11. 散華





 どよめきと魔術の爆音が、試技場から伝わってくる、晴天のもとのセドゥルス学院。
 開いている窓から学舎へと入ろうと、建物のすぐ傍に生えている木の枝から枝へ、黒猫が渡っている。
 猫ならではの身の軽さ、ゆっくりとした足取りながらもまるで躊躇しない動きが、素早さを添えている。黄色く色づいた葉に隠れながら、つつつと黒い毛が動いている。ときおり、ぴんとたったしっぽが葉の隙間から覗く。
 移動は、別に魔術を使っているわけではない。ただ猫の身体能力によって移動している。時折つめを立てるくらいで、なんのトリックもない。魔術というのは便利な道具であり、それ以上でも以下でもないと黒猫は考えている。道具だから、使いようによっては逆に不便にもなる。五感を使い、体を使い、生きていくことのほうがよほど重要だった。ことさら主張することもない。黒猫は当たり前のこととしてそんな風に認識していた。
 細い枝の上で平衡を保ち、さっさかと進み、目的の窓の近くへとたどりつく。ほんの拳ふたつ分、そこの窓が開いていた。人によっては足がすくんでしまうだろう三階の高さだが、まったく意に介せず、黒猫――レイレンは、枝から飛ぶ。そして見事、窓からするりと学舎に入った。そこは教室棟の廊下。

 教室棟は、ほぼ無人だった。
 ほぼというのは建物のすべてを確認していないからそう言っただけで、実際には黒猫レイレンから見える範囲には、誰もいなかった。サボっている生徒すらいない。
 歓声が、試技場の方から響いてきた。
 あれだけ廊下にひしめいていた学院の生徒も、教師も、他関係者や校外者も、今はすべて試技場に行ってしまっているのだろう。
 賢者対賢者候補の試技は、順調に進んでいるらしかった。
 世間やら流行やらそういうものから距離を置いているレイレンだったが、今回の魔術師の頂点対決ともいえる試技に興味がないわけではなかった。
 実際のところ、先ほどまで試技を見ていたのだ。より正確に言えば、始まる直前まで見ていた。
 猫であるため直接試技場の中には入らず、その外にある木に登り、窓越しに悠々と試技を眺めようとしていたのだが、試技の開始直前にななって、窓に突然目張りがされてしまったので、試技を見ることができなくなってしまったのだ。その目張りは試技の演出のために為されたのだが、試技場の外にいた黒猫にはそんなことはわからない。
 とりあえず、猫でも入れそうな場所を探して、屋内へと来てみたのだった。だがしかし、屋内を経由したからとて試技場の中にうまく入れるというわけでもない。
 さてどうしたものかと考えているとき、妙な匂いが鼻に臭った。

 ぴたり、と黒猫は歩を止める。
 ひげと鼻をぴくぴくさせながら黒猫は顔を上向ける。
 そこには重そうな石造りの天井以外なにもない。
 つぎにひょこりひょこりと首をふると、ひとつの教室の入り口の扉が、半開きになっているのが見えた。
 その、鼻の粘膜が重くなるような匂いは、どうやらそこから流れてきているようだった。
 なんの予感があったわけでもなかった。けれど黒猫レイレンは、まったくためらいなく進む方向を変え、その妙な臭いが漂ってくる教室へと足を向けた。
 なんだろうと訝るわけでもなく、あれこれ予想したり考えるわけでもなく、まるで秤の目盛を確かめるかのような黒猫の動きだった。
 感情を挟まない。かといって、無関心というわけでもない。ある意味で、とても科学的な態度と言えた。こんな日常のひと場面でさえ、黒猫の姿勢は徹底している。

 その教室は、ただの階段教室だった。
 学院祭の飾りつけがされているわけでもない。いつもと同じように机と椅子が整然と並び、秋の日差しが窓から斜めに飛び込んできている。
 ただ、階段教室の一番下の段のところに、黒いものが転がっていた。机の影になってはいたが、別に隠されているわけでもないようだった。
 黒猫レイレンは、その黒いものへとひたひたと向かう。
 ある程度まで近づくと、その黒いものの全体が見えた。それはなにやら見覚えのあるものだった。

(またか……)
 不謹慎ながら、黒猫レイレンが胸中に浮かべた感想はそんなものだった。何故かため息ひとつ。
 黒いものの確認が終わったので、それから方向を変え、ふたふたと肉球で木製の床を足早に踏んで加速をつけると、黒猫はふぃと跳ねて、机の上の飛び乗った。
 そして教室全体を見回す。机の上に乗り、飛び跳ねることが行儀が悪いなどと咎める人間は、今ここにはいない。
 そして机を次々と伝い、全体の状況を確かめた。
 まずは別段変わったところも無いようだった。怪しい気配がするわけでもない。
 そして、先ほどからの臭いの正体を確認した。
(油……。)
 駆けまわって確認したところ、教室に、液体、油がまかれていた。それが鼻の粘膜を重く感じさせる異臭の正体。
 急いでまかれたのだろう。油は、入り口付近に集中してわりとぞんざいにまかれていた。
 かといって、近くに油の入ったものや油が必要そうなものなども見当たらない。
 誰かが故意にまいた油であることは明らかだった。
 油をまいたということは、犯人はこの教室を燃やそうとしていると考えられる。
 かといって、油の撒き方から、教室単体を念入りに燃やそうという意図は感じられない。量も少ない。
 ここで、黒猫はひとつの仮説にたどり着く。
 ひょっとしたら、油は、学院全体に撒かれているのではないか。そして下の階に重点的にまかれ、上の階、例えばこの教室には、余った油をふりまいただけななのでは。


 そして、黒猫レイレンは、先ほど確認を後回しにした、教室前方に倒れている黒いもののところへと向かった。
 行きと同じように、帰りも机の上を、飛び石を渡るようにして跳ねていく。
 進むうちに、黒いものの姿が改めてはっきりと黒猫の金色の瞳にも見えてくる。
 その黒いものは、人間だった。
 もっと言えば、知り合いだった。
 階段教室の最下段にきたところで、机から飛び降りた。そして倒れている人間の頭を経由して、見事に黒猫は着地する。頭を経由したとき、ごん、という音がしたかも知れない。
 黒猫はくるりと倒れている人間の顔のほうに近づくと、言った。
「アッシア。起きろ。また死にかけるぞ」
 そう、教室に倒れていた黒いものは、黒縁眼鏡のアッシアだった。
 いつものローブ姿のまま両手を後ろ手に縛られ、床に転がされていた。意識はないらしく、ぴくりともしない。
 目を閉じ、床に体を横たえたまま動かないアッシアを、黒猫は観察する。口元近くまで行き、ぴんと耳を伸ばし、呼吸を確かめる。息はしている。弱いが規則正しい。眠っているよう
な状態だといってもいいだろう。
「起きるんだ、アッシア」
 黒猫レイレンは、前足で、倒れている黒縁眼鏡のアッシアの額を押す。押す。押す。
 べし。べし。べし。
 いわゆる、猫ぱんちというやつだ。
 黒猫の、衝撃を吸収する肉球と呼ばれる部位が、対象物にあたる。
 それ故に、ダメージが少なく、目を覚まさせるちからにおいておとる。
 そのためか、黒縁眼鏡のアッシアは一向に目を覚ます気配がない。
「……。仕方がないか」
 黒猫レイレンは呟くと、にょきんしゃきんと両前足から爪を出し。ばりばりばりばりとアッシアの顔面をひっかいた。
 そしてアッシアは
「うわぁぁぁぁぁっ!!」
 ――などと悲鳴をあげて起きる――かと思われたが、やはり眠るように意識を失ったままだった。
 アッシアの顔に赤い線が浮かび、血が流れているが、目を開きそうな気配はない。一定の寝息が続いている。
 どうも結構本気でひっかいたらしく、黒猫レイレンのほうは肩で息をしていたが、こうまでしても起きない黒縁眼鏡は、物理的に気絶させられたのではなく、薬品などで深く眠らされ
ているのではないかという推測した。
(となると……起こすことは、これ以上試しても、難しいか)
 黒猫レイレンはあたりを見回す。人の気配はない。見事なまでに、ひとっこひとりの気配もない。鼻をくんくんと鳴らせば、油のにおいがそこかしこから漂っているのを感じられる。
 この状態で、もし、誰かが火でも放てば、あっという間に建物が焼け落ちそうだ。それとともに、アッシアも焼け死んでしまうだろう。黒コゲになって。
 その前にアッシアをこの教室から連れ出さなければならないが、アッシアが自力で移動するのは難しそうだし、黒猫に運びだせるはずもなく。
(手助けしてもらう人間が必要だな)
 そう頭の中だけで呟いて、次の瞬間、黒猫レイレンは行動を始めていた。黒猫は教室を出て、無人の廊下を駆ける。





                         ■□■






 学院にいるすべての人間が、今、この場を注視していた。
 世界最高峰の魔術。あるいは、史上最高かも知れない魔術。魔力が技が、そしてそれらを支える心までが超一流。さらにそれらすべてを試すことができる好敵手の存在。まさにこの場
の試技は、魔術師の粋。あるいは結晶という場となった。すべての魔術師が日々目指すべき頂、そしてそのほとんどがたどり着けないという現実が立ちはだかる頂。その頂がまさに目の
前にある。観客でしかない魔術師たちは、ただただ息を飲み、呼吸することすら忘れ、その試技で繰り出される技の数々に魅入っていた。
 観客それぞれの心臓の鼓動が底流をなし、打ち合わされる魔術の律動が主旋律を導き、そして時折あがる歓声が転調をもたらす。
 シンフォニックな空間が、そこにあった。




 大波の形状をした炎を、セドゥルス翁は真正面からぶつかることなく、さらりと乗り越えてみせた。円球型の防御魔術と重力中和の魔術を組み和わせ、さながら波乗りのように炎の波を乗りこなし回避する。ふわりと床に降り立つセドゥルス翁――学院長にはまだ余裕がある。額に汗が浮かんでいるものの、呼吸は乱れていなかった。一方で、広範囲を覆う大魔術を使ったあとでも、エレ=ノアもまだまだ戦えるようだった。呼吸も乱していないし、強気の笑みは、見せかけとも見えなかった。

「…………」
「…………」

 試技者互いに、数瞬の空拍がある。
 互いの力量を認め合うかのような視線が絡み。
 呼吸をひとつ。吸う息と、吐く息。
 真剣そのものがぶつかり生み出される熱気に、上機嫌の雰囲気が混ざる。
 そして試技中にもかかわらず、炎戮のエレ=ノアは、ポケットからレースの手布を取り出した。
 彼女は女性らしく化粧を落とさぬよう上品に、はたくようにして額の汗をぬぐう。
 それはまるで、化粧直しの時間のようだった。

 やおら、炎戮の彼女は、そのレースの手布を、前へと放った。
 繊細な細工の手布はふわりと宙を舞い、
 魔術の余熱によって場に巻き起こっていた微風にはためき、
 ゆらぎ、
 舞い上がり。
 その手布が宙に風に漂ううちに、
 燃えあがるような、橙と白色の魔術文様が煌めき、ゆらめき。
 エレ=ノア――炎戮の彼女は、魔術を放つ。


「磔刑の鉾よ!」
 ごうっという音。
 鉾の形が視認できるほど凝縮された、貫通力のある光熱波が放たれる。
 勢いを持って放たれたそれは、手布を呑み込み、学院長へと向かう。
「ほい、ほい、んでほぃっと」
 一方で、学院長は軽やかに対応する。
 連鎖魔術によってほんの一瞬で現出させた3つの防御魔術、それは3枚の光の布だった。
 正面から当たる愚はおかさんよ、とばかりに、光の布はそれぞれ、鉾を受け止め、からめ、そして床を支点にして、鉾の進行方向を変えさせた。
 結果、鉾は学院長の遠く脇を通り、床を削って試技場を囲む防御壁に当たり爆散する。
 おおお、と観客からまたどよめきがあがった。

 3つの魔術をほとんど一瞬で構成し発動する、魔術速度。
 魔術を効率よく回避する、機知と魔術の組み合わせ。
 そして3枚の防御魔術によってもなお死ぬことのない、魔術威力。
 それら大魔術を連続で行使してもなお尽きることのない、魔力総量。
 観客の歓声は、だれに、どれに送った賞賛かはわからない。そのすべてに、あるいはそれら以外に送られた賞賛かも知れない。何がすごいかと問われて、とにかく全てがすごいとしか答えられない試合があるのだ。この試合には、ひとりの主審とふたりの副審がついているが、彼らはそれぞれ試技場の縁に位置取り、巻き込まれないように努力することで精一杯に見えた。ポイントもカウントしているかも知れないが、互角の内容だということは、審判でなくとも、その場にいる誰もが知っていることだった。


 そんな拮抗した試合、勝負に出たのは炎戮だった。


 小さな魔術を散発して距離をとり、ふわりと自分の周囲に魔術文様を広げた。まるで大広間に大輪の華が広がるように、白と橙色の魔術文様が描き出された。呪文が続く。
「幽囚の弧塔!」
 直径8ヘート、高さは20ヘートはあろうかという魔術の光の塔は、エレ=ノアの防御魔術だった。学院長の放っていた熱波をたやすくかき消し、屹立した。
 試技場を取り囲む鳥籠の防壁魔術の中央に光の塔が出現した格好だ。
 その光の塔は、防御魔術と呼ぶのがはばかられるような、魔術による構造物といった方がしっくりくるくらいの巨大さだった。かつ塔には高密度の魔力が詰められており、硬度はたった今、セドゥルス翁の攻撃魔術をかき消すことで証明された。
 試技場の中央に陣取ったそれは、試技者たちの視界を遮り、お互いの姿を隠す。
 一般的な魔術ではなかった。エレ=ノアのオリジナル魔術だと、観客たちは推察しただろう。
 常軌を超えた魔術の塔の出現に、観客たちは、最初は驚き、そして次に訝った。
 何のために発動した魔術だろうと。


「あの魔術の塔を、壊してみせろ、というエレ=ノアの挑戦じゃないのか? 最大威力の防御魔術を、破れるものなら、破ってみせろと」
「カウンター型の魔術じゃない? 下手に攻撃するとその攻撃が跳ね返ってくるような」
「いや、学院長の移動経路を絞って、罠を仕掛ける気じゃないか? あの塔の出現で、試技場が二分された。相手を攻撃するためには、あの塔の右か左、どちらかを迂回しなければなら
ない。普通の試技場で罠を仕掛けて成功させるのは難しいが、相手の視界と移動経路を奪えば、それができる」
「そうか。それじゃあ、罠が成功するかしないかが、勝負の分かれ目になるということか」


 なんにしろ、その場にいる誰もが、次の動きが試合の鍵になると考え、死角が多くなった場を注視した。
 誰もがセドゥルス翁の姿を探すなか、動いたのはエレ=ノアだった。彼女は魔術の塔を維持しながら、するすると例の白と橙色の魔術文様を描き出し、もうひとつ、自分を包み込むような魔術の防御壁を張った。まるで雛を包む卵のような、しかしとてつもなく濃密で分厚い殻。

 きん、と小さく音がした。




                              ◆◇◆



「いけない!」
 言って、立ち上がったのは、樺色の髪の女性だった。女教師。学院教師用のローブを着ているからそれがわかる。
 立ち上がったエマに、近くに座っていた観客の何人かが振り向き、彼女のほうを見た。
 だがそれだけだった。
 ほとんどの観客は、試技場を注視していた。異常さを漂わせる空間から目を離すことができない。
 エマは、反射的に魔術文様を描画しようとした。
 だが、どんな魔術を使うべきか、そもそも何をすれば良いのかわからず、体中にある魔力内圧を高めるだけに留まった。
 実際のところ、エマにとっても、炎戮と異称されるエレ=ノアの使った魔術が、どういったものか、知らなかった。
 けれど、エマは、炎戮と、幼いころから長い時間を共にしていた。
 そういう者にしかわからないものがある。直感といっていい。
 だからわかった。その異様なほどの危険さが。



                        ◆◇◆



 卵型の防御魔術の内側、炎戮エレ=ノアは白と橙の魔術文様を描きだす。

「汝の財産、血肉、魂、すべてをこの地に擲て……」
 エレ=ノアが小さく呪をつぶやく。
「散華せよ!」

 炎戮の魔術が発動する。
 試技場に屹立していた巨大な魔力の塔が、そのちからをすべて開放する。
 白と橙の光が、試技場を覆い尽くした。