは皿をひっくり返し砂を捨て、銀貨を手の中にとった。
「足りん分はお前の知りたいことに答えてやろう」
 彼は銀貨を握った拳を、彼女の方へ突き出す。
「もっとも、この話は俺からじゃなくても聞けるが」
「あんたがまともに人と会話できるのか、聞いてみたいもんだわ」
「どういう意味だ」
 コウサが冷たい目で彼女を睨んだ。彼女ははっとして、自分の口を抑える。
「哀れな奴だな。義弟に免じて許してやるが」
 エカルはフェルキリアの護衛隊やラシャの男達に加え、どうやらこの男にも好かれたらしい。敵を作りがちな彼女とは正反対だ。エルヤは額に手を当て、コウサの拳の下に片手を差し出した。六枚の銀貨が順番に彼女の手の中に落ちた。
「足りない分は、この砂漠の砂全部と同じ重みってわけか」
「重いだけで価値はない。その竪琴をひと弾きしろ」

 はるかな昔、ラク・グアの大地に一人の巨人が住んでいた。巨人の肩には二つの頭があり、右はアテン、左はカランと呼ばれていた。カランとアテンは兄弟であったのだが、非常に仲が悪かった。彼らは常にいがみ合い、互いに競い合った。その度に、ラク・グアには大きな地震が起こった。
 ある時、兄弟は空を見上げた。そこには多くの星が瞬いていた。彼らは、星を多く集めた方を、長年のこの争いの勝者としようと約束して同意した。アテンは右半身から万の手を伸ばし星を掴んだ。カランは左半身から万の手を伸ばし星を掴んだ。
 これが夜の神の怒りに触れた。夜の神は凄まじい落雷でもって、この兄弟の体を打った。稲妻は巨人の体を切り裂き、ついに右と左を分けてしまった。
 巨人は倒れ、動かなくなった。しかし、いくつもの手に掴んだ星はそのままになり、死んだ巨人の拳の中に留まることとなった。

「それが眠れる巨人、アテンとカランの灯火だ。大地に捉えられた星。流された巨人の血は清流に、断末魔の叫びは砂嵐になった。腐った体に蛆がわき、蛆は巨人の体を噛み砕いては砂に変えた。蛆は砂虫だ。砂海の地中深くで、いまだにぬるむ巨人の血をすすっている。この砂漠では、死の形跡すら残らん。砂虫は骨まで砕いて砂にしてしまう。ラシャは巨人の墓守。砂虫を食うのは、あれに食われた同胞の魂を自分達の元に戻すため。ラシャは五帯教の輪廻とやらを信じているからな。あの灯火は、この地で唯一の救いだ。俺達はアテンの火とカランの火を使って、砂漠のどこにいるのか正確に判る方法を知っている。あの火だけが人を生かす」
「でもカランの火の方は、ここからじゃ見えないでしょ」
「見えないことも導になる。が、ここいらなら空気が澄んでいれば、地平に見える」
「あの火は誰が灯しているの?」
 コウサは口ごもった。
「知らん。二つの山脈は、それぞれが神聖で邪悪なる巨人の墓所だ。立ち入る者はいないし、実際あそこの森や荒野は暗すぎて進めない。それでも、俺の聞いた話じゃあ……」
 彼は薄気味悪そうにエルヤを横目で見た。
「あそこには異人が住んでいるらしい。だが、東州の連中が連れてくる、異人奴隷みたいなのとはわけが違う。どうも、命というものを持っているか疑わしい。……木の枝を人型に束ねたような姿をしているらしい。その連中が灯しているという話もある。自分自身を焚き付けにして火に投じているのかどうかは、知らんが。あの山脈が人間のものではないのは確かだ。分かるのはそれだけだ」
「義弟は、あの火は消えかけてると言っていたわ」
「もし本当にあれが星ならば、そうかもしれん。熱い天空から、冷えた大地に取り込まれたんだからな。話は仕舞いだ」
「ついでに聞いときたいんだけど、あなたあんなあくどいことやって、よく捕まらないわね」
「あんなこと? ちゃんと取引はしているだろう」
「あれは取引というのかしら」
「俺だって、うまそうな隊商とあらば見境なく接触したりしない。相手は選ぶ。……内々に許可は受けている」
「許可!」
「フェルキリアの隊商をおさえることで、俺以外にも、利益を受けている奴はいるんだ」
「誰かの手下なの?」
「手下か。気に食わん」
 コウサは片腕の袖をたくし上げた。その二の腕を見て、彼女はわずかに口を開けた。腕には魔術で焼き付けられた印があった。それは目に見えない鎖を表す。彼は西州の奴隷だったのである。
「数十年前サラードは侵略を受け、その時に捉えられた多くの民族は国の奴隷にされた。この先の乾燥草原にも、俺と似たような仲間がいる。フェルキリアからかっぱらった荷は国に売ってもいいんだが、それだと俺の稼ぎ分が少なくなる。せっかくいい品が手に入ったんだ。西州の照耀平原まで出るつもりだ」
「肉をそいで、印を消そうとしたね。その印は、骨まで届いてるのに」
「ああ無駄だったな。腕を失うわけにもいかん。だったら正規の手続きを踏んで自由になるだけだ」
 コウサは彼女を激しく睨みつける。彼女は目の前の人間の、同情を寄せ付けない黒くたぎるような気迫に、息を呑んだ。

 夜明け前、心配げにエルヤを探しに来たエカルを、エルヤは腹立ち紛れに思い切り突き飛ばした。
「あんた、いつからこんな手引きするようになったのよ! あいつ、寝る時も片時として刃物を離さない! 用が済んだら殺されるかと思ったわよ!」
「悪かった。でもここじゃ、あいつに逆らうのは命取りだ」
 彼は答えてほろりと涙をこぼしたので、彼女も怒りを引っ込める。義弟にうまく言いくるめられた気もしたが、この処世術は本気で見習ってもいいように思えた。
 それから数日後、コウサの隊商はとうとうフェルキリアの隊商に追いついた。追いついた際、フェルキリアの隊商の隊列は崩れていた。どうやら、また駱駝が何かに驚いて暴走をした後だったらしい。駱駝達を連れ戻し散らばった荷を探すために、その日はそこで野営することになった。
 エルヤはウェンラの幕舎へ顔を出す。ウェンラはひどく疲れた顔をしていたが、彼女の姿を見ると怒り出した。
「この裏切り者め! なんだってあの男を連れてきたんだ!」
 彼女の目の前で、鞭がぴしりと鳴った。エルヤはほとほとうんざりする。
「私が連れてきたんじゃないわ。私はついて行っただけよ」
「驢馬までくれてやったんだぞ!」
 再び目の前で鳴った鞭を、彼女は片手で受けて握りこんだ。異人の白い手首に血が滲み、ウェンラはたじろいだ。
「驢馬のことは感謝してる。それより、こんなものを目の前で振り回すのはやめてちょうだい! ラシャの子どもだって脅せやしないわよ」
「……悪かった。当てるつもりはなかった。痛かったろう」
 ウェンラはようやく鞭を持った手を下げた。彼は左腕を負傷していた。昨日ラシャの盗賊達にあい、荷もいくらか盗まれたと、彼は話した。
「連日の強行軍で、隊列が延びすぎてしまった所をやられたんだ。これも皆あいつのせいだ。それにしても、あの男はいつまで我々につきまとうんだろう」
「この砂漠で彼から逃げようとしても無駄よ。飢えた獣が獲物を簡単に離す? ……彼は西州の照耀平原まで足を伸ばすとか言ってたけど」
「そんなところまで、一緒に行きたくないぞ!」
 ウェンラは頭を抱え込んだ。
 エルヤが幕舎を出ようとするとき、入れ違いにコウサが入ってきた。その形相を見て、エルヤは思わず足を止めて振り返る。
 ウェンラは顔を引きつらせて、幕舎の端に後退った。コウサは大股で彼のすぐ目の前まで行き、殆ど相手へ鼻息がかからんまでに接近する。コウサは幕舎の外で、フェルキリアの護衛達に、自分の刀を預けていたらしい。彼は丸腰だった。しかしフェルキリア側の用心も、あまり意味はなかった。なぜならコウサは、いきなり懐の隠しから短刀を引き出し、ウェンラの鼻の下に刃を突きつけてしまったからだ。ウェンラは息を呑み、顔を仰け反らせる。コウサはさらにぐいと、刃をウェンラの鼻の下に押し当てた。
「ち、血が……」
 ウェンラの口から、逼迫した悲鳴に近い言葉が漏れた。
「手間をかけさせやがって。今度似たような真似をしてみろ。次は見逃さんぞ」
 コウサの怒りを押し殺した低い声が、エルヤの耳にも聞こえた。コウサはウェンラの帽子を片手に奪う。
「おい!」
 幕舎の入り口から、異変を感じてフェルキリアの護衛が覗いた。
「どういうつもりだ!」
 護衛は剣を抜きながら、エルヤを押しのけて前に出る。コウサはちらりと振り返り、鋭い動作で短刀を下げる。ウェンラが鼻を押さえながらよろめく。コウサは鋭い視線を護衛に据えながら、護衛の構えた剣の前へ恐れ気もなしに出る。そのまま、剣の切っ先が目に入るまでに近づいた。護衛は一瞬ひるんだが、剣は下げなかった。というより、剣を下げる機会を失した。
「下げな。それとも、ここで俺達を相手に戦争でも始める気か」
 コウサが身じろぎしたので、剣の先は彼の目の下を少し傷つける。護衛はすっかり気を呑まれて、剣をひいた。それと同時にコウサも身を引く。
 コウサは護衛とエルヤの間をすり抜け、短刀の刃を小さな布で拭いながら、来た時と同じように足早に幕舎を去って行った。ウェンラはそこでようやく、へなへなとその場に腰をついた。
——なんてすさんだ男だろう。
 エルヤは呆れ返った。人を傷つけることにも、自分が傷つくことにも、何も頓着していないようだった。
 このシュチ族の男がこれからウェンラ達をどう扱うのか、誰にもまったく分からなかった。とにかくもこうして再び、二つの隊商は同じ道を行くことになった。
 エルヤはウェンラの側にいることが多かったので、フェルキリアの隊員達が隊商長であるにウェンラに訴えかけてくることを、よく耳にはさんだ。フェルキリアに雇われた道案内達は、彼に言った。
「コウサについて行けば、我々は破滅です。あいつは我々を砂漠の奥深くに迷い込ませて、全滅させるつもりです。そして、我々の残した商品を後でゆっくり盗りに来ようと考えているんです」
 それから数日後、道案内達はフェルキリアの隊商を見限って、どこかへ逃走してしまった。フェルキリアは自身の移動手段を、完全に損なわれることになったわけである。フェルキリア隊商の絶望をよそに、コウサは彼らを導き、黙々と砂漠の道を踏破して行った。
 そして後数日で砂漠を抜けるというところまで来た時、エルヤがウェンラの状態を傍で見守りながら薄々心配し続けてきたことが、起こってしまった。
 夜明け近く、彼女は物音で目を覚ました。隊商宿の階下で、荒々しい物音が炸裂している。エカルが部屋に飛び込んできた。
「姉貴、ウェンラがキレたぞ!」
 彼女は飛び起きた。二人で階下へ降りると、フェルキリアの護衛達と、ラシャ族の男達がランプの明かりの中で、もみ合っていた。しかし彼らのうちには暗黙の了解があるらしく、刀は抜かず素手で殴り合っている。それでも椅子を持って暴れている者もいた。死人が出ないとは言い切れなかった。
「ウェンラが仕掛けたの?」
「寝込みを襲うつもりだったんだろうが、コウサは逃げてしまったらしい」
「ウェンラはどこ? 殺されるわ! あの性格じゃあ、コウサはきっと剣を抜いてる!」
「助けるの? 危ないよ!」
「あれでもまだ私達には必要な奴なのよ!」
 エルヤは駆け出した。エカルが慌てて追いかける。もみ合っている男達は、エルヤには構わなかったが、エカルはラシャの男達に蹴られたり、フェルキリアの護衛に椅子で殴られそうになったりした。エカルがどちらに味方するか、彼らも混乱しているらしい。
「姉貴、待って! 一人じゃ危ない!」
「急いで!」
 エルヤは一言だけ叫ぶと、ウェンラの寝室に飛び込んだ。人気はなかった。しかし、彼女は部屋の中央にある折りたたみの木製寝台を睨みつけ、燭台を引っつかむと、寝台の下にぐいと近づける。寝台の下の暗闇の中で、何かが動いた。
「ウェンラ! こんな所で何してるのよ!」
 彼女があきれて叫ぶと、直後に恐ろしい男の声がした。
「やっぱりそこだったのか!」
 コウサが窓をひとっ飛びに飛び越えて、部屋に現われた。エルヤの想像した通り、彼は片手に刀を持っていた。彼の服や髪は乱れていた。着の身着のままといったところだ。顔には殴られた痕のようなものも見える。彼女は危険を感じて、寝台の端を持ち上げる。ウェンラがその下からがさがさと這い出てきた。
「いいか、二人とも。そこから動くな。お前も父親と同じ目にあわせてやる」
 コウサは押し殺した声で、二人に切っ先を向ける。ウェンラは呻いた。
「エルヤ、なんてことをしてくれたんだ。お前は二度も私を裏切ったぞ」
「人のせいにしないで!」
 怒りを覚えて、エルヤは思わずウェンラの横面を平手で打つ。
「父親の半分の肝っ玉もないくせに! これ以上ごちゃごちゃ言ったら、欠片ほどの愛想も無くしてしまいそうだわ! 少しは頭使ったらどうだったの、この軟弱野郎!」
 エルヤがウェンラの前に立ってしまったので、コウサは舌打ちした。
 その時エカルが部屋に飛び込んできた。コウサはびくりとして彼に切っ先を向きかえる。エカルはコウサが刃物を持っているのを見ると、すぐさま後ろ手に部屋の扉を閉めた。
「武器を収めろ。外では決着がつきかけてるんだ。フェルキリアの護衛は、数は少ないけど精鋭ぞろいだ。あんた、負けかけてるんだよ」
 彼はコウサに呼びかけながら、扉に貫木をかけた。
「頭を冷やせ。武器を収めろ。騒ぎに手がつけられなくなる」
「うぬう……」
 コウサは手にした刀を、腹立たしく床に投げつける。かと思うと、突然エルヤ達に向かって突進してきた。エルヤはウェンラを引っ張って避けようとしたが、ウェンラは恐怖のあまり、腰の剣を抜いてしまった。
「だめ!」
 エルヤは叫んだ。ウェンラの剣の切っ先は、コウサの脇腹をかすった。エルヤはウェンラの腕に爪を立てる。彼は剣を取り落とした。ところが、落とした剣をコウサが再び取り上げてしまう。それを見て、エルヤとウェンラは互いに先を争いながら、コウサから逃げ出す。
「コウサ、動くな!」
 エカルの鋭い怒声が飛んだ。彼はコウサの刀を拾い上げて、コウサに向かって構えていた。
「武器を捨てろ! それとも、俺を相手にするつもりか!」
 コウサはエカルを睨みつける。彼はエカルの剣技がいかなものか、砂虫との戦闘でよく知っているはずだ。盗賊商人ごときが、敵う相手ではない。コウサは低く唸り、エカルに怒鳴り返した。
「まずそっちが捨てろ。騙されるのはごめんだ」
「俺はあんたの方が、信用できないんだけどな」
 エカルはそういいながらも、刀を持った腕を横に伸ばし、指を開く。刀が床に落ちる。瞬間、コウサは手にしていたウェンラの剣を、エカルに投げつけた。エカルは素早く屈んでそれを避ける。剣は壁の木板に当たって落ちた。
 間髪いれず、コウサはエカルに掴みかかってくる。エカルは態勢を崩したままだったが、最初の拳を下に避け、コウサの足を払おうとした。コウサは飛び退った。
 再び二人に間合いが開き、怒りに燃える瞳で、エカルはコウサを見返した。
「剣が当たらなくて残念だったな、おっさん」
 エカルは素早く流れるような動作で足元の刀を取り上げ、壁際に落ちた剣も拾い上げる。コウサの頬が、さすがに強ばった。エカルは右手に持った剣を突き出す。
「櫃を見ろ!」
 エカルはウェンラの後ろに置いてある木の櫃を剣で指し示すと、いきなり剣を投げつけた。エルヤとウェンラは、一寸の動く間もなかった。剣はまっすぐに飛び、エルヤの腿の辺りをかすって、ウェンラの両足の隙間から、後ろの櫃に突き刺さった。
「梁を見ろ!」
 エカルは右手に持ち替えた刀で、天井の梁を指し示す。そして刀を投げる。さらに彼は、投げる時に回転をつけた。そのため曲刀は、勢いも見事にざっくりと梁にくい込んだ。
「武器の扱いは、こっちが上なんだ。二度と妙な真似をするな」
 エルヤはエカルの瞳を見た。少年の瞳は、冷え冷えと澄み切っている。表情も、ずっと大人びて落ち着いて見えた。それは確かに、武器にたいして十分な自信を持つ者の顔だった。
 しかし、コウサの方はほっとした表情になった。エカルがあくまで素手でやりあおうという、意志を見せたからだ。彼から見れば、武器を持たないエカルは所詮子どもに過ぎなかった。
 今度はエカルから、コウサに向かいかかった。二人とも身長は同じくらいであったし、ともに痩身だった。ただ明らかに、筋肉はコウサの方が発達していた。砂漠での厳しい生活に慣れた身体は、細身ながらも非常に密度の高い様子を見せた。対してエカルは、この砂漠での長旅で、体力を落としていた。力比べは、コウサの方が有利だった。さらに言えば、コウサはエカルよりも遥かに喧嘩慣れしていたのである。エカルは何発かをまともに食らって、足元をふらつかせた。もっとも闘争心だけなら、エカルも負けてはいなかった。彼はコウサからどんな攻撃を受けても、悲鳴やうめき声すらあげなかった。それは剣闘の流儀であった。
 エルヤは揉み合う二人を見据えながら、じっと隙を窺った。別に「差し」でやりあう必要は、どこにもないのだ。そして、エカルがコウサに掴みかかりその動きを一瞬封じた時、床を蹴ってコウサの両足に抱きついた。
「くそっ!」
 コウサはエルヤの上に、背中から倒れる。さらにその上からエカルがのしかかり、片手でコウサの顎を突き上げ、片手でその胸元の衣服を掴んで引っ張った。
「ちくしょう!」
 再びコウサが叫ぶ。エカルが彼の懐の隠しから、短刀を抜き取ったからだ。すでにコウサは戦意を燃やし尽くしていた。エカルは鼻血を流しながら、短刀をコウサの首筋に突きつけている。刃は彼の首に少しばかり食い込んで、血を流させていた。エルヤは打ち身を庇いながら、コウサの身体の下から這い出た。
「よくやったぞ!」
 ウェンラが軽薄に喜んだ。エルヤはそんな彼の元へ風のように走りより、彼を背中からそっと抱きしめた。ウェンラは、なぜエルヤがそんなことをしたのか、一瞬不思議そうな顔をした。エルヤの右腕は彼の胸の辺りにあり、左腕は彼の腰に回されていた。しかし、よくよくみれば、エルヤは右手にウェンラの剣を握っていた。剣の刃は、彼の胸にぴったりと押し付けられていた。彼は気づいて体を硬くした。
「お前はどっちの味方なんだ。あいつを縛って大人しくさせれば、全て片が付くじゃないか」
「おめでたいこと。コウサを大人しくさせているのは、あなたの部下じゃなくて、私の義弟なの」
 エルヤはウェンラの首の後ろで、優しく笑った。そして彼を抱きしめる腕にぎゅっと力をこめる。彼女は声色を変えた。
「この大馬鹿商人どもが! 私達はファロまでの安全を求めるが故に、隊商と行動をともにしたのよ! それが何よ! こんなことになって! これ以上の危険は、もうたくさん!」
 彼女は叫んだ。
「あんた達も商人なら、もっと安全と利益を考えなさいよ! この砂漠を抜けても、まだ騎馬盗賊のうようよいるサラードを通り抜けなきゃいけないのよ。コウサ、あなたはサラードじゃあどれくらい顔がきくの」
「シュチ族とユウ族だけだ。サラードでは、シュチの騎馬護衛を手配した」
 エカルと睨み合いながら、コウサが呻くように答える。
「フェルキリアの護衛隊もいれば、心強いんじゃない? サラードのお仲間と、利益を分け合いたくはないでしょ」
「そりゃあな」
 コウサはしぶしぶ認めた。
「この悪党と、ずっと一緒に行けと?」
 ウェンラが顔をしかめる。
「それはお互いが決めればいいことだわ。あとは、あなた達がどう取引するかよ。コウサは底なしの下心をいったん引っ込めることね。ウェンラも、誰に目をつけられたのか考えてみなさいよ」
「峡谷のファロまで、一緒に行こうじゃないか、兄弟」
 コウサはウェンラへ、狡猾そうな笑いを向けた。ウェンラも、この盗賊から完全に逃げ出すことは無理だと悟ったようだ。
「フェルキリアのアメク織りを積んだ木箱を、ひと箱やる。それでいいか」
 しばらくの沈黙の後に、コウサの切羽詰った息が聞こえた。エルヤには、エカルが短刀を持つ手を少し動かしたように見えた。ややあって、コウサの苦しげな声が聞こえた。
「仕方ないな。それでいい。さあもういいだろう。小僧、離せ」
 エカルは、コウサの胸の上で首を振った。
「いやだ。俺はあんたが恐いんだ。離しても、俺や姉貴に何もしないというなら、短刀をのけてやる」
 コウサは咽で笑った。
「俺が恐いというのか」
「今度こそ約束は守れ。さもないと……」
「分かった。降参だ」
「アテンとカランの赤い火にかけて誓えるか」
「面倒だ! 誓う」
 そこで、ようやくエカルはコウサを自由にした。コウサは立ち上がり、自分の襟首を引っ張った。
「うわあ」
 エルヤは呟く。コウサの白っぽい装束は、エカルの流した鼻血で大きな染みをつけていた。さらに、短刀で傷ついた首からの血も、彼の襟元を染めていた。ひどい姿だ。エカルの格好も、鼻血のせいで似たようになっている。おまけに袖が千切れかけていた。
 エカルは、左手の甲でしきりに鼻の下を拭う。コウサはニヤニヤしながら、彼と向かい合った。
「たいした小僧だよ。思ってた以上らしい。でもな」
 すると彼は、突然左手を鋭く動かした。エルヤは目を見開く。コウサが左手に短刀を持ち、エカルの首筋に当てていた。エカルはじっとコウサの目を見返した。
「正直すぎる。最後まで、気ぃ抜くな。俺は奥の奥の手まで持ってんだよ」
 コウサは凄んでみせてから、くるりと彼に背を向けた。コウサはエルヤに言った。
「こいつが気に入った。俺にくれ」
「なにを……」
 エルヤは口を尖らした。
「それは本人が決めることだわ。ねぇ、そうでしょ?」
「そうさ」
 エカルは鼻をつまみながら、機嫌の悪い声を出した。
「まっぴらごめんだ。まだ姉貴の方がましだよ」
「まし? ましって、どういうこと?」
 エカルは相変わらず機嫌が悪そうなまま、じっとエルヤとコウサを見比べた。
「私はこいつほどすさんじゃいないでしょ! それに、日常生活で刃物を振り回すような危険人物でもないわ!」
 エルヤはエカルを睨みつける。
「いや、君も十分すさんでるよ」
 ウェンラが疲れた声で答えた。
「いい加減、私を解放してくれ。たちが悪いのは、君達の方だった」
 エルヤはむくれて、ウェンラから体を離す。その時ごとっと音をたてて、梁に刺さっていたコウサの刀が床に落ちた。幸い、誰も怪我をしなかった。
「切るんなら、もうちっと深く切っとけ。危ねぇな」
「そこまで怪力じゃない」
 エカルは鼻から手を離しながら、コウサの文句に答えた。血は止まったようだった。
 それぞれの男達は、自分の武器を鞘へしまいこんだ。エカルは扉の貫木を抜き、扉を開けた。
 そこでウェンラはあっけに取られてしまった。エカルは勝負がつきかけているといっていたが、そんなことはない。まさに同等同士が、力いっぱいぶつかり合っている混乱の真っ最中だったのだ。
「だましたのか!」
 ウェンラはエカルを睨みつける。コウサは片手を上げた。エカルは身を硬くしたが、コウサは彼の頭を軽く小突いただけだった。
「さあ、仕舞いだ。やめろ、やめろ」
 コウサは続けてラシャ語で同様の内容を怒鳴る。ウェンラも両手を上げた。
「終わりだ、終わったぞ!」

 そして翌日、二つの隊商はともになって出発した。少々の混乱はあったものの、無事サラードを抜け、ヌーク峡谷へ到る。その後、この二つの隊商がどこでどのようにして別れたかは、エルヤは知らない。彼女と義弟はファロにたどり着いてすぐ、この危険な隊商と別れたのだった。

眠れる巨人 - 完 -