2月14日、世間は今年もこの日のイベントに浮き足立っていた。
          ――――――唯一人、レジスターの前に居る一人の青年を除いては、であったが。


          ビター・チョコレート/ホットココア




          事の起こりは、3日前の2月11日にさかのぼる。

          「宮田くん、そろそろ上がりだよね?……少し早いけどもう上がっていいよ、お疲れ様」

          丁度客足が途絶えて、レジスター内の紙幣を纏めていた宮田にバックルームから出て来た店長が声を掛けた。

          「…ありがとうございます。でも、まだ少し早いですから、最後までやりますよ」

          コンビニの壁に掛かっている時計は、まだ宮田のバイトの終了時刻の20分前を指している。
          次のバイトの子が来るまでにも、まだ15分はある。
          さすがに終了時刻20分前に上がるには申し訳なく、宮田は首を横に振った。

          「や〜…、ちょっと早くに上がってもらう位じゃ、こっちは申し訳ないからさ〜…」
          「?」
          店長の何か言い難そうで、言葉を濁しているあやふやな言い方に宮田は眉を寄せ振り返ると。

          「……実は…、宮田くん!ごめん!!ホント急で悪いんだけど…、バイト、出て貰えるかな!?」

          パン!と両手を合わせると必死になって、宮田に向かって頼み込む店長の姿が其処にはあった。



         ****************************************************************************************************************




          そして宮田は、今現在飛込みで入ったバイトを全うするべく、レジカウンター前に立っているのであった。

          「助かったよ〜!こんな急じゃあ、他の子は皆予定入ってるって言われてさ…。
           特にカレシ・カノジョ持ちの子は…、…日にちが日にちでしょ?」

          店長が話しかけながら、レジ向かいの一角のコーナーに品物を補充する。
          普段コンビ二では並ぶ事のない、綺麗にラッピングされた本日の為の品物の数々。
          皆が皆、お祭り気分で騒ぎ立てる、この日を宮田は好きではなかった。
          そう、今日は世間で言う所の。


          「バレンタイン、だもんねえ」


          店長からその単語が出た途端、宮田の表情は苦笑交じりになった。
          宮田にとって、バレンタイン・デーははた迷惑としか言いようのないものでしかなかったからだった。


          宮田はもともと甘い物が好きではない。むしろ、苦手な方だ。
          ボクシングを始めてからは減量の事も考え、普段から節制には気を付けている為、甘い物などは殆ど口にはしない生活を送っている。
          しかし、この2月14日になるとどこからともなく宮田の周りには、あの茶色い高カロリーな物体がついてまわるのだった。
          小学校・中学校・高校と幾つか貰った事もあったが、ボクシングのプロデビューを果たしてからは、それが顕著に見え始めた。
          宮田のその整った容貌からか、彼のファン層は女性のファンも多い。
          そしてランキングが上がれば上がるほど、マスメディアに取り上げられる事も増え始めた。
          結果、『格好良さ』と『強さ』を兼ね備えたボクシング一筋の秀麗な青年の女性ファンは、本人の意思とは関係なく膨れ上がっていった。


          宮田がOPBFを獲ってからは、川原ジムに、『宮田 一郎選手用』と書かれた段ボールが何個も用意されるようになり、
          今では、ジムでこの日の一週間前から会長や木田さん、そして父親までが対策を取るようになってしまう迄になってしまっていた。


          「去年、この日に宮田くんバイトに来てくれたのを思い出してさ…。今年も、もしかしたら…、と思ってね。」

          品出しを済ませた店長が、宮田に話し掛けながらレジ後ろの戸棚からガタガタとバインダーと書類を出す。
          宮田はこの店で高校生の頃からバイトをしていた事もあり、バイトの中ではかなりの年長者だ。
          なので、欠員が出ると急遽ピンチヒッターとして店長から頼まれる事も必然的に多い。
          プロボクサーだと言う事をここのアルバイトの面接時に言っておいた事もあり、
          試合が近くなると融通してくれる人の良い店長の頼みは、自分の都合が許す限り極力引き受けたいと宮田は思っていた。


          もう一つの理由は、この日にバイトに出てしまえばジムの方には行かなくて済む、と言う事があった。
          朝晩のロードは毎日欠かさず行うとはいえ、今日に限ってはジムに行っても練習どころでは無い事が目に見えている。

          それは数年前の、丁度アーニーとの対戦後に来たバレンタイン。
          余り気にせずにジムに行った宮田を待っていたのは、ジム前にたむろする沢山の女性ファンの群。
          どうにかこうにか彼女達をすり抜け、ジムに入ったのも束の間、
          見学したいとジム内に入ってこようとする者や、直に宮田本人にチョコを渡そうとする者でジムの入り口はごった返し。
          ―――――挙句、窓の外からは黄色い声援と熱い視線のオンパレード。
          そしてその攻防の合間に送られてくる、自分宛の郵便物や宅急便の数々。
          ジムの中はその対応に追われ、結局の所その日は他のジム生や自分も落ち着いて練習に励む暇など無いに等しかったのだ。


          その時の経験を生かして、ジムの会長や父親達は対策を練るようになったので、今はパニックになる事は無くなった。
          だが、以来、宮田はこの日にジムに行く事を避けるようにしている。
          『対策は取るようになったのだから、少しはファンの人達に顔だけでも見せたらどうだ…』と、父親は溜息混じりに言うのだが、
          女性ファンからの熱い歓声と、幾つもの段ボール一杯のチョコレートは、宮田にとっては憂鬱になるだけのものでしかなかった。


          「いえ…。バイトが入って、丁度良かったですから」

          心底ホッとしたような宮田の微笑に、店長はニコニコしながら去年の年間日報の入っているバインダーをパラリと開いて、一言付け加える。


          「……実は去年宮田くんが出てくれたら、一昨年に比べて女性の集客率が増えたんだよ。
           ホラ、宮田くん幾つかチョコ渡されてたじゃない?皆、カッコいいバイト君はよく見てるよね〜…」
          「……ハア…」

          店長にまでカッコいいと言われてしまい、宮田は複雑な気持ちになって曖昧な返事をする。
          ジムの方のバレンタインが余りにも凄まじいので、去年のバイト中にあった出来事を彼はすっかり失念していた。

          宮田はここのバイトが長い分、良く来る常連客…と言うのも何となくだが把握はしている。
          決まった曜日に来る客、決まった時間に来る客、毎朝来る客、毎晩来る客…。
          その中で、自分がバイトに出ている時に良く見かける女性客が幾人か出てくるようになった。

          と言っても、あまり人の顔などマジマジと見て仕事をしているわけでもないので宮田にとっては皆同じような顔に見えた。

          そんな同じような顔をした彼女達が自分に渡す、同じようなチョコレートたち。
          宮田はハッキリ言って受け取りたくはなかった。何より、バイトの仕事の妨害も甚だしいと彼は思っていた。
          断る事も出来たのだが、何分ここはバイト先。
          ここでお客の心証を悪くすると、店にも影響が出る可能性もあるかも知れないと考えた宮田は、
          去年の午後からの5時間出勤の間に計7個のチョコレートを仕方なく受け取ったのだった。


          「宮田くん、今年も女性の集客率UPに期待してるからね!」
          「……ハア…」

          宮田の複雑な気持ちとは裏腹に、店長はアハハと暢気に笑うと裏へ戻っていった。




         ****************************************************************************************************************


          一歩は早めに鴨川ジムを切り上げ、一度自宅に戻ると川原ジムに向かっていた。
          母親から『いつもアンタがお世話になってるんだから、ジムの皆さんに渡しておいて頂戴』と、頼まれたチョコレートは全て配り終わった。
          残るは、あと一人。

          『――後――、そうそう。宮田くんにも、ね』

          母親から彼の名前が出たとき、一歩はドキンと胸が高鳴った。
          宮田 一郎。
          一歩が尊敬と憧れを抱き続ける、巷ではライバルと称されている彼。
          でも、一歩にとってはそれだけではなかった。
          いじめられていた高校生活の中で、ボクシングと出会い、そして、彼と出逢った。
          初めて自分を認めてくれ、初めて自分を必要としてくれた人。
          その気持ちは、友情やライバルとして切磋琢磨する気持ちを飛び越えて、別の所に向かってしまった。
          抗えないほど、彼に強く惹かれる自分の気持ち。
          それは、心の奥のずっと奥に閉まって置かなければいけないような気持ち―――――、恋、だった。

          ライバルで男同士にも拘らず、こんな感情を持ってしまった事を彼にもし知られてしまったら。

          敵対する関係に値すると言うのに、賞賛ばかりしてくる一歩を宮田は呆れながらも突き放す事はしなかった。
          一歩が話しかければ、宮田も無下にはせず話を聞いてくれたし話もしてくれた。
          そんな今の自分と宮田との関係を壊してしまう事を一歩は恐れた。
          ―――――何より、そんな目で自分を見ていると知った宮田が、自分を軽蔑するのではないかと言う事が何より一歩は怖かった。


          「これは母さんから…なんだから…。そう、ボクが緊張するコトなんて、無い…よね…」

          自分も幾つかチョコレートを貰ったが、貰うのと渡すのではこんなに気持ちに差があるものなのかと一歩は思った。
          誰に言うわけでもないのに言い訳を呟くと、一歩はコートのポケットの上から大事にそれを押さえた。



          NEXT