エピローグ





 図書庫の事件のあと、アッシア教師たちは気絶した蓬髪の男を縛り上げ、アッシアの上司で学院の現場責任者であるファッグ教師長に突き出した。不審者の存在に驚いた学院が図書庫を本格的に捜索したことで生ごみなどの生活痕跡が見つかり、相当期間にわたり男が図書庫にひそんでいたことがわかった。学院側は現在も図書庫にいた謎の男についての調査を進めているが、男は精神に支障をきたしているために調査は遅々として進まず、男の素性や目的は知れなかった。「なんだかすっきりしないよね」とは、アッシアの生徒である少女、リーンの弁であった。
 不審な男による被害状況についても、図書庫保管品の状態を学院側が把握していなかったために、まったくと言っていいほどお手上げの状態だった。要は、元々何があったのかがよくわかっていないため、何が無くなり何が壊されたのかもよくわからないのだ。だが今回、不審者が長期にわたって学院内に潜んでいた事実によって学院の放漫な管理体制が問題点として指摘され、学院側も今までの管理体制の見直しを始めた。
 また不審者を捕らえたアッシア教師については賞賛とともに深夜に教室棟に忍び込んだ生徒たちへの監督不行き届きが併せて指摘されて、結局は賞罰相殺で何もなかった。この沙汰について、余人はともかく、アッシア教師は特に不満はないようだ。
 ともあれ――事件から3日が過ぎた。



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「でも――あのときは助かりましたよ本当に。何から何まで」
 教師室には、今日も太陽の柔らかな光が射し込んできている。けれど光は、そこかしこに建てられた本の塔に阻まれて、部屋の奥にまでは到達することはできない。結局はその部屋は本の黒い影で満たされていた。
 いや――。
 黒猫は、アッシアの感謝の言葉に短く答えた。それでも興味が無いわけではないらしく、文献へと落としていた視線をついとアッシア教師のほうへと向けた。本の塔の上にちょこんと座る黒猫を眺めて、アッシアはまた口を開く。
「レクシア女史だけじゃなく、僕の命まで助けていただいたんですから。感謝してもしきれませんよ」
「たいしたことはしていない」
「いや、実際たいしたことですよ――」
 照れる黒猫に、黒縁眼鏡の教師はやんわりと反論した。
 少し遠い目をして、彼は夜の図書庫での一件を思い出す。


 レクシアの悲鳴が図書庫に響いたあと、駆け出した猫を追ってアッシアは走った。しかし猫の足は予想外に速く、アッシアは真っ黒い後ろ姿を見失わないようについていくので精一杯だった。
 アッシアの前を行く黒猫は、素早く棚と棚の間の細い路地へと入り込みさらに駆けた。
 必死で走るアッシアの前を行く猫のさらに奥に、かすかな灯りのともったほの明るい空間が見えた。アッシアが目を凝らすと、見えたのは、刃を振り上げている人影だった。まずい、とアッシアが思ったときには、黒猫はもう行動を起こしていた。
 三角跳びで書棚を昇ると、猫はその中の一冊を後ろ足で蹴り出した。そして本と一緒に落下しながら、黒猫は本収納と同じ要領なのだろう、重力中和の魔術で重力の束縛を無くした本を、四つ足で蹴り放った。
 分厚い本が、音も無く闇へと撃ち出された。
 本は暗闇に直線に近い弧を描き、見事に標的、つまり長鉈の男の頭部に命中した。そして鈍い音と共に、黒い人影が揺れた。
 そしてアッシアが現場に辿りついたときには、もうレクシアたちは窮地を脱していた。ちょっとの差で窮地に間に合わなかったために、気まずさを感じたことをアッシアはまだ覚えている。
 またそして、アッシアが蓬髪の男に斬りかかられたときだ。
 アッシアは後退して床の紙に足を滑らせた。足場をきちんと確認していなかったのがよくなかった。アッシアが体勢を崩した機を逃さずに男が鉈を振りかぶったとき、アッシアは死を覚悟した。
 そこでまた窮地を救ってくれたのが黒猫だった。勇敢にも猫は男の顔に飛び掛り、アッシアが体勢を立て直す時間を稼いだ。しかもそれだけではなく、離れ際、猫は蓬髪の男の耳に向かって、小さな衝撃魔術を放ったのだ。
 その効果は絶大で、三半規管に衝撃を受けた蓬髪の男は、平衡感覚を失って、数瞬のちに膝を折った。
 黒猫が作ってくれた間のおかげで、アッシアは魔術を編んで放つことができたのだ。まったく、本当に何から何まで、黒猫のおかげだった。


 アッシアは再び黒猫に感謝の言葉を告げた。
 猫は黙って頷いた。無愛想なのは、相変わらず照れているためのようだった。そしてまた黒猫は読書に戻っていった。アッシアも仕方なく、手元の本へと視線を落とす。文字列を目で撫でながら、アッシアは図書庫で答えまで至らなかった疑問を思い出す。
 光を当てたとて真実がわからぬのならば、闇に光を向けることに意味があるのだろうか。
 意味はあるともいえるし、ないともいえる。結局のところ、それはきっと意味の問題ではないのだろうとアッシアは思う。
 幽霊の正体を暴いて、一人の錯乱気味の男を炙り出して、その行動にどんな意味があったのかと問われても、アッシアは答えることはできないだろう。結局のところ、正体だけは暴けたけれど、謎だったことはほとんど解けなかったに等しい。
 人は愚かだ。何かを壊して、暴いてみなければ真実を知ることができぬのだから。光を当てて闇を破壊する。間違った光を当てて、間違った真実を掴む。そのために失ったものも多いだろう。
 しかし、人には選択肢は無い。たとえ事実を暴くことが誤りかもしれなくても、あえて禁忌を冒して暴かねばならない。箱を開けずに中身を知る術を人は持ち合わせていない。
 事実を知らぬままにした方がいいのか、それとも広く知らしめたほうがいいのか、わからぬままに光を当てる。わからぬままに、闇を、神秘を、素朴な信仰を砕く。
 人は愚かだ。誤りながらでなくては、進歩していけない。
 そしてその愚かさを知ることこそが、破壊者である人にとって何よりも必要なことではないだろうか?

 アッシアの物思いが一応の結論に辿りついたとき、とんとんと教師室の扉を叩く音がした。
 部屋の主の返事の後に、失礼しますと入ってきたのは副クラスリーダのレクシアだった。アッシアは椅子の背もたれによりかかりながら、レクシア女史に声をかける。
「どうしたんだい、女史」
「先生、女史はやめてください。私はそんなに偉くありません」
「渾名だよ、気にすることはない」
 似合っているし、とアッシアが付け加えると、角眼鏡の副リーダは変なものを飲み込んだような表情をしたが、すぐに微笑みに戻した。
「実は――今日はお願いがあって来たんです」
「お願い?」
 レクシアは首だけで振り返りながら猫を見て、
「そこの――黒猫。彼を、是非教室で飼いたい、と思いまして」と言った。
「教室で? それはヴェーヌの発案かな」椅子に座ったままアッシア教師は聞き返す。
「はい。先生も随分とあの猫を可愛がられているみたいですから、お嫌なら結構なのですが。でも教室で飼えばみんなが満足するからと」
「それは双子――いや、リーンがそう言った?」
 レクシアは軽く噴き出した。
「まったくその通りです。で、いかがです?」
 アッシアはちらりと猫を見る。猫は特に話題に興味を示さずに本の上で丸くなっていた。どちらでもいいのだ、とアッシアは受け取った。
「いいよ」アッシアはあっさりと言った。
 ばちり、と手を叩く音が廊下でした。
「もうひとつ。猫の名前は、クロさん、でいいでしょうか? その――アッシア先生はまだ猫に名前をつけていないように思えたので」
「いや――」
 言いかけて、またアッシアは本の上で丸くなっている猫を見る。黒猫は金色の片目を開けてアッシアを一度見て、また閉じた。これはきっと肯定だ、とアッシアは思った。そして口元を笑いに曲げながら言った。
「それも、かまわないよ」
 きゃ、と高い声が廊下でした。
「ありがとうございます」
「いや、たいしたことじゃない、うん、本当に」
 それじゃあこれで失礼します、とアッシアに背中を向けたレクシアを、アッシアが呼び止めた。
「あ、女史」レクシアは振り向く。彼女が何かを言う前に、アッシアは言った。「そのかわり、廊下で盗み聞きするのはやめるように連中に言ってくれ」
 レクシアは一度軽く目を大きく開いてみせると、ふっと笑った。
「はい、伝えておきます」
 ばたんと扉が閉じると、扉の向こうでわっと騒ぐ生徒たちの声が聞えてきた。声の種類から察するに、どうやら教室総出でやってきたようだった。苦笑しながら、アッシアはクロさんと名付けられた黒猫に聞く。
「あれで――よかったですかね?」
「別に構わない。問題はない」
「名前も?」
「名前など、私には不要なものだよ」
 そう言って、陽だまりに移動すると黒猫はそこで丸くなった。こうしていると、本当にただの猫にしか見えないとアッシアは思った。
 アッシアは黒縁眼鏡をかけ直して窓の外へと視線を向ける。柔らかに陽光煌めく季節はまだ初夏にも至っていない。なにもかも、始まりを迎えたばかりだった。





                                                     <了>