龍鱗

前編

 薄暮に浮かぶ岩肌に、最後の熱い血が滴った。悪漢の命乞いは徒労に終わり、使い込まれた剣の先が喉から引き抜かれる。
 風が立ち、ススキとともに殺戮者の褪せた赤毛も揺れた。彼は油断なく最後の確認を行う。敵は全て打ち倒し、冷たい岩床に切り伏せた。しかし生きたものの気配はまだ残っている。姿を見せないのを考えれば、ひとまずは相手もこちらに怯えているといったところか。少なくとも、何かに命を狙われている胸騒ぎは去り、彼の身体から抑えていた疲労が湧き上がっていた。
 彼は斜面に差し込む今日最後の光の恩恵を剣に受け、わずかな間、犠牲者の魂が送られる場所を祈る。そして剣の先で相手の衣服の端を削ぎ取って濡れた剣を拭き、汚さずに残した端で返り血に濡れた己の口の周りも拭った。剣はもう必要ないだろうが、口をきく機会はまだありそうだった。
 彼は愛剣を陽光に閃かそうと腕をあげる。ところがそれはすぐに遮られた。長く伸びた人影が、向かいの斜面から彼の身体をよぎり、悪漢の亡骸までかかった。
「そこにいたか、死に損ないめ! そのまま隠れていれば、命拾いできるとは思わなかったか」
 相手の生身を捉えようと彼は居直ったが、日暮を背にする姿を直視するのは難しかった。日に透けて輝く明るい髪と長い首をまっすぐにした立ち姿が瞳を焼いたのみである。逆に相手からは彼の姿がよく分かっただろう。型崩れしかけた革鎧を血に濡らし、左腕には傷だらけの丸い小盾。肩口までの乱れた頭髪は汗と汚れで幾束かにもつれ、抜き身の剣を手に突っ立ったままの様相だ。
 彼は小盾を額にかざし、地面に伸びた影の輪郭を改めて確かめる。焼かれた視力は暫くちらちらと赤や緑や漆黒の火花を視界に散らしていた。やがてその火花も収まり、揺れるススキの穂に横たわる影がはっきりとしてくる。その優美な輪郭は、彼の遠い記憶を呼び起こした。
「異国の野辺に、我らが月、女神ディンの御姿を拝められるとは」
 口調を和らげ、彼はようやく剣を鞘に収めた。
「だがこれ以上ディンの御姿をいたずらにすれば、天罰が下るぞ。異人の女が真似るものではない。……まあ、俺もここでは異邦人だが」
「お望み通り、やめるわ。話が通じそうで良かった」
 異人女の影も長い髪の先を握っていた腕を下ろす。深くなめらかで、女にしては張りのある声だ。馴染みのある影姿が消えると、彼はわずかな落胆を覚える。そして故郷を離れた時間がこうも簡単に郷愁を呼ぶ不覚を、呪いさえした。
 異人女は日の差す丘を降り、夕の影に立った。影の中でも、彼女の眩い金髪と純白の肌は明らかだった。面長の頭と長い首筋。身長も偉丈夫で通っていた彼より高いだろう。そしてそれに見合った長い手足に、少々古めかしすぎる舟形の竪琴を抱いていた。今時このように原始的な形の竪琴は、よほどの秘境にでも行かぬかぎり使う者はいないだろう。
「博識な語り人殿だ。俺の生まれを知ってあの立ち姿を? 己の髪を腕に張って竪琴を表す姿は、俺達の国独特の様式らしい。それでお前はひとり旅か。まさかそうではないだろう?」
 異人女は頷くと、鼻梁の高い横顔を見せて後ろへ一声かける。今度は彼も驚き、あわや再び剣を抜くところだった。思った以上にすぐそばの岩陰から、人影が素早い身のこなしで現れたからだ。相手も彼の動作に呼応して、反射的に両の手のひらを首の高さまで上げた。その手に何も持っていないことを瞬間的に示すと、両腕を弛緩して下ろし、だらしなくぶらぶらさせる。平らな胸と横に張った肩から男だと分かったが、首や胴回りが幾分華奢で幼さを残している。ようやく十代も後半にさしかかるといった程度だろう。夏の日焼けを残した肌は赤みがかり、髪も肌と似たような色合いをしている。彼と同様明らかにこの辺りの人種ではない。
「異人女に、やれやれ、子どもか。俺より後にここを通って、助かったわけだ」
 彼はひと心地ついて答えた。
「酷いものを見せられたけれど。次は私達ってことはないわよね」
「山賊狩りは終わりだ。お前らのおかげで、程よく頭と身体が冷えた。霜が降りる前に宿に戻れればいいが」
「その宿に私達も世話になれないかしら」
「俺が泊まれたから、問題なかろう。特にこの西国はたとえ人の形をしていなくとも、先立つ物さえあればどうにかなる。なんといったか……」
「バラグ・グアの沙汰も金次第」
「そう、そんな感じの言葉だ。東に比べれば人情味もないが、そういう粗雑な寛大さと後腐れない関係もいいかもしれん。ここに居つくつもりはないからな」
 目の前の二人が少なくとも危険ないと分かると、彼は足元の死体を物色する。すでに空半分星が瞬き、地上の殆どが暗闇の底にあった。彼の背で、異人の歌人は大袈裟に嘆息する。
「音に聞こえし勇敢なるカイコーズの男が、小銭を探して山賊の身体をまさぐってるなんてね」
「否定はできない。幸い西国に来てから、新しい価値観に目覚めた。ここの連中は逞しいよ。露天商の婆さんですら己の身と商品を守るのに、懐に小刀を隠している」
「五人相手に渡り合っていたな」
 物静かな少年の声色に、彼は振り返った。人相は知れないが、夕闇の中で真っ直ぐこちらを見つめているのだけは感じられる。歌人と異なり、死体を漁る彼を咎める様子は微塵もない。彼は自然と戦士の毅然さを呼び戻されて、手を止めた。
「五人いても、文字通り束になって打ちかかっては来られない。できる限り一人を相手にするよう、間合いを詰める。確かに敵が多いのは厄介だ。自分の目の前と背中だけでなく、八方気を使わなければならないからな。それでも相手が闇雲に手斧を振り回すしか能がないなら、倍の数がいてもどうにかなるものだ。あとは体力をどこまで無駄に使わないかだ」
「逃げる者を追うのは難しい。二人行った」
 少年の口調はあくまで物静かに淡々としていた。彼はその肝の据わった様子が好ましく、喉の奥で笑い、腕を上げて別の斜面を曖昧に指し示す。吐く息が闇に白く溶けた。
「致命的な失敗だ。だがそれについてはあとで考える。死体が平気なら、あの辺に倒れているのをちょっと手伝って欲しい。とりあえず、簡単に持っていけそうな金物を。あとは明日の朝にでもゆっくり探すさ。野犬に荒らされてなきゃな。お前、名は? 俺はウォルクハルと呼ばれていた」
「エカル」
「やはり東国の名だな。懐かしい響きだ。語り人殿は名乗らないのか?」
「異人女の名前を知りたがるとは思わなかった」
「言ったろう。新しい価値観に目覚めたと。今ではどんな東州の人間より好奇心が旺盛だ」
「その昔、エルヤという名をもらった。東州風の名よ」
 この二人が、宿までのわずかな行程を、腕っ節の強い誰かと同行したがっているのは見て取れた。この街道の外れは地形の起伏が複雑で、日が落ちて動くのは、土地に慣れない旅人には難しい。おまけにここで酷い目に合わされた山賊が二人も逃げた。味方が近くにいるなら、彼らは手勢を集めてすぐさま復讐に戻るかもしれない。虫の居所が悪い悪党に鉢合わせるほどの不運はない。となれば、彼はこの二人に幾らかの注文をつけられる立場にあった。なによりこの暗闇の中、霜がおりるまでに賞金首を仕留めた証拠の品と、幾らかの分捕り品をかき集められたのは良かった。あの少年が血塗れの死体を恐れていたら、それも難しかったろう。
 街道沿いの宿場町とはいえ、賑わっていたのも今の住人達の二世代前のことらしい。朽ちかけた廃屋の目立つ街並みは惨憺たる有様で、建材をあちらこちらから引き抜かれ、路地の上に倒壊した家屋もある。ウォルクハルは人目につくのを避けようとそういった道を選んで町に入ったのだが、頻繁に使われているらしい道も荷車一台が通れる程度の隙間を残して、露天を建てる台や崩れた瓦の山で乱れている。元は宿だった廃屋も多い。往時はひっきりなしに隊商が通ったろう市場の道は逆に閑散として、鼠一匹いそうにもない。ウォルクハルは広場を横目にしたまま別の路地へと入り、一つ明かりのついた土壁の倉へと入る。
 重い木戸の向こうは真っ赤な炎が火床に満ちた宿の食事場だった。擦り切れた床板に十数人の人影が座り、皿の上に被さるようにして食事をとっている。旅人らしい姿は他になく、皆が地元の住人だった。戸口の物音に最初は誰もが無気力な目を向ける。その目はウォルクハルの姿を捉えるとわずかに光を取り戻し、その後ろに異人女の姿を見つけてはっきりと目覚めた。さらにウォルクハルが火のそばを通り抜け奥へ向かおうとすると、白髪交じりの黒髪を後ろに束ねた女将らしい女が人影の中から立ち上がる。彼女の顔にはまだ、周りの者達より勢いの良さがあった。彼女の隣に座る老人は片目が悪そうであったが女将以上に覇気があり、何ものも見落とさなかった。
「その格好で大切な火のそばを通るんじゃねぇよ。湯で落とせ。水じゃだめだ」
 ウォルクハルが奥の台所へ去ると、女将もその後を追って姿を消した。老人は突っ立ったままの二人の旅人へ鋭い眼光を向ける。彼はしばらく相手を吟味し、特に少年の方をまじまじと眺めた。
「東州の海の民だな……。餓鬼の頃はよく見た。赤い肌をして、腕に胸や背中、足どころかケツにまで青い刺青を入れて、ほんの鼻垂れ小僧だった時分はあいつらが恐ろしかったものだよ。北の港から来る異国人は、大概そんなだった」
 少年は居心地の悪さを顔に出し、袖をまくって火に照らす。火の色に染まった右腕は刺青ひとつなく、一筋白い古傷の跡が走っているだけだ。老人は鼻を鳴らした。
「今じゃ、この町にも碌な者が来ん。やって来る東州人は、破産した商人どもかはぐれ者か。あの男もこのひと月、ケマンの首を追って道に張り込んでたが、素姓が知れんよ。東州人だろうが、あまり見ない人相だ」
「交易はしない類の東州人だから」
 歌人の答えに、老人は表情の失せた顔をわずかに歪める。
「異人も昔は珍しくなかったが、歓迎されることもなかった。だが儂らは話が好物だ。お前が語り人なら、異人であるのは帳消しでも余りあるわい。火に当たれ」
 老人に促され、歌人は火床の端に腰を下ろした。周りの人影が食事の手を止めたまま、物珍しげに赤い炎に照らされた彼女の髪や肌を見ようと首を左右に揺らす。老若の浅黒い肌をした男女が、黒い瞳に炎を映すのを歌人は見た。少年も彼女の隣に胡坐をかく。彼は懐の皮袋を取り出し、幾らかのささやかな宿代を老人へ差し出した。老人は節くれた指で受け取り、小銭がまがい物でないか、匂いを嗅ぎ、舌で味を確かめる。
「よしよし」
 幾つか抜けた歯の間から息を漏らし、老人は満足げな面持ちになる。だからといって、彼の皺が縁取る鋭い顔つきが柔らかくなったわけではない。
「あの男について何か知っていたら、話してくれ。カイコーズという国から来たことしか聞いてない。その国の旋律でも交えて聞かせてくれたなら、夕飯を皿いっぱいに盛ってやろう。そこの若いのは一人前じゃ足りんだろうて」
 彼はそこまで言って、自分の皿に頭を下ろす。そのまま自分の言った言葉を忘れたのか、あるいは語りが始まるのを静かに待つのが聞き手の作法と心得ているのか、もそもそと指を動かして肉の油で炒めた雑穀を丸め、口へ運ぶ作業に戻る。しかし他の者達は瞳に期待を秘めて歌人とその竪琴を見つめ、暗がりからは彼女の膝下に真鍮の杯がそっと差し出された。歌人は杯をとり、この地方の古式にのっとって三度火床へ杯の酒を少しずつ零す。その度に炎が滴った酒の雫を這い上がって杯の縁まで火柱をあげた。火は最後に杯の中で青白く瞬いて消える。
「炉端の炎が、今宵の話を彩る」
 彼女は杯を空け、程よく喉を湿らせた。
「さて、皆様のお時間をしばし拝借し、異国の物語をご披露しましょう。カイコーズはここより遥か東。天然の長城、竜骨山脈を越えた東州にあります。私の竪琴は五つの音色しか奏でませんから、六つの音を持つカイコーズの音をそのまま再現するのは難しい。しかしかの国は戦乱に消え、彼らが持つ全ての弓の弦が切れたとしたら、五つの音色でも多過ぎるかもしれません」
 歌人の語りに、興奮を隠した人々は胡座をかいた膝を揺らした。語り人が異人であれ自分達の物語の作法を知っているのは喜ばしく、何より異国の噂を耳にいれる贅沢は旅人の絶えた宿場町にとって、かつての賑わいをひとときの幻影として与えてくれるものだ。宿がどれほど多くの人と物に溢れ酔っ払いの喧騒に包まれていたとしても、語り人が火の側に座って燃える杯を手にしたら、皆が寝る前の子どものように神妙になって言葉を待ったのだ。

 東州の中央に位置する白峰の山岳地は、この世で最も古い大地がタイザールの厄災によって隆起してできたとも言われています。その地層は神話の時代、人間がまだ石ころの中の土だった頃にまで遡り、険しい山々の芯には生まれ損ねた石の卵が、目覚めを待って眠っているとも言われています。
 さて、カイコーズを語るには、何よりもまず龍がいなくてははじまりません。この恐ろしいトカゲの化け物は、コウモリの羽を持って夜空を飛び、肺の炉から炎を吐き散らして雲の上にある神々の神殿を脅かしました。龍は神々よりも古くから空にいて大地を荒らしまわり、最初に生まれた龍にして最後に死んだ龍の子どもである自分が、この世の支配を継いだと自負していました。そして白峰の山々を狩場とし、山に穴を空けては、古い山の芯から石の卵をほじくり返して食べました。神々と龍はこの世の覇権を争い、長い戦の世紀を過ごしました。天空を統べる雷神ラハドゥルは中でも最も勇敢に戦い、ついには巨大な稲妻で龍を打ち、粉々に砕きます。龍の身体から何万という鱗が飛び散り、鱗の一枚一枚から小さな龍が生まれました。小さいとはいえ人間からすれば、彼らの背は大きな丘ほどもありました。
 ラハドゥルはこの後始末を、白峰の山岳地、中でも最も高い山に暮らすカイコーズ人に命じました。人間の中でも最も古い血を受け継ぐ人々です。白峰の王の山と呼ばれたその山頂は万年雪に覆われ、熱くなりすぎた肺を冷やすために、龍が寝ぐらに選ぶ場所でもあったのです。雷神の命は、真っ赤な雷が彼らの銀の祭壇を真っ二つに叩き割るという、凄まじい形で伝えられました。そして割られた祭壇の修復には、龍達の血が必要とされました。
 カイコーズ人はその時から、龍を狩ることを宿命づけられます。壊された祭壇は狩猟の神テシオッサに捧げられたものでした。テシオッサは神託によって、天に向かって矢を射ることをカイコーズ人に許しました。それまで天に飛ぶ獣は雷神ラハドゥルのものとして射落とすことができず、それらが木の枝や地面に降り立っている時しか狩ることを許されていなかったからです。白峰の山で狩人として暮らしていた彼らはテシオッサの神託に従い、龍狩りの技を新たに考え出しました。
 龍ほど猛々しい生き物を相手にするのは、男の仕事です。彼らは十数人の集団を作り、龍を仕留めるため、白峰山地の小さな草原近くで林に潜み、何日も龍を待ちます。龍が草原に降り、長くは飛べない巨体を休めると、男達は一斉に馬を駆って林から飛び出すのです。龍が驚いて飛び立っても、その慌ただしい飛行が安定するには時間がかかります。それまでが人と龍の勝負所でした。
 龍の吐く炎に触れれば終わり。灼熱の炎は大地が吐き出す溶岩と同じように、すべてを跡形もなく溶かして灰すら残しません。
 カイコーズの男達は馬で疾駆しながらでも、正確に矢で的を射抜きます。彼らは手綱を使わず両足だけで馬を操り、龍の吐き出す炎の間をぬって、空高く飛ぶ龍に矢を浴びせます。ついに龍が飛び疲れるか、身体に刺さった矢束の重さと痛みに耐えられなくなるかして大地へ降り立つと、男達は弓を槍に持ち替えて最後の地上戦を行いました。龍の首の付け根には逆さの大きな鱗が一枚あり、首の動きに合わせて鱗の裏に隠された喉笛の穴が覗くことがあります。そしてその奥深くに火を吹く心臓があります。彼らはそれを槍で狙うのです。逆鱗が開いた一瞬の時を捉え、槍の穂が火を吹く心臓の熱に溶かされる前に、素早く奥深くまで正確に突かねばなりません。カイコーズの騎士が弓と槍の扱いにかけて他に及ぶ者のないのは、このような龍狩りの伝統があったからです。
 こうして龍は日増しに少なくなりついには姿を現さなくなりましたが、カイコーズの男達は龍狩りの技を守り続け、日々の訓練を怠りませんでした。その後、壊れた祭壇が修復されたかどうかは、カイコーズ人に聞かなければ分からないでしょう。祭壇には血の流れる龍の頭が捧げられましたが、そこで流された龍の血が祭壇を繋ぎ合わせるのに十分であったかどうかは、実際に祭壇を目にした者以外確かめようがないのです。

 歌人が語り終えた頃合いに、炊事場の奥から濡れた髪を後ろに掻き上げたウォルクハルが出てきた。汚れた革鎧を脱ぎ服も着替えてさっぱりとした表情で、彼は人々の注目を浴びながら食事の皿を歌人と少年にそれぞれ手渡した。
「カイコーズの男は成人になる年、同い年の仲間と狩りの集団を作って山の頂の祭壇まで行くことになっている。国王のいる古砦に赴くだけでも、俺達にとっては初めての長旅で、前日は血が騒いで一睡もできなかったものだ」
 無愛想な女将から自分の食事を受け取り、彼は人々の期待を受けて歌人の語りを引き継いだ。皿に添えた手が肘から僅かに震えていたのは、寒さと左大腿に負った傷の痛みのせいらしい。左足の下履きを腿の辺りで割いて足を剥き出しにし、股下に止血用の布を結び、傷口には黒く大きな染みが滲んだ包帯を巻いている。彼が大きな怪我をしていたことに、歌人と少年はそこで初めて気がついた。
「もう二十年近く前の話だ。東州の戦に巻き込まれる直前くらいの秋口で、しきたりに従う生活の余裕があった。狩りをしながら古代の石段を登って他の集団と競い合い、もっとも素晴らしい獲物を祭壇に捧げる儀式だ。本来捧げるべき龍の生き血が——。龍が捕まらなかったから。龍の存在はもう、伝説になっていた。祭壇がどうなっているか、そこに何が残されているか。残念ながら他言はできない。祭壇の巫女にそう誓わされるからな。それに、カイコーズという国自体がなくなってしまった。東州は二つの大きな国が周辺の小国を吸収しながら互いに覇権を争っている。カイコーズは険しい高山の小さな貧しい国で、厳しい白峰の神から賜った狩場を隣国からどう守るかしか頭になかった。古砦の兵士も兵士である前に狩人だった」
 ウォルクハルは火床の向こうから薄い色の瞳を歌人に据える。異人であるため年齢は分かりにくいものの、硬質な印象を与える肌には皺ひとつなく、彼よりひと回り若そうだった。その瞳も奇妙で、金箔を貼ったような彩虹に火床が照らす影が落ち、瞳孔周辺は炎が揺れる度に小さな緑の光点が閃いている。彼女は弓を射るように、竪琴の弦を一本強く弾いた。
「やはりあんたは物知りだ。この異郷で故郷の話を聞くのはいい。カイコーズのことをこうして語ってくれる者がまだいるのは、嬉しい」
「カイコーズの騎士がニブルの帝国軍を退けた顛末は、東州中に知れ渡ったわ。小国の野蛮人程度と見なしていた相手に惨敗したんだから。それ以前にも、最初はカイコーズ兵のほとんどが女と少年だったことが、帝国軍には驚きでしかなかったようだし」
「男達は龍を狩るのが真の務めであって、人間など相手にすべきでないと考えていた。カイコーズの女達は勇猛だ。狩りで男達が家を空ける間、家と国の守りは彼女達の仕事だった。西州のあんた達でも驚きだろう。戦争が始まって、家族で最初に徴兵されたのは俺の母と姉だった。老女と病人を除き、子が乳離れした女と未婚の女はみな兵士となり、数が足らなければ成人前の少年らを加え、帝国軍と戦った。連中はカイコーズを女戦士の国かと誤解していたほどだ。そのとき男達は、龍の狩人に立ち戻る日を夢見て、龍狩りの技を磨くのに勤しんでいた。戦況が厳しくなり戦える女の数が少なくなって、ようやく男達は夢から覚めねばならなかった。俺達は馬を引いて戦に出た。ニブルの谷へ。龍狩りの技の前に、人間の軍隊はひとたまりも無かった。俺達は連中を巻狩りさながらに林の中へと追い込み、周辺の杉やトウヒを切り倒して簡単には逃げ出せぬよう囲った。そして火をつけ、矢と投げ槍を浴びせた。皮肉にもその圧倒的勝利が、カイコーズの龍狩人を弓騎兵に変えた。龍の伝説と共にあった俺達の技は、俗世に堕ちた。皇帝はカイコーズの騎兵を得ることを望み、また己の兵士らが獣のように殺されたことに怒り、途方もない大軍隊を送り込んだ。山間の小国を落とすには常識はずれの数だ。奴らは俺達が持つ矢束以上の兵士を用意したんだからな」
 ウォルクハルは杯をあおって一息おいた。
「負けた。カイコーズ兵達は一つの鎖につながれて、王が処刑されるのを見た。兵として戦った女達は武装を解かれて他の女子どもと一緒に奴隷に、男達も奴隷兵士として今度は帝国のために、見も知らない土地で戦う羽目になった。本当に何年もあちこち連れ回された。俺が最後に戦ったのは、東州最西の山岳部だ。あれは負け戦で、帝国軍は正規兵も奴隷兵も援軍も散り散りになった。少なくとも俺は逃げ延びて、ここで飯を食っているが」
 火床は暗くなりかけていた。話が終わり、人々もあらかた食事を終えていたが、ウォルクハルほど寛いだ様子はなく、この敗残兵の東州人へ暗がりから瞳を向けている。宿の主が痰の絡まったがらがら声をあげた。
「お前がケマンを殺るのを待っていた。その様子じゃ、山賊の一人や二人は綺麗にしたんだろう?」
「綺麗の意味が分からないな」
 ウォルクハルは懐から無骨な首飾りを老人の膝へ放った。鎖帷子の輪を繋ぎ、黒光りする木の玉が幾つも飾り付けられている。老人は火に照らしてものを確かめ、乾酪のそばに置いた短刀を手に取る。熱い灰の上で木の玉を少しばかり削ると煙が一筋昇り、一瞬素晴らしい芳香が人々の鼻をかすめた。人々は火床に身を乗り出し、口々に呟く。やや早い西州東部訛りの言い回しに、ケマンの名が何度も出た。
「ああ、あいつらしい。曽爺さんの代から伝わるもので、大切にしておった。奴は首を落とされでもしない限り、これをはずしはしないだろう。親父の言うことを聞きわけて家を継いでいたら、こんなことにもならんかった」
 老人は水で薄めた酒で喉を洗う。
「あいつがいなくなれば、他の連中もしばらくは大人しくなるかもしれん。ディエジャの太守が、ようやく己の蓄えている財の使い方を学んだおかげだ。お前に目をつけられたら、どんな山賊一味も逃げられんな。狩人だけのことはある」
「剣を持て余す連中は俺の他にもいるだろう。ケマンといい、西州人は元来気の荒いのが多いようだしな。これからは鼠から猫になる奴も現れるだろう。ここいらを荒らす鼠どもが少なくなれば、人の流れも戻るかもしれないな」
「西州の鼠はそれなりに知恵がある。駆除は一筋縄ではいかないでしょうね」
 口を挟んだ歌人にウォルクハルは気軽な様子で頷いてみせた。
「二人に姿を見られた。逃げ延びた鼠どもは猫に賞金をかけるだろう。ディエジャの太守が連中の首に金を出すと約束したように」
「ならばここに長居は迷惑だ。太守から金をもらえるよう、ケマンの死亡証文を明日までに用意してやる。受け取ったらすぐに発て」
 抜け目なく宿の主は話を戻した。彼は組んだ足を解いて立ち上がり、もう店じまいとばかりに周りの客達に腕を振った。女将がいそいそと部屋のわずかな獣脂蝋燭を消しに回ると、ようやく客達も腰をあげ、火床から拾い上げた松明を手に路地へと出て行く。

 火床には灰が被せられ、宿の客三人には一口ながら身体を温めるための混じりものなしの酒が、小さな角杯に与えられた。くれたのは女将で、それも宿の主が部屋から出て行った後、目を盗むようにこそこそと炊事場の奥から出してきた。彼女はどちらかといえばウォルクハルのために用意してくれたようで、残りの二人はおまけだった。山賊の死体から小銭を漁っていたほど金に困っている、そして少しでも節約したがっている彼がひと月の滞在賃を金銭で払えたかどうかは怪しく、宿から食事と寝床を得る対価として足りない分を宿での日常労働、そして女将への献身で充当していたのは明らかだった。
 のろのろと寝室へ立ち去る女将の背を横目に、歌人は特別の見解も差し挟まず勢いよく角杯をあおる。ウォルクハルはそれを確認して、自分も杯を飲み干した。いくら新しい価値観を得たとしても、カイコーズ人の道義にもとる生き方をいちいち指摘されるのはうんざりしていたのだ。少年は角杯には手をつけず、いち早く外套に包まって、まだ熱い火床を囲む石の側で横になった。ウォルクハルは少年の腕や顎を走る傷跡が、外套の荒い布地に隠れるのを見た。彼自身も似たような傷をいくつも持っていたから、少年がいつ頃、何によってその傷を受けたのか推察するのは簡単だった。
 彼は若い頃は獣の爪や牙、植物の棘や枝、岩による傷が多く、戦争が始まってからは剣傷や矢傷が増えた。彼の人生で最初に受けた大怪我は、目の前の少年と同じような年頃の時、鼻梁から左の頬までを深くえぐったものだ。四つの筋があったそれは二十年経って、ようやく目立たなくなっていた。表情を変えたときにそれと分かる程度だ。とどめを刺し損ねた狐に引っ掻かれたという締まりのない話で、これのおかげで当分弟達から馬鹿にされっぱなしだった。戦の中では左耳に刻み目を入れられた。身体の刃物傷は様々で、経年による傷跡の変化については、馬の年齢を見積もる次くらいには正しく言い当てることができる。
 少年の持つ傷の多くは、刃物によるものだ。それ以外は鈍器による挫傷痕だ。いずれにせよ、どれも人の手による武器で受けている。最も古い傷でもせいぜい二、三年程度しか経っていないのではなかろうか。あの年齢で兵士として戦場に出たとは疑わしい。そもそも徴兵される年齢にも達していないようだ。矢傷らしいものは見当たらなかった。戦場であれば弓矢の攻撃に一度ならず晒されるものだ。ならば弓のない戦場とはどこか。ひとつしかない。それは都市にそびえ立つ、歓声渦巻く劇場の中にある。
 ウォルクハルは少年の過去に行き当たった。剣闘士。自ら望んであの血なまぐさい劇場の演者となる者もいるが、少年は演者となるには若すぎる。となれば剣奴隷か。剣闘士の年齢には規定があるが、剣奴に規定はあってないようなものだ。しかし奴隷であったなら、少年の主人はどこにいるのだろう。まさかあの異人がそうではあるまい。どのような生まれであったのかは知れないが、憐れむべき身の上である。
 ウォルクハルは奴隷兵士だった自分が、戦場の混乱に乗じて逃げ出したことを思い出す。少年にも似たような機会があったのだろうか。あれが降って湧いた幸運と言っていいものか、わが身を振り返って彼はいまだに迷うことがある。
 そしてこのような時、決まって彼は考える。東州、西州と分かたれる人間の世には数えきれぬほどの人生があり、たとえ産声を上げる前に産婆によってそっと押し殺された赤子のものであろうと、どれ一つとしてつまらぬものはないのだと。戦場を逃れ竜骨山脈のどことも知れぬ山谷を彷徨い、雨によって洗われた大気と森、闇夜の危険が虹色の朝日と共に払われていくのを感じ、迫り出した岩棚や木の根の影で体温を奪われまいと、仲間と身を寄せ夜明けを喜びあった記憶は、人生についての捉え方を変えるには十分なものだった。この世に生を受けたのが奇跡であれば、感情を味わい、言葉を覚えて心を得るまでに生き延びた人間はどれほど幸運か。この世には幸運との出会いしか残されていないのだ。そしてその終わりには、全てから解放される死という僥倖がある。
 まだ彼の半分も世に存在していないこの若者の厳しい人生は、彼に与えられたものに匹敵する危うい幸運の連続によって、今も続いているのではないだろうか。その所作や身体の傷を見る限り、彼と少年は同等の死線を越えてきたようにも思えるのだ。
「お互い深い事情があってここにいるようだ」
 揺れる火影の向こうで、外套に鼻先まで包まり顔を沈め、少年はウォルクハルの視線に答える。感情のこもらない淡々とした口調だった。この少年は彼が何を考えていたか、見抜いているようだった。物怖じを知らず、澄んだ瞳で人を真っ直ぐに見つめる。その眼差しを受けて、彼は今日の夕暮れ時と同様、素朴で純粋な感銘を呼び覚まされた気がした。どちらの時も、相手の瞳は静かにそっとこちらを見ていた。奇妙なことだ。獲物を探して故郷の雪稜を歩いていた昔を思い出す。あの時彼は猪を追い求めながら、岩陰に潜む雪狼に見つめられていたのだ。もっと大昔なら、カイコーズの狩人達は洞窟に潜む龍からあのような眼差しを受けていたのかもしれない。彼の心は瞬時にして故郷へと飛び、口をついて押し殺した叫びとなる。
「俺がカイコーズに生きたのは、もう前世のことのようだ。弓に馴染んだこの手のひらがなければ、完全に忘れていただろう。東に見える天を貫く山々を越えればすぐ東州だというのに、帰ることすらままならない!」
「……もし眠れないなら、少し話して聞かせて」
 歌人は穏やかに囁いた。彼女はまだ横にはならず角杯を手に弄び、火床の残り火へ白い面を向けている。古風な舟形の竪琴は膝の上にあり、その五つの弦は竪琴の首から解かれていた。竪琴は、音色を放つ弓だった。ウォルクハルは若い頃、狩りの弓を弾いて音色に耳を澄ましたことを思い出す。音で弦が上手く張れたか確かめるよう父親から教わった。
「カイコーズ人が西州に一人でいるほど奇妙な話はないわ」
「では六人いたら、奇妙な話も大いなる謎に変わるだろう」
 とうとうウォルクハルは獣のように呻きながら、仰向けに寝がえりをうった。束の間の回想は消え、左腿の傷が酷い熱を持って疼きはじめていた。火床の向かい側に横たわる少年は、彼の様子に眉をひそめた。
 歌人は角杯を置き、解いた弦を丁寧に束ねて油紙に包むと、皮袋に収める。彼女はウォルクハルのしかめ面を隣脇から見下ろした。
「東州と西州は龍の背骨と呼ばれる険しい山脈に隔てられている。陸路では、その山脈に唯一穿たれた巨大な扉を通るしか道がない。私達はそこを通って来たのよ。あなたは? 敗残兵が通行を許されるとは思えないけれど」
「負け戦は龍骨山脈の鞍部であった。マルークという山岳地帯のヴォクンという場所だ。北から南へ抜ける広い道がある。軍は敵の数を誤り、地形の把握も怠り、戦う前から負けていたようなものだ。俺は今でこそこんなだが、当時は三十騎の弓騎兵隊を率いていた。カイコーズの軍では、それなりに階級は高かった。帝国軍の支配下においては奴隷兵団にも関わらず、弓騎兵は大切に扱われていた」
 彼は深く息をつき、話しはじめた。
「カイコーズの兵士達は帝国軍に人質をとられていたから、どんな無謀な戦闘にも黙って赴かなくてはならなかった。たとえ生まれて初めて軍を率いるような、いいとこの若造が上官でもな。
 俺にも結婚したばかりの妻がいた。彼女ほど美しく気の強さを兼ね備えた女は、カイコーズでも珍しいだろう。男達が戦に出る前は、彼女も他の女達と共に武具に身を包み、カイコーズを守るため戦っていたんだ。だがカイコーズが負けた時、彼女達は捕虜となり、その後奴隷として何処かへ連れていかれた。残された男達は、己の母や姉妹、妻や娘達の生死も分からぬまま、彼女達を人質として取られたのを知った。国を滅ぼされた後も囚われた同胞のため、帝国の騎兵として誰よりも果敢に戦わなければならなかった。故郷には僅かに残された同胞もいたが、帝国軍の支配下でまともに暮らしているのか。滅ぼされた小国の末路ほど悲惨なものはない。
 彼女は今頃どうしているだろう。故郷に戻されたのか、奴隷のままでいるのか。生きてくれさえいれば、何でもいいのかもしれない。離れ離れになって随分経つ。再婚でもして、カイコーズの子を産んでくれていたらいいのだが。俺は死んだと思われていても仕方が無い。
 話を戻そう。
 カイコーズ騎兵は戦場においてひどく恐れられた。疾駆する馬の背から正確な矢を射り、敵の弓兵団には突撃して槍を操った。人馬一体の動きができる戦場ならば、無敵を誇った。なにより、カイコーズ騎兵は死を恐れなかった。狩りの神テシオッサの猟犬でもあるカイコーズの男にとって、死は束の間の眠りだ。テシオッサの呼び声ですぐに目覚め、新たな狩人としてこの世に戻れるからだ。
 ところがヴォクンでの戦いでは、カイコーズ騎兵の強さは生かされなかった。年若い将軍の用兵はあまりに粗雑だった。本来であれば慣れた参謀が付くのだろうが、手柄にはやる若者をうまく制しきれなかったのかもしれない。あるいは、あそこで俺達は使い潰されることになっていたのかもしれない。奴隷兵士は戦闘に勝利しようが、一日とて先の命が見えないものだ。戦場を共にする帝国兵らは、カイコーズ兵の強さとその気骨がいつまで奴隷の身分に甘んじているかと、常に疑ってもいた。地形の悪い岩だらけの谷間で敵味方が揉み合い、そのうち敵の援軍が現れた。帝国軍はカイコーズ騎兵に突撃を命じた。俺達は言われるまま従い先陣を務めた。気がつけば雪解けの水が染みた泥だらけの窪地で、辺りは敵味方も分からぬ血と泥だらけの人間が争っていた。ただどうも、帝国側は負けているようだった。
 俺のそばには二十騎の仲間が残っていた。声を掛けると、さらに四人が徒歩で戻ってきた。馬は疲労や負傷で使い物にならなくなっていた。敵は勝利し、戦意を失った帝国兵への虐殺がはじまった。俺達は愛馬を捨てて逃げねばならなかった。山の方へ。あそこなら隠れる場所に困るまいと考えたのだ。急いではいたが、馬達を馬具から解放してやるのは忘れなかった。
 もっとも山に隠れたところで、その後どうする。戦場から逃げた奴隷兵士の扱いがどんなものか知っているか。そして俺達がここで迷っている間にも、別の隊にいた同胞が同じ苦境にあるかもしれない。あるいはもっと悪い状況に身を委ねることになっているかもしれない。
 悩み抜いた末、俺達は戦場には戻らず、ここに生き残った者だけで逃げると決心した。生死も分からぬ仲間を助けに行く危険を冒すほど、カイコーズにとって希望のない選択はない。ところが最初に進むと決めた方角がまずかったらしい。歩ける場所を探すうち、俺達は西へ西へと流された。数日かけてようやく出た山稜は、北の岩肌に雪壕の白い溜まりが幾つも見え、飛沫を上げる川が南から西へと流れていた。水は恐ろしく冷たかった。戻る道は戦場に通じていたため、何処か先には進まねばならない。西へと続く川下を避けて進んだ。登りが続いた。やがて遠く氷河が軋む音を夜中に聞いて、俺達は竜骨山脈高くに迷い込んだのを知ったんだ。
 白峰の山で行った成人の儀の狩りを、誰もが思い出したに違いない。幸い俺達は一流の狩人だった。獲物が豊富な場所はたとえ初めての山でもあてがついた。しかしまともに進めるような勾配は限られ、俺達は心ならず、どんどん西へ外れなければならなかった。山の恵みは多く、ヘラジカ、アルガリ、ヒグマや雪狼にも会ったが、人の姿はなかった。俺達は奴隷兵士だ。逃げているところを下手に見つからぬほうがよかったのかもしれない。だけどな、秘境で迷子になるほど心細いことはない。狼の群れに目をつけられても自分達でどうにかするしかなく、岩棚の道を踏み外して谷底へ落ちた仲間を探す余裕さえなかった。
 進むべき道を議論して、仲間内で喧嘩が起こることもあった。俺の仲裁が効かぬことがあったし、俺自身も己を保つのに精一杯になって、最後には道を別れて去って行く者を見送ることしかできなかった。どの道が他のよりましかなど、誰も分かるはずがない。二手に分かれれば、どちらかが最悪の運命を逃れ、うまくいけば山脈から脱出できるだろう。止むに止まれず、俺はとうとう隊を二つに分けることに同意した。この別れでは、残った矢束の分配で揉めなかったことだけが救いだ。
 こうして二十二人残っていた部下達は、十二人に減った。ある日雨のそぼ降る森で、突然部下の一人が落とし穴に落ちた。狩人の手間をかけた罠だ。落ちた奴は片足を折った。痛みに呻く奴を助け上げながら、俺達は喜んだ。ようやく人に会える手がかりを掴んだんだ。山に迷い込んでから一年半になろうとしていた。
 狩人が狩人の痕跡を探すのは、難しくもあり簡単でもある。俺達はあの落とし穴をしかけた狩人の心積もりを読むことができた。こんな場所にも人が住んでいるのかと、驚きもした。
 やがて幾つかの切り株も見つかり、ついに人里を見つけた。俺は人受けの良さそうな部下を二人連れ、不必要な武具は置いて里に入った。里人は俺達を珍しがり、どこから来たのかと尋ねた。彼らの姿形は、どう見ても東州人ではなかった。さらに残念なことにその里は、外界との接触が殆どない自給自足を基本とする生活をしていた。暮らしぶりが厳しいのは、里にいる殆どが女子どもに老人だというのからも分かった。男達は狩りや炭の商売で長旅に出ていることのほうが多かったのだ。商売をやっている者は、里では作れない金属製品、幾らかの穀物や酒を買って帰るらしい。老いた里長には敗残兵の身分のみを打ち明けて滞在の許しを請い、俺は残りの部下も呼び寄せた。里長は戦の話を理解できなかったよ。ただの喧嘩ならいざ知らず、数百人もの人間同士が入り乱れて殺しあう理由がこの世にあるのかと。そもそもそんなに纏まった数の人間がいるのかとな。結局俺達は、土地争いで追い出された家無し扱いだったよ。間違っちゃいないが……。
 女ばかりだから俺達はそれなりに歓迎された。恐れていたことに、部下のうち何人かはこれ以上あてもなく山をさまようことに躊躇しはじめた。罠にはまって足を折った奴は、手当てをしてくれた里娘に惚れ込んでしまったし、部下には二組の夫婦もいたのだが、彼らも暫くの滞在を望んだ。少なくとも一人の妻は、心身共に旅の消耗が激しかった。
 白く輝く峰に囲まれ、黒ずんだ緑の森の中にある里は、カイコーズに似ていた。俺はこれ以上他の部下に里心がつくのを恐れて村には滞在せず、里長の許可を得て、村から離れたモミ林の中に仮小屋を建てることにした。狩りの期間過ごすだけの簡易な掘っ建て小屋で、カイコーズの男なら誰でも建て方を知っている。仕上がった小屋を見た里人は、俺達が髪や肌の色こそ違えど、狩りの仲間になれると思ってくれたようだ。
 狩った獲物を里と分け合ううちに彼らも心を許し、交流のある他の里を教えてくれた。その里を辿って行くことで竜骨山脈から抜けられるのかどうかは分からなかったが、少なくともここでは昨年よりましな冬を迎えることができた。
 春が来ると結局部下の数を七人に減らして、俺達は出発した。その後の道中も色々あったが、どうにか皆が無事だった。ようやく急峻な山々を背に、青々とした風渡る平原を目にした時は、皆が泣いた」
 ウォルクハルは長い息を吐いた。火床には紅蓮の残り火が輝き、天井高くの梁の上で煙出しからの風が鳴っている。歌人は火床に向かって身体を丸め、激しい熱を秘めた炭の灯りを見つめている。火床向かいに横たわる少年はまだ目覚めていて、カイコーズの男に目を向けている。小さな熾火が二つ暗がりにあるように、若い瞳がそこにある。そして相変わらずそれは、穏やかさの薄氷の裏に得体の知れぬ冷酷さを隠しているように思えて仕方がなかった。
「信じられない。竜骨山脈を東西に抜ける道は、ヌーク峠の大門だけだと言われているし、実際そうだと思っていた」
 歌人が残り火を火掻き棒で突きながら呟いた。割れた炭が火花の粉を吹く。彼女は自分の外套にくるまっていたが、長身のために丈が合わず、剥き出しの裸足を火床の囲い石に当てて温めようとしていた。
「あの門のおかげで、東州の戦乱や支配が西州まで届いたことはないわ。竜骨山脈は東西を分かつどんな破壊も受け付けない、天然の雲衝く長城で、ヌークの扉は東西の通商から莫大な利益を得ている。扉をいつ開けるか閉めるかで、人と物の流れが一変してしまう。ある意味、この大陸の経済を支配している」
「もし俺が自分達の通ってきた道を覚えていたら、ヌークが牛耳る東西貿易の半分を手に入れられたかもな。そうしたら何をするにも困らない大金持ちだ」
 ウォルクハルはわざとらしくおどけてみせる。夜が深まるにつれて、彼は眠るどころか寛ぐことすら不用心に感じてきていた。あの山賊二人を逃したのは、やはり致命的だった。しかし今夜すぐにでも報復に現れるとは思えない。彼は恐れを振り払おうと、話の先に集中する。
「実際には、あれは道なんてものじゃなかった。同じ道を辿って戻れと言われても無理だ。はじめて竜骨山脈に迷い込んでから二年以上が経っていた。道など覚えていない」
 彼は肘をついて上半身を起こした。歌人が白い顎を僅かに向ける。
「傷が痛む? 鎮痛用の薬草があってよく効くけど、あれを飲むと眠気もくるのよ。お酒が効いている今なら、それはもう明日の昼までぐっすりでしょうけど」
「気持ちだけ貰っておこう。少し火を大きくしてくれないか。傷口がまだ濡れている。焼いてみる」
「傷が爛れて酷くなるだけよ。もう一度石灰水で怪我を洗ったほうがよさそうね。股の紐は緩めて、傷口を布で圧迫するのがいいかもしれない。さて、あなたは七人の仲間を伴って西州に抜けたと言ったけど、数が合わないわね。最初、あなたも入れて六人のカイコーズ人がいると話さなかったかしら」
「消耗が酷かった。二人とも西州に辿り着いてまもなく、熱病にかかって逝った。俺達は文無しで、商売に来ている東州人とも毛色が全く違うのが西州人には明らかだった。どうも西州人とは上手くやれなくてな。ほとんど使い物にならなくなった武具をあれこれ頼み込んで二束三文で売り払い、ようやく買った薬は、ひどいことに豚の脂肪から作った偽軟膏と、炭と牛の糞を練っただけの丸薬のようなあんばいだった」
「仲間は今もいるの?」
「仲間というより、もう家族同然だな。俺が一番頑丈で悪党を剣で殴り殺す以外に能がないから、こうして一人で出稼ぎしてる。カイコーズ人は身体的特徴が強い。あんたも俺をサイキス蛮族やグカレンスの人間と間違えなかったじゃないか。……特に俺は当のカイコーズ人にも、『らしい』とよく言われる。必要以外で仲間と行動を共にすれば、西州では目立ちすぎ、東州では素姓がばれる」
 膝の傷に手を当て、ウォルクハルはしばらく黙った。そして呟く。
「ヌークの扉を抜けて東州に帰ろうと思った。だが陸路はヌークを抜ける道一本だけだから、通行証も持たない俺達が通り抜けるのは難しい。それ以前に今扉は閉まっていて、次はいつ開くかも分からない状況だ。となると海路しかないわけだが、これも泣きどころだ。密航の危険は割に合わないから乗船賃がいる。東州の港に着いた後、人目を避けて船から降りるために船員に掴ませる金もな。仲間もそれぞれ小金を稼ぐことを覚えたよ。狡猾な西州人相手に。しかし西州の港にも、東州人がいるんだよなぁ」
「見つかれば即お縄にされて、その場の港で競売にかけられそうね」
 少年は音も無く寝床から起き上がり、手近の燃えさしに火をとると、その灯りを頼りに炊事場の奥へ消えた。彼の背を横目に見送り、ウォルクハルは歌人に向き合う。
「今、東州はどんな感じだ。カイコーズ兵はまだ残っているのか。ここでは新しい噂は得難い。西州人は、東州の細かい話は生肉にたかるハエ程度にどうでも良いことらしい」
「カイコーズ奴隷兵は武装を解かれて、方々へ売り払われたそうよ。今から四年くらい前からそんな噂を耳にしたから、あなたが戦場から逃げた年がひとつの節目になっているようね。カイコーズに限らず、奴隷兵は用済みになったというのが正しい認識なのかもしれない」
 歌人は淡々と答える。
「生きているのが確かなのは生活奴隷にされた者達だけでしょう。二つの帝国の皇帝が同じ時期に仲良く死んで、事実上停戦状態になっているの。去年の話よ。もっともその数年前から、交戦自体は減っていたらしい。両国とも軍を率いるめぼしい人材が少なくなっていたのと、内政の問題を抱えていた」
「どちらの皇帝も、バラグ・グアへ落ちたに違いない。互いに譲らず、戦争を長引かせ相手の消耗を待っていた。どれほどの血が流れたか。片方は信じられないほど恐ろしく年をとった男で、家臣は彼が目を開けているか、息をしているか、常に見守らなければならなかった。皇帝の座にはミイラが安置されていると揶揄された。龍の狩人を使役し、人間を狩らせることを思いついたのも奴だ。考えて命令もできるのだから、ミイラじゃなかったんだな」
「ある日、戦果を報告し、その後いくら待っても言葉を賜らなかった将軍が痺れを切らせて王座に近づいたら、息をしていないのに気づいたとか。もう片方の皇帝も老人だけど、まだそこまで年ではなかった。ただ不老の外見を持っていたから、若い女の生き血を浴びて若さと力を保っていると言われた。それが真実かどうかはともかく、そちらは身内に暗殺されて、どちらの帝国もようやく普通の人間が帝位を継承しようとしている」
「ならば、今は俺達にとって戻るに好機というわけか」
「戻る? 奴隷としての生き方しか残されていない東州に? カイコーズは滅んだ。人々の殆どが捕らえられ、帝国中に売り払われた。こんな滅ぼされ方をした国はない。国を建て直すつもりなの」
「険しい山岳部に集落が散らばった、太古からほとんど暮らしぶりの変わらない小さな国だ。カイコーズ人が毛皮を纏い、弓矢を持って戻れば蘇る。本当にささやかな国だったのだ。割れた祭壇の伝説は白峰の天辺で今も生きている。祭壇が失われるまで続く。龍が最後に姿を現したのは伝説の彼方になってしまったが、なおも龍狩りの技は受け継がれ、実践されぬまま父から息子に伝えられてきた。カイコーズが滅びることなどない。あんたは子どもかと笑うかもしれないが、カイコーズ人は祭壇がある限り、再び龍がこの世に現れると信じているんだ。そして龍が死に絶えぬ限り、龍狩人たるカイコーズも滅びることはないと」
「むしろ笑えないわ。真っ先に戦乱という現実に直面したカイコーズの女達が可哀想。でも私はその現実と伝説の狭間で、そんな物語や歌を生業にしているんだけど。カイコーズに伝わる『石食い姫』のお伽話は、男達に対するちょっとした皮肉かもしれないと思う時がある」
「お伽話? あれは元は神話だ。そしてカイコーズに伝わる予言と幾らかの関連を持つために、他の神話と一線を画している」
 炊事場から少年が小さな手桶を手に戻ってきた。二人が話していたので、最初彼は身振りでウォルクハルの傷の手当を手伝うのを示した。
「狩人がどう傷を治すのかは知らない。少なくとも縫うべきだ。我慢できるよな」
 傷口に巻いた布を取り、はじめて少年は穏やかな調子で口を開く。しかし最後の言葉はどうにも容赦がない。苦笑いを浮かべかけたウォルクハルだが、少年が続けた言葉に表情を凍りつかせた。
「気晴らしにそのお伽話を聞かせてくれよ。俺には昔、カイコーズ人の知り合いがいた。剣奴にされる前は兵士をしていたらしい」
 少年はウォルクハルの硬い表情を確認し、さらに声を落として静かに続けた。
「彼には馬と剣しか与えられなかったが、どの剣奴よりも勇敢だった。だから強かった。彼に弓矢が与えられることは一度もなかった。与えられていたらきっと迷わず、彼は皇帝のいる特別席に向けて放っていただろうから」
 少年はウォルクハルを真っ直ぐ見つめて語り終えると、それきり黙ってウォルクハルの傷から溢れる膿を拭きとり、彼に傷口が開かぬよう両手で圧迫するよう指示した。少年はウォルクハルの難しい表情を気にするそぶりもなく、丁寧に傷を洗って縫合の下準備をする。「お互い深い事情があってここにいる」という少年の言葉は、真実を言い当てていた。その事情が、二人に接点を与えているゆえに。よもや西州で同胞の噂を耳にするとは。それはほとんど運命にも思え、ウォルクハルはこの邂逅が誰によって仕組まれたものか、しばし故郷の祭壇へと思いを馳せた。それは彼の戦士としての魂を震わせたが、狩人としての血もひどく騒がせた。まるで獲物を近くに捉えたことを教えるかのように——。
 彼は少年の姿を視界から外し、長く伸びる歌人のたおやかな影を見つめた。そうでもしないと落ち着かなかった。少年と視線を合わせていると、ちりちりと胸騒ぎが収まらない。彼は何か大切なことを思い出そうとした。気づかなければならない何かを忘れているはずだと。
 否。彼は両目をこすった。傷からくる熱で、頭と目がおかしくなったのだ。ここにいるのは人間の子どもで、決して野兎やカモシカのような狩りの標的ではない。鋭さを隠したあの瞳も、かつてあの子どもが闘士だったからだ。彼は目頭を揉み、根拠のない焦燥を胸の内から追い払う。そしてこの罪のない少年のために口を開いた。
「『石食い姫』は白峰の山稜を越えて現れ、その美しさでカイコーズの王子を虜にし、妻となった女だ。その肌は白峰の雪のように白く……」
 彼は白面の歌人をちらりと見た。
「まあ、ものの例えだ。こっちの異人ほどじゃないが、色白で頬は淡い朝焼け色、唇は山珊瑚色に染まっていた。長い髪は滴る焔の流れ、水銀の瞳は虹と輝き、王子の心を捕らえて離さなかった。ところが彼女は妙な癖を持っていた。彼女は毎日必ず一粒宝石を食ったのだ。王子は彼女の求めに応じて、小粒の宝石を器に山ほど盛ってやった。なかなか金のかかる女だ。そしてそもそも石なんぞを食うのは、金がかかるよりもっと質が悪かった。王子は妻が密かに妙な魔術と関わっているのではと疑いはじめ、ある日宝石の器を隠して見つからないようにしてしまった。すると妻は裸足で城を飛び出し、白峰の山をひとり登って行った。嘆いた王子が後を追うと、妻の姿は狩りの祭壇の前で龍の姿に変わった。王子は驚きのあまり弓を射ることすら忘れた。妻の名を呼んだが、そこにいるのは紅蓮の鱗に覆われた龍だけだった。龍が漏らした息は王子を跡形もなく焼き尽くした。それが粗筋だ」
「龍は人に化けるのか」
 少年は縫い終えた糸の端を切る。傷口は五つの縫い目で塞がっていた。ウォルクハルは首を傾けた。
「カイコーズには龍が出てくる物語はいくらでもある。が、人間に化けた龍は彼女だけだ。本当に、彼女だけだ」
 彼は額の脂汗を片手で拭い、最後の言葉を口の中でもう一度低く囁いた。
「……そしてこの話には、舞台となった時代が分からぬとはいえ、ふたつの大切な真実がそれとなく述べられている。それらはあまりに関連が深い故に、ひとつとも数えられるが。しかしなぜこのような筋書きとなっているのか、その意味するところを読み解いた者はいない。言えるのは、これがカイコーズにとって大切な物語だというだけだ。
 ひとつは、カイコーズの王子だ。白峰の山を荒らす龍を狩り尽くして以降、カイコーズの王家には男が生まれなくなった。巫女は狩猟神の予言を人々に伝えた。もし王家に男が生まれたら、その子が成人したあかつきに龍が再び姿を現すという。この王子は単に王家に生まれた男というわけではない、特別な登場人物なんだ。
 もうひとつは石を食う女だ。王子が現れた以上、この話には龍が登場しなくてはならない。なのに現れた龍は、人間の女に化けていた。それについては諸説ある。美女に化けて龍の狩人たる王子を上手く騙し、頃合いを見計らって殺そうとしたのか。それとも王子との間に子をもうけることで、龍の血脈を宿敵の血筋のなかで生き永らえさそうとしたのか。あるいは龍であったのに、人の姿でこの世に生を受けてしまい、はからずも祭壇の御力によって自分が龍であることを知ったのか。
 石を食ったのにも理由がある。こちらの謎解きは簡単だ。火を吐く龍の炉は、何かで冷やし続けなければならん。さもなくば、被っている人間の身体が胸から燃えてしまう。喉が乾けば水を欲するように、自然と石を食ったのだろう。ことに大地の底から掘り起こされた宝石は、山と時の遥かなる重みによって生成された自然の魔術の結晶だ。龍の歴史と同じくらい古い。そして宝石を生み出した白峰の山々はさらに古く、熱くたぎる溶岩を隠した山の腹は、龍の腹にも似ている」
「きっと、似ているんじゃない、龍の腹も山の腹も同じなんだ。どちらも気紛れに火を吹いて、後には何も残さない」
 傷に畳んだ布をあてがい、少年はその上から包帯を巻いた。
「お前は龍を信じるのか?」
 ウォルクハルが尋ねると、少年は真っ直ぐ唇を引き結んだままなんとも答えなかった。少年は自分の角杯をウォルクハルに差し出す。
「俺はもとから腹が熱いから、これはいらない。もう一杯飲んで、少し眠ってくれ。顔から血の気がなくなってるようだよ」
「そうかもしれん。助かる」
 少年の言葉は気が利いていたのか、何か別の意味を含んでいたのか、彼は訝しがりながらも身体を横にした。歌人の連れらしく龍の話に乗って、腹が熱いなどと冗談を言っただけなのかもしれない。しかし目を閉じても、少年の瞳の表情が暗闇に残り、獣の瞳と同様彼を値踏みするかのように瞬く。実際には火床の炎が小さく大きく揺れていただけだったのだが、それは彼のまぶたを透かして視界を覆った。そして無意識の世界に幾重にも重なる過去の薄いベールの果てで、彼は祖先の血脈が流れる川向こうに龍の影を見た。血脈の川は輝き、カイコーズの狩人に与えられた古の神託に燃えていた。
 少年は火床に背を向け、懐から取り出した小さな鋼玉を口に含む。物心ついた時から彼はいわれのない渇望にかられて、それを鎮めようと誰に教わるともなく石を飲んでいた。確かに、喉の渇きを癒すために水を飲むのと似ていたかもしれない。それからそう時をおかずして、川床の丸く小さなただの石ころより、奴隷商人の夫人が大切に貯め込んでた宝石屑一粒のほうが、燃え盛る本能と感情の混ざった激しい衝動を抑えるのにより役立つことを知った。彼にはその衝動はどこからくるのか分からず、その感情が何かへの怒りや欲望の色合いすら持たない純粋無色で、ただただ激しく抑制もきかないものであることだけを知っていた。得体の知れぬそれが解放されるのを恐れ、彼は石を食い続けた。いくつか腹に溜めておけば、必要な時それは胃の腑で冷たく溶けて全てを鎮めた。他の者は彼の奇妙なこの癖を、注目を集めるためにやっているだけだろうという程度にしか捉えていなかった。飲み下せる大きさの石を口にするだけであったのだから。本当に公衆の面前で灰色や褐色の大きな平たい石をバリバリ喰らってみせる大道芸人は、祭りがある度に必ずいたものだ。
 彼は滑らかな顎に走る一筋の傷跡に指を添えた。剣奴にされてからは、さらに石を飲む数が増えた。あれを抑え込むのに、一つや二つの冷たい宝石ではこと足らなかったのだ。
 目の前に倒れた対戦相手。止めとともに熱い血潮がほとばしるのを目にしながら、それは一瞬よりほんの少し長い瞬間にすぎないが、仕留めた敵の苦悶の痙攣は、相手の身体に突き立てた剣を通して彼自身の魂まで震わせた。そしてそれは、ぷつりと事切れるのと同時に途切れた。彼にとって、それはまだ終わりを意味しない。死闘を終えた悦びに呼び覚まされたかのように、己の原初の魂から放たれる声なき咆哮が、幾多もの過去の輪廻を荒々しく駆け抜けて今一瞬の魂に到達し、自身の喉を食い破って放たれようとする。その太古からの狂気は、それ以上に長き星霜をかけて結晶した宝石に突き当たってようやく、氷床の下に隠されるかのように冷たく清められる。そこでようやく彼は己に戻り、渦巻く歓声と観劇の無情に包まれているのを知るのだ。
 歌人は胡座をかいて首を下げた。薄いまぶたを閉じ、龍狩人の男と石喰いの少年の寝息が聞こえてくるまで耳を傾けていた。石食い姫が王子を焼き殺した後どうなったか、神話にはその先がない。王子を失くした悲しみの大きさを表しているのだろうか。お伽話では、龍が雷に打たれて祭壇の上で死んだり、家来によって敵討ちされたりと、必ず龍が死ぬ終わりかたがあった。いかにもカイコーズのお伽話らしい。龍のその後をあれこれ想像するうち、彼女自身もいつのまにか眠りに落ちていた。