1. そういえば、もうすぐ、





 大きな泣き声がする。やや甲高い、耳触りな音。小さな女の子が、泣いている。
 池の端、大きな木の前。ひとつの白いベンチのあるその場所は、彼女のお気に入りの場所でもあった。しかし今は、彼女は泣きじゃくっている。誰かに泣いているのを知らせるというのではない。泣いていると、嗚咽が漏れて、それが大きな音を立てる。そんな泣き方だ。
 ―― なぜ泣いているの?
 そんな問いかけにも女の子は答えない。そもそも問いかけが届いていないのかも知れない。
 袖口で流れ出る涙をぬぐっているから、赤い袖は濡れそぼってしまっている。けれど、女の子が泣きやむ気配はない。
 と、がさがさと音がして、近くにあった植木が揺れた。硬い枝をかきわけて出てきたのは、これも女の子だった。泣いている女の子よりは、ふたつかみっつ、年上だろうか。色の薄い、白色にすら見えるブロンドを、肩を超えるくらいに伸ばしていた。
 泣いていた女の子はびくりとして一瞬だけ泣くのをやめたが、それでも涙が止まらず、結局またぐずぐずと泣きだしてしまった。
 ブロンドの闖入者は、泣いている女の子に声をかけると思いきや、つかつかと女の子の目の前を横切ると、白いベンチにどかりと腰をおろしてしまった。年上の彼女は、むすっとした表情でしばらく池の方を見ていたが、やがて、ひとつ溜息をついた。瞳の色も薄く、池の色を映しているのか、緑色に見える。
 そこで初めて、ブロンドの闖入者は、泣いている女の子に気がついたようだった。慰めるというよりは、どこか不満そうな表情で、女の子に尋ねた。くぐもった声、口に何か含んでいるようだ。飴でも舐めているのかも知れない。
「どうして泣いてんの?」
 泣いている女の子は、当然すぐには答えなかった。けれど、薄いブロンドの彼女の方は、重ねて問いかけることもせず、答えを待っている。辛抱強く待っているというよりは、泣いている姿を眺めているという風情だったが。
「かみ……」
 泣きじゃくりながら、女の子はようやくそのひとことを言った。
「髪のいろが、おかしいって、みんなが」
 ばかにするの、と女の子が言う。
「髪の色ぉ?」白いブロンドの彼女は、首をかしげる。そして、泣いている女の子の髪を見る。赤い。濃い赤。確かに、珍しい。「赤いね。確かに珍しいけど、綺麗じゃん」
「きれ、い……」
 初めてその単語を聞いたというように、女の子は繰り返した。
「うん、綺麗よ。そうか、そうだ、決めた、それがいいわ」口早に、断定口調でブロンドの彼女が呟き、突然、宣言した。「あなた、今日から私の妹ね。可愛いから。だから、いじめっ子から守ってあげるよ」
「いもうと……え、でも……」
 いつの間にか、白いブロンドの彼女はベンチから立ち上がり、女の子の前まで来ていた。戸惑う女の子に、彼女は、すっと手をさしだし、そしてにっと笑う。
「わたし、エレよ。ちょっと言いにくいから、エリーって呼んで。エリーお姉さんよ」
「エリー……姉さん」
 そうそう、それよ、と白いブロンドの彼女は満足そうに頷いた。そして、聞いた。
「それで、あなたの名前は?」



 じりりりりり。
 けたたましい鐘の音で、エマ=フロックハートは目を覚ました。
 ぜんまい仕掛けの時計を止めて、時刻を見る。午前6時。いつもと同じ時間。
 頭の隅に残る眠気のしびれを追い出すように、彼女はベッドの中で体を伸ばす。あふ、と小さなあくびをして、体を起こした。
(この夢を見るのも、久しぶりだわ)
 やや乱れた樺色の髪を撫でつけながら、ベッドから抜け出す。
 ほんの幼いころの思い出だというのに、あの日のことは、忘れようにも忘れられない。姉である、エレ=ノアに初めて出会ったあの日。
 劣等感だった髪の色を認めてもらったこと。初めて出会って突然、妹になれと言われたこと。そしてその日から、自分の人生にとって、姉の存在が欠かすことのできないものになってしまったこと。その日から自分の人生は確実に変わったのだと、振り返るたびにいつも思う。
 目覚めは良い方なのだが、今日は眠気が重い。
 起きぬけの彼女は、いつものように濃い目の珈琲を入れて机の上に置くと、すぐには手をつけず、その代りにぼんやりと頬杖をついた。
 昔のことを夢に見た朝は、どうしても感傷的だ。少女時代、学生時代、従軍時代。いつのときでも姉と一緒だった。姉が守ってくれた。やり過ぎのこともあったが、頼りになる姉だった。だからいつも寄り添うようにして、一緒にして頼り切っていた。それがいつからだろう、姉が変わってしまったのは……。いや、変わってしまったのは、自分なのだろうか……。取りとめもない疑問が、浮かんでは消える。疑問はとても重要そうなことであるのだけれど、答えはなかなかでない。
 ずっと一緒にいた姉の元を離れてきたのは、けれど、自分の意志だった。ほんの5年前の話だ。反対を振り切って、姉から離れた。自分にきちんとした明確な意志があったのかどうか。振り返ってみると、どうもあやふやだ。このままではいけないという根拠のない気分で、どこか逃げるようにして飛び出て来たのだ。あれから、エレ=ノアとは会っていない。手紙だけほんの少しやりとりしたけれど、結局、何もわかり合えていない。それはそうだ。自分でもよくわかっていないのだから。
 姉のように慕ったエレ=ノアから離れ、国を出たのが18歳のときだったが、戦後の混乱と学院草創期どさくさの中で、セドゥルス学院の教師の職を得ることができた。これはとても幸運だったと思う。今では教職を得るのに年齢制限ができてしまったから、当時の年齢では職を得ることはできなくなってしまったが。
 母国で職を求めれば、どうしても姉と関係する仕事になってしまうだろう。母国の外で職を求めるのもなかなか難しいものだから、自分は本当に運が良かったのだろう。
 エマ自身、国を出て見知らぬ土地で職を求めるという今の選択が正しかったかどうか、いまだに確信が持てていない。ただわかるのは、今はまだ途中であること。そして、ずっと後にならなければ、結果が出ないということ。自分が正しかったかどうか、確かめることができるのはそのあとだ。
 だから、いつももやもやとした不安が胸にある。自分が正しいのかどうかわからないから。そのもやもやを吹き飛ばすために日頃から精一杯、仕事に打ち込んでいる。少なくとも、そのつもりだ。それがたとえ自己満足に過ぎないのだとしても。

 気分を切り替えるために、エマは、たまたま近くにあった書類を一枚抜き取った。
 日頃、仕事は私室に持ち帰らないようにしているのだけど、このくらいはまあいいかと持ってきたものだ。それはひとつの企画書だった。さらりと一読し、この内容なら大丈夫だろうと思う。あとでもう一度確認してから、署名をするつもりだった。
 ようやく、珈琲をひとくち含んだ。いつもの苦味が舌に広がる。
 思う。もうこんな季節かと。
 そして、腕を伸ばして、卓上にあるカレンダーを確認する。今日の日付から、ある日付までを、指先でたどる。丸印がつけられた日付。
 そういえば、もうすぐ、学院祭。



                              □■□



 セドゥルス魔術学院では、夏休みが終わり、新たな学期に入った。
 山岳地帯にある学院では残暑は厳しくない。日中は暖かいが、朝晩が冷え込む日がもう出始めている。秋の気配というよりも、秋が早くも片足を突っ込んできたような、そんな時期である。
 アッシア教師が受け持つウィーズ教室の面々も、夏季休暇中に重大な事故もなく、新学期初日には全員が揃って顔を合わせた。あえて言うなら、休暇中、教師のアッシアがベルファルト王国へ行った際に怪我をするということがあったが、休暇終了前に完治したこともあり、特に触れられていない。ある程度の事情を知っているパットとリーンの双子たちも特に騒ぎ立てるようなこともない。何か思うところがあったのか、むしろおとなしいくらいだ。
 アッシアと黒猫とエマ教師とのやりとりも、猫化魔術を解くための手がかりの少ない今では、さほど頻繁でもなく、それぞれの仲が進展したりもしていない。新学期が始まったあとの仕事の波に、教師たちは忙殺されているような格好だ。

 そんなかたちで、新学期開始からひと月が過ぎている。

 衣替えも終わっているが、所詮は指定のローブ、見た目はあまり変わり映えしない。
 けれど、寒さに弱い者にとっては、こういう実用的な変化はとても助かる。
 襟をかきあわせながら、レクシア=ペルーナデはそう考える。
 ウィーズ教室。窓から入る日差しで日向ぼっこをしながら、暖かいお茶の入った碗を両手で包みこむようにして、指先を温める。ほこほことぬくく、気持ちがいい。角眼鏡の奥の目を細めながら、彼女は紅茶をすする。
 その角眼鏡の彼女の向かいに座る金髪少女は、同教室のヴェーヌ=フェレンツィだ。椅子にちょこんと腰かけ、砂糖入りの紅茶をすする姿は、人形のように愛らしい。金髪人形の少女の膝の上には、どこから拾ってきたのか、猫が丸くなっている。教室でクロさんという黒猫を飼っているが、その猫とは違う猫。三毛猫だ。ヴェーヌは動物に餌をあげる趣味があるらしく、いろいろな動物が少女になついているが、この三毛猫もそのうちの一匹なのだろう。
「それで、学院祭で催し物をするためには、教室単位での申請書が必要なの。申請書は、先生の許可はもちろん必要だけど、それだけではなくて、教師と生徒で構成されている、学院祭実行委員会の許可を得る必要があるのよ」
「ふーん。そうなんですかー」
 レクシア女史の説明に、ヴェーヌ少女が頷く。ふたりは、お茶を飲みながら雑談をしていた。
「学院祭がいくらお祭りだからって、みんな好き勝手にやっていたら、めちゃくちゃになっちゃうから。催し物をやる場所だって限られているし、たとえば、講堂だってひとつしかないでしょう? だったら時間を区切って、使いたいひとたちが使えるようにしないといけないし。そういう場所や時間の調整をやってくれるのが、学院祭実行委員会なのよ。あとは、とんでもない実行不可能な企画を却下したりね。生徒が考えることだから、実現可能性がない企画をすることもあるの。あとあと問題にならないように、それをチェックするのよ。ま、それだけが仕事じゃないけれど、簡単にまとめていったら事務方ね。学院祭がうまくいくように、うまく取り仕切ってくれるのよ」
 うん、うん、とふたつ頷いたあと、ヴェーヌ少女は、
「わたしたちは、ウィーズ教室として、なにかしないんですかー?」
「うーん、そうねぇ」女史は顎に白い手を当てる。「ウィーズ教室として催し物をやったのは、実は去年が最初なの。リーンたち双子たちの発案でね。楽団をやったんだけど、ろくに練習もしなかったから、出来も悪かったしお客も少なかったし、あまり良いことはなかったわね。今年は……どうなのかしら。催し物は希望制だから、誰かが申請しない限りできないの。こういう企画ごとが好きなのは双子たちなんだけど、今年はやる気はあるのかどうか。もしあるんなら、ホームルームでもう言い出しているはずだしね」
「レクシアさんは、なにか、案はないんですかー?」
 ヴェーヌ少女は、首をかしげて聞く。
「私? 私は、こう言ったら悪いけれど、あまりやる気は無いわ。お祭りで騒いだりっていうのは得意じゃないし、好きでもないから。もちろん、誰かがやりたいって言えば全力で協力するけれどね。ヴェーヌちゃんは、何かやりたいこと、ある?」
 意外にも水を向けられたヴェーヌ少女は、前方斜め上へ視線をやって、考える。
「うーん、そうですね。いまのところはおもいついていませんけれどー、なにか、みんなで、やれたら楽しいかなぁっておもいますー」
 そうね、とレクシア女史は微笑して頷く。
「でもやるなら、早く決めないと。学院祭まで、そう日程はないから」
 どうしましょうねぇー、とヴェーヌ少女が腕を組んだそのとき、ばたばたばた、と廊下を走る音が聞こえ、そして教室の扉ががらっと派手に開けられた。
 登場したのは、少年、というよりも若者。長身でやや痩せ形、濃い茶の髪。そして意志の強そうな太い眉に、碧眼。本当は走ってはいけないはずの廊下を、結構な距離走ってきたらしく、扉を開けたまま、しばらく息を切らしていたが、やがて彼は上体をそらせるように胸を張った。
「むはは! 朗報だぞ、諸君!」
 そして彼は、あたりを見回し、
「むむ。今の時間は、レクシア女史とヴェーヌ君だけか。ちょっと数が少ないが、まあいいだろう」
 言いながら、若者はすたんすたんと教室の中を進む。手には一枚の紙を持っている。
「どうしたのよ? ワスリー」
 どこかうさん臭いものを見る目で、レクシア女史が聞く。
「いやいやいや。朗報だよ女史。グッドニュースだ」
 ワスリーと呼ばれた若者は、肘を支点にして、両手を振ってみせる。腕が長い。
「わかったらから扉はちゃんと閉めて。廊下は寒いから」
「おお、これは僕としたことが」
 彼は長い腕を振って、素直に扉を閉めに行く。
「それから、廊下は走らないで。貴方の場合、特に危ないから」
「おお、廊下を走ったことまでばれているなんて。さすがは女史、君には隠し事ができないね」
 あちゃー、という様子で、彼は額に手を当てて見せる。リアクションがいちいち大きい。
「そういう台詞は、隠し事をする努力をしてから言って欲しいわ」
 明後日の方向へ口をとがらせてから、女史はお茶をすすった。
「むはは。まあそう言わずに、これを見てくれたまえ」
 女史のお小言にもまったく気にした様子も見せず、ワスリーは手に持っていた紙を、ぱん、と机の上に出した。
 女史とヴェーヌ少女は、一枚の紙を覗き込む。
「えーと、学院祭 催事・模擬店 申請書 ? なにこれ」
 女史の言葉は、ここで終わらなかった。
「ん? 申請者、ウィーズ教室……なにこれ、アッシア先生のサインも入っているし、実行委員会の印も押されているじゃない!」
「そう、完全に承認されているぞっ!」
 爽やかな笑顔で胸を張るワスリーなる若者。歯が光るのではないかと思わせるぐらいの良い笑顔だが、いったい何が彼をそこまで得意にさせるのか。彼の名はワスリー、実はウィーズ教室最年長でクラスリーダーでもある若者なのだが、多少の問題が、ないわけでは、ない。
 とにかくそのワスリーは、得意げに続ける。
「もうすぐ学院祭だからね、でも今年の催事申請がまだだったから、僕が代表して手続きを済ませておいたってわけさ!」
「なんていうか相変わらず、あなたってひとは……! これ、事前に教室の誰かに相談したの?」
「相談? 何を言っているんだい、女史」ワスリーは胸に手を当て、心外だというように首を横にふる。「学院祭とは、みんなでちからを合わせ、楽しみ、仲間同士の親睦を深め、信頼関係をさらに発展させる素晴らしい機会だよ。その素晴らしい学院祭に参加することについて、相談なんて必要かな? いいや、違う。強い絆で繋がり合っている我が教室で、そんな無粋なことは不要。以心伝心、アイコンタクト。何も言わずともすべては伝わる。嗚呼、なんて素晴らしき世界」
 台詞――というか演説の途中で腕を斜め上へ伸ばしてなお語りを続けるワスリーを放っておいて、レクシアは承認済みの申請書に目を走らせる。
「また勝手なことを……! みんなの気持ちとか、何かをやるとなれば段取りとか予算とか、いろいろあるでしょうに……!」
 よくあることなのか、女史はワスリーに対してそれ以上の文句は言わなかった。細かい字でびっしりと埋められた申請書を黙読する。本当は催事の内容だけが書いてあれば申請書としては充分なのだが、催事の理由――というよりも、ワスリー作の何かの演説がびっしりと欄外まで埋められているのだ。学院祭を通して開かれた学院にする意義だとか、卒業生は世界に羽ばたくべきだとかいう提言だとか、そういったどうでもいいところを飛ばして、大事そうなところを拾い読みしていくが――。
「なに、これ」
 ぽつりと、レクシア女史は呟いた。そして、もう一度申請書を読みなおす。今度は少し慎重に、最初から最後まで。そして、最後にもう一回、再確認のために読みなおす。
「これ、何をやるのか、書いてないじゃない」
 疑わしげな女史の視線を受けて、若者ワスリーは「ん?」という表情をして見せた。まるで講師が生徒に見せる、なんでも質問してよ、というような穏やかな表情。そして手渡された申請書を受け取り、若者自身で目を通す。どれどれ。
「学院の歴史が始まって以来の、史上最高、前代未聞、誰もの想像を超える大スペクタクル! 人々を魅了せしめる溢れ迸る創造性が新たな時代を切り拓く。若い世代が先導することの未来的な斬新さが人々に刺激を与える。かつ低予算を実現するような卓抜した企画と実務力。それらは訪れる人たちにこう言わせずにはいられないだろう、まるで夢のようだと。そして、想像するだろう、学院の輝かしい未来を……」
「それで、そんなに素晴らしい企画。具体的に何をするのよ」
 冷たい声の、女史の指摘。しかしその冷たさにもめげず、というよりもその冷たさを感じる感覚がないのか、若者ワスリーは穏やかな表情を崩さない。そんな穏やかな表情のまま、言う。
「そういえば、それは考えてなかったな。でも考えてもみて欲しい、学院祭という素晴らしい企画趣旨を考えた場合、何をやるかが問題になるだろうか――」
「なるでしょうよ、それは!」いい加減にしてよ、という女史の悲鳴。「何をやるかを申請するための申請書でしょ! 一番大事なところがないじゃない! そもそも、なんでこの内容で承認がおりちゃうのよ……」
 後半は頭を抱えてしまったため、女史の声量はしりすぼみ。そんな彼女に対して、若者はぴっと一本指を立て、
「うん。やはり、熱意と誠意が大事なのではと愚考するところだね」
「ああっ、もうっ! またあと始末?!」
 レクシア女史は、改めて頭を抱える。
 そんなやりとりの横、ヴェーヌ少女はと言えば。お手製のねこじゃらしで、膝の上の三毛猫とずっと戯れていたという。
 膝の上で猫も転がる、気持ち良く晴れた秋の一日のことだった。