天空の道

前編

 頭上には朱に染められた梁の列。そこからカントゥヤの木肌で作られた札がいくつもぶら下がり、楽士達の奏でる音色と踊り子達の足踏み、そして料理の湯気と客達の熱気の中で、左右に揺れて回っている。札に朱で記された文字は、ひどく雑多な情報を遠来の客達にそれとなく告げる。カントゥヤの森神への賛歌、短い夏への憧歌、旅人の哀歌、詩人の琴歌、遊女の情歌、狩人の踏歌、そして古くからの導歌、偉人の死を伝える誄歌、新しい出来事、誰ともなく向けられた伝言。
 いびつな馬蹄型のテーブルの一つに、数人の旅商人達がたむろしている。身体からまだ埃も落とさぬ。今朝方街へ入り、それぞれ市場で荷をひと捌きした後であった。
「この都も、随分大きくなったものだなぁ。人も多くなった」
「まったくだ」
「ここは久しぶりなのかい?」
「わしは西州を主な仕事場にしてるんじゃ。ここまで足を延ばしたのは十数年ぶりだ」
「東州本土との通商路が拓けてしまったからな。おかげでカントゥヤの値が下がっちまったが、東州の絹が手に入りやすくなったのはいいことだ。人が多くなったのは、東州人が入って来たからと言うより、絹を求める西州人が増えたからだ。ただ、俺が餓鬼だった頃に比べて、この都も東州の匂いが強くなったかな。そら、あの踊り子どもの舞い方を見てみろよ」
「まぁ、ここがどこかと言ってしまえば、紛れもない東州だからだよ」
「この天空の道を最初に切り拓いたのは、俺達西州人だったってのに。……おい、何かこっちに来るぞ」
「よぉよぉ。西州からの客人よ。俺も仲間に入れてくれんかね」
「好きにしろ。席はまだ空いている。ところで東州から、何か面白い話は持ってこなかったか?」
「面白いも何も、東州商人達は帰り道を塞がれちまったよ。まだ聞いてないのか。トルバルクの道が崩れたんだ。地下に巨大な洞が空いていたらしいな。橋をかけるとか言うが、いつ帰れることやら。あそこは黒い森が豊かでいい稼ぎ場なんだが、目と鼻の先でおあずけくってるわけだ。それより、西州から面白い話は入ってないか? 馴染みの遊女に、色々話してやりたいと思っててな」
「たいした肝の据わりようだな」
「おい姐ちゃん、酒をひと壷よこしてくれ。さて、あんまり血なまぐさい話はよしてくれよ」
「天空の道一番の竪琴師、エツベルの近状は知ってるかの。その演奏は、森の獣ですら耳を傾けに姿を現すって、あれだ。西州で名を上げた漂泊の楽士で、竪琴を奏でながら歌も歌う、あれだ。けしからんよ。奏でるか歌うか、どちらかに集中しろというに」
「東州じゃ、珍しくはない。だから西州で耳を惹いたんだろう。確か今どきの言葉で、吟遊詩人と呼ぶんだ。続きを」
「ウワカンの太守が、数年来の夢がかなって、エツベルを館に招いてもてなしたそうだ。ところがある晩、エツベルが太守の女奴隷を一人、さらって逃げ出してしまった。エツベルは太守の家来に追われながら、天の峠を越えて東州を目指しているそうだ。一方で、東州側の商都は、そいつの到着を首を長くして待っていると」
「ほう」
「エツベルはもともと東州の生まれだったらしいな。俺達も近々、すばらしい演奏が聴けるかもしれんぞ。竪琴師がやってきたら、きっとこの都の主は、俺達を招いて宴を開くはずだからな」
「いい話を聞かせてもらった。ありがとうよ。しかし女奴隷とはまた意味深な。なぁおい、それなんだ? あんたの頭の上にぶら下がってる札」
「これか? ええと……『花一華の都 石の肌持つ遊女 ピャフィフィの家』だと。へぇ、石の肌か! 異人遊女だな。しかし発音しにくい主人の名だ」
「興味深い事が書いてあるよな。この下げ札ってやつには。こっちのにはなんて書いてあるのかね……」
「ピャフィフィはその名のとおり、小鳥がさえずるように、美しい声で歌った西州の女だ。ピャフィフィの家と言えば、西州古典芸能に卓越していることで有名だった。今もそうなんじゃろうか。わしはもう長いこと行っとらんから、よく分からんな」
「石の肌か。本来なら、王族や富豪の観賞用奴隷としてしか取引されとらんが」
「おおかた傷物なんだろう。それでも、玉代が馬鹿になりそうだな」
「なあ、誰かこの遊女のことを知ってる者はいないか! 都セゲアテルの石肌の遊女を!」
 酔った勢いで声を張り上げ、店内を見回す。別のテーブルで踊り子の少女を膝に乗せ、食事をとっていた身なりの良い東州商人が、こちらに顔を向けた。
「あれの舞は超一級だ。口を開けば愛想も教養もないが、神託だとでも思えば聞けんこともない。しかしあの娘の肌と髪の色はすばらしい。肌は純白、髪は純金。陸中海の雲と陽光を思い出させてくれる。この太陽神の恵み薄い、寒々とした辺境の地でな。長い首と手足も見事だ。あの容姿こそ、人間の遊女にはない、異人遊女ならではの妙よ」
「いい舞手なら、見に行くだけでも価値がありそうだ。だがプ……ピャフィフィの舞台は高いだろう」
「遠目に拝んだって見事なもんだ。あれだけ背が高いんだからな。だが手は出せまいよ。俺ほどの稼ぎにならん限りは」
 それを聞いた旅商人達は、あいまいな笑みを浮かべながら互いに顔を見合わせる。それから彼らの話題は、別の下げ札に書かれたものへと移っていった。

 天空の道とは、翼竜大陸を東西に走る交易路の一つである。名の由来は、西州と東州を分かつ竜骨山脈越えの道が雲の上まで届くことから来ている。その峠は人間が到ることのできる場所の中で、最も天に近いと言われる。
 天空の道において主に取引されるのは、東州西州からの品物だけではない。カントゥヤと呼ばれる樹木は、天空の道の貴重な特産品である。耐火と防腐性に優れ、頑強さとしなやかさを併せ持ち、魔力を帯びている。これを使った建物は、悠久の時を得るという。また森にあってこの木は枝を伸ばし、互いに絡み合う性質を持つ。そのためカントゥヤの森は枝葉の厚い天蓋に覆われ、他の樹木は淘汰される。カントゥヤを切り倒すのは至難である。根を切り他と繋がる枝々を絶ってはじめて、森から持ち出すことができる。厚い葉が幾重にも重なって日を遮り、森の底は常に暗く、故に黒い森と呼ばれる。
 カントゥヤは人間達の住む地域、すなわち人間界において、異界に近い場所にしか存在しない。つまり天空の道は、人間界最南を規定する境界線でもあった。道から南へ逸れれば、そこはもう人間に許された土地ではない。魔力を持つ地は様々な幽鬼を生み、風に黒いまじないをかける。人々は異界の危険な息吹にさらされながらも、カントゥヤという貴重な宝を求めて行き来した。
 その天空の道を構成する都市は百余り。要となる都市は八つある。いずれもそばにはカントゥヤの黒い森を持ち、都王はそこから得る利益で莫大な富を築いている。中でもセゲアテルはより豊かな黒い森を持ち、異界にもっとも近くにありながら、富と文化の隆盛を極めていた。さらに東州へ通じる東大北道が拓かれると、新たな人と物の流れが生まれ、都は天空の道の珠玉とまで呼ばれるようになった。
 都に並ぶ多くの建物はカントゥヤからなる木造建築であり、黒い森さながら家々は壁や梁を共有し、密集して巨大な構造をなしている。赤い土壁にはカントゥヤの木肌を裂いた繊維が火除けのまじないと共に混ぜ込まれ、白と紺に彩色された柱が縁取っている。その都の姿を、遥か沿岸地域から来た旅人は巨大船となぞらえた。
 都の富を根底から支えるのが黒い森であったなら、文化を生み出したのは都の花街である。西州の風俗に色濃かった都も、東大北道が拓いた後は、ここで最初に東州の文化が融合された。東州の物語が入り、東州の楽が奏でられた。芸妓は東州の着物をまとい、遠方からの客人をもてなした。
 花街で古くから遊女の家を持つピャフィフィは、未だ新たな流れに乗り切れない女主人である。幼い頃より西州の着物と楽で育った彼女には、近年の東州かぶれは苦々しいものだった。西州芸能に固執する隣近所の遊女の家が傾く中、彼女の家がまだどうにか持ちこたえていたのには、彼女自身あまり認めたくない理由がある。彼女が抱える遊女は、全て異人だった。その物珍しさは東州商人には新鮮で、彼女らが人間の楽を奏でること自体もまた味わい深く、人目をひいたのだ。彼女が仕込んだ一流と自負する西州芸能は、客達には二の次であった。それでも結局、彼女はめげなかった。
「猫の仔を拾ったら、日増しに大きくなって、一人前の娘になっちまった。言葉まで覚えてあれが欲しい、これが食べたいとうるさいから、自分で稼ぎなとワルバを持たせたのさ。あの子は毎日しゃんしゃんワルバを鳴らして、この家の柱を立てた。あたしの歌が壁を塗って、旦那方の心付けが屋根になった。あの子と一緒なら、クルートドゥルーの詩人にも引けをとらない」
 猫の仔は先に年をとって天へ昇ったが、さえずる女は若作りをしながらますます太り、他の異人娘を引き取って育てるようになった。彼女自身の生い立ちでは、他に生かし方を知らなかった。一人引き取るたび、彼女は仔犬が犬にならなかっただの、子ヤギが羊娘になっただのと馴染みに愚痴ってみせては、家に呼び込んだ。
 ピャフィフィが石花娘を家に迎えたのは随分前のことだ。この種の異人は見た目も趣があり、人間の相手も十分にこなせる。彼女がこの異人娘を引き取るのにいくら払ったか、花街では色々取り沙汰されたが、傷物だと分かるとやっかみ半分の噂も絶えた。
 石花娘は引き取られてしばらくの間、遊女の家の中庭で、やつれた白い身体を日に当てて寝てばかりいた。踊りもしなければ、口もきかない。
 数ヶ月おきにピャフィフィは彼女をある医師に見せに行った。医師は異人を診るのを専門としており、その知識から異人売買の仲介も兼ねていた。花街から出られない異人遊女のため、街の一角にある家へ定期的に出張している。この医師はトカゲの異名で呼ばれる覆面の男で、本当の名を知る者はいないようである。彼は石花娘を早々ピャフィフィに厄介払い出来て、内心喜んでいるようだった。
「あたしがこの子を引き取ってから、憑き物が落ちたような顔をして。もともとあなた様は、日向にいたって日陰にいるような顔をしなさってるが。たまには茶屋に出て、人間の娘相手に気晴らししたらどうですかね。知り合いに頼んで、いくらでも好みのを紹介いたしますよ」
 トカゲは女主人の戯言に暗い顔を歪めただけだった。石花娘は女主人の隣でトカゲに冷たい視線を投げていたが、彼が人間のふりをしながらその実、彼女と同じ石花族であるのを知っているからだった。

「銀貨一万五千だ。それ以上は出せん」
 部屋の主であり、長身痩躯のトカゲと名乗る男が、短く言い放つ。旅商人はトカゲと娘の間に立ちはだかり、頑固に首を振る。
「都王のところへ行っても良かったんだぜ! それをわざわざあんたの所へ運んでやったのに、そりゃないだろ。この娘は、石の肌を持ってるんだぞ! 魔力封じの腕輪だって高くついた。相場は、白絹四山、カントゥヤの大木一本らしいじゃないか。せめて二万はもらわんと……」
「石花族は、他の異人と違って、体調の扱いが難しい。だから俺を通さねば、売買はできんことになっている。俺の付ける値が気に入らぬなら、もう五つ町を越えて、俺の同業者のところまで持っていけばいい」
「さすがに、そこまでは足を延ばせねぇよ」
 言葉を詰まらせた旅商人へ、トカゲはとどめとばかりにこう言った。
「なんなら、ここで娘を裸にして、もっと詳しく見立ててやってもいいんだぞ。旦那がどうしても正当な値をこの娘につけて欲しいというならな。だがそんなことをする暇があったら、俺は一刻も早く、この娘にまともな治療を施したいんだ。ぐずぐずしていると、元も子もなくなるぞ」
「ええい、仕方ない。分かった」
 トカゲの指差す先には、敷布の上でうずくまる背の高い娘の姿がある。ぼろをまとい、剥き出しの手足は生乾きの傷で覆われている。肌は純白に近く、長い髪はさらに白かった。
 旅の途中、異界間近の崖で異人娘を偶然拾っただけの旅商人にしてみれば、銀貨一万五千でも濡れ手に粟の大儲けだ。それにただの食品商である彼には、奴隷売買というものはいささか勝手が悪い。彼はトカゲの秘書と契約を交わすために、別室へ引き下がっていく。
 部屋の引戸が閉まるのを確認すると、トカゲは素早く棚へと歩み寄る。鍵付きの引き出しの一つから、掌におさまる程度の小さな翡翠の瓶を取り出した。彼は机上に伏せて置いてある湯飲みに、瓶の中身を空ける。瓶からは透明な液体が糸を引くように零れ落ちる。彼は水差しを片手にとり、小瓶の中を少量の水で数度洗い流し、中身を全て湯飲みへ移しかえる。
 彼は湯飲みを片手に、ようやく娘へと歩み寄る。上半身を引き起こすと、娘のまぶたは血と膿で閉じている。彼は奥の部屋に「おい」と呼びかけ、しばらく待って誰も来ないと分かると舌打ちした。
「耳は聞こえるだろう。人間は、お前達を石花と呼ぶ。ずいぶんひどい様だが、崖の下でなく上にいたというのはどうにも分からん。崖を転がり落ちたんでなく、転がり上がったのか」
 彼女は朦朧とする意識で、故郷の言葉に耳を傾ける。
「二、三度転がり落ちて、最後に一度だけ這い上がった」
 彼女は寂しげに呟く。トカゲが手に持つ湯飲みから芳香のようなものを感じとったらしく、そちらに顔を向ける。それは鼻で匂うものではなく、魔力で匂う類の物である。魔法を封じられても、異界の民である石花は本能的に知ることができる。
「まずはこれを飲め。水と、水のようなものだ」
 トカゲが湯飲みを差し出す。娘は無気力に両腕を下げたまま動かなかった。
「水は、結構。飲んでも飲んでも、渇きは癒されない。飲みすぎて、体を冷やしてしまった」
「人間達の国は、土地の持つ魔力が薄い。お前達にとって、そういう土地はまるで砂漠のようなものだ。お前の感じている渇きは、肉体に由来するものじゃない」
 娘は答える代わりに手を差し出した。指先は割れ、爪は剥がれかけていた。
 崖を登ったというのは嘘ではないかも知れぬ。あの旅商人は、青霧山地の崖の道で彼女を拾ったと言った。崖の道を通る隊商は全て、邪精除けの守り袋を持ち、風のように速く通り抜けようとする。あそこは天空の道全行程中で、最も異界に近づく道なのだ。崖の下から南は大地が強い魔力を持ち、石花族を含む魑魅魍魎が闊歩する世界である。
 トカゲは娘の蒼白の肌と純白の髪を値踏みし、ついでひどい怪我の分を差し引いて勘定する。娘の身体には新しい傷だけでなく、古い傷跡も無数にあった。二万でどうにかなるならましだが、それもまずは命を保証し傷跡が目立たなくなるような処置を施してからの話だ。
 トカゲが考えを巡らせる間に、娘は水を飲み干す。彼女の手から湯飲みが落ち、暗い部屋に高い錫の音が響く。トカゲは音で娘に視線を戻した。手を叩いて人間の召使達を呼び寄せる。現われたのは体格の良い二人の中年女で、担架を手にしている。
「早く来いと呼んだだろう」
 トカゲは怒鳴り、落ちた湯飲みを拾い上げる。
「自分で担架に乗れるな? まずはその不潔な体を洗って傷を縫合し、病の精を退治する薬を調合せねばならん。湯飲みに血を数滴垂らせ」
 娘は言われたとおり、指先の傷を押し開いて、湯飲みへぽたぽたと血を落とす。その後彼女は、二人の召使によって隣室へ運ばれていった。
 トカゲは再び棚へと歩み寄り、引き出しから携帯式の薬箱を取り出す。湯飲みの中へ薬草の粉末を振り入れ、娘の血液とよく練り合わせる。
 石花族は、人間達の分類から言えば異人の中でも擬人と呼ばれる種族に分類されていた。言葉どおり、彼らの姿形は人間と変わるところはほとんどない。違うところといえば、石花達の頭髪と瞳の色彩が最も主なものだろう。人間達が彼らに花という言葉をつけたほど、それらの色彩は多種にわたっていた。褐色系の頭髪しか持たない人間達からすれば、赤や緑や青などの髪と瞳を持つ石花は、まさに色彩の申し子達であった。石花の肌は多くの場合人間のものと異なるところはなかったが、石の肌と呼ばれる純白あるいは漆黒の肌を持つ者がいる。それは石像が生きて動いているような神秘的な趣がある。浮世離れしたその姿は特に身分の高い者に好まれ、美術品に似た高値の扱いを受けている。
 しかし石花達の本質は、そのような姿にはない。魔力に満ちた大地に住まう彼らは、非常に強い魔法の力を有していた。彼らに宿る魔力は現身の存在を凌駕しており、肉体が五感を持つと同じように、魔力においても五感を持っている。それ故に、石花達は人間と似たような姿を持ちながらも、まったく別の生き物である。人間との合の子は生まれないし、病をうつされても発症しない。逆に、人間には想像もつかない病にかかることがある。黒水病は体が徐々に黒い水となって溶け出すが、その水は人間には恐ろしい毒となる。かつてその病にかかった石花は、主人である貴族とその館に務める者ほとんどを死なせてしまった。病の初期にあったその石花が触れたもの、踏みしめた床、呼気、全てに黒水がついていたのである。
 トカゲは四本の銅製薬匙を取り出し、それぞれで練った血液を少量採る。左手の指の間に四本の薬匙を立てると、右手をそれらにかざす。小さな閃光が各々の薬匙に灯り、一瞬緑の炎を上げて白煙へと変わる。四つの炎はどれもみな同じ色合いで、薬匙の先には黒い炭だけが残った。娘は、特にこれといって厄介な病の精は持っていないらしい。人間からも病をうつされた形跡はない。人間を悩ます病の精は、石花に害を及ぼすことはまずないものの、石花の体内に隠れ潜むことはできる。そして別の人間がその石花と接触した時に、病の精が宿代えすることがあった。逆も然りである。
 それから彼は、熱冷ましの薬と麻酔薬を調合する。隣室から女の悲鳴が上がって、召使の一人が彼の前へ走り寄って来る。彼女は濡れた両腕を振り上げながら、彼に訴える。
「申し訳ありません、旦那様! 娘の髪に湯をかけたら、髪が溶けてしまいました!」
トカゲは中年の召使をじろりと睨み、つまらなさそうに説明する。
「慌てずに、娘の髪を探すがいい。ちゃんと頭に付いている筈だ。あの娘の髪の色は、水のように透明なのだ。石花の髪を脱色したら、ああなる。乾いている時、白に見えていただけだ」
 主人に睨まれ、来た時よりも慌てた様子で召使は部屋から出て行く。トカゲは出来上がった薬をまとめると、召使の後を追うように、同じく部屋を後にする。隣室では暖かな湯気と薬湯の芳香がもうもうと上がり、衝立の向こうで湯の跳ねる音がする。
「最後は白湯で、念入りに洗い流せ。傷口を広げないよう注意しろ」
トカゲは衝立の向こうに怒鳴り、その部屋を通り過ぎてさらに奥へと入っていく。最奥は、売り物となる異人を閉じ込めておく場所だ。小部屋が三つ。彼は見張り用机の脇から火鉢を引き摺って行き、小部屋の一つへ運び入れる。火鉢に火を入れると、見張り用机も小部屋の寝台脇へ持っていく。彼はしばらく小部屋から姿を消し、戻ってきた時には手術具一式と燭台を手にしていた。机の脇に腰掛け、照明に火をともし、手術具の刃を炙っているうちに、召使達が洗い上げた娘を小部屋へ運んできた。娘は腰帯一つで担架の上でなすすべなく横たわっていが、トカゲが手にしている物を見て、身を震わせた。腫れたまぶたは綺麗に開き、緑の影を落とす琥珀色の瞳が刃に映っている。
「それで何をするの」
「ましにするんだ。その傷を」
 召使達は娘を寝台へと横たわらせた。娘は非常に背が高かったため寝台に納まりきらず、足の先が宙に浮くことになる。召使の一人が、足を支える台を探しに部屋を出て行く。
 娘は居心地悪そうに、そして怯えた様子で、トカゲの持つ小刀をじっと見つめた。
「ささくれている傷の縁をきれいに切りとって、縫合する。治りも早くなるし、傷痕もきれいになる。麻酔をかけるから、痛くはない。眠っている間に終わる」
「崖の上には行くなと言われていた。人間達がいるから。私は罪を犯して上まで逃げなきゃいけなかったけど、まさかこんな末路があったなんて」
「末路の先が長いもんだ。何をしたか知らんが、ここまでくれば過去は関係ない」
 麻酔の粉末を手にとったトカゲは、思いがけず娘に刃を持った腕を掴まれる。その力は強く、振りほどこうにも肩すら動かせない。
「あの崖を越えるのは、処刑を免れたい罪人くらい。あんたもそういうわけが——」
 それが少なくとも、正体を見破られたとトカゲが知った最初の瞬間だった。彼は忌々しく、娘の鼻先めがけて麻酔粉を投げつける。
「俺が石花だと知れたところで、どうということはない。お互い処刑を免れて、生きたままあの世に来たようなもんだ」
 トカゲは覆面の目元を引っ張り、布の奥へ瞳を隠した。彼の姿のなかで人間離れしたところは唯一、その瞳の色だけだった。彼は力の抜けた娘の腕を振り払い、陰気につぶやく。
「幻影の都へようこそ、御嬢さん。髪に色が戻るのが楽しみだ。その肌と髪で、クルートドゥルーの詩人達に霊感を与えるがいい」
 それから十日としないうちに、トカゲはピャフィフィに新しい異人娘が来たと手紙を出した。異人娘の傷はほぼ生涯に渡って消えず、背も高すぎてまともな売値にならないと踏んだのだ。ピャフィフィはこういった異人娘を安く買っては、芸を仕込んで稼がせるやり方をとっていた。見た目の珍しさや美しさは、他の異人遊女の家ほどこだわってはいない。彼女は自分の領分と客の懐の内をよく分かっている。
 ピャフィフィは娘の傷に文句をつけながらも、珍しい石肌の石花が手に入って喜んだ。
「芸を仕込むには、とうがたってるね。それに怪我もまだ治ってない。今後お宅に通う分の薬代も差し引いとくれ。その都度払うからさ」
 彼女は値切るのを忘れず、結局銀二万で娘を連れ帰った。しかし娘は石花の舞に熟達しており、ピャフィフィは東州の舞に対抗できると希望を持つ。ところがトカゲにはそのことを隠し、娘の舞が評判になった後でトカゲが乗り込んで行っても、売買は終了していると安く買い叩いた分は一切支払わない。おまけに薬代も随分けちって、娘を診察に連れてくるのは四ヶ月ごとがやっとだ。代わりに茶屋への招待を申し出たが、それもトカゲが断るのを見越しての方便だった。

 ピャフィフィの家はさほど豊かではなく、かといって決して格下でもない。中堅の客を押さえながらも、異人遊女と西州芸能を専門とすることで、地元の裕福な馴染みを持ち続けていた。だから月に数度は、遊女達に休日と豪華な食事が用意される。褐色の柱と紺の塗り壁からなる家はカントゥヤの樹皮葺き屋根を持ち、その下で異人娘らは残りの人生を送った。
 早朝、泊まりの客らを送り出し、女主人は隣にのんどりと立つ石花娘を顔の側まで屈ませた。
「お前もここに来て十年になる。お前の舞は随分稼いでくれたし、部屋をやってもいいかもしれない」
「着物も自分で買わなきゃいけない?」
「今まで買ってやったものは、みんなお前さんの借金になってるだけだよ。この家で年をとるつもりなら、かまやしないが。ところで石花はどれくらい生きるんだろうね。あたしの仔猫ちゃんは、十五年で先に逝ってしまったよ。飯炊きの婆さんもこの間逝ったが、まだ二十才だった。異人はどうにも短命だね。人間と同じくらいなのは、あの角付きの子達らだけだ」
 ピャフィフィは腕にはめたワルバをしゃんと鳴らす。形見となったその鈴を、彼女は肌身離さない。石花娘はにこりともせず、自分のワルバを震わせた。
「義母さんより遥かに生きるわ」
「あたしはもう、いつどうなってもおかしくない。いよいよとなればこの家はユイシに任せるつもりでいるから、お前もよく手伝っておくれよ」
「その話はもう、何百ぺんか聞いたわ。この五、六年間」
「どこにも行く気はないんだね」
「どこに行けばいいものやら。異人は誰かの財産でなきゃ生きられない。分かったのはそれだけ」
「クルートドゥルーの詩人達に耳を傾けりゃ、居ながらにして世界のどこへだって飛べるさ」
 石花娘は大きなあくびを一つ飲むと、他の遊女達と共に家の中へ戻る。これから昼まで一眠りし、それから芸の稽古をこなして夕の舞台へ出ねばならない。
 セゲアテルの花街は見事なカントゥヤ建築が多いと有名だが、中央茶屋は都王の宮殿にも負けない豪華さだ。カントゥヤの柱は金箔銀箔で覆われ、壁面には東西からあまねく集めた様々な顔料で彩色されている。中に灯りをいれた球状の提灯は辰砂の赤に染まり、延々と続く雲母の真珠色の編み模様に包まれ、風に回る。大宴会場は四階分の吹き抜けで、頭上には白く塗られたカントゥヤの梁が幾重にも渡されている。その梁の上をさながら天空の精霊達のように、遊女や酒壺を手にする子どもらが渡った。金色の円舞台は中央にあり、演目は全方位を意識して行われる。唯一死角となるのは控えの間が設えられている部分だが、薄い紗で幾重にも覆い、月にかかる雲を摸していた。
 日が傾きかける頃、使い走りの子どもや若者らが辻を走り回って道のかしこに小さな香炉と明かりを置いて行く。格下の遊女らは口に草笛を模した翡翠の笛をくわえ、花街の大門が開く知らせを出す。客の多くは旅商人とその従者や人夫だ。彼らはそれぞれの格に応じた茶屋や遊女の家に散って行く。人夫などは、物悲しい笛の音を追って街の裏手へ姿を消す。中央茶屋へ入ることができるのは、それなりの金を払える者達だけである。大宴会場へ通される客もいれば、上階の部屋を取り、直接芸妓を呼ぶ裕福な馴染客もいる。
「お客が来たよ。そろそろ梁に上がんな」
 使い走りが控えにたむろする遊女らに声をかける。石花娘が一番に三階の梁を目指す。単純に高いところが好きなのと、三階回廊は特別に許された旅芸人達の控えがあり、彼らから様々な話を聞けるためだ。石花娘を追って、同じ心積もりの異人遊女が続いた。
 廊下には料理の盆を持つ召使が行き交っている。外から次々と今夜の料理が届くのだ。東西様々な国の料理は、天空の道で新たな趣向を生み出す。大宴会場では今にも、白銀の皿と椀が幾重にも重ねられ、果物と花を盛った塔が建てられようとしている。梁から見下ろすと、大輪の菊、それも花弁一枚ずつが異なる色合いにそまった幻影の花のようである。
「本物の梢華って、見たことある?」
 梁の両脇には、金糸を織り込んだ絹の綱が張られている。胸の前に綱を握り、梁に腰掛けながら、獣の尾を持つ遊女が石花娘を振り返る。石花娘はその後ろを渡って、隣に座る。長すぎる足を宙に降ろし、足首のワルバを鳴らした。
「クルートドゥルーの詩人と一緒。この世には咲かない花よ。あの人達も、この世では歌わないと言うじゃない」
「でも、梢華と呼ばれたい。この世の梢華はすごく綺麗だもの」
 石花娘の後ろをすり抜けて、柔らかな灰色の和毛に覆われた娘が隣に座る。セゲアテルの遊女には虫や花の名を持つ階級があるが、梢華はその最高位だった。その位を持つ遊女は、このセゲアテルでさえようやく一人いるだけだ。
「今日は梢華の御方はこないでしょう。明日は都王がクルートドゥルーの詩人達を連れてくるから、あの方もきっと呼ばれる」
「今日は前夜祭か」
「前夜祭にしか出られない人も多いだろうけど。私達も明日は家でお休みね」
「義母さんは文句を言ってたけど」
「でも都王が玉代を出してくれるんでしょう」
「西州音楽を披露できないのが悔しいのよ」
 三人が足をぶらぶらさせていると、階下の渡り廊下を芸者らが渡って行く。そのうちの旅芸人達が、石花娘の長い足に目を留めて立ち止まった。小太りの老人と三人の若者で、みな笛や竪琴の楽器を手にしている。
「これはまた随分不思議ですな。三者三様のお足だが、わしが普段見慣れているような足はない」
「見慣れてるって、嘘ばっかり」
 銀猫娘が片足をぽーんと上げると、老人は大きく笑う。
「これでも息子を三人持つ身です」
「足はいいから、何か演奏しながら歌ってよ。あの、吟遊詩人とかいうのみたいに」
「そうね。お客もこっちを見てる。後で降りて行って、たくさんご祝儀貰うといいわ」
 石花娘と長い尾の娘が急かす。明日ここに顔を出せないなら、流れの芸人達の一風変わった見せ物を十分楽しめない。老人は意を汲んで、手に持つ長首の擦弦楽器を構え、息子達を振り返った。

素晴らしい茎が 天から地へ伸びてござる
その先に 綺麗な絹の花を咲かせて
私のおつむの上 双子の花が揺れていら
これはこれは なんとも素敵な三人娘さん
かわいい六本の足で 年寄りをからかうのはおやめ

 父親の誘いに答えて、前に出た長男が太鼓を打ち鳴らす。

水芭蕉のお耳を持つ 銀天鵞絨の娘さん
その柔らかな毛並みは
神が与えたもうた優美の証
でも 気をお付け
その毛並みの中の住人が
跳ねた先でお客人に噛み付かぬよう

 長男を真似、次男がおどけた様子で笛を吹く。しかし彼は歌おうにも歌えない。すぐに真ん中を末息子に譲る。

指先に金の欠け月挿した 幸運な娘さん
その硝子の瞳は謎めいて
誰しも捉えることはかなわない
さあ 押さえておきなさい
主人の瞳より正直なその尾っぽ
お客人の顔を赤や青に染めぬよう

 末息子は竪琴をかき鳴らし、再び次男に場所を譲る。彼はようやく口から笛を離し、両手を打った。

ミルクから彫り出された 純白の娘さん
あなたの頭を飾る御髪は
まさに神を現す後光のよう
もし 私の願いが叶うなら
その輝きよ 太陽を超えよ
あなたのお顔が見えなくなるほどに

 次男がひっこむ。腕を組んでしまった三人娘をなだめるように、老人が中央に戻る。

なんとも素敵な三人娘さん
巧みは 舞い踊り人の心を捉える極み
されどあなた方の心は
琴の音のみぞ知る

 演奏が終わると、階下から笑いと拍手がわいた。
「それでは、ご祝儀を集めに参りましょう」
 旅芸人の親子は挨拶して立ち去った。まもなく石花娘は絹の履物を脱ぎ、梁から渡り廊下へ飛び降りる。そこからさらに別の梁へと移って、舞台の上へ着地した。そろそろ宴が始まろうという時、人々は期待に包まれている。
 天の止まり木から淡い金の紗と共に降りたのは、白く丈高い異人女。彼女は手にした絹の履物を舞台の外へ投げる。顔からつま先まで、全身金銀朱で文様を描いているのは、身体の傷痕を隠すためでもある。腹の前に太鼓を下げた芸妓らが控えの雲からわらわら現れ、ばちを頭上で高らかに打ち合わせる。それを合図に、異人の乱舞がはじまった。
 舞手は空から降った銀のばちを両手で受ける。舞い降りる金の紗をばちで受け、舞手はとんぼ返りをうった。銀のばちは金の紗を絡め、白い足先は大きな半円弧を描く。砂漠に落ちる激しく荒々しい陽光だ。生来身に受けた石花の舞踏と西州の舞を、ピャフィフィの才能が結びつけ、新たに生み出した舞である。
 十連の太鼓に、長尾娘の弾く琴が加わった。彼女の金に塗った十本の指が弦の上を一度走り、尾の先に留めた銅の指輪が小さな鐘を打った。
 琴と鐘の鋭い一瞬に、石花娘は静止する。蒼白の肌は上気して、今や真珠の光に煙っている。唇には血管の赤みが滲んでいた。頬に金の涙が流れたのは、汗に溶けた目元の化粧である。伸ばした腕は微動だにせず、ただ肩と胸元が呼吸に合わせ柔らかに上下する。
 梁の上で、銀猫娘の横笛がはじまった。琴の音がそれに重なり、緩やかな西州の旋律が紡がれる。石花娘の腕が静かに動く。手首をひねり、閉じた指先が開いた。梢華を模した舞は厳かに、静を要と舞手の姿態に現れる。西州にてはじめて見出されたこの幻影の花は、この世に存在せず、人の胸で美と歓喜の内に花弁を開く。
 石花娘が舞台を降りると、星の数ものワルバが鳴った。花街で芸妓の修練を積む少年少女らが総出で客の席の間を駆け巡り、あちらこちらで遊女と客のやり取りを真似た他愛ない寸劇を披露する。茶番が一区切りすると彼らの手足に下がるワルバは一瞬息を潜め、すぐに来たとき同様わっとさんざめいて奥へ消えた。その間に中央の舞台は、次の見世物に様相を着替えている。
「さて、お客に呼ばれた者は、行っておいで。そうでないなら、もう一回梁の上だよ」
 ピャフィフィがお抱え遊女らを急かすと、十者十様の姿を持つ娘達は、梁への階段をそぞろ歩く。ピャフィフィは呆れて声をあげた。
「どうしたことだろう! 家には今夜のお客様をもてなす用意だってしてあるのに」
「義母さん、トカゲを呼んであげるといいわ」
「あれが来るもんかね。こんな華やかな晩に。注文した料理が無駄になっちまう」
 梁の上へ戻ると、娘達はまた宙に両足を投げ出す。階下の賑わいはたけなわで、吹き抜け周りに設えられた裕福な客達のための間も、高級芸妓らがひっきりなしに回って明るい。馴染みの遊女の家へ場所を変える客達の姿も目立ちはじめている。
「トカゲは相変わらずあの暗い部屋で、薬草を練り合わせてるか人売りと会っているかのどちらかだろうねぇ」
 長尾娘は尾の先のワルバを気だるげに鳴らした。異人娘達にとって、トカゲは病に倒れたとき唯一頼みになる恩人でもあるが、それ以上彼を知る者は一人としていなかった。
「修業僧だって、あれほど慎ましい暮らしはしていないでしょうね。すぐ近くにこんな場所があるのに遊びもせず、首輪付きの異人に養い主人を見つけて病気も診て、こつこつ徳を積んでるんだから」
「まるで改心した大悪党みたいに、ね」
 銀猫娘は首を掻き、被毛の間からつまみ出したものを梁の裏側で押し潰した。
「私、本当にまたノミを移されたみたい。ダニもいる。随分血を吸われたわ」
「前みたいにあちこち毛が禿げたら、当分お客の前には出られないよ」
 異人娘達の軽口を隣に、石花娘はじっと階下を見下ろしていた。実際トカゲが明るい場所や人前に出るのを嫌がるのも、いつも鼻まで顔を覆いフードを目深に被っているのも、自分が石花だと知られたくないからだ。最近はしわがれ声まで作っているが、どうやらそれも年をとったと見せかける芝居らしい。石花は人間の倍は長命であるから、トカゲもまだ老人というほどの年齢にはなっていないはずだ。
「今夜はお客が来ないかもしれないから、今からひとっ走り、トカゲにノミ取りの薬をもらってきてあげる」
 石花娘は呟いて、煌々と輝く茶屋を後にする。彼女が踊り子衣装のまま通りを疾駆すると、中央茶屋に入れず賑わいだけを楽しんでいた客や、料理屋の使い走り達がはやし立てた。
 花街の大門近くにあるトカゲの診療所界隈も今夜は華やいだ装飾がされていたが、一歩裏の小径に入れば夜の闇がある。診療所の扉を開けると、部屋の奥にいたトカゲは目に見えて肩をびくつかせた。
「こんな時間になんだ」
 机の上で短い蝋燭が小さくはぜた。彼の姿はその明かりと窓辺から滲む宵の光の狭間にあり、落ち着きがない。夜気は湿った床の上を流れ、微かな霧となっている。
「うちの猫娘に薬をもらおうと思って」
 トカゲは薬箱に寄り、彼女に対しては隠す正体もないので、ごちゃついた箱の中へ石花の魔法の明かりを灯した。ただ、それはあまりに投げやりな態度でもあった。
「ばれないよう、用心しているものかと思ったけど」
「クルートドゥルーの詩人の目は、欺けない」
 相変わらずそわそわしながら、トカゲは石花娘に薬を投げた。
「俺が石花だとばれれば、都王が捕らえにくるだろう。お前がどんなに俺の正体を声高に叫んだところで信じる者はいないが、奴の言葉は違う」
「詩人はもうここに来てるの?」
「花街の堀も塀も詩人どもを前にすれば、水晶の道と梢華の生垣とやらになるらしい。連中は、隠し事を持つ者を言葉一つで丸裸にする。都王が奴らを招くのは、都の富に関わる者を選別するためだ」
 彼は再び窓辺に寄り、素早く外を伺った。
「俺は半世紀前、あの崖を登って天空の道へ落ちた。下される罰を恐れて逃れたが、結局ここではいくつもの隠し事をせねばならなくなった」
「でもばれたって、人買いだけをやめたら済むんじゃないの? 花街の異人娘を診れるのはあなただけだ」
 トカゲは無造作に扉を閉めた。カントゥヤの鎧戸がカラカラと明るく響く。花街の窓や扉は、動かせば音が鳴る仕掛けが施されていた。さらに彼は顔を覆う布も外す。蝋燭の灯りに影ばかりを落とす、痩せて疲れた表情が現れる。その瞳の色が孔雀石よりも鮮やかな緑色であったのを、石花娘は知っていた。
「クルートドゥルーの詩人のうち、不吉な歌とともに戻って来た者がいる。聞いているか」
「この界隈には、不吉なものはきれいに隠されている」
「そうかもしれん。だからエツベルは都王の怒りをかって、一人だけ城の中に閉じ込められている。エツベルは見通しすぎる。天空の道の末まで見た。クルートドゥルーの幻影に飲まれると」
 トカゲは素早く椅子に腰かけ、指を組んで背を丸める。長く節くれた指と痩せた風貌、神経質なほど鋭い身のこなしからくる渾名だが、近年は老衰の芝居が加わり、トカゲどころか幽鬼に似てきている。
 石花娘は机に寄った。蝋燭の灯りに、肌を覆う文様がきらめく。
「それより、あなたには自分の正体以外にも隠していることが?」
「俺はお前が誰だったか、知っているぞ」
 トカゲは忌々しげに石花娘の文様に目をやる。
「石花で髪色を抜く者は神職にある者だけだ。お前が神殿の巫女であったのは、一目見てすぐに分かった。花街にすぐ馴染んだのは、生贄の祭壇近くに仕える身だったからだろう。もう少し、観念するまでに厄介があると踏んでいたものだが。身を差し出す生業にすでに慣れていたわけだ」
「巫女は自分の生業を放棄するだけで、死に当たる罪になる。でも、祭壇に上げられる者を送るのに、いい加減嫌気がさした」
「祭壇の巫女は短命なほどいい。長生きしすぎて、仲間を送りすぎたな。だがこの花街での暮らしも、石花には少々長すぎる。逃げられるなら、逃げた方がいい。この都もじき滅びるのだからな。エツベルなら、うまい具合に抜け出す知恵を持っているだろう。花街の塀より、都を囲う塀の方が高い」
「あなたは……」
「俺が誰だったかなんぞ、どうでもいい! 崖を越える前とここで、何も変わりない。石花に生まれながら、魔力に乏しいことがすでに罪だった。なのにここではやはり魔力を持ちすぎて、土地に身体が馴染まない。お前に飲ませている水も、俺が飲んでいる水も、黒水に侵された仲間の成れの果てだ。魔力の薄い土地で石花が生きるには、魔力を持つ水を身体に入れねばならん。魔力の濃い土地で、魔力に乏しい者が身を保つのにも必要だ」
 トカゲは石花娘の身体を乱暴に押し退け、無理やり立ち上がる。彼はひどく疲れきっていた。小娘一人の身体も十分に押し切れず、彼が立ち上がるために石花娘の方が少し身体を引いてやらなければならなかった。
「私はもう、あの水は飲まない」
「それもいい。俺は逃げるのにも隠れるのにも、水を飲むのにも生きるのにも飽いた。医術を学んだのは己自身が生きるためだった。黒水になると身体のどの部分が最初に溶け出すのか。最後に残るのはどの部分か。遺骸の解剖も観察も禁じられていたから、盗むしかなかった。俺の場合は、飲むために必要だったのもあるが」
「水を飲まないとどうなる?」
「衰弱して死ぬだけだ。これを受け入れるまでに、どれほど……」
 トカゲは奥の部屋へ入り、櫃の乗った台車を押して来た。
「エツベルに会ってみたいなら、今夜でも構わんぞ。ただしお前は梢華の垣根の中で、向こうはカントゥヤの壁の向こうだ。垣根を越えるのは造作ない。昨日一人死んだから、この娘と暫く一緒に入ってくれりゃいいだけだ」
 やや怯んだ石花娘の手から、彼は薬をもぎ取った。
「これは明日にでもピャフィフィの家に届けさせる。俺もさすがに明日明後日の命ではないだろう」
 顔に布を巻き、トカゲは石花娘を促した。まるでほんの少しの散歩を勧めるように、緊迫も恐れもなく。この脱走が見つかれば、石花娘よりトカゲの方が困ったことになるだろう。クルートドゥルーの詩人がセゲアテルに現れて彼をどう脅かしたかは知れないが、彼はすでに自身の命にも執着を見せなかった。
 櫃の中には小さな羊角の娘が病に果てた身体を丸めて眠っていた。石花娘は羊娘を抱くように長い身体を丸めて櫃にそわせる。
「これは身体が小さすぎたから、長くは持たんと思っていた」
 トカゲは陰気に呟いて、櫃の蓋を閉じる。石花娘は香の甘い香りが染みた子どもを抱いて、運ばれる間じっとしていた。エツベルに会う気はさほどなかったが、花街に残る気も薄かった。世話になったピャフィフィに対しては後ろめたさを感じていた。それでもいつか花街より出なければならないのは、トカゲが言うように真実だったかもしれない。
 外に出るよう促され、石花娘は櫃から身体を起こす。カントゥヤの長屋がひしめく路地の先に、都王の宮殿が見える。庭園にはカントゥヤの若木が植えられ、すでにその丈は五層からなる宮殿の中ほどまで達し、伸ばした枝葉は淡い陰の雲海となっている。雲海の中には小さなランプが飾られ、星々とともに輝いている。
 櫃から降りると、西の方が明るい。それは花街の灯りで、都は灯りに照らされながらまどろんでいた。
「行ってみるといい。クルートドゥルーの詩人のなかでも、エツベルは異色だ。噂が本当なら、あの詩人は一睡の代わりに物語を紡ぐのだ。そして時に、人の胸に隠された言葉を暴く。思い出さぬよう深くうずめていたとしても、見通される」
 トカゲは櫃の蓋を閉め、間口のひとつへ入っていった。石花娘の前で木鈴を下げた扉が閉まり、小さく乾いた音が転がった。花街に勤める者は、家の扉にも鳴子を付けている。
 通りは人の気配ひとつなく、石花娘は白い両足で伸びやかに歩いた。花街から逃げた身であることは、心に薄い。束の間の夢を歩くがごとく、彼女は崖を越えて以来の孤独をしばし楽しんだ。行くあてがないから宮殿を目指すが、やがて群青の城壁で立ち止まる。
 石花娘は藍の礫に飾られた壁沿いに進む。次に行き当たったのは銀の水面を持つ堀である。夜半は過ぎ、月の端が山間に覗いている。彼女はゆっくりと頭上を見上げ、空にかかるカントゥヤの枝葉に目を留める。耳を澄ますと、葉を通る風に微かな旋律が絡んでいた。滑らかな音色はカントゥヤの枝から彫り出された縦笛にも似て、途切れることなく続いている。石花娘は暫く音色に耳を傾け、やがて静かに堀の水へ身体を沈めた。