天空の道

後編

「なぜ門兵達は、お前を止めなかったのだろうね。私は彼らを罰しなければならないね」
 石花娘は茂みの影で目を覚ます。稜線から七色に滲む光が差していた。朝日を背に立つ詩人は、通り過ぎざま声をかけたらしい。咎めの言葉とは裏腹に、彼女を気に留めることなく歩を進めて、カントゥヤの瘤に腰掛ける。
 石花娘は茂みの傍へ膝をついた。堀から上がり、そこで門兵に姿を見られたが、庭園に逃げ込んでも追っ手は現れなかった。それでも用心のためにしばらく隠れるうち、音色に眠気を誘われたのだ。目覚めると旋律は消え、一人の詩人に姿を変えている。
 それは驚くほど美しい顔立ちのなよやかな若者で、両目を刺繍の入った細布で巻いて隠している。富貴の者にしか手に入れられぬ紫紺の長衣をまとい、緩く波打つ黒髪が両肩へ落ちていた。それほど優雅な姿でいるのに、左の腕にある竪琴は、あまりにみすぼらしい。舟形に荒く削り出されたわずか五弦のそれは、仕上げの塗装がなされたあとも見えず、装飾のひとつもない。
「衛兵らは罰せられるのですか」
 石花娘はおろおろと問うた。詩人は柔らかに頬を緩める。澄んでいながらも厚みのある、艶やかな心地よい声が返ってきた。
「そうだね。彼らは自分の役目を怠ったのだから。だが、もしお前が目も眩むほどに美しい娘だったなら、彼らが自分の役目を忘れても仕方がなかっただろう」
 石花娘はつと顔を伏せて、しばし思いをめぐらせた。わずかの間の後に、彼女は勢い込んで答えた。
「旦那様、私は美しくはありませんが、目も眩むほど肌が白いのです」
 言葉通り、堀で泳ぐうち、身体に描いていた文様は溶けて消えていた。今は細い胸飾りと腰帯が身体を覆うのみである。
「お前が美しくないかどうかは、私がこの指でお前の顔を触ればおおよそ分かるものの、白いとは厄介だ。目の見えぬこの私に、お前はどうやってその肌の白さを証明できる?」
 石花娘は宙を見上げて再び考えた。
「ええと、旦那様が一番信用なさっている人を、お呼びください。もちろん、その人は目が見えなくてはなりません。その人に、私の肌が白いかと尋ねてください」
 詩人はこれを聞くと、彼女にすっと横顔を見せ、高い音の口笛を吹いた。すぐに、高い子どもの声がこれに答え、庭園の奥から八つ程度の少女が姿を現す。金色の巻き毛から小さな角が生えている、異人奴隷だ。子どもは詩人に走り寄って、その腕にそっと優しく触れた。
「お呼びでしょうか」
「ああ。ところでお前は今まで何をしていたのかね?」
「庭園の隅に咲いていた野菊を、いくらか摘んでおりました。エツベル様に、お贈りしようと思いまして。とても良い香りがいたします」
 詩人は、子どもの小さな手から野菊の束を受け取った。
「お前にひとつ尋ねたいことがあるんだよ」
「はい。お答えします」
 子どもは従順に答える。詩人は石花娘へと顔を向ける。少女もそれにつられて、きらきらした瞳で彼女を見つめた。
「あそこにいる娘。あの娘の肌は、目も眩むほどに白いかね?」
 少女は石花娘の全身に目を走らせる。しばらくしてあっけないほど簡潔に、子どもは短く答えた。
「いいえ」
 石花娘は息を飲む。彼女は少女を、激しい恨みを持って鋭く睨みつけた。
「嘘つき!」
 少女は石花娘の視線に、身じろぎもしない。一切の感情も感じさせない大きな灰色の瞳で、彼女を見返すだけだ。
「その子は、あなたに嘘をついています!」
 石花娘は詩人に叫んだが、詩人は冷酷に微笑み続ける。
「そうは言っても、この子は私がもっとも信用している家臣なのだ。そもそも、お前が私にそうしろと言ったのだよ。だからこれがまぎれもない答えなのだ。だが、あせるな。この子はまだ最後まで、私の問いには答えていないのだから」
 詩人は子どもの背中に腕を回して、優しく続きを促した。少女は石花娘の身体を見据えたまま、こう続けた。
「娘の顔、両肩、両胸、そして両腿は朝日の金色です。両腕と両の脛の上半分は沼のように黒ずんだ紫。両の脛の下半分は、灰緑。腹は霧色と淡い金が入り混じっています。首は上半分が深い紺、下半分が淡い銀色。以上でございます、ご主人様」
 詩人は軽く頷き、石花娘を見返す仕草をして見せる。
「どうだろうか。この子はこれでもまだ、嘘をついていると言えるだろうか」
 石花娘は少女の言ったことが本当かどうか、自分の身体を見回した。そして、あの少女は彼女にとって不服と言えるくらいに、正直すぎると思った。
「分かりました、旦那様。それでその子の答えを聞いて、あなた様は私の肌が何色だと思われましたか? 私の肌は場所によって様々な色を持って、蛇の皮みたいに斑だとお考えになられましたか?」
 詩人は軽くうつむき、低く笑い声をたてた。
「私はお前の肌を、純白だと思う。お前の肌はこの夜明けと庭園の色を、混じり気なしに全てきれいに映しているのだから。しかし私が不思議でならないのは……」
 詩人は、身体に巻いていた長衣に片手をかける。
「お前がどうやら裸でいるらしいということだよ。夏は遠い。この季節ではまだ寒かろう」
 金髪の少女は詩人から長衣を受け取り、石花娘の前へと小走りに駆け寄ってきた。しかし石花娘はすっくと立ち、少女が彼女の肩にマントをかけるのを阻んだ。主の命を果たせなかった賢い子どもは、石花娘を上目遣いに小さな口を尖らせる。石花娘はそれには構わなかった。
「旦那様、あなたは何でもご存知だと聞きました。それ故に、花街の異人娘達を診る医師をすっかり怯えさせてしまった。彼の隠された秘密を、どうか誰にも暴かないと誓って欲しい」
 詩人は僅かに顎を上げ、石花娘の声に聞き入った。口元に表情はなく、明けゆく日の光を頬に受け、そちらに少し顔を傾けた。
「ああ、トカゲか。私の口から暴かれることはないが、秘密の方がやがて自ら明るみに出るだろう」
 石花娘はこちらに伸ばされた手をとった。詩人らしい細く長い指は、爪の先が朱に染められている。詩人は立ち上がり、庭園の奥へと促した。
「自らって、どういうことなのです」
「歌って差し上げたいが、私は日のあろう場所では歌わぬ。彼は都の地下に、黒水を隠している。お前がトカゲからもらう水は、黒水とカントゥヤの樹液、カントゥヤの根の間にろ過された地下水の混ぜ物だ。黒水にかかった石花は、すぐには死なぬ。だが、黒水が人間には猛毒であるために、病に倒れた石花はすぐにでも黒い森の奥深くに埋めねばならないのだ。黒水はカントゥヤだけが真水に変えることができる故。それをトカゲはしなかった。彼は十数年前、黒水の出た屋敷へ赴き、一人の石花を連れてセゲアテルへ戻ってきたが、黒い森へは行かず、その石花を都の地下に置いて看病した。溶ける身体から染み出す黒水は石花自身とトカゲを生かした。その石花が儚くなったのは数日前だ。トカゲは悲しんだかもしれない。悲しみのせいだったのかもしれない。いずれにしても彼は遺体を少し、辺りの土へこぼしてしまった。黒水は地下水に混じって黒い森を呼ぶ。ただ幸いにして、都はカントゥヤの船だ」
「なぜトカゲのことを、そこまで知っているのですか」
「私は物語を見逃さない」
 庭園の奥は暗く、朝の冷たい陽光は頭上の葉でとどめられていた。湿った土とカントゥヤの芳香が風に満ち、詩人はそこで立ち止まった。
「クルートドゥルーの詩人の中で、私は最もつまらぬ者に過ぎない。その昔、私はこの都に姫として生まれた。ところが長じて人の妻になるを拒んだ為に、怒った都王は私の髪を切り、目を抜き、胸を切り落とした。女である必要はないとな。その後にようやく私は自由になって、漂泊の身を得た」
 詩人は粗末な竪琴を爪弾く。弦は竪琴の首に巻き付けられて止まっているだけで、まともな調弦ができるかどうかも怪しい。音色は響きに乏しく、乾いている。ある種の趣があるかも知れないが、それは人がまだこの世に現れて間もない、太古への夢想を誘うにとどまるだろう。
 石花娘は足元に跪く。
「あなたはご自分のことをつまらぬと言うけれど、人はあなたの歌を最高だと崇めるし、何でも知っていると恐れている。人の胸の内にあるものも暴くと」
「内に何かあれば。けどお前は空っぽだね。私と同じだ。希望も絶望も失っている」
「クルートドゥルーの詩人とは、何者なのですか。私は人間の都に住んで十年近くになるのに、ときには自分でも言葉にするのに、本当は何も知らない。誰に聞いても、詩人は詩人だと言う。ならば、クルートドゥルーとは何なのでしょう」
「幻影の国」
 エツベルは両目の覆いを解き、虚ろな眼窩をカントゥヤの天蓋へ向けた。
「遥か昔、龍翼山地の高原に、それは存在した。紺碧の湖に築かれた、塩のレンガからなる純白の都。王の抱える詩人らは随一の才を持ち、都の栄華を歌った。その隆盛を極めた後、全ての詩は歌い尽くされた。詩人達は王や都人らの堕落を歌いはじめる。塩の都も溶けはじめた。湖へ没する都に、船上の王は詩人らだけを取り残す。クルートドゥルーの都は、クルートドゥルーの詩人と共にこの世から消えた。都から去った王と都人は彼らの亡霊に襲われ、楽を手にとり流謫の身となって、さすらい続けることとなった。クルートドゥルーの流れを汲む一流の技を持ち、彼らの末裔を名乗る者はクルートドゥルーの詩人と呼ばれる。私は違う。だが幻影の国に生きた詩人のように、天空の道の栄華を歌い、今では滅亡を歌う。だから人は私もクルートドゥルーの詩人と呼ぶ」
 落ち窪んだ瞼の隙間が僅かに震え、エツベルは眼帯を巻いた。長衣を持て余していた少女は、ようやく石花娘の肩にそれを掛ける。役目を終えた少女は、すぐにエツベルの側へ戻った。
「朝だ。私は十分眠った」
 少女に手を引かれ、エツベルは来た道を戻ろうとする。石花娘は素早くその腕に指を添えた。詩人は瞬時に身を硬くし、立ち止まる。
「少々の朝寝もよいでしょう。太陽がお嫌いなら、庭園のさらに奥深くへご案内します。どうか私をこの都から出してください。ウワカンの太守の元から、逃げ出されたときみたいに」
「そういえば、逃げるときにこの子の力を借りたよ。賢い子だから。戻らぬというから、連れている。お前は別の道で生きるあてが?」
「少なくとも、今の道はもう先がありません」
「……多くの者が天空の道より去らねばならぬ。クルートドゥルーは過去の時から現れ、ふり返る者を飲み尽くすだろう。行く者は新たな詩人となる。カントゥヤの根は大地を砕き山を没するが、今度は水が人々を救うだろう。都はカントゥヤの巨船だ」
 詩人は粗末な竪琴を差し出す。
「私は黒い森の奥で、これに出会った。血にまみれた花嫁衣裳でさまよううち、獣が戯れに奏でるこれを大木の根に探り当てた。そばには苔生した頭蓋があり、それは風と竪琴の音のうちにクルートドゥルーの詩人の姿を胸の奥へ映した。私はそこでクルートドゥルーの技巧を学び、傷が癒えると竪琴を持って旅立った。聞こえるか。この竪琴はあらゆる詩を囁く」
 竪琴を前に、戸惑う石花娘は首を振る。彼女はワルバしか奏でるものを知らなかった。
「私は踊るだけです。竪琴もどう弾けばよいのでしょう」
「大都セゲアテルにはあらゆる歌が集まり、多くは花街で歌われる。酒宴の席において、寝屋において、あるいは日々の所作において。この竪琴に知らぬ歌はない。お前も知らぬ歌の方が少ないはずだ」
「私はたくさんの歌を聞きました。クルートドゥルーの詩人の歌以外は」
 すると詩人は自ら竪琴を構え、ゆったりと歩みながら低い声で歌った。

天空の道
百の王国がそれを繋ぐ
あたかも玉飾りのごとく
玉飾りのごとく

その玉の彩りは
富と繁栄
美と叡智
それら天空の道に極まり

その玉の彩りは
貧と堕落
醜と暗愚
それら天空の道に極まり

天空の道
百の記憶がそれを繋ぐ
あたかも幻影のごとく
幻影のごとく

 エツベルの歌声を耳にいれるのは、清らかな水で渇いた喉を潤すことに似ている。竪琴の奏でる旋律が途絶えると、野ばらの先に宮殿の門が姿を現す。最後に一音、強く弦が弾かれた。門衛は厳しい面持ちで、手にした錫を振って応える。
「クルートドゥルーの詩人よ。まだそのような歌を唄うか。都王はお主を宮殿から出さぬようにとお命じだ。庭園に戻られよ」
「クルートドゥルーの詩人がひとつ所に留まらぬのは、己の足元から沈まぬためだ。留まると水に没する。飛ぶ鳥が羽を休めないのと同じでね。宮殿を沈めたくはないのだよ」
「クルートドゥルーの詩人は黒水も呼ぶのか」
 エツベルの冗談を門衛はまともに捉える。しかしそれには理由があった。門衛は石花娘を見やると、錫の先で閉ざされた門を強く叩く。
「クルートドゥルーの詩人よ。市で黒水が出たぞ。お前がこの都に留まっているからか? それとも不吉な歌のせいか?」
 エツベルは答えず、少女に手を引かれ、石花娘を伴って開いた門から宮殿を去った。
 夜明けの都は花街の眠りと入れ替わり、夜の灯りを消し歩く街灯番の手押し車が軋みながら過ぎていく。通りはいつもなら、店をやる者達が朝の仕入れに行き交うが、今朝は皆がおろおろと惑い、互いに不安な額を突き合わせている。エツベルの姿が現れると、人々は幻影の詩人の後ろにつく。
「私の小間使いでは少々足が遅い。人の噂に出遅れたようだ。お前がトカゲの自宅まで手を引いてくれ」
 石花娘はエツベルの腕をとり、少女を背におぶって駆け出した。エツベルは駆けることを恐れなかった。傷ひとつない頬は、朝焼けに染まっている。詩人にとってその両頬が陽射しの方向を知る目であり、歌はあらゆる場所と時に触れる手である。エツベルは、滅びによって繋がるクルートドゥルーの幻影から射し込む斜陽を受け、歌でもってそれを知った。滅びのはじまりは、まさにこの都の市にあったからこそ、ウワカンの太守以上に怒りをかったセゲアテルの都王の元へ戻ったのだった。
 人々が遠巻きに囲う中、トカゲは大きな甕の側に立っていた。戸口の外には昨晩の荷車があり、彼は甕を載せようとしていた。石花娘がエツベルを連れて人の間に立つと、周りの者達は息を呑んで散る。
「まさか、この女も黒水か」
 その囁きを鋭く聞きつけ、トカゲは笑う。
「呑気なもんだ。黒水が出たのにまだこんな所で見物とは」
「井戸を汚したのは貴様だろう! あれで二人倒れたんだぞ!」
 男が怒鳴り返すが、トカゲは意に介さず固定用の縄を手に、ひとり作業を続ける。石花娘は駆け寄った。
「エツベルから聞いた。まさかこの中に黒水で死んだ人がいるの?」
 トカゲはちらともこちらに顔を上げなかったが、暗い声で呟く。
「俺達を今まで生かしてくれていた人だ。だが死後の融解が早すぎた。土地のせいだ。蓋は開けるな。カントゥヤの樹液も注いでいるが、それでも気化しやすい。これ以上黒水を撒き散らせば都は終わる。人が最初に死んで、黒水を求めるカントゥヤの根が都の土台を裂き砕く。最後に水が全てを洗い流すが、その水は塩辛いらしい」
 見れば甕の蓋は蝋で密閉されている。石花娘が見守る中、甕は荷台に固定された。トカゲはうっそりと轅の間に立つ。彼が重い足取りで進み出すと、徐々に密度を増していた人の輪も恐れでばらけた。少女に手を引かれたエツベルが片手を出して轅に触れた。トカゲは前を見据えたまま、陰気な薄笑いを浮かべる。
「両目を抜かれた小娘が、クルートドゥルーの幻影に囚われるとは。都王は目などではなく声を封じるべきだった。避けられん滅びを予言して何になる」
「人も年を取れば、身仕舞いが必要になるときを悟るではないか。都もそうだ。私も早急に必要だね。受け取ってくれ。これは私だけの持ち物ではないのだから」
 詩人は竪琴を後ろへ放る。慌てた石花娘がそれを受け止めた刹那、矢が詩人の背に吸い込まれた。よろめいた詩人は荷台に倒れこむ。トカゲはやはり前を向いたまま、「おい」と石花娘に怒鳴った。荷車の後ろには、都王の輿と衛士の群れが見える。
「こいつは助からん。都王はそのつもりだ。脇に退けてくれ。俺達は都を去るんだ。立ち止まれば射抜かれるぞ」
 しかし石花娘がそうするまでもなく、エツベルは自ら荷台から上半身を起こし、脇へ下がった。顔から血の気は失せていたものの、口元は微笑み、今にも別の詩を歌い出しそうに見えた。少女は側について震え、主とともに近づきつつある運命を待っている。トカゲは覆面を地面にかなぐり捨て、再び歩み出した。トカゲを知る近所の者達は彼の正体を見て二度驚いた。ひとつは彼が六十という年齢には見えない、せいぜい四十の容貌であったこと、そしてふたつは、覆面で影となっていた瞳が鮮やかな緑色だったことだ。ただそれよりも、多くの注目を集めたのはクルートドゥルーの詩人だった。
 都の門はすでに開かれていた。誰もトカゲと荷車には手を出さない。石花娘も竪琴を抱えたまま後に続き、都を出た。黒い森は一輪草の群れ咲く丘を越えた先に広がっている。ところが二人が門をくぐると、後から都王の衛士達がついて来る。

クルートドゥルーより海満ちる
カントゥヤの森は大地の泉
カントゥヤの都は大地の舟
小石の如く呑まれるわけにはいかぬ

 短い歌が空から聞こえた。石花娘は振り返り、都を守る壁の上からクルートドゥルーの詩人が小間使いと共に突き落とされるのを見る。その伝説からクルートドゥルーの詩人は、墓に葬られることも、都の中で死ぬことも忌まれている。エツベルはまさに、クルートドゥルーの詩人としての最後を迎えた。
 丘の道に入ると人の往来はなくなる。衛士らだけがついて来ており、トカゲは舌打ちをして石花娘を呼んだ。
「前を歩け。前を。衛士どもは甕の中身を疑っていやがる」
「見せてやればいいじゃない。そんなに気にしているなら。それで黒水にやられても、自業自得でしょう」
「憐れみをくれてやれ。俺が瀕死のお前を死なせずにおいたのは、そのためだ。お前はもう少しこの世を味わったがいいと思ったからだ」
「どうして?」
「無知だからだ。さあ、前に行け」
 衛士らが不意に歩調を早めた。石花娘は異変を感じて足早に荷車の前へ歩み出る。トカゲが鋭く振り向いた時には、衛士の槍が甕を打っていた。彼らは甕の響きを確かめ、中に液体が入っていることを知る。それでも水ばかりでないことを悟ったらしい。もう一度強く甕を打つ。トカゲが押し殺した声で先頭の衛士に囁く。
「やめろ。人間が黒水に触れると、生きたまま炭になる」
「井戸水を口にした者は?」
「知るか。俺は診ていない。口内と喉、胃の腑から黒水が浸透すれば、症状は重くなるだろうが。黒水は、石花の肉体をこの世に構成せしめる魔性の力が崩れた残骸だ。人間には猛毒だ」
「割るぞ。俺達は確かめねばならん。くだらん芝居で、まんまと逃げ出せはせんぞ」
「せめて黒い森に入ってからにしてくれ。お前達もその方が始末が省けるだろう」
 衛士は懐の短刀をトカゲに見せる。トカゲが鼻で笑うと、衛士は短刀をトカゲの懐に移した。
「医者なら、一番早く楽になれる場所を自分で切れるだろう」
「小娘はどうするんだ」
 トカゲは呟いた。
  石花娘はちらちらと振り返って、二人の会話を耳に入れていた。トカゲの呟きも耳に入るが、その視線から、だめなら諦めろという無言の意思も読み取る。石花娘は竪琴の弦をひとつ強く弾いた。衛士らは一瞬音に驚き、甕に向けた槍を引く。トカゲと先頭の衛士は再び顔を寄せた。
「生涯森の奥から出てこないと誓うなら、逃がしてもいい。だが都王は証拠をお望みだ」
「森で狩りでもして帰れよ」
 やがて立ち入った森はカントゥヤの古木が目立ち、奥へ行くほど暗い。人間の手で切り倒せるのは、比較的柔かい若い木だけだからだ。森の地面に土はほとんど見えず、年経たカントゥヤの根が互いに絡みながらうねっている。苔に湿った根の上は歩きづらい。とうとう荷車は日差しの差し込む最後の場所で止まらざるをえなくなった。トカゲは消耗しきり、ぜいぜいと喘ぎながら短刀で甕を固定する縄を切る。甕は荷台から落ち、根の上に転がった。彼は蝋で封じた蓋に短刀を差し込み甕を開ける。衛士らが遠巻きに見守るなか、甕の口から水が流れ出る。ひとりの衛士が槍を手に、一歩踏み込んで甕の中を探る。彼は穂先に引っかかったものを奥に確認すると、すぐに槍ごと捨てて下がる。彼は血の気の失せた顔で、森の奥に立ち尽くす石花娘に向かって声を張り上げる。
「行け! 永遠に都へ戻ってはならぬ」
 石花娘はしばらく放心した。しかしトカゲが逆手に持った短刀を首筋に当て、やがてすすり泣きながら衛士らの手伝いを請う声が聞こえると、暗い森の奥へと姿を隠した。
 森の気配は濃く、人間達とひとりの石花の気配はすぐに消えた。
 光は遥か頭上の厚い枝葉に遮られ、彼女の目に届くことはなかった。足場は悪く、這い進むのがもっとも安全だった。掌には湿った苔が柔らかい。
 時折根の隙間に落ちる足に、触れるものは何もない。まるでとうの昔に地面が洗い流され、カントゥヤの根だけが残っているようだった。各巨木がこれだけ密に根と枝葉でつながれば、地面が崩れ落ちようと、水が満ちてこようと、森は沈むことはないだろう。自分がどちらに向かっているか、感覚はすでにない。根の隙間から真下に覗いた時だけ、そこここに見えるようになった遠い黄緑の光は、植物の類だろうか。若葉を透かす陽光にも似て、瞬きひとつすれば明るい影を残して消えてしまう。そして目を凝らせば、再びかすかに暗がりで浮かぶ。めまいを感じて彼女は両目を閉じた。エツベルの長衣に竪琴をくるみ、背にくくりつける。自由になった両手で、先の道を探る。
 風は森の上を吹き、葉のざわめきが絶え間ない。動かない森の中はカントゥヤの芳香に染まっていたが、鼻はずいぶん前にきかなくなっている。息を切らせば、重苦しく淀んだ空気を飲むように喉へ送るばかりだ。太い根は彼女の体重を載せても軋みすらしない。
 布に包んだはずの竪琴が、何かに当たって乾いた音を奏でる。まぶたを開けると森の奥、明るい緑に輝く一角がある。暗闇を隔ててその上にひとり、古代の衣装で身を包む詩人が座していた。深く頭を垂れ、手にはあの竪琴がある。石花娘は布をほどき、背の竪琴を明るい緑にかざした。竪琴のシルエットから、弦が消えている。
 詩人の弦が弾かれた。古い旋律に詩はなかった。クルートドゥルーの詩は繁栄から滅びまで、すべて歌い尽くされていた。
 旋律が終わり、詩人は面を上げる。落ち窪んだ眼窩は紛れもなくエツベルにも見え、白磁に似た色味のない頬は例えようもなく美しかった。詩人は膝の後ろから、緑に覆われた朽ちかけの頭蓋を片手に取り出す。それを膝に載せ、再び竪琴を構えた。

彷徨える詩人達よ
声失いし木霊達よ

されこうべだとて
叩けばもっと良い音で歌うだろう
されどこの虚ろな旋律は
お前達には歌えまい

亡国の歌は
その色をなくし
その心をなくし
その魂を失った
呼ぶ声は
誰にも追いつかぬ

歌は影と去り
旋律の記憶のみが残される
幻は晴れ夢は覚める

営みの温もりはすでに失せた
だが私の頬に流れる涙は
いまだ熱いのだ

 詩人が歌い終えると、石花娘は地に伏せた。この場に辿り着くまでに何があったか、失った記憶を取り戻すようにひとつずつ胸に戻っていた。何物にも執着を見せず、彼女はあらゆる場所から立ち去った。鈴を両腕に鳴らす老いた義母の姿も、煌びやかな遊女らの舞台も、陰鬱な異人医師の診療室も、遥か遠い。それらはさらに遠いところへ行くだろう。彼女は竪琴を手にひとり、道に残されていた。クルートドゥルーの詩人達がさまよった道は、この先も果てがない。
 顔を上げると、世界は一変している。彼女は白い塩の砂漠にいた。彼方に空よりも濃い紺碧の湖が広がっている。青色と純白に分けられた世界は、その眩さに瞼を長くは開けていられない。彼女の背後には一本のカントゥヤの枯れ木が立っている。仰ぎ見る巨木は塩にまみれ乾ききりながらも、割けることなく形を保っている。遠くには根の層を露出させたカントゥヤの枯れ森。絡み合う森の土台はセゲアテルの宮殿にも負けぬ高さがあるだろう。やはりあの森は土が流されようとあるべき場所に、朽ちることなくとどまり続けていた。
 やがて日は傾き、純白の大地は紫紺の闇に染まりはじめる。巨大な月が地平から離れ、湖は渚を広げた。揺れる水面に星明かりが映った。
 塩に痛んだ金髪が、風に吹かれて両肩をくすぐる。石花娘は竪琴を拾い上げる。弦は失われ、胴に張られた皮は朽ちていた。彼女は北へ向かって歩み出す。かつての東大北道があったかもしれぬ場所を。

 日が暮れると旅人達の家には彼らの話を目当てに、地元の者達も集まってくる。テーブルからテーブルを飛び回り、客に愛想を振りまく娘達の姿は、西州の踊り子衣装だ。黒縁の襟をツンと立て、華奢なうなじを目立たせている。丸い腰には涼やかに鳴るワルバが下がり、緋色の裏地が覗く袖から細い指が見え隠れする。
 娘達は狭い舞台に集まり、傍らの老いた詩人がアーリの弦に弓を置く。郷愁を誘う調べに、一時人々は静かに耳を傾けた。それはあまりに長く旅の道にいて、我が家の姿や家族の面影を忘れそうだと切々に歌う曲である。西州に古くからあるこの歌は、作者の名も忘れ去られたまま、旅人に愛されている。
「あんたも歌ったらどうだね」
 宿の主人は隅に座る異人の歌人に声をかける。夕の雨にそぼ濡れた白金の長髪が両頬を隠し、テーブルの燭台に純白の額だけが明るく照らし出されている。
「どんな歌がいいかしら」
 歌人は指先で煮豆の餅をこねながら呟いた。
「何処から来なすった? 今日は東ジュルガの客も多い。素朴な竪琴の音は喜ばれるだろう」
「これは、ジュルガの竪琴ではないけれど」
 歌人は主人の方へ顔を上げる。
「天空の道はご存知? ここから南にあった。西州に通ずる道……」
「南は人が行くような場所じゃない。塩商人が近場で仕事をするだけで、他には何もない。砂漠以上に死の世界だ。あの辺りに道なんぞ通ってたかな。西州へは龍骨山脈を越えなきゃいかんが、それは北の道しかないはずだ。うちの子らが着ている西州の衣装だって、北の道から手に入れたんだ」
 宿の主人は首を捻る。これまで迎えてきた客達から、この世のありとあらゆる道と土地の名を聞いていた。彼の記憶にその名の道はない。
「ならばクルートドゥルーは?」
「それなら誰でも知っている。この世の理想郷だ。市井の歌人より、偉いさんのお抱え詩人が好む題材だ。クルートドゥルーの詩人は、神業でもって人々を魅了したそうな。クルートドゥルーは百の宝玉が繋ぐ道だとか。もしかしてそれが天空の道かね?」
「クルートドゥルーは時折、過去の記憶の場所を変えるのよ。塩湖に沈んだのが最初。そこから何度か時間を旅し、私が知る限り、天空の道が最も新しい時代のクルートドゥルーになった。幻影の国はクルートドゥルーの詩人に歌い継がれて、大地をさまよっている」
 歌人は竪琴を爪弾く。舞台の演奏が終わり、人々は見たこともない異人の歌人へ視線を送った。元の色も定かでない汚れた粗布をまとい、靴も持たぬ物乞い同然の姿である。しかしそれに包まれる純白の肌は、たとえ無数の古傷跡が見えたとしても、まだ若く美しい。白金の長髪は腰まで届き、燭台の明かりに煙って輝いた。人々は広く白い額に目を留め、ついでその下に暗く影を落とす落ちくぼんだ両眼を見る。影の奥で濡れた瞳が光った。
「天空の道随一の都セゲアテルで生まれた曲がある」
 歌人は竪琴を構え、幾つもの小さな歌を唄った。その多くは人々に懐かしく、あるものはまだ見ぬ異国の姿を忍ばせる。ところが曲の合間に一人の客が声を上げた。
「どうも歌の内容が古めかしいな。なあ、もっと新しい歌は知らないのか。沿岸地方からの芸人どもは海の向こうからいつも新しい歌をもってくる。天空の道とやらからは、新しい歌はないのかね」
「そうね」
 歌人は答える。
「新しいものも、みな古くなってしまったようね。クルートドゥルーの詩人達が、昔にここを通ったのでしょう」
「だとすれば、それは相当の昔だろう」
 その晩彼女が得たのは、暖炉の側の寝床、そしてわずかな銅銭だった。
 天空の道は彼女の足元でいつの間にか溶けて消え、人々の記憶からも失われたらしい。クルートドゥルーの言葉も、当時ほどの力で人を魅了することはなくなっていた。彼女は今となっては故郷とも言える場所から、時によって永遠に隔てられてしまったのを感じた。
 食堂に人の姿は消えたが宴の熱は残り、早春の晩の寒さを幾分和らげている。暖炉の燠は赤く、時折火花を爆ぜながら徐々に暗くなっていく。
 己自身の身の上や年齢も分からない。あの後どれだけの年月が流れたのか。石花ゆえの正体を持たぬ激しい乾きは、黒水を得る手段のないこの先、どうすればよいのか。
——朽ちるまでは生かされているしかない。トカゲの言った、死ぬには早い無知とやらが何処まで持つか試そう。それにしても、クルートドゥルーの詩人も落ちたこと。歌一つが錦の織物にもなると言われたのに。至宝の妙技もエツベルで絶えてしまった。
 幻影の国の竪琴は、持ち主の足を借りて旅をする。塩の都を逃れた都人らが受け継ぎ、幾多の繁栄と滅亡をくぐり抜けながら、クルートドゥルーの記憶を運ぶ。運び手を駆り立てるのは、都と共に沈んだ詩人の呪いだろうか。それとも最後の場所を探しあぐねて彷徨っているだけだろうか。
——あれは確かに夢ではなかったはずなのに。
 石花娘は呟き瞳を閉じる。戸口の前で彼女の帰りを待ちくたびれ、立ち去る義母の背中とワルバの音は、思い出そうにもあまりに遠い。遊女の家の扉は閉まり、彼女は夢のない眠りに残されていた。

天空の道 - 完 -