★★★会報“栄 光”より★★★
ライン

“栄 光”第11号〜20号
第20号(’08.8.30) 第19号(’08.2.9) 第18号(’07.9.8) 第17号(’07.2.10) 第16号(’06.9.9)
第15号(’06.2.10) 第14号(’05.9.10) 第13号(’05.2.5) 第12号(’04.9.10) 第11号(’04.2.10)

⇒“栄 光”第1号〜第10号

“栄 光”第20号(’08.8.30)

   いま、50年を刻むときがきた。‘58(昭33年)年、産声ををあげた新商軟式野球部が迎える50周年記念

は目の前である。

 “軟式耕作部”と呼ばれながら、よき伝統を作り上げ、これを継承しつつ新たな創造を目指しながら迎えた50

年である。この陰には130年余りの新商の伝統である“熱・誠・忍”というバックボーンがある。この土台の上

に“和の精神と学業・スポーツの両立をモットー”の軟式精神が築かれてきたのである。

 いま、400余の後援会員は現役ともども、過去を降りかえり、現実を見つめ、未来を見すえる絶好の機会を迎

えた。

 いま、振り返ってみれば、各人をれぞれ異なるとはいえ、思い出が甦ってくると思う。「高校生活三年間の軟式

野球部で過ごした力は大きい。人間形成により大切なものを教えられた」「三年を中心に一・二年との差別なく

チームワークよく、和やかな練習に終始できた」「厳しい練習に耐えながらも、フィールドを離れれば和気藹々と

過ごした部活動だった」「キャプテンとして、崩れかける仲間を叱咤し、激励し、少数部員をまとめる苦しみを

体験、最後までやりとげることができた」など、数々の言葉が残っている。そこには、仲間との苦楽をともにした

当時の様子が伺える。

 温故知新ということばがある。50周年・半世紀の節目、このことばをかみしめてみるにはいい機会である。

ああ青春、「・・・・ぼくら離れ離れになろうともクラス仲間はいつまでも。・・・・ぼくら道はそれぞれ分かれ

ても越えて歌おうこの歌を」と歌ったあの時の青春を。みんなで集おうではありませんか。そして、この歌を歌お

うではありませんか。⇒先頭へ

“栄 光”第19号(’08.2.9)

   1958(昭33年)年、新商軟式野球部の創立、翌年1回生による軟式野球部後援会が発足して早いもので
50年になる。
 今秋、創部50周年を記念する諸行事の成功を目指して、後援会実行委員会が準備を始めている。
 ひとくちで50年というが、半世紀にわたる歴史を刻み続けたことになる。まことに意義深くもあり感慨深いも
のがある。ここまでたどり着く間には、部・後援会活動にとり紆余曲折があり、時には華々しい成果をあげた活性
期が、時には沈滞し消え去りそうになった氷河期を経て、今日があることを銘記しなければならない。
 部・後援会の存在・継続性はそこにただ在るからではない。体現者である有為な部員・会員の軟式野球部への切
なる思いから培われた並々ならぬ活動があったればこそである。
 ふりかえってみれば、部の活性化が後援会活動を活性化させてきたことは間違いない。
時期的には、草創期(1回〜5回)→軟式耕作部と呼ばれながら県下に覇を唱え、若い後援会がようやく活動を始
た時期、発展期(6回〜14回)→宿敵松商を破り全国へ歩を進め、後援会活動が多彩に展開された時期。停滞期
(15回〜25回、26回〜40回)→現役の成績不振、後援会活動の不活発の時期。そして、ようやくここ10
年、34年ぶりの全国大会出場など、後援会活動を含めて甦りの時期を迎えている。
 この時期に栄えある記念の50周年を迎えることで、私たち会員は、部創立の原点に立ち返って「和の精神と学
業・スポーツの両立をモットー」の軟式精神を改めてかみしめ、気持ちを新たにしたいものである。⇒先頭へ

◆“栄 光”第18号(’07.9.8)

   「熱闘甲子園」この夏も変ることなく、ひたむきな球児たちの熱戦がくりひろげられた。
 今春、裏金問題に端を発した球界をとり巻くどろどろは高野連問題に火がついた。いったん裁量任せの応急措置
をとったことで、何事もなかったように甲子園の夏が過ぎたようだ。
 高野連問題が何一つ根本的に解決されたわけではない。この問題は特待生制度と野球留学に向けられ、高野連は
全国高校の実態調査へとふみ切った末、全国で特待生制度適用数が376校7971人(一校平均21.2人)、
1校を除きすべて私立校とうことが明らかになり、野球留学との関わりも裏付けられる結果となった。
 これらの焦点は、高野連が堅持する学生野球憲章(特に13条)をめぐる問題である。憲章を堅守する原則に立
つ高野連と反発を強める私学側の鋭い対立という構図になっている。
 いま、世論を二分する形ではあるが、長年警鐘を鳴らし続けてきた私に言わせれば、「どっちも、どっちもだ」
だ。いまさら何ごとかと言いたい。憲章がありながら、違反を長年にわたり放置してきた高野連、憲章を無視し、
不正を承知で校名を上げるために高校野球(甲子園といっていい)を利用し続けた私学側、こうした実態が浮き彫
りになっただけのことである。
 ある評論家は、「教育の問題なのか、野球の問題なのか・・・・その答えは、高校という教育機関で教育よりも
野球が重要だなどということはあり得ない。高野連が“高校野球は教育”というのも理解できない。教育の場から
人気イベントを作るのは間違った行為だと誰もが気づいてほしい」と言っている。この評論家は、そんなにまでし
て若者に野球を広めたいなら、高校という教育機関に固執することなく、今できつつある独立リーグのクラブを広
げればよいのではないか、とまで言っている。
 憲章が憲章たりうるためにも、「高校野球は教育の一環」という理念にそえる、高校野球を通じてどんな人間を
育てるかという「教育論」の徹底議論こそ先決だ。⇒先頭へ

“栄 光”第17号(’07.2.10)

   「率先躬行」「率先垂範」という言葉がある。これは「人に先立って自ら行うこと」「人に先立って模範を示
すこと」の意である。近年、あまり聞きなれないし、使われていない言葉となっている。以前は学校教育のなかで
も、社会生活のなかでもよく用いられた言葉であり、実行されていたことである。
 先日、新商軟式野球部の監督さんから「今シーズンに向けて」との記事の中で、「平成19年は自分たちを鍛え
てくれる道場を感謝の気持ちを込めて、グランドの清掃から始まった。また、始業前に自発的にグランドに出て草
取りをする部員もいる。さらに、昨夏の新潟まつりの折、白山地域の子ども御輿のボランティアに参加、部員たち
は子どもたちの面倒をよくみて、お褒めの言葉をいただいた」との内容があった。
 そして、「軟式野球部はグランドを他のクラブとの譲り合って活動している。気持ちよく練習や試合に打ち込む
ためにも、校内・地域からの理解が必要である。周りから愛される軟式野球部でありたい」との言葉も寄せられた。
 新聞では春の高校野球選抜へ向けて、21世紀わく推薦校のプロフィールが紹介されている。とりあげられてい
各校に共通した内容は、何らかのボランティア活動や奉仕活動を行うことか、選手一人ひとりの自覚のもと、自主
的な練習にとりくんでいるというものである。
 50年前の新商軟式野球部創草期にすでにこんな姿がみられ、これが伝統として息づいてきた。いま現役生が実
践しているこては、まさにこの原点にかえった姿であり、冒頭の言葉がよみがえってくるような思いでいっぱいだ。 ⇒先頭へ

“栄 光”第16号(’06.9.9)

   今年、高校軟式野球全国大会は51回目を迎える。半世紀を経て更に一歩を踏み出す意義ある出発の年である。
 また、日本の野球の原点が軟式野球にあることを再認識すべき年でもある。残念ながら多くの野球関係者ですら
事実を認識していない。
 野球発祥の地はアメリカだが、日本はといえば軟式野球史(全国軟式野球連盟編・ベースボールマガジン社)に
よると、「軟球の発明者は京都の小学校教師・糸井浅次郎らが作った京都少年野球研究会、そのメンバーの一人、
文具店主の鈴鹿栄が、脱ぎ捨てられていたゴム靴を見て、自転車のペタルのぶつぶつを連想し、ゴムにでこぼこを
つけるアイディアを思いついたという。試作品が誕生したのが1918(大7)年だった」とあり、まさに野球の
原点が軟式野球であり、京都の地であったといえる。
 小さな子どもたちに親しまれ、多くの人たちに愛され、楽しむ草野球として、大正以来野球が全国津々浦々にま
で普及していったのである。
 ’02年に正岡子規が「新世紀特別表彰」で野球殿堂入りしたことは耳新しい。でも、野球発展の大恩人である
軟式関係者が忘れられてはいませんかと毎日新聞発信箱欄で冨重圭似子記者が指摘していた。しかも特別選考委員
である有識者らから一票も入らなかったという。この認識不足はどうしたものか。
 その後殿堂入りしたかどうかは別として、軟式が野球の原点であることに、軟式球児はプライドをもって精進し
たいものである⇒先頭へ

“栄 光”第15号(’06.2.10)

   名選手といわれた次の二人の言葉は大変興味深い。「野球というスポーツは明るい太陽の下でやるものだ」
(長嶋茂雄)、「野球は雨であろうと風であろうとやるものだ、と言い聞かせている」(王 貞治)、と言って
いる。
 私は異質とも思える二人の言葉の中には共通性を見出すとともに、野球の原点を言いあてているように思う。
明るい太陽のもと、あるいは太陽が隠され風雨という、いかなる条件下でも一点の曇りもなく恥じることのない、
全力プレーに徹することこそ野球の原点があるのだと言いたい。
 ところで、昨年高校野球の優勝チームなど実績のあるチームに、次々と恥すべきルール違反行為・暴力問題が
起こり大きな反響をよんだ。晴れのアジアAAA選手権の日本選抜チームの監督・コーチの立場を担った人が揃
って問題の当該者であったことに大変驚いた。暴力の否定は戦後民主主義教育の象徴であった。高野連も一貫し
て暴力をなくす取り組みをしてきたことを強調している。しかし止まない、高野連の体質・あり方が問われよう
というものだ。
 選手にルールを教える、その方法について「米国では違反になるから絶対やるなと教える。日本はどういう動
作まで違反にならないかを細かく教える」(作家の海老沢泰久さん)というのだ。
 野球をやる以前の問題、根本を見つめ直すことが大人・指導者・責任者に突きつけられていると言える。 ⇒先頭へ

“栄 光”第14号(’05.9.10)

   新商軟式野球部34年振りの全国大会出場。この一報に接したOBの皆さんの喜びはいかばかりだったろ
うか。
 早速、後援会は「新商軟式野球部は久しく遠ざかっていた全国大会への出場を見事に果たしてくれました。
今年は50回記念大会でもあり、’71年(昭46)5回目の出場から数えて34年振り6回目の出場を飾
ることとなりました。富山での北信越大会の決勝戦は、くしくも長年のライバルである松商学園を3−2の
熱闘のすえ降しての全国大会への道とあって、現役諸君の感激はひとしおであり、後援会OBにとっては鶴
首していた優勝であり、ようやく手にした勝利の感を深くしておられるのではないかと存じます。ここに、
後援会は現役諸君の壮途を祝し、全国大会に於いても“新商軟式野球ここにあり”の意気を高められんこと
を願い、全員あげての声援ならびに支援の力添えをしたいと存じます。」との支援・協力の趣意書を全会員
に発送した。
 心ある多くの会員から支援の声とともに志が届けられた。若手OBも含む応援体制も組まれた。後援会の
活性化への起爆剤となったことは確かだった。
 だが、活性化という課題が解決したわけではない。私は提案したい。「メーン行事である秋のトゥリーマ
ウント賞表彰・パーティを郷里に帰る月(10月)にしよう」このようにみんなで位置づけようではありま
せんか。活性化は会員一人ひとりの行動から生まれるのでは。⇒先頭へ

“栄 光”第13号(’05.2.5)

   「原点に立ち戻って考え直す」という言葉がある。原点とは根源の地点、基準になる点ということである。
ということは時とともにかけはなれたものを、もう一度根源、基準に戻して考え直そうということである。
 高校軟式野球にとって今年(’05年)は節目の年である。高校野球の組織化をめぐる様々の思惑の中か
ら、高校軟式野球の全国大会が開催されるに至った’56(昭31)年から数えて、ちょうど50周年、50
回大会を迎え、半世紀ということになる。
 この当時、佐伯副会長の言葉に「・・・“軟式”を軽んじるような風潮があれば戒めねばならないし、
“軟式”自体も自嘲的立場に陥ってはならない。・・・“軟式”は今の段階では選手だけの大会としての自
覚も必要だ。・・・各地の状況を見ると“軟式”に対する育成的態度に欠けているところも絶無とはいえな
い。・・・継子扱いではいけない。・・・いままでは“硬式”の草創時代だったが、すくすく伸びてきて、
今は“軟式”のことを暖かく考えていける段階になってきている。地方の各連盟も日本高校野球連盟と協力
しあってこのことを考えていただきたい。“軟式”当事者も自ら積極的に新しい歴史を築き上げる覚悟をし
て、躍進の道をまっしぐらに進んでほしい。」(高野連30年史から)
 私がいいたいのは節目の年に当り、未だ充実とはいえない軟式の原点に立ってあの言葉を噛みしめ、軟式
の前進を願わずにいられない。ということである。⇒先頭へ

“栄 光”第12号(’04.9.10)

   今夏の甲子園は、北の星駒大苫小牧高の優勝で幕を閉じた。そして、優勝旗は津軽海峡を渡る快挙とさ
わがれた。
 私は偶然この苫小牧の第一戦を見る機会を得て「このチームは優勝する。私の予言は間違いなく当る」
と発言していた。まさにその通りになった。但し、「条件つき、それは監督があれこれと采配しないこと、
なぜなら選手の方が伸び伸びとやっている。バッティングが素晴らしいと直感した」からだった。
 ここで、監督(者)と指導(者)とはおのずから違う。ということに思いあたるのである。監督(者)
とは目をくばって指示したり取りしまったりすること(人)であり、指導(者)とは目的に向かって教え
導くこと(人)であるということである。
 苫小牧の監督は二回戦から、監督であるが指導者であることに気付いたようである。優勝への道はここ
にあったと私は確信する。教え導くことに気付き、その中から選手から教えられて目的に向かった努力が
報われたのではないか。
 長年の野球の中で苦い体験を何度か体験した。その度に選手に対する申し訳なさを感じ、監督たるべき
か指導者たるべきかで悩み続けてきたことを思い出す。しかし、甲子園野球は「教育のなかの高校野球」
たることを決して忘れてはならないし、この精神が優勝への一里塚となってほしいと思うのである。⇒先頭へ

“栄 光”第11号(’04.2.10)

   人の生涯はさまざまである。人生観をもち人生哲学をもって生きるか否かが、その人間の生きざまを
決めるのでは。人生観とは人生に対する概念または思想上の態度であり、人生哲学とは人生をいかに見
るかまたは生きるかの哲学である。
 子供心に抱いた小さな夢が、ひたむきに努力する心がけから一つの人生観を育て、人生哲学をしっか
りと備えていく。大人になって繕われた人生観などすぐにほころびてしますものだ。
 先日、NHK特集でとりあげられた一作家(伊集院静)が、大リーグに挑戦したニューヨークヤンキース
の松井秀喜の1年を追うドキュメンタリーを見た。
 名門中の名門といわれヤンキースに挑んだ松井には、当然ながら期待と不安を寄せる巷の声が交錯した。
開幕早々満塁ホームランで驚かせたのもつかの間、スランプに陥る日々も続いた。不思議なことにトーリ
監督は松井をスタメンで我慢強く起用し続けた。守備の人という陰の声も聞かれたが、そんなものではな
かった。未来を担う子供たちのために、ひたむきに努力する生きざまを見せたいという、しっかりした人
生観・人生哲学に生きる姿を見てとってのことだったという。
 子供心に育んできたすばらしい人生観の持主といえる。巨人入団のとき「将来は子供たちがすばらしい
夢をもってくれるような選手になりたい」と言った言葉を思い出している。⇒先頭へ

HOME 会報“栄光”より