「作品」
                          相 思 華

       沢口 みつを

西武秩父線の高麗駅を出て県道を少し下ると、小さな屋根のついた高札場跡がある。この辺りが村の中心地だったのか、あるいは近くに名主の屋敷でもあったのだろうか。犯罪人某の特徴と、見つけ次第届け出るようにという趣旨の布告が書いてある。
 ここで県道から分かれ舗装をしてない村道を行くと、道の両側では付近の農家が観光客向けに花や木の実や芋などの作物を商っている。ウイークデーだというのに大勢の観光客が細い村道を同じ方向に歩いて行く。

水天の碑というのがある。高麗川の氾濫を鎮め、村の平穏を祈願して建てられたものらしい。これを左に折れて三百メートルほど下り、更に鉤型に道を辿って河岸に出たところに鹿台堰(ろくだいせき)魚道がある。魚が堰を超えて上流へ上れるように造られた魚道である。その上の仮設橋を渡り、川の中州に設けられた砂利道や別の小さな仮設橋を渡って対岸に出ると、そこが目的の巾着田である。
 高麗川が大きく湾曲していて、付近の山に上って見下ろすと、川に囲まれた水田地帯があたかも巾着のように見えることからこの名が付いたといわれている。彼岸花の群生地で、どんな数え方をするのか知らないが、鉄道の観光案内などでは百万本などと宣伝している。

耕介は堤に上らないで、足場の悪い河床を堤沿いに歩き出した。堤の斜面には既に彼岸花が満開になっていて「わあ、すごいわねえ」などともう驚いている人達がいるが、記憶が正しければここはほんの露払いみたいなところで、この先に本当の群生地があるはずである。最近は植生保護のために入園料を取るようになったらしく、途中に料金所が設けられていて二百円払った。これから先が有料の地域なのだ。

右手の川の流れが急に緩やかになる。風が止ったような気がしたと思ったら、アキアカネが一匹スーッと空に舞った。耕介はおもむろに首を捻って前後の人波を見回した。彼のウエストポーチには和紙の封筒に入った一通の手紙が入っている。差出人は金平妙子だ。
──奥様が亡くなられた由、風の便りに伺いました。さぞお力を落されていることと存じます。遅れ馳せながら私も還暦を迎えました。この歳になると昔が懐かしく思い出されます。今年は秋口に入ってから少しぐずついた日が多かったためか、巾着田の彼岸花の見頃は九月末か十月初めになるらしいので、私は月末の三十日に見に行く積りです。なかなかお目にかかる機会もありませんが、お元気でお過ごしください。──

およそこんな内容である。三十日に見に行くからあなたにも来てほしい、とは書いてない。それ程の付き合いではなかったということなのだろう。

川が大きくカーブする辺りからニセアカシアの林の中一帯が彼岸花に被われる。早咲きのところでは少し色褪せてきているのがあったり、遅咲きのところではまだ細長い蕾のものも多少はあるが、全般的に見ればほとんど満開状態だ。天気も良いし、やはり今日か、あす、あさっての土日が一番の見頃なのだろう。
 葉はなく、四十センチ程の茎がスッと伸びた先に真っ赤な花弁がつき、その外側に細い針金のようなシベが数本張り出している。一本一本の花はそういう形になっているけれど、今ここに密生しているそれは、地面が赤く染まって浮き上がったように見える。

耕介は満開の彼岸花に見とれながらも、気持ちの方はそぞろ歩く見物人に向けられていた。先週の彼岸中日に亡妻の墓参りを済ませてしまうと、どうしても三十日という日が心に引っかかって離れなかった。結局この日、家にいるときと同じようなオープンシャツに普段着のズボンというスタイルのまま出てきたのだった。自分と一つしか年の違わない妙子がもし目の前に現れたら直ぐに分かるだろうか。結婚後、数年で別れたといっていたが、そんなことも含めて折に触れて消息だけは知らせ合っていたが、もう四十年近くも会っていない。その最後に会ったのがこの巾着田だった。
「わたし達のこころの故郷なのよ」
 妙子はそういったが、耕介はその意味が分からなかった。でも何となく聞き返すのが躊躇われて、そのままにしてしまっていた。

  

 耕介たちが育った町には天満宮があって、毎年九月二十四日が秋の祭礼だった。その日、神社では神楽が催され、奉納相撲大会が行われた。神社の大御輿のほかに一丁目から九丁目までの各町内毎に御輿が出て、町内を練り歩いた。大通りのあちこちに町内会の櫓が設けられ、競うようにお囃子が鳴り響いた。戦後の混乱期が去って世の中が落ち着いてくると、祭礼の催しも次第に賑やかになってきていた。それぞれの家では饅頭やご馳走をこしらえ、親戚や友達を呼んだ。会社の寮から家に帰っていた耕介はしばらく父の酒の相手をしていたが、宵に入ってから一人でお宮へ出かけた。
「妙ちゃんじゃないか」
 本殿でお参りをして階段を下りてくる妙子が目に入った。
「あら耕介さんも戻っていたの」
「ぼくは近いからいつでも戻れるけれど、妙ちゃんはしばらく振りじゃないの」

子供の頃、耕介と妙子はあまり広くない道路を隔てた真向かいに住んでいた。耕介の家は二軒長屋で、その一方に父母と姉と耕介の親子四人で暮していたが、目の前の道路が耕介たちの居住区と妙子たちの住む居住区の境の役割を果たしていた。戦後間もない時期ということもあり、こちらの住人の多くは、豆腐屋や雑貨屋を営んでいる家のほかは、大工、左官などの職人や造船所の下請け会社などの職工が多く、主婦の内職の手助けを受けてその日暮らしの倹しい生活を送っていた。妙子の方はもっと粗末なあばら家で、そちらの居住区の人達はほとんどがバタ屋といわれた古物商をしていて、リヤカーで屑鉄などを買い集めては同じ区域内にある親方の古物商のところに持込んで買い取ってもらっていた。

実は妙子が住んでいる居住区の人はほとんどが朝鮮半島の出身者だった。同胞たちが皆で肩を寄せ合うようにして一つところに纏まって生活していた。彼等は本名のほかに日本の名前を持っていて、仲間内で朝鮮語で話をするとき以外は日本名を使っていた。今のように民族意識を主張する時代ではなかったのである。道路が居住区の境目になっていたといっても、あからさまに居住区というのが決められていたわけではなく、「何となく」といった感じのものだったし、貧乏人同士の気安さから、両方の地区の人達は大人も子供もお互い特別視することはなく、普通に付き合っていた。耕介や妙子も彼等の親達もごく普通に行き来していたし、時には味噌、醤油など生活で足りないものは融通し合うこともあった。
 耕介と一つ年下の妙子は隣同士ということもあり、特に仲が良く、真中の道路に蝋石で大きな長方形を描き、その中を何本かの線で区切って四角いマスや三角形を作って、ケンケンの石蹴りなどをして遊ぶことが多かった。

小学校二、三年くらいの頃だったろうか。二人で少し離れた田んぼへイナゴ取りに行ったことがあった。大分収穫があり親達に喜ばれるだろうと、意気揚々と引き上げて帰る途中の上り坂で、妙子が足を滑らせて転んで捻挫をした。耕介の顔を見て泣きべそをかいたので、そこから家まで負ぶって帰った。
「あのね」
 二つのイナゴの袋を両手にぶら下げながら、背中で妙子がいった。
「わたし大きくなったら耕ちゃんのお嫁さんになるんだもん」
 胸の前に下がった袋の中でイナゴがごそごそと動いている。耕介は「うん」と答えた。ちょっとうれしい気持ちになって、負ぶったまま一気に家まで走った記憶がある。

(続く)