歴 史

向原寺(こうげんじ)から聖徳(しょうとく)皇寺(おうじ)徳應寺(とくおうじ)へと

● 1.    日本における最初の寺号は向原寺(こうげんじ)

曲川は昔、(まがり)(かね)といわれていた。西暦534年から535年に第27安閑(あんかん)天皇の(まがり)(かな)(はし)(みや)があり神社の付近が宮跡だったと伝えられている。後に曽我氏がこのあたりに別宅を建てた。日本書紀によると曽我稲目は、第29(きん)(めい)天皇13(552) 百済(くだら)の聖明王が献じた一光三尊如来をしばらくこの家に安置し、向原(こうげん)()とした。これが日本最初の寺である。この一光三尊如来は物部守屋(もののべのもりや)によって、「異国の神をまつるべからず」と難波の堀江の池に捨てられた。後に信州長野の役人、本田善光がこれを拾い上げ長野へ移し、善光寺如来としてまつられることになった。そこで聖徳太子は自ら一光三尊の石の如来を作り、それを本尊とされた。

松塚方面より見た徳應寺と畝傍山 徳應寺本堂

 2.佐竹末兼(すえかね)常陸(ひたち)の国より曲川へ 

物部守屋等によって破壊しつくされてあった跡地に貞永元年 (1232)常陸(ひたち)の国佐竹(さたけ)末兼(すえかね)が、専修念仏の道場として建立したのが向原山(こうげんざん)三尊院(さんそんいん)聖徳(しょうとく)皇寺(おうじ)である。佐竹末兼は、27歳で親鸞聖人のお弟子の一人になり、「(けん)(せい)」という法名を賜った。貞永元年(1232)に親鸞聖人が常陸の国より京都に帰られる時、兼誓は名残を悲しみ、その後、兼誓は京都へ帰られた聖人を訪ねた。

「私このたび、大和国兄末方の領地へまかり越し、弥陀の本願弘通つかまりたく御願ひ申し上げければ、聖人御よろこびあさばされまし」と古記録にしるされている。兼誓の兄佐竹末方(すえかた)は常陸の国の領主で熊野詣を盛んに行った人で、御伝鈔(ごでんしょう)や御絵伝で有名な平太郎の主人であった。

 3. 蓮如上人二度の御来寺

佐竹兼誓によって建立されて以来250年あまり、念仏の道場として近隣の門徒衆会の場であった当寺に文明19(1487) 225日、73歳の蓮如上人がお立ち寄りになられた。そのご教化にあずかった時の住職12世則行は自ら望んで直弟子の列に加えていただき、上人より教念という法名を賜った。

 上人は2年後の延徳元年(1489) 75歳の1230日、その夏寺務を第9代実如上人にお譲りになりご隠居の身を再び当寺にお運びくださり、当寺で年を越された。上人のご教化によって新しい息吹を賜った当寺は、聖徳皇寺から徳應寺へと改称された。