プロローグ






 その部屋は重苦しさに支配されていた。怠惰な巨獣のようにうずくまる重苦しさは、伝統のある高い天井、部屋の中央に置かれた重厚な長卓、毛足の長い緑色の絨毯。それらのどれによるものでもない。
 支配者たる重苦しさは、その場にいる、8人によって生み出されていた。長卓についている8人のほとんどは年配の男性で、彼らの髪はすべて白髪になっているか、なくなっているかのどちらかだった。ひとりひとりは重々しく振る舞い、軽率な発言はない。遠慮と深謀によって構成される言葉はときに警句のように響くが、ほとんどが迂遠で、意図を直截に理解することは難しい。
 大きな窓から飛び込む日差しに照らされていながら、空気すらどこかの隠者になったかのように、重く留まり動かない。どこか分厚い辞書を連想させる空間だった。


 ひとりが、口を開く。
「やはり、彼らの意図は我々のそれと近いのではないかね」

 もうひとりが言葉を挟む。魚の泳ぎによってできた波紋が、池をゆっくりと広がっていくかのように、緩やかに発言が続く。
「可能性は高いだろうな」
「しかし、我々の誘いを一度ならず断っている。これをどう解釈するかだ」
「細かい条件が折り合わなかったのではないか。まだ本気で交渉したわけではない」
「奴は変わり者だ。我々とは価値観を異にする。慣れない鶏を入れると、小屋が乱れる」
「我々の崇高な目的が理解できないものがいるとは思えない。説けば我々が正しいことを理解するだろう。慣れない鶏ならば、飼いならせばいい」
「野心があるとも考えられるぞ。つまり、我々の上を行こうという野心だ」
「まさか」
「あれだけの人数で事は起こせまい」
「時間軸も合わせて考えろ。各国の中枢に、自分が影響力を持つ人間を少しずつ送り込んでいるのだぞ」
「あの辺境の地でわざわざ魔術師を集めようとする発想からして、奇想天外だ。何かしらの意図を隠していると見た方が安全だろう」
「魔術師の集団の解釈など、言わずと知れている。それは軍事力であると同時に支配層でもある。つまりは、本来の意味での貴族だ。権力の源泉そのものだ」
「だが、教育を目的に集めた少年少女を兵力として数えることはできるのか?」
「教育や慈善は、隠れ蓑には格好の名目だ」
「年端の行かない少年少女だからこそ、自分の思想を植え付け、洗脳するにはうってつけだろう」
「影響を与えられる人間を各国に送り込みながら、自身は魔術師の集団を抱え続けているというわけか。厄介ではあるな」
「だが計画が迂遠だ。計画と実務は違うものだ。そうそううまく行くか、はてさて」
「具体的な動きがあったという確認もとれていない」
「ここは法廷ではなく、政治の場だ。状況証拠でも充分だろう」
「動きはすべからく慎重を期すべきだ。ひとつの妄想のために全体を失うのはおろかなことだ」


 迷走し始める議論。誰もが譲らず、しかし論点へと踏み込まない。それぞれが思い思いに発言し、結論しようとする姿勢は見えない。小鳥のさえずりのようにかまびすしいが、だが、老人たちの声が飛び交うさまは、決して可愛らしくはない。
 決して混じり合うことのない発言の波紋のなか。それまで沈黙していたひとりが立ちあがった。そして、ゆっくりと窓辺へと歩く。こつり、こつりと。
 そのひとりの動きに気がついた議論の参加者が、一人、また一人と発言をやめていく。
 こつり、こつりと歩を進めて、光がさしこむ窓辺に到着すると、ゆっくりと体を反転させ、窓枠にもたれた。そのひとりは、女性だった。しかも、若い女性だ。
 長年の経験を積んだ男たちが揃うその場では、彼女はいかにも不似合いだった。しかし、長卓に座る彼らは、彼女の動きを注視している。

 彼女は、口を開いた。艶やかな口紅だ。
「お歴々の皆さま。何かを判断をするためには、基礎となる基礎情報が必要です。しかし、この件、何かを判断するには、まだ情報が足りていないのではないかしら?」

 大きな窓の光を背にして。
 彼女はひとつの紙片を口元に持ってきて、自信ありげに微笑んでいる。
 彼女の色の薄いブロンドは陽光に溶けて、ほとんど輪郭を失っている。

「――何か、策があるようだな」
 ひとりの老人がそう応じると、彼女は笑みを深めた。
 思惑どおり。言葉に出さずとも、表情が雄弁に語っている。
 そうですね。
「こそこそ情報収集するのではなく、直接視察をするのはいかがかしら」
 そう言って、彼女は口元に持ってきていた紙片を、くるりとまわす。
 直接? 視察? どうやって?
 そんな短絡的な問いを発するような愚かな人間は、この場にはいない。けれど、沈黙は、彼女に説明を続けることを促している。
 狙い通りの展開。きっと、胸中では、彼女は高らかに笑い声をあげているのだろう。
 しかし、言葉はあくまでも冷静。

「――ちょうど良い機会が、あちらから飛びこんできていますの」

 彼女は口元の紙片を、また一度、くるりとまわす。
 それは、一通の白い封筒だった。