彼のココロがわからない。



          何故、ボクを抱きしめたの?
          何故、こんなにも強く?



          そして、それとは反対に気付いてしまった、彼に対する自分の気持ち。


          ………ボク達はライバルで。
          ………男、同士で。




          ―――――――――――いけない。
          こんな感情を、彼に抱いては。

          いけない、んだ。

          頭の裏側から警鐘が鳴る。
          まるで一歩を戒めるかの如く、何度も何度も。



          ……でも。
          それでも――――――――。







          宮田が立ち去った後の桜並木を見詰めながら、一歩は唇を一度だけキュッと噛んだ。
          先程散り落ちた薄桃色の花弁が、未だに止む事なく吹く風に、ひとひら、ふたひら、とまた舞い上がっていった。







          華 雪   (4)




          ――――― 一瞬、何が起こったのか、一歩には分からなかった。





          目の前が急に暗くなり、仄かに人の温もりを感じる。
          掴まれた右手と、引き寄せられた左肩がじんじんする。
          トクトクトクトクという自分のものではない鼓動が、強く押し付けられた一歩の耳に聞こえてくる。
          そして一歩の鼻腔を匂わすのは、彼の匂いと微かな桜の花の香り。



          熱い。
          熱い。
          熱い。

          唇が、乾く。
          喉が、焼けつく。
          息が、出来ない。








          「…宮、田…くん…」


          …ドウシテ…、コンナ事スルノ?

          一歩の問い掛けたい言葉は、喉に貼り付いて、ただ彼の名前を呼ぶ事しか出来ない。


          一歩が自分の名前を呼んだ事で、宮田は今起こした自分の行動に気が付いて、俯くと。
          グッ…と、一歩の両肩を掴んで、自分の体を離すと、一言だけ。
          一言だけ、一歩に。
          その言葉だけが、この曖昧な時間に、やけにはっきりと一歩の耳に聞こえた。


          「悪ィ…。…忘れろ…」


          そう言った彼の表情は、いまだに俯かれた侭で読み取る事が出来ない。
          そして宮田は、一歩に背を向けると、今来た道をまた走って戻って行ってしまった。
          一歩と、はらりはらりと舞い落ちる花弁を残して。








          それから後の事は、一歩はあまり覚えていない。

          あれからどうやって家に帰って来たかとか、母と会話をしたが何を話してどんな内容だったかとか、
          布団に入って就寝するまでの記憶を、一歩は殆ど覚えていなかった。
          ―――否、あったとしても一歩は、宮田の事ばかり考えていて、意識出来なかった。


          床に就くと、一歩は板が敷き詰められた古びた天井を見つめながら、彼に抱きしめられていた事を思い出す。
          暫くそうしていたのか、それとも1秒も経っていなかったのかさえも、一歩にはわからない。
          まるで、そこだけが切り取られたかのように朧ろげだ。

          「…みやたくん……」

          彼の名前を音にして出した途端、一歩の胸の奥の方がきゅう、と絞め付けられるように痛んだ。

          「…痛っ……」

          その痛みは、一歩の胸を中心に体の隅々にまで侵蝕していく。
          頭の天辺から、爪先まで。


          一歩は掛け布団を頭まで被ると、横向きになって小さく丸くなった。まるで自分を守るように。
          胸の疼きは未だ、止む気配を見せようとしない。

          「…痛い…よ…」

          呟いた一歩の言葉は、吸い込まれる様に闇の中に溶けていった。
          部屋の天井から吊されている電灯のオレンジ色の豆電球だけが、微妙な明るさを湛えたまま、いつまでも闇の中に浮かんでいた。










          ―――――――――――――あれから、一週間が経った。


          いつもの通りにジムに来て、いつもの通りにメニューをこなして、いつもの通りに鷹村、木村、青木にからかわれて。
          何の変哲も無く、いつもの通りに一週間が過ぎた。


          一歩の、心以外を除いては。

          一歩の中で気付いた気持ちは、もう隠しようも無く、嘘は付けない。
          …………では、宮田の気持ちは?
          彼は一体、どんなつもりで一歩を抱きしめたのか。


          『…忘れろ…』 と、彼は言った。
          あの時に言われた宮田の言葉を思い出すと、彼に会いに行って事の真意を聞く事など、とても一歩には出来なかった。




          そして一歩はその事を考える度、とても胸が苦しくて痛くなった。
          まるで、抱きしめられたあの日の夜のような胸の痛み。
          こういう気持ちを 『切ない』 と言うのだろうと一歩は思った。



          家に居ると、……あの時の彼の事ばかりを考えてしまうので、ここの所一歩は鴨川ジムに休まずに来ていた。
          ジムに居る時は、体を動かしている分だけ、何も考えずに済む。
          トレーニングでクタクタになって帰宅して、布団に入ってしまえば、すぐに睡魔が訪れてくれる。
          そうすれば、あの抱きしめられたあの日の夜の、胸の痛みに苛まれずに済むと一歩は考えたのだ。
          そして、一歩は今日もヘトヘトになるほどサンドバッグを叩いて、ミットを打って、スパーをしてと、我武者羅に練習をしていた。
          …しかし我武者羅に練習をこなしていても、見る人が見れば、心ここに在らずな一歩の状態はすぐに分かるもので、
          一週間目にして、一歩は会長に喝を入れられてしまった。

          「小僧!」

          「は、はい。…何ですか、会長?」

          「ここ一週間、毎日ジムに顔を出しとるな。練習を積み重ねるのは良い事じゃ…。
          じゃが、その割にはここの所のキサマのパンチ、…腐抜けてとる!!
          何を考えておるのかは知らんが、余計な事を考えている暇があったら、少し頭を冷やして来い!!明日は来んでええわい!!」

          かなりキツク会長に言われて、今の自分がどんな状態なのかが一歩にもやっとハッキリと分かった。
          それと同時に、宮田の事だけでこんな風になってしまう弱い自分に泣きたくなった。
          他の皆より少し先にジムから上がると、今日は真っ直ぐ帰る気分にはとてもなれなくて、
          一歩は夜に浮かぶ住宅街の明かりをぼんやりと眺めながら、あの赤茶のレンガの遊歩道に無意識に足を向けていた。




          ――――――――そういえば、桜はどうなっただろう…?と歩きながら一歩は思った。
          あれ以来、一歩はここを通る事が何だか憚られて、この桜並木の満開の時を見逃してしまっていた。
          あの時七部か八部咲きだったのだから、あれから一週間も経ってしまっているので、あの桜はきっと散ってしまっているだろう。


          花の無い、枝だけのただの樹になっている所を見れば、……少しはこの気持ちも落ち着いてくれるのだろうか?
           …二人で見た、あの桜並木と夢のような時間。
          あれは本当に、夢だったと思えるだろうか?





          庭園風の公園を真っ直ぐに通り抜けると、一歩は一度足を止めた。
          そして。意を決した様に、用水路の在る通りを右に曲がった。









          ――――――桜は、散ってはいなかった。
         満開の時期を過ぎてはいるのだろうが、いまだにその美しい姿を変えずに存在していた。
         ただ、もう後は散るだけなのだろう。時たま弱く吹く風にも花は反応して、枝から花びらをはらはらと何枚も何枚も落としている。






          咲き誇っている時もとても綺麗だったが、今もとても綺麗だと一歩は思った。
          ―――散りゆくものほど、美しい。花は散るから美しいのだ。
          そして桜は散り際が特に美しく見える――。と、昔誰かから聞いた事を一歩は思い出した。


          そんな事を考えている間にも、薄桃色の花弁は飽きる事もせず幾つも幾つも地面までの間をたゆたう。
          音も無く、はらりはらりと降る花びらは何かに似ていて。
          一歩の胸を言いようのない想いで熱くさせた。

          そして、その情景にピタリと当て嵌まる様に。



          一歩が今一番逢いたくて、一番逢いたくない彼が。
          まるで自分が来るのを待っていたかのように、その中の一本の桜の木に体を寄り掛からせて佇んでいた。





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