八女と團伊玖磨

八女は團伊玖磨先生にとって「心の故郷」だったのです。

  團先生は生前、久留米での『筑後川』の指揮に来られると練習の時間を縫って八女市黒木町を訪ねておられました。
そのわけは・・・
  昭和19年の太平洋戦争の末期、團先生が東京音楽学校(現在の藝大)に在学中、国家総動員法で陸軍軍楽隊に編入され、軍楽隊のために編曲をしたり鼓手として従事しておられました。その頃の上官(班長)が黒木町(当時は八女郡黒木町)出身の吉村誠さんだったのです。
 戦後、黒木町で食料品店を開いておられた吉村誠さん(93歳)との交友が再開しました。
 黒木大藤の花が咲く頃吉村さんを訪ねる約束をしていた團先生は、胸を躍らせながらとうとう黒木を訪ねられたのです。(写真左)その時の一部始終を、毎週連載されたアサヒグラフの『パイプのけむり』に、「八十八夜」という題で書かれました。、樹齢600年にもなる天然記念物「黒木の大藤」や奇岩のある霊厳寺、珍しい地名のこと、中国から僧侶が持ち帰り、全国に名前が知られるようになった八女茶の事などを紹介されました。
(左の写真は團先生が初めて黒木大藤を訪ねられた時の写真です)

 合唱組曲『筑後川』を作曲され、初演されたのが1968年12月20日。この頃から團先生は『筑後川』や九州交響楽団との演奏会で久留米にお出でになる機会が増えました。久留米と八女は車で30分の距離。練習の合間にたびたび八女を訪れて、八女の人々との交わりが始まりました。
 八女の風土を愛し、郷土料理のだご汁が好物だった團先生に、吉村さんが作曲を依頼して生まれたのが『だご汁の歌』(今村圀彦・作詞)でした。團先生自らがピアノを弾き、地元の婦人会の方を指導しておられる写真も残っています。(写真右)
 八女の人たちと交友していく中から、『八女消防の歌』(今村圀彦・作詞)や『八女学院校歌』(中島宝城・作詞)、「矢部川」を第3章に置いた全5章から成る合唱組曲『筑後風土記』(栗原一登・作詞)が生まれました。心の故郷と呼んでいた八女地方のこれらの歌は、地元の人たちによって歌い継がれています。 

  また團先生はエッセイストとしても著名で、「パイプのけむり」は36年間、1842回、アサヒグラフが廃刊になるまで続きました。一回も欠かさず、奥様が亡くなられた時でさえ欠かさずにお書きになりました。その偉業を記念するエッセイ碑が黒木大藤のある素戔嗚神社 境内に、團先生を愛する黒木町の人々の手で建立されました。その碑には、八女を始めて訪れたれた時の「八十八夜」の一節が團先生の筆で書かれ、彫られています。その碑の除幕式(1998年4月25日)には、奥様ともども出席なさっているのです。
  (写真は除幕式で挨拶をされる團先生。紅白幕前は和子夫人)
 團先生が亡くなられてからは毎年 祥月命日 に近い日に「だご汁忌」が行われ、『だご汁の歌』と『八女消防の歌』が黒木小学校児童と八女消防本部音楽隊によって演奏されています。200名近い参会者は團先生が好物だっただご汁を頂いて先生を偲びます。


 團先生とゆかりの深い八女で『筑後川』の演奏会をやりたいというのは私共の念願でした。それが團先生の祥月命日にあたる5月17日に実現しました。そして今年は栗原一登氏の没後20年に当るのです。
 栗原氏は八女市矢部村出身の劇作家で詩人、女優栗原小巻さんの父。矢部村・杣の里には『筑後風土記』の一節 ~この水の明日は何処ぞ~ の詩碑が建立されています。團先生とは合唱組曲等でコンビを組まれ、上記『筑後風土記』の他に合唱組曲『北九州』(1978)、合唱組曲『横須賀』(1982)合唱組曲『唐津』(写真下)があります。

 この合唱組曲『唐津』が1982年に作曲され全曲演奏(7章)されていなかったのです。
 今回の『筑後川』IN八女で初演する・・・  こんなに相応しい場所はない、と思いました。天国にいらっしゃる團先生、栗原一登氏も喜んでくださっていると思います。

 長年『筑後川』コンサートに参加し、團先生の合唱組曲『川のほとりで』(作詞・江間章子)を九州初演し歌ってこられた福岡日本フィル協会合唱団の皆様が初演してくださいました。團先生の手書きの楽譜から合唱譜に整え、1年半をかけ練習し、見事に初演してくださいました。
 福岡日本フィル協会合唱団の皆様に感謝いたします。ありがとうございました。  

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