昼間の暖かさを残しつつ、夜は音も立てずに深けていった。
……もう、宵の口も、とうに過ぎた時間に。
一歩は今日の朝に行った、あの桜並木を一人、歩いていた。
華 雪 (2)
「くわぁーーーっ!!食った食った!」
「ごちそうさん〜」
「ご馳走様でした」
「おう、じゃーな!!明日はジムに行くからよ!」
今日のトレーニングも終わり、一歩達は青木のバイト先のラーメン屋で夕飯を済ますと、
これからまだバイトの青木を残して一歩達は『中華そば・岩田』を後にした。
「それじゃあ、ボクはこっちなので…お疲れ様でした」
「おう!じゃ−な!!」
「お疲れさん〜」
商店街を抜けて二つ目の角を右に向う所で、ペコリ。と、一歩は挨拶をすると、鷹村達と別れた。
それから少しして、いつものロードのコースの河土手に差掛かった時。
今朝見た桜並木の鮮やかさが、不意に、一歩の脳裏に蘇ってきた。
それはあまりにも鮮明に記憶の中に残っていて、一歩の心を動かした。
(…どうせ外で食事を済まして遅くなったんだから、夜桜見物したって良い…よね?)
何かに急き立てられるような、そんな気持ちを抑えつつ、一歩は自分の家路とは僅かに違う方向に足を向わせた。
夜もわずかに深けたと言うのに、春の夜は穏やかで、緩やかな暖かさを残している。
優しい空気に包まれながら一歩は、離れた間隔で置かれた街灯の、心許無い明るさに照らし出されている桜を見ながら歩いていた。
(朝、見た時も綺麗だったけど…。……夜はまた、格別に凄いや…)
離れた所から見ると、ほぼ満開の様に思えた桜並木は、近くで一本一本を見るとまだ七部か八部咲きのようで、
幾つもの蕾を枝から付けているのが分かった。
(満開になったら……、もっと、もっと、綺麗なんだろうなぁ)
ここの所の暖かい春の陽気では、満開になるのも、もう時間の問題だ。
満開になった時の事を考えて、一歩は、はぁ…。と溜息を付いた。
そして、そこの桜並木全体を遠くまで見渡すと。
薄桃色にぼやけた輪郭に、夜の黒とが溶け合って、何とも言えない幻想的な雰囲気を醸し出している。
――――――――――綺麗だ。
その凛とした美しさに、一歩はまた彼の事を思い浮かべた。
「………宮田…くん……」
宮田一郎。
一歩のライバルであり、又、一歩が憧れてやまないボクサー。
自分とは正反対の、流れるような美しいボクシングスタイルに、リスクをものともしない一瞬の光の様なカウンター。
クールな表面からはとても伺う事は出来ない、情熱的な、カウンターへの強い拘り。
彼の全てを尊敬しているし、目標ともしている。
(宮田くん……。まだ、練習してるのかな…?)
彼の事を想う時、一歩は胸が絞めつけられる様に、苦しくなる時が、ある。
東日本新人王決勝。
約束の地へと辿り着く事が出来なかった彼。
そして、未だに果たされない、『約束』
この事だけが、自分と彼とを繋いでいる。
嗚呼。
何て、頼りないわずかな糸。
まるで、蜘蛛の糸のようだ。
でも、その蜘蛛の糸が切れる時―――――、
彼との『約束』が果たされた時、自分と彼の間には何が残るのだろう?
そして、彼と自分との繋がりはもう、『約束』を果たし終えた時点で、一欠片でさえ、残りはしないのだろうという、不安。
(馬鹿だな……、ボクは。…他にどんな繋がりを求めているって言うの……?)
やや自嘲気味に一歩は微笑うと、桜で覆われている視界がじわり。と、揺れた。
薄桃色の風景がますますぼやけて、夜との境界線を無くしていく。
(……!!な、何を泣いているんだボクは…!宮田くんはボクのライバルで…、それ以上でも、それ以下でもないじゃないか…)
立ち止まって、やや手荒に涙を擦ると、ザワザワと、桜の梢が風でしなやかに揺れてざわめく。
……まるで、今の自分の気持ちを見透かしている様に。
桜にさえ、見透かされているのかと思うと、一歩の感情は、更に複雑な色を浮かべた。
(こんな所で泣いてたら…、通りすがりの人に変だと思われちゃうよ…)
泣き止まなくては…。と、思えば思う程、涙腺はもっと緩くなって一歩の頬を冷たく濡らした。
(ほら……、向こうから人が来るじゃないか。いつまでも泣いてちゃ駄目だよ!)
その揺れる桜の木々の間から、こちらに向ってくる人の影が見える。
夜と同じ色の衣服を纏う、夜に溶けてしまう位、艶のある黒い髪の。
その、人物は。
一歩の涙でぼやけた視界では、それが誰であるかもまだ、分からない事だった。
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