エピローグ







 失礼します、と扉を開けて、ジーク=ギネットは執務室へと入った。
 夏の昼だというのに、魔術灯がつけられている。熱を遮るために、カーテンが閉め切られているためだ。部屋の隅には、空気を冷やすための氷柱が置かれていた。
 ジークの視線の先、銀髪の男が執務机に座っていた。デグラン家の長子、ジュリアス=でグランそのひとだ。
 詰襟を一度正し、ジークが執務机へ近付くと、銀髪の男は眼鏡を外し、
「このたびは御苦労だったな。アッシアも目を覚ましたと聞いたが」
 はい、と詰襟の騎士は応えた。
「だいぶ回復し、歩けるようにもなりました」
「それで、アッシアはデグラン家に戻るつもりはあるのか?」
「今のところ……無いようです」
 そうか、とジュリアスは言った。ぎしり、と椅子の背もたれが鳴る。
「あの個人戦闘力の才能は、我が軍に実に欲しいのだがな」
「そうですね。アッシア様がデグラン家に加わってもらえば、一部隊に匹敵するでしょう。しかし……」
「しかし?」銀髪の将は問い返す。
「アッシア様は、それを望まないかも知れません。つまり、戦うことをです」
「あるいは、そうかも知れんな」
 あっさりと、ジュリアスは認めた。まるで既知の事柄のように。そして続ける。
「彼奴は好戦的な性格というわけでもないし、野心も強くない。確かに学者肌の男だ。そういう男が好んで戦いに出向くかといえば、そうではないと判断するしかないだろう」
「そこまでご存じで、何故なお、アッシア様を軍に戻そうとするのですか? 単に家に戻るということであれば、アッシア様も応じるのではないでしょうか?」
「才能を惜しむがゆえだよ」
 ジークの熱のこもった質問に、打てば響く鐘のごとく、あるいは冷水を浴びせるがごとく、素早くジュリアスは答えた。
「個人的戦闘力という点で、彼奴には衆を抜いた優れた才能がある。それは事実だ。彼奴の望み才能とが合致していない、それも事実だ」
「望みと合致していないと知りながら、なお弟君に才能を使えと要請するのですか。それがアッシア様を不幸にするかも知れないと知りながら、なお求めるのですか!」
 机を叩きそうな勢いで、ジークは続けた。この冷静な男が、声を荒げることが珍しい。だがしかし、ジュリアスは部屋にある氷柱よりも冷静だった。
「私は、有用であれば用いる、それだけだ。それが私の原理原則だ」冷たく宣言をしながら、銀髪の将は、頬杖をつく。「それに、本人が望むと望まざるにかかわらず、才能というものは表現を求められるものだ。周囲から、あるいは本人がそれと気がつかないうちに自分からだ。それはきっと、デグラン家に居ても居なくても変わらんだろう」
「それはつまり」ジークが言う。「アッシア様は、これからもずっと、望まぬ戦いを続けることになるだろうということですか」
「そうだ。もし、本人が本当に戦いを望んでいないという話であればだが」
 ジュリアスの冷静さは、詰襟の騎士の感情を逆に逆なでした。だがここで自制がきかないような男でもない。絞り出すように、言葉を紡ぐ。
「アッシア様が……不幸になっても、構わないということですか」
「そうは思っていない」銀髪の将は、本当に、反応が早い。すべての台本が揃っているのではないかと錯覚するほど。「幸せか不幸かは本人自身が考え、判断することだと思っている。王が常に自分を幸福だと思っているとは限らない、あるいは乞食が自分を不幸だと必ずしも考えないように。アッシアの――他人の幸福を定義してやるほど、傲慢ではないつもりだ」
 そこで、銀髪の将は詰襟の騎士の目をじっと見こんだ。
「ただ言いたいのは、彼奴には才能を活かしてもらったうえで、幸せになって欲しいと、こういうことだ」
 わかりました、とジークは言った。
 そしてその場から立ち去る前に、詰襟の騎士は尋ねた。
「ひとつ聞かせてください。あの砦のとき、アッシア様だけを突撃させるおつもりだったのですね?」
 というと? とは言わなかったが、質問された銀髪の将は、目で次を促している。
「砦への突撃は、騎兵ではなく歩兵の仕事です。にもかかわらず、馬から降りるように命じたのは、アッシア様の小隊だけだった。つまり、他の騎兵の突撃は囮でしかなく、アッシア様の部隊だけを突撃させたということです。相手の兵力も不明であるのに……」
 そこでジークは何かを抑えるかのように、言葉を切った。そして続ける。
「生還の見込みが低い、圧倒的に危険な任務です。だが貴方は、そこにアッシア様を――弟君であるアッシア様を割り当てた。結果的に成功したなどとは言わせません。あれは、捨て駒の役割です」
 ジュリアスは、反論するでもなく、激昂するでもなく、ただ満足げに微笑した。美しいがどこか冷たさが張り付いた微笑みだった。
「お前をうちの部隊に引っ張ったのは、正解だったようだ」
 否定もなく微笑んだということは、ジークの考えが、ジュリアスの考えた策とほぼ一致していることを示している。そしてジュリアスは、ジークの思考が自身の思考の軌跡をたどれていることを褒めたのだろう。
「だがひとつだけ訂正させてもらおう。私はアッシアを捨て駒になどしていない。もっとも目標の達成可能性が高い策を考え、そして、彼奴が生還する可能性が高い策だと思ったから、実行したのだ。結果論ではなくな」
 ジュリアスは半ば後を振りむき、袖机の上にあった、チェス盤から、駒をひとつ抜き取った。白の騎士。そしてそれを、こん、と机の上に置いた。
「そして、彼奴は見事任務を達成した」
 無表情な白の騎士の駒は、まっすぐにジークの方を向いている。
「それがすべてですか」ジークが聞いた。
「それがすべてだよ」ジュリアスは、白の騎士を眺めている。
 ジークは失礼します、と一礼し、部屋を出口へと向い、扉を開けようとしたそのとき、ジュリアスがひと声かけた。
「確かに、危険が高い策だという認識はあったよ。だが彼奴の力量が危険を上回ると予測していた。その見込みが、お前と私との、判断の差なのだろうな」
 ジークは聞こえないふりをして、扉を開けて、執務室を出た。
 扉が閉じられた執務室で、銀髪の将はひとり残った。部屋の静けさが響くようで、時計の針の動きのような、ほんの細かな音も聞こえてくる。
「命は、誰のものでも等価であるが、扱われ方は常に不平等だ。それは、認めざるを得ないな」
 チェスの駒を弄びながら、ジュリアスはひとりごちた。





                            □■□





 光と影が交錯する。
 影からこぼれるように光が落ち、光を縫うように影が走る。
 光と影は対ではあるが、実存ではまるで綾のように隣り合って存在する。
 対のものははっきりとわかれて対に存在しているということでは、決してない。
 遠くから見れば、この綾は灰色に混ざり合って見えるだろう。
 しかし近くで見れば、このように複雑にひしめきあっている。
 混ざるとは、ひしめきあうことなのだ。
 生きることも、同じようなものかも知れない。
 善きことと悪きこととが、せめぎ合って、そして人の生が紡がれる。
 どんなに平坦に見えても、決して他の誰とも同じではない、そんなまだらな生だ。



 木漏れ日の下を踏みまどうようにして歩を進めながら、アッシアはそんなことを考える。
 デグラン家の軍人墓地は、白い石畳で舗装されている。そして石畳で区画された中に、無機質な石が並んでいる。石には、年号と名前が記載されている――。知らない名前、知った名前。
 アッシアがようやく歩けるようになったのは、ほんの2日前だ。その前はずっと眠り続けていたらしい。あの戦場だった砦から、傷病兵としてデーゲブルクにやって来たが、傷病人搬送用の馬車で運ばれている期間、デーゲブルクの病院で入院していた期間、ずっと記憶がない。昏々と眠り続けていたそうだ。看護についてはジュリアスが指示し、ジークが細々としたものを手配してくれたそうなので、あとで礼を言わなければならないな、と彼は感じている。
 黒猫も彼と同じようなものだったらしい。今も、起きている時間よりも寝ている時間の方がずっと長い。本来的に、猫とはそういうものかも知れないが。ジークの家で世話になっている黒猫に、アッシアが面会した際。かの猫いわく、「休養が必要だ」とのことなので、アッシアも特に口出しはしていない。アッシア自身も、体の奥に鈍い鉛が詰まっているようで、本調子でもないのだ。他人、いや他猫のことは言えない。
 エマ教師はと言えば、生徒の引率で、もう故郷へ帰ってしまったらしい。生徒の引率というのが何のことかわからなかったが、とにかくジュリアスと話し合った結果らしい。エマ教師本人は、デーゲブルクに来ることを望んだらしいが、時間的な制約もあるので、ジュリアスが責任もってアッシアと黒猫の面倒を見る、ということで話は落ち着いたのだそうだ。

 よいしょ、とアッシアは両手に持った花籠を持ち直した。拍子、ひらりと黄色の花弁が舞う。かなりの量が入っているので、花とは言え結構重い。
 そしてようやく、目指していた一区画へとたどり着いた。花籠をそこでいったん下ろすと、そこに並んでいる墓に、アッシアはひとつひとつ花を供え、祈りを捧げる。
 その区画の墓は、50に欠けるほど。9年前の近隣領主との小競り合いで、アッシアが率いていた騎士たちが眠っている場所だった。その中には当然、ケルヴィン=マクゴナルの墓もある。
 墓は、目印ではあるが、石でしかない。祈ったところで何か答えが返ってくるわけでもない。無表情な墓の周りにある草からの照り返しと、飽くことのない蝉の声だけを、アッシアは受け続けている。青い空に浮かぶ雲の方が、よほど表情が豊かだ。



 過去の影がある。その影から今までは逃げてきた。ただ逃げるだけだった。だがしかし、逃げることだけからは、何も生まれない。自分の失敗を、どんなにひどい失敗だったとしても、正面から受け止めなければならないのではないか。
 少なくとも、そうでなくては、死んでいった者たちにあまりにも失礼なのではないか。
 そう考えながら、アッシアは花を供え、そして祈る。失われた者たちのために。

 それは静かな作業だ。

 そして、その作業は、死者と向き合うというよりも、過去の自分自身と向き合う自己対話的な作業なのだと認識させられる。


 そしてその動作も10を越した時、ふとアッシアに影が落ち陽光が遮られた。目を閉じていたアッシアが、瞼を持ちあげると同時、左頬に衝撃を感じ、そしてふっとんだ。口の中に血の味が広がる。殴られたのだ、と認識する。腕で受け身を取りながらも、2回転がり、抗議の声をあげる。何をするんだ――。
「いきなり何をするんだ、ダグラス!」
 殴った主は、皮手袋の拳を固めた姿勢のままで、仁王立ちしていた。
 黒髪はすべて後ろに流した大柄な男。武器こそ持っていないものの、軍服姿だった。この姿が、執務をとるいつもの格好なのだろう。
「別に何もしてねぇ」殴っておいて、その言い草だった。「遅刻した奴に罰があるのは当然だろう」
「遅刻……って、なんのことだ」
 地面に尻をつけた姿勢のまま、アッシアは口元の血を拭う。黒縁眼鏡の奥の目は、凶悪に歪んでいる。
 大柄な男は、夏の墓場を背景にしながら、太い右手を伸ばして周囲を指し示した。
「待たせただろうが、おまえは。こいつらを9年もだ」
 そう言われて、アッシアは返す言葉がなかった。左手で地面の熱を感じながら、呆気にとられた顔で、大柄なダグラスを見返している。
「感謝しろよ。俺は、こいつらの想いを代弁してやったんだ」ダグラスは腰に手を当てて続ける。「なにせ、死んじまっていると殴ってやりたい奴も殴れないからな。9年もほっぽり出されていたんじゃ、恨みごとのひとつやふたつ、溜まるのが人情だ。そうは思わないか?」
 その通りだと、アッシアは思った。いや、恨み事のひとつやふたつで済むだろうか。なにせ、負わなければならない責任すべてから、逃げだしたのだ。アッシアが黙っていると、ダグラスは続けた。
「ひとつ教えておいてやると、お前はこいつらのための、義理を果たしてねぇ」
 義理、義務……。アッシアはその言葉を繰り返す。何をどうしたら、この重大過ぎる責任が取れるというのか。それはずっとアッシアが考え続けていたことだ。
 ダグラスは言う。
「それは、こいつらを忘れないことと。もうひとつは、手前が懸命に幸せに生きることだ」
 アッシアは、大柄なダグラスに言われたことを反芻する。そして呟く。
「それだけ……?」
「それだけだ」ダグラスは言い切った。「過ぎてしまったこと、死んでしまった奴に、それ以上、何ができる? 生きている奴は、死んでしまった奴を忘れないことしかできないし、死んだ奴が望むことは、今生きている奴が少しでも幸せになることだろうからな。少なくそれ以外に、俺は知らねぇ」
 腰を下ろしたままのアッシアは口を開けて、ダグラスを見返している。ダグラスは、なぜか少し居心地悪そうに、くるりと大柄な背中を向けた。
「だいたい、おまえは仰々しいものを求め過ぎなんだ」
 背中を向けたままで、ダグラスは語る。
「これ以上は殴ってやんねえぞ。慈善事業は、どうも性に合わんからな。罰はこれで終わりだ」
 そして、じゃあな、とダグラスは立ち去っていく。その兄の足取りを、殴られた時のままの姿勢で、アッシアは眺めている。
「罰は、これで終わり……」
 考えたこともなかった、とアッシアは思う。求めていた罰が、拳骨ひとつで終わるなんて。


 過去の影がある。しかしその影は、どうやっても消すことはできない。しかし、その過去がつながる未来が光であれば、その影にも意味ができる。影は薄められる。おかしな話だが、未来によって過去は変えられるのだ。過去に起きた事実は変えられないが、意味付けを変えられる。影があったからこそ光が生まれたのだと、影があるからこそ光が存在できるのだと、そう解釈することができる。

 くっくっく、と腹の奥から笑いがこみ上げて来た。しまいには、アッシアは声をあげて笑った。その声に驚いたのか、蝉の声も少なくなって。けれど夏の日差しは世界を熱し続けていて。
 考えようによっては、簡単なことなにかもしれない。ダグラスが示した答えが正しいかどうかなんてわからない。納得がいかないのならば、アッシアが考え続ければいい。けれど、今この時点の正解しか選ぶことができない。いつも、いつでもだ。今のところ、ダグラスの示した答えしかないのだ。
「ねぇ、ケルヴィン」
 アッシアは、真横にあった墓に語りかけた。
 そこはちょうど、ケルヴィン=マクゴナルの墓だった。
「これで、いいのかな」

 良いんじゃないでしょうか。
 と生前の彼らしい、軽い調子の答えが返ってきたような気がして。
 アッシアはまた、声をあげて笑った。












<続く>